愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大分中津市 羅漢寺

2010年01月29日 | 石仏:九州

3770体もある石仏の一つ一つについて書こうとも思わないが、その量の膨大さと見慣れない岩窟寺院の奇観には目を見張るものがあって興味は尽く事がない。

日本三大五百羅漢として 有名な羅漢寺は大分県中津市の山中、奇岩織りなす景観の耶馬渓にあり僕の住む畿内では見ることのできない岩窟寺院で付近にはあの青の洞門も有ります。。

羅漢寺の歴史は古く、今から約1300年前の大化元年(645年)にインドから来た法道仙人(ほうどうせんにん)が羅漢山の中腹の岩肌の岩窟に開いたとされる由緒ある古刹で、奇岩の間にしがみつくように建っています。

山裾の駐車場から1段登るとリフト乗り場が有って一昔前のスキー場に有ったような古めかしいリフトで境内近くまで一気に登る、もちろん参道も有るのだが雨上がりで山道が滑りやすいのでと無理やりにもこのリフトに乗せられてしまったが、往復700円の出費となる。

リフトを降りて歩き始めると自然の石橋のような大きな洞をくぐって奇岩の間にしがみついた建物の見える参道になりあちこちの岩壁に転々と石仏がおかれたりしている。

岩肌を喰い居るように建てられた堂や門は中国の山水墨画に見られるような景観で、ただただ感嘆、崖淵の参道からの眺めはなんとも味わいのある世界です。

最初に出会う建物には縁結地蔵尊の文字、柵にはところ狭しと無数のしゃもじの願掛け。

前方上段の崖上にはせり出し舞台に少し大きな覆屋が有って、前方には十王坐像像、中央にはほぼ等身大の丸彫地蔵坐像、周りを埋め尽くすように像高50cmばかしの千体地蔵がところ狭しと並んでいるさまは異様な雰囲気をかもしだしている。

その実数1100体以上、室町期の造顕で舞台建物は江戸期万延元年の後補だということです。

目の前には崖ぶちの参道を跨ぐように岩壁から山門が伸びていて、それは下から見るとまるで絶壁上の門です。

この門を潜ると羅漢寺の本体、無漏洞(むろどう)と呼ばれる岩窟五百羅漢堂が目の前にある。

頭の上に岩壁?が、せり出し地上との間に柵や門を設けて堂をなしているが、ありとあらゆる所には願文の書き込まれたしゃもじが貼り付けられていてどうにもこうにも異様な光景です。

しゃもじは飯を掬うもの、これを洒落て人の願いを掬ってもらおうという語呂合わせらしいが、なかなか人気のほどがうかがえる物量です。

窟内の堂宇はかなり広く、奥にまた柵が有ってその奥壁前面いっぱいに丸彫の羅漢石仏がひしめきあっているさまもまさしく圧巻異様な光景です。

実質 500体以上も有るこの羅漢寺は、全国に多々ある羅漢寺の始まりの寺だとか??

もう一つ、面白い龍の石造物が無漏洞正面の対面梵字岩上にある。

享禄3年(1530年)から天正15年(1587年)まで豊後国一帯を治めたキリシタン大名大友宗麟は、領内寺院すべてを邪宗として焼き払ったという。

軍勢が羅漢寺に攻め上がってきた時、この龍の眼から光が発せられ、これにより将兵は力を失い、寺は焼き討ちをま ぬがれたといわれていますが

一体この龍はそもそもいつ何の為に誰が造ったものなのだろう??

その後昭和十八年にも火災に遭い山門と仁王門以外は殆ど焼け落ち現在の本堂も昭和四十四年に再建されたものだそうです。

撮影2009.12.28

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臼杵 山王山石仏

2010年01月26日 | 石仏:九州

堂ヶ迫石仏から小さな谷を挟んで対面する斜面に覆屋というより、お堂と呼ぶ方が似つかわしい建物があってその奥壁にこの山王山石仏と呼ばれる三体の磨崖石仏が刻まれている。

主尊はやはり丸彫り近くまで厚く彫りだした釈迦如来坐像で、像高2.7m、丸顔童顔で表情は甘い。

脇侍は向かって右が薬師、左が阿弥陀と称されているが主尊共々同じような印相で見分けがたい。

この臼杵石仏の中にあってはそれほど注目されないのが一寸気の毒にも思われるが致し方ないかも・・・。

石仏保存上致し方ない覆屋は僕達のような石仏ファンにとってはなんとも邪魔な存在で撮影にはこの上なく苦労する。

苦労して撮影してもこの程度。

撮影2009.12.28


臼杵石仏 ホキ第一群(四龕)

2010年01月24日 | 石仏:九州

ホキ第二群 の覆屋から少し登るとこのホキ第一群の覆屋がある。

ホキというのは臼杵地方の方言で崖のことだそうで「堂が迫石仏」とも呼ばれている四龕からなる磨崖石仏の集合体です。

向かって右端から地蔵十王像、金剛界大日如来を中心とした三尊如来像、少隔てて阿弥陀を中心とする三尊如来座像、

最左翼には同じく釈迦如来を中心に阿弥陀薬師三尊坐像、その両脇には観音勢至菩薩だと思われるかなり破損の大きい菩薩立像。

この四龕のうち中心をを成すのは第2龕(左から二つ目)の阿弥陀如来を主尊に釈迦、薬師の三尊如来坐像で像高凡そ2m、制作年代も「堂が迫石仏」内では最も古いといわれています。

第3龕の主尊は1mにも満たない金剛界大日如来で薬師と阿弥陀を従えた坐像になっていて各如来の台座には願文や教典を入れたと思われる孔が空けられている。

第4龕は中央に左足を垂らして座る地蔵菩薩半跏椅像で石仏としては珍しく、左右に五体づつの十王像を配しているが鮮やかな色彩が残っているのが嬉しい。

撮影2009.12.28


臼杵石仏 ホキ石仏第二群(2龕 ) 

2010年01月14日 | 石仏:九州

観光地化して石仏のテーマパークのような感は否めないけど、ここ臼杵の石仏は質量ともに日本の最高、最大の磨崖石仏群に違いない。

だだぴろ~い駐車場から、土産もの屋さんの立ち並ぶ参道?をしばらく行って左手山手に整備された階段を少し上るとこの石仏群の覆い屋が見える。

臼杵の石仏とはここが最初の出会いになるところ、石仏は確かに素晴らしいけど、どうしてもあまりに立派すぎる覆い屋や整備されすぎている周りの景観は気に入らない。

 覆い屋の正面の岩肌は左右二つの龕に分かれていて、手前右龕には九品の阿弥陀像と菩薩立像、右端には別彫のように見える不動明王座像。

磨崖はもろく、あちこちに大きな亀裂が入り石仏も大きく欠損して、印相なども良く分からないものが多い、しかし顔面や体躯の一部に彩色が残るものもあって嬉しい。

倚坐像の阿弥陀を中尊に多は全て立像で「左右各四体の阿弥陀九体仏、その両脇に各々菩薩像と天部像をおき、計十三体の石像を刻む」とあるが現状では左に如来像四体、右に四体の如来像と一体の菩薩像と、別壁に不動明王座像の計十一体が石仏として確認でき、この龕は鎌倉期の造顕になるという。

左龕には、像高約3mに近い阿弥陀如来坐像を刻み、脇侍として観音勢至を随える阿弥陀三尊の磨崖石仏で古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する石仏とされており、ここ臼杵では最大の石仏です。

丸彫り近くまで彫り出され、丸顔、伏目で、定朝様式の阿弥陀像、脇侍の観音勢至も像高約2m、顔立ちは繊細で(個人的にはこちらのほうが気にいっている)平安中期の造立だとされています。

全体的に風化摩耗、欠落等も目立ちますがそれを差し引いたところで一見二見の価値はあります。

撮影2009.12.28


高瀬磨崖石仏

2010年01月11日 | 石仏:九州

大分市内にも見るべき磨崖石仏がこんなにもたくさん有ったとは・・・。

大分市内中心街より車で南に約15分,霊山という信仰の山の麓、大分川の支流七瀬川近くの丘陵に高さ1.82メートル、幅4.39メートル、奥行き1.52メートルの岩窟を穿ち奥壁の中央に結跏趺座(けっかふざ)する胎蔵界大日如来像を中心にして彩色の残る五尊の石仏が刻み出されている。

小さな空間にも関わらず天井まで伸びた彩色や像影、親近感のある優和な造作に目を見張らずには居られない。

付近は小さな田園が集落の間に点在する長閑な景色が広がっている里山で僕の住む山城と何の違和感もなく親しみやすい。

屈の正面には無粋な柵はあるものの何とか撮影は出来るのでこれも保護の為には仕方がないと諦めざるを得ず、レンズだけを柵の間に差しいれての撮影になって画像は納得できるものにはならない。

中尊大日如来

中尊は頭上に宝冠をいだいた法界定印の胎蔵界大日如来坐像で像高約1.4m、丸彫り近い厚肉彫りで唐草文様の二重光背が、奥壁に沿って天井まで達していて迫力ですが、左腕は肩先で欠損、右腕も膝上で手首から欠損している。

他の4体は半肉彫りで、大日を中央にして向かって左から深沙大将(しんじゃたいしょう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、大日を挟んで如意輪観音(にょいりんかんのん)、馬頭観音(ばとうかんのん)と余り見慣れない諸尊の配列で非常に興味深い.

深沙大将

特に木造彫刻の仏像でも見ることが稀な深沙大将は童顔にも係らず、逆立った頭髪、つり上がった眉と見開いたドングリ眼で、首には九個の髑髏首飾り、赤い褌と寅皮の袴を身に着け、両脚と左手には蛇がからみつき、腹には少女らしい顔が描かれているのも異様ですが。腹部のこの人面は内に優しい気持ちを持っていることを表現したものだそうで、インド系の匂いを強く感じます。

大威徳明王

如意輪観音

馬頭観音

中尊の脇にある水牛に乗る大威徳明王、如意輪観音像、馬頭観音などは一見コミカルで漫画的な稚拙な彫りのように見えるが、しかしそれが妙に生き生きしていて親しみやすく感じます。

中尊の大日如来は特に前方に突出して、ほとんど丸彫りに近く、やっぱり一番大きな存在感を感じます。

平安末期から鎌倉初期の像立だといわれていますが、もしこれほどのものが京都や奈良に残っていれば、きっとこれほど真近で写真を撮る事など出来ないだろう。

昭和9年に国指定史跡に指定されています。

又、磨崖の直ぐ脇の崖には一本の蓮の茎から出た一根三茎仏の阿弥陀三尊仏も刻まれていて珍しい。

撮影2009.12.28

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菅尾磨崖石仏

2010年01月05日 | 石仏:九州

臼杵の石仏で少し期待を裏切られたが、その後廻った豊後大川市にあるこの菅尾磨崖石仏に出会ってその素晴らしさに目を疑った。

磨崖の前から

臼杵石仏からR502R10R302と経由、菅尾小学校の脇を通り抜け石仏トンネルを抜け右手の取って行くとこの菅尾の大きな広場に出る。

観光バスが何台も停められるほどの大きな広場で駐車場だけではなく地域の多目的広場になっているようで夏には石仏祭りが催うされるようです。

磨崖石仏は駐車場から山手に少し登った、山の中腹に古くは岩権現と呼ばれ五所大権現の鳥居の建つ約100段の急峻な石段の頂上の覆屋の中にある。

この辺りの参道はどうしてこうも急峻で一直線なのかとふとおもう。

朱色の石仏が圧巻です。

目の中りにする磨崖石仏は全体的に赤い色で塗られており平安後期の造立と言うのが俄かには信じがたいほど保存はほぼ完璧といってよく、磨耗剥離なども気にならない。

彩色の赤は概ね後世の補彩だそうですが造立当初を彷彿とさせる様なエネルギーを感じさせてくれます。

千手観音

薬師如来

凝灰岩の自然窟を整形して、その壁面に仏龕(上下600、左右881cm)を開鑿し、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と毘沙門天(もしくは多聞天)の五体の磨崖仏が刻まれている。

毘沙門天(もしくは多聞天)

千手観音から十一面観音までの四像はいずれも2mほどの高さの坐像、どの石仏も顔や体に張りがありすばらしい表情で、裳懸座の懸裳まで丸彫りに近く刻んで、再右翼の毘沙門天像が他に比して薄肉のレリーフに仕上げられている。

阿弥陀如来

十一面観音

この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、四像は熊野権現の本地仏、阿弥陀如来は熊野本宮の家津御子<けつみこ>大神の本地であり、薬師如来は新宮速玉<はやたま>大社の主神速玉大神の、千手観音は那智大社(旧称熊野夫須美神社)の主神夫須美大神のそれぞれ本地であって、十一面観音は若一王子社の主神大神の本地だそうです。

この地は宇佐八幡宮大宮司職をめぐって宇佐氏と争い敗退した宇佐大宮司家 大神氏が宇佐八幡宮関係の荘園に入り込み在地領主化したもので、これらの在地領主が荘民への信仰対象として、磨崖仏や寺院を造立したものであると考えられているようです。

しかし造顕後約1000年崩れもせずに原型をとどめているのは地域の篤い信仰に支えられたからに他ならない。

撮影2009.12.28

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国東 熊野磨崖石仏

2010年01月01日 | 石仏:九州

国東半島はその昔、宇佐の巨大権力の元で神と仏が複雑に絡み合う独特の六郷満山文化が発展し、この地独特の石造文化が花開き、今にその面影を色濃く伝えていて 訪れる我々に新鮮な驚きを与えてくれる。

六郷満山文化とは古代の宇佐で生まれた八幡信仰と、古代仏教が融合して「神仏習合=神仏混淆」が生れ、国東半島にある六つの郷では、天台宗と結びつき、山間に多くの寺院を擁立して、独特の仏教文化を花ひらかせました・・・それが六郷満山文化といわれるものだそうです。

六郷満山は八幡神 の化身といわれる仁聞菩薩(にんもんぼさつ) によって奈良時代の養老2年(812)に開かれ 山岳修行の場となり、現在も多くの修行僧が「峯入り」という修行で仁聞菩薩の教えを実践しています。

国東は今でも神仏の境界は無く、神社の鳥居正面に石の仁王さんが立っていたり、何処の神社に行っても当然のように磨崖石仏や仏塔をを見かける。

賽の河原を思わせるような景観の熊野神社本殿横手

国東半島磨崖石仏の代表として君臨するこの熊野磨崖石仏にしても不動明王と大日如来の間には巾子冠を戴き 袍を付ける熊野二神像が刻まれていて、石仏の名が示すとおり磨崖石仏の少し上方には熊野神社が鎮座している。

 日本最大級のスケールを誇ると言う熊野磨崖石仏は鬼が一夜で築いたという伝説のある自然石の乱積みの険しい石段を登ると、左方の巨岩壁に不動明王(8m)と大日如来(6m)が刻まれています

  また、六郷満山の伝統行事である峯入りの荒行は、この不動明王の前で護摩を焚きここを出発点とし、行程150km、約10日間の行に入りるそうです。

熊野磨崖仏管理委員会発行パンフレット転記

昭和二十年二月十五日、国指定史跡に指定され、昭和三十九年五月二十一日、国指定重要文化財に指定された。 国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を約三百米程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。 伝説では養老二年(七一八年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩がつくられたと云われているが、この石仏の造立年代推定資料となる「六郷山諸勤行等注進目録」や「華項要略」等の安貞二年(一二二八年)の項に「大日石屋」「不動石屋」のことが記されているので、鎌倉初期には大日、不動両像の存在が明確である。

また、胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安三年(一一六八年)の「六郷山二十八本寺目録」であるので、磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている。

【大日如来像】

全身高さ六・八米、脚部を掘って見ると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく半立像であり、尊名は大日如来と云われているが、宝冠もなく印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形ではなかろうか。 頭部の背面に円い光背が刻まれ面相は頬張った四角い顔にとぎすました理知の光と思想の深みが感ぜられ、、森厳そのものであるが、また慈悲の相も感ぜられる。

【種子曼茶羅】しゅじまんだら

円形頭光の上方に三面の種子曼茶羅が隠刻されており、中央を理趣教曼茶羅右方を胎蔵界、左方を金剛界曼茶羅と云われて修験道霊場であったことが証明される。

【不動明王像】

総高約八米、大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。右手に剣を持ち、巨大且つ雄壮な不動明王であり、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の不動らしい忿怒相はなく、かえって人間味ある慈悲の相をそなえており、やさしい不動様である。

【神像】

不動明王左脇侍像の外側に高さ一・五米ほどの方形の龕が二つ刻まれており巾子冠を戴き袍を付ける男神像の存在が認められる。この地が熊野神社境内であることを思えば、この二躯は家津御子(ケツミコ)、速玉(ハヤタマ)の二神と想像され右方の崩れた処にも夫須美神が刻まれていたものではなかろうか。

麓に有る胎蔵寺

古びて訪れる人も無い佇まいにユーモラスな顔つきの石造仁王が立っている。

何故か境内正面の石造七福神には銀のシールが張られているのかピカピカで少々不気味でした・・・どういうこと??

撮影2009.12.27

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