愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

旧山城町 椿井大塚山古墳

2015年05月17日 | 風物:陵墓

 我が南山城最大の前方後円墳である椿井大塚山古墳。

前方部と後円部の狭間をJR奈良線がぶち抜き、切通しの土手と成っている。

前方部には、古い時代からそれとは知らずに集落が形成され、今もそのままの形での生活が続いている。

古い時代には後円部だけの円墳だと思われて居たようですが、昭和28年(1953)国鉄奈良線拡幅工事により石室が見つかり、当時最多の三角縁神獣鏡32面が出土大騒ぎとなった。

墳丘は全長175m、後円部の直径約110m、高さ20m・・・見た目、小高い竹藪を拓いた丘に過ぎない。

この古墳は往時「太政大臣(藤原)百川」の墳墓だと言い伝えられて来たが、実際は不明のまま・・・。

 そんな事など、どこ吹く風と電車は墳丘の狭間を、今日も駆け抜けて行く。

 

撮影2013.1.17


京田辺市飯岡  冬の名残の木津川堤

2015年03月11日 | 風物:陵墓

やっと春めいてきた我が散歩道、散歩途中に一転俄かに雪雲が流れ出し・・・・

瞬く間に空が真っ暗になり、雪がチラチラ・・・・

見慣れた景色は、いつもと全く違う顔を見せだした。

対岸の山にも雪雲が流れ出し、もう山手は雪が舞ってるような・・・・・

黒雲はますます厚くなり、散歩途中の僕の足は当然の様に早足になる。

思いもせぬような速さで冷たい雪が顔を突き刺し付近の景観をモノトーンに変えていく。

この山城ではあまり見かけぬ横殴りの雪。

河川敷の茶畑や竹藪にも,季節はずれの横殴り雪・・・・たぶんこれが今年の名残雪。

30分ぐらいで何事も無いように治まってしまった・・・・寒かったけど滅多に出会えぬ景観に出逢えた今朝の散歩道。

撮影2015.3.10


甲賀市 「撥ね釣瓶」のある景色

2015年02月13日 | 風物:陵墓

滋賀県甲賀市の山間部、小さな集落の小さな山寺でたまたま見付けた「撥ね釣瓶」・・・。

こんなものに懐かしさを見出す僕は、息子に職場を明け渡したリタイヤ組の初老。

「ハネツルベ」など、もうきっと死語・・・・ツルベと言えば落語家紛いのTVタレント「鶴瓶さん」を思い起こすぐらいで・・・・「ツルベ」そのものも死語かも??

しかし僕が見たときは、ちゃんと井戸水を汲み上げて機能していた。

僕がハナタレ小僧だった頃には生まれた集落でもあちこちに有った記憶が脳裏の奥にしがみ付いてる。

撮影2007.1.26


京都府和束町 安積親王の和束墓(再編集)

2015年02月08日 | 風物:陵墓

僕にとっては見慣れた風景・・・・僕の住まいからは、山を一つ越えたところ、相楽郡和束町の安積親王の和束墓。

つい最近だと思うが、稜のある茶畑の丘のふもとに新興住宅が立ってしまって以前の姿は見られなくなった。

それでも、お茶畑が小さな丘を登って頂上付近の陵墓をきわださせ、 山城らしい風景である。

陵墓へは、茶畑の作業用軽トラックが通行するための道路整備されているが、ふもとに車を置いて歩くのがよい。

少し上ると景色もよいので少し暖かくなるとよい散歩路になる。

お茶畑を半ばまで登ると杉木立の手前に、陵墓への参道が見えてくる。

安積親王は聖武天皇の第2皇子、母は県犬養広刀自、同母姉に井上内親王、同母妹に不破内親王があり、妻子があった形跡はない。

安宿媛(藤原光明子)所生の基皇太子が薨じた神亀5年に生まれ、在世する聖武唯一の皇子となり、将来の皇太子最有力候補と目されていた。

 

天平16年閏1月11日、難波宮に出発しましたが、途中安積親王(あさかのみこ)が「脚病」を発して桜井頓宮より恭仁京に帰還し、2日後に急死。

親王は当時17歳、在世する唯一の聖武天皇皇子であり、母は諸兄と縁戚のある県犬養氏の出身でした。

聖武天皇の恭仁京はこの和束より南へ山一つ越えたところにあり、また、橘諸兄もこの山城の地に居していた。

親王の死は、一説に恭仁京の留守官をしていた藤原仲麻呂による謀殺とされ・・・・・・、真相は闇の中ですが、いずれにしても、光明皇后と皇太子阿倍内親王を推し立てる藤原氏にとっては、最も大きな障害が取り除かれたことになる。

 

親王と、縁戚にあった、万葉歌人大伴家持は次の様に詠う・・・

我が大君天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束そま山(巻三 0476)

(訳)我が主君がそこで天界を支配なされようとは(そこに埋葬されようとは)思いもしなかったので、おろそかに見て過ごしてきたことだ、この和束の杣山を。

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬる如き我が大君かも(巻三 0477)

(訳)山全体までも輝かせて咲いていた花が、一時に散り尽くしてしまうように、慌ただしくも逝ってしまわれた我が大君よ。

陵墓の周りは石柵で囲まれており、周りをめぐれるよになっている。

いずれにしても、安積親王の死によって橘氏・大伴氏・県犬養氏は、出鼻をくじかれ、藤原氏が実権を持つことになってゆく。

安積親王は橘氏・大伴氏・県犬養氏らを後ろ盾とし、藤原氏との政争の狭間に立たされ、厳しい運命に翻弄された皇子の一人である。

 

<陵墓から見る風景>

あの山を越えれば、古代恭仁京のあったところ・・・・・、この山に登った大伴家持はどういう心境でこの景色を見ていたのだろうか??

そのやりどころのない、悲しさと悔しさと憤り・・・ここにまたひとつ、山城の悲劇を見た。

撮影2006.


京都府 和束町の茶園 

2014年06月19日 | 風物:陵墓

宇治茶の主産地、和束町のなだらかな山斜面を埋め尽くす様に広がる新緑の茶畑。

我が家から一山越えた和束町は、往時恭仁京時代には信楽宮や大津京への道筋に当たり、悠久の歴史を秘めた山里。

そんな歴史濃い山里を埋め尽くすかのように、茶畑が山並みを埋め尽くしている。

萌え立つばかり・・・、新緑の茶畝と空のブルーがなんとも言われぬ鮮やかなコントラストを醸し出している。

 濃い緑の畝は煎茶用、遮光シートを掛けた黒い畝は多分上級玉露用・・・

 もうこの山里では滅多に手摘みの茶畑が観られなくなって久しい。

手摘みするには規模が広大過ぎて茶の生育に人間の手では追いつかないのだろう・・・・。

南山城を代表する初夏の色がここにある。 


台風18号木津川大増水(2013.9.16)

2013年09月30日 | 風物:陵墓

9月16日、18号台風に依る大雨のため大増水した、我が木津川流域の記録です。

16日朝、TVで京都の淀川水系三河川が大増水、桂川では氾濫したとのニュースを聴き、雨の小降りになった9時半頃、いつもの様にチャリで出掛けた。

まだ吹き返しの風が強い中、山城大橋まで来るとこのざまです・・・・・これは下流方面ですが、濁流が音を立て、この500m強の川幅一杯に流れて居ました。

なんと言う水量なのか・・・・、僕の記憶では小さい頃に見た山城水害以来の光景でした。

これは大増水の2日前、9月14日、同じ付近からの撮影です。

水が随分引いた9月17日朝、同じ位置からの撮影、緑の草叢ジャングルはすっかり褐色化。

こちら、同じく山城大橋から上流域を望む。

山城大橋左岸、京田辺市の運動公園もすっかり冠水・・・・・進入路の途中まで浸水しています。

グランドが何処やら本流が何処やら・・・・、向こう岸は国道24号線。

少し上流から・・・茶畑も水没。

これは8月末の撮影・・・通常はこんな景色なのですが。

18日朝・・・水は引きましたが、これではしばらく使えそうに有りません。

左岸サイクリングロードを下流へ・・・・直ぐ下流の茶畑も姿は見えず、上を濁流が流れています。

少し下流から上流側、山城大橋を望む・・・春に綺麗な花を咲かす桜の大木が頭を出しています。

9月14日、同じ付近からの景観は緑一杯。

近鉄京都線、木津川鉄橋付近ではサイクリングロードも水没、何とか大廻りして下流へ・・・・・・

付近では堤防外の水田も水没。

新名神木津川架橋工事現場では橋脚も見えず重機も水没、手前は茶畑。

気に成っていた流れ橋も全く姿が見えません、手前の茶畑もすっかり水没。

良く見ると橋板だけが流に漂い浮かんで居ますが、橋脚は全く見えず。

去年9月、やっぱり台風の大雨で流失、今年4月26日に開通したばかりだった・・・・・。

17日右岸から行った時には橋桁が覗いていたけど・・・、この橋はここしばらく毎年の様に流失、通れる時より不通の期間の方が遥に永い。

次回開通はいつで、どんな橋になってる事やら・・・・とにかく工事費3500万円成だとか??

流れ橋付近の茶園は見るも無残、濁流と流れてきたゴミの下。

17日、濁流が引いた後の茶園の状況・・・・後始末が大変そうです。

大急ぎで引き返し、山城大橋より上流の状況です。

いつもの散歩道、飯岡浜河川敷内サイクリングロードは全く影も形も見えません。

18日濁流が引いた後、遠目には一見何事も無かった様です。

飯岡久保田樋門付近よりの木津川・・・・向こうの橋は玉水大橋。

この時水位は6m、堤防の頂部は10mだから氾濫まで4mの余裕で何とかセーフ。

しかし反対側、飯岡南部の水田地帯はすっかりこの有様・・・

まるで一夜にして湖にでも変わったように濁流が波打って居る。

此方の水田は水位6mよりも低い土地で木津川本流がオーバーフローしたのかも??

しかし18日に見た時にはすっかり元通り、稲は倒れる事なく穂を実らせていた。

これは冠水時間が約1日と短かったのが不幸中の幸い。

17日、木津川右岸富野荘浜河川敷内耕作地、未だ滞留水が残って水浸し。

同じく水主浜の河川敷内墓地は濁流が引いたものの墓石の頭だけが濁流から覗いて居た様です。

植え込みの頂部だけが泥水を被って居ないのが良くわかる。

まあ、これから毎年こう言う事に成らなければ良いけど・・・・・

ここ1~2年、気象条件や自然状況が激変して居る事を強く感じる。

人間は神の手を持ってる訳じゃないのに・・・・・、飽くなき科学開発の追求は、自然破壊の裏返しにしか過ぎない。

撮影2013.9.16/前後


京都府京田辺市宮津 白山神社撒き砂

2013年01月11日 | 風物:陵墓

獅子舞の記事を書いていて正月繋がりでも無いけど「正月の撒き砂」の事が気になり、我が山城木津川左右の古い集落をこの正月に何箇所か訪ねた。

僕の近くの二集落は以前に紹介・・・・・まだ何処かに残って居る?だろうとたかを括っていたが、民家の門先では全く見つからず・・・・。

以前その形跡を見掛けた事のある京田辺市宮津の白山神社まで・・・。

 

狭い境内一杯に直径1mばかしの円模様・・・・これは黄色っぽい山砂。

誰も聴く人には出逢わなかったけど・・・・・歳神様を迎える道筋なのだろう??それがなぜ円形なのかは判らない。

境内は全て円で満たされていた・・・・、しかしこの集落の民家にも撒き砂は全く見つけられなかった。 

撮影2013.1.4

以前に撮影したものですが、こちらは旧加茂町、銭司(でず)の春日神社。

こちらは何故だか格子模様。

僕の子供の頃にはどこの家の門から道路まで、正月は真新しい白砂で日常とは全く違った清々しい日を迎えた。


獅子舞(伊勢大神楽)

2013年01月10日 | 風物:陵墓

僕が物心つくかつかない頃から年に2回必ず家に訪れて来た獅子舞。

僕の山城では獅子舞は正月の風物詩ではなく、田起こしの始まる春三月と刈り取り前の秋九月の終わり。

我が集落も最近では農家の数が僅かで、勤め人が多く昼間戸締勝ちの家が大半、近頃では前もって「伊勢大神楽安田市太夫講社」の差し出しで葉書が届く。

そんなせいか、最近我が集落では早朝に訪れる事が多く、何やら忙しくなって子供たちが獅子舞に着いて歩くと言った昔ながらの景色は見られなくなった

獅子舞の列より一足早く笛を吹く先達が玄関を訪れ、家人が差し出した志納金と引換に「伊勢大神楽」のお札を置いて行く。

暫くすると表がけたたましくなり、賑やかなチャカチャカ、笛や太鼓、鉦のお囃子が聞こえてきて、玄関で獅子が舞い、お祓いをする。

片手に短剣、片手に紙弊・・・・・、一昔前なら、子供の居る家では頭がよくなる様に獅子の口で頭を噛んで貰ったものだが・・・・。

今は昔、我が集落でも核家族化が進み息子世代は別居、小さな子供の居る家など殆ど無くなった。

集落も戸数は何倍にも膨れたが、その大部分は新興住宅、獅子舞など知らぬ存ぜぬ人達ばかり・・・・、朝早くからうるさいと捨て台詞を吐き通勤に急ぐ若者が居たり。

僕らの世代の人間には全く想像もつかない。

これから先も益々やりにくい世の中が進むでしょうが、なんとか残って欲しい懐かしい風俗です。

もう後を追って着きまとうワルガキは誰ひとり居ませんが・・・・。

1軒1軒の滞在時間驚く程短くなったような気もする・・・・・、それは志納金が少な過ぎるからなのかなあ???

撮影2010.9.8/2011.2.22


信楽の登り窯

2011年01月25日 | 風物:陵墓

滋賀県甲賀市の信楽は言わずと知れた陶器の町。

一時期狸の置物がもて囃され,その名を全国に轟かせ、有名になったとか??

町には今でも大狸を店先に並べた陶器店が軒を並べているが一時のような賑わいは無い。

そんな信楽の中心地、長野辺りの窯元散策道を歩くともう今は火が入れられることも無くなった長大な登り窯に出遭うことが出来る。

僕はこの町でもう半分以上潰された哀れな登り窯2箇所と・・・・・・・・

まだ使えそうな一基・・・・

ただただ野天で雨ざらしの一基を見かけた。

我が家の山城からは国道307号瀬で道鳴りに約く30分、信楽高原鉄道の終点信楽駅前より延びる駅前通と307号線交差の信楽駅口を駅とは反対側へ左折、突き当りが大きな鎮守の杜を持つ新宮神社、杜沿いの道を行くと窯元散策路の看板がアチコチに建てられている。

暫く進むと右手に浄観寺、左手民家の屋根越しに赤レンガ煙突と登窯のようなものが小高い丘の斜面に見え隠れ・・・。

もう半分以上も潰され殆ど残骸のような登窯

レンガを積み重ねて造られたその登り窯は遠い昔のアンコール遺跡の石組みのように朽ち果てた姿を曝している。

いつ崩れるかも知れないその姿はやはり哀れ以外の何者でもない。

浄観寺の前の道を200mも進めば覆い屋も有り、まだ使えそうな登り窯

この窯は道路側を枕に、其処から下る緩やかな斜面に築かれ八連窯

今ではすっかり火も音も消え、時折観光客を連れて廻る案内人の声が響く

前面炊き付け口から・・

裏側から見ればまるで巨大な「蚕の繭」を横に並べたような

焼きただれた置き台や房室の壁にあの狸の姿をふと見えるような・・・

この斜面横の道筋を道なりに100m、散策路休憩所手前の道路わき斜面にも登り窯

多い屋も無く、窯の上部には枯れ草

連房奥部野焼成室は既に無く・・・、登り窯の歴史は閉じられて久しく見える。

四ヵ所目、公園のように整備され、遺跡のようにも見える登り窯。

焼き物もやっぱり安い輸入物が幅を利かすのか寂れた工場がやけに目につく。

 

 やがて消え行くもの、滅び行くものの美だろうか・・・

土とレンガの積み重ね

 

土饅頭の連続のような登り窯

何処と無くなんとなく、心の休まる心の温まる風景・・・・・

登り窯の有る景色。

撮影2011.1.23


幟幡飾り??

2009年09月29日 | 風物:陵墓

僕の住む京都山城地方では見られないのですが、祭りの日に一対の幡?(幟と呼ぶのが正しいのかも??)を掲げる神社は多い。

これは石川県白山市瀬戸の瀬戸神社にたまたまイチョウの巨木の撮影で立ち寄った際にふと目に留まり撮影したものです。

幡の下に大きな竹篭を吊り下げ紅白の綱を掛けている、竹篭の中にはこれも大きな鈴、これが風に揺られてカラコロとなっていた。

竹篭の傍らには、可愛い裂地で作られた、多分「身代わり猿」が幡の房ごとに一体づつ点け下げられている。

籠を縛り付ける紅白の綱といい、籠目の中の鈴といい、傍らの身代わり猿といい、どう見ても意味ありげ??。

このような幡多飾りは初めてですが、やっぱり呪具としての意味を持っているのだろう??

誰か詳しく知っている人が居たら教えてください。

石川県白山市瀬戸の瀬戸神社にて。

撮影2009.9.19

MAP


山城の正月

2007年01月02日 | 風物:陵墓

去年の暮れから、この山城地域の、旧集落を探し回ってやっと見つけた撒き砂と砂盛り。

僕の子供のころにはどこの家でも、大晦日にはこの砂まきをして砂盛りを作り、榊の枝を突き立てるのが慣わしだった。

それは多分、この山城の地が木津川のそばであり、豊富に川砂が調達できたこと、おまけにこのあたりの山では山砂も簡単に手に入れることができたからだと思う。

列島改造のあおりで、道路はすべてアスファルト舗装になり、家の前のかど(空き地)も家屋の新築で車の車庫などにとって変わって、撒き砂をする場所がなくなってしまって久しい。

砂盛の榊は、松竹梅であったり、南天が添えられてたりと、家や集落ごとで変わったりもするが、これは歳徳神の依代、撒き砂は神を家に招きいれる道??、と家の周りを清める意味も含めているのだとおもう。

この砂撒きは、男性の仕事で女性がそれをすることは許されなかった、もちろん砂盛も同じように・・・。

子供の頃の記憶だけなのだが、撒き砂の形は、各集落でまちまちで、僕が覚えてるのはこの写真のような波型、丸をいくつもいくつも作った丸型、そして碁盤の目のような碁盤形。

この二つ習俗は消え行く山城の風俗としてなんとしても記録しておきたかった。

最近では個々の家々で注連縄を作る家もすっかり少なくなって、あの懐かしいごつごつした玄関の上に渡された注連縄も珍しい。

たいていの家庭では、近場のスーパーやDIY で調達した注連飾りを玄関脇に飾っている。

もちろんこれは、まったくのデコレーション感覚でしかない。

あのウラジロと藁縄だけのシンプルな輪締めも、家のすべての結界につけたものだが最近はすっかり省略して僕の家でも数個しか付けていない。

多分、今こうしてわずかに残っている、砂盛や、撒き砂などもそう遠くない時期にすべて消え去ると思います。

やっと、見つけた山城の正月だけれど、やっぱり子供の頃に見ていたのとは少し何かが違うような??

多分、それは周りの景色の変化だったり、見る僕自身の目が変わってしまっているからかもしれない。


奈良公園の秋

2006年11月17日 | 風物:陵墓

 

今日の午後少し時間が出来たので奈良公園まで一走り。

二月堂への裏参道には、俄か画伯が・・・・・

三月堂横の紅葉が見事に色付いていた。

二月堂への石段越しに見上げる。

大仏池西側道路から見ると公孫樹が燃えていた。

ほとりの南京はぜも赤く燃えて白い実を一杯つけている。

対岸には鹿が残り少ない草をはんで居るのが見える。

おまけにもう1枚南京はぜ。

 

撮影2006.11.17


醒ヶ井の梅花藻(ばいかも)

2006年07月16日 | 風物:陵墓

 

昨日の土曜日、三連休の初日でも有るし、急に思い立って、滋賀県米原町に有る醒ヶ井まで梅花藻に花を見に行ってきた。

自宅からは,京滋バイパス、名神と高速道路を乗り継いで約1時間、名神米原ICを降り、国道21号線を右折、関ヶ原方面に約10分。車は醒ヶ井駅に隣接した駐車場に入れておく。

ここは、道の駅とJRの醒ヶ井駅との共有広場のようになっており、駐車料は要らない、ただし200円の協力金を求められるが応じるか応じないかは自由意志に任されている。

 

ここから徒歩10分、ここは中山道61番の醒ヶ井宿でも知られるところで、旧問屋場や資料館なども建ち並び、湧き水を源流とする清流が目指す梅花藻が自生する地蔵川。

 

 

梅花藻は五弁の小花で、キンポウゲ科の水生の多年草。一輪の大きさは1センチにも充たない小花だが、梅の花に似ていることから「梅花藻」と呼ばれています。

 

 

.清流でないと育たないと云われるだけあって、地蔵川は年中14度を保つと云う、羨ましい限りの澄んだ湧き水の川で、その清流に手をつけてみると、その冷たさに1分もつけっぱなしには、していられない。

今年は例年より水かさが高く、殆どの花は清流の中にあり、顔を出しているのは数カ所だけでしたが、いたるところで切花や清涼飲料水が浸けられ、一層涼を誘っています。

水面に花を出しているのは流れが緩やかで水量の少ない場所だけで、その多くは妖しいうつくしさの水中花、川の流れにその茎や葉とともに身を任せてゆらめく姿が幻想的で美しい。

背景に名神高速の防御壁が移りこむような交通の要所にありながらこの環境が守られているのはすばらしいことです。

撮影2006.7.15

場所はここ

 

 

 


木製火の見櫓

2006年06月25日 | 風物:陵墓

 

もう何年前になるかも,おぼろげな僕の小学校の頃、僕の地域の村々には、各村ごとに木組みの高い火の見櫓が在って、そのテッペンには半鐘がぶら下がっていた。

小学生の頃の餓鬼大将たちは、大人の禁止していることを遊びの材料としていた。

ため池での雑魚採り、遊泳禁止の木津川での水あそび等・・・・。

その一つが、火の見櫓登り・・・・。

小学校、低学年の子供にとって、火の見櫓のあの梯子への挑戦はガキ大将の肝試しであったのかもしれない。

夏休みの午後1番、ワルガキが4~5人誘いあって、大人たちの昼寝の時間を利用して、火の見櫓への挑戦、見つかってはの,大目玉・・・・・・。

この歳になって、あちこちにブラブラ出歩きいろいろなものを,見聞きするようになって、どんな片田舎に行っても ,あの頃、僕たちが親に隠れて登った木製の火の見櫓が無いことにきづいた。

鉄製のスマートな櫓がそれにとって変わり、半鐘も滅多なことではみかけなくなった。

それがつい昨日、奈良県桜井方面に出かけた時、たまたま入った喫茶店の近辺マップで見つけた。

国道166号線沿いの忍坂(おっさか)集落内は近畿自然歩道になっていて、旧街道の面影を残している。

舒明(じょめい)天皇陵の石碑の有る辻に立つと民家の屋根越しに大きな岩の塊と、この木製の火の見櫓が見える。

近づいて見ると、梯子の前に大きな岩があって、岩の後ろ側から、2本の丸太柱を立てて梯子は鉄筋を柱の間に渡している。

岩の前からは2段の梯子しか見えず、岩の上に登ると丁度大人の背丈ぐらいの所の半鐘が吊り下げられていて、岩の上から半鐘を撞いていたらしい。

僕らが子供の頃に登った火の見櫓はもっともっと高かった様に思うのだが・・・。

梯子の数は10段ぐらい、間が50cmぐらいだとすると約5m・・・・

やっぱり低いような気はするけど・・・・・。

それでも滅多に見ることのない木製の火の見櫓、今度又この辺りを訪れるときにも、ちゃんと残っていて欲しい風景です。

 

撮影2006.6.24

場所はここ

 

 


桐の花

2006年05月21日 | 風物:陵墓

今日は朝から近頃に無く、珍しい5月晴れ。

奈良、生駒平群方面にデジブラにでかけました。

道中で見かけた桐の花が余りにも見事に咲いていたのでパチッてきました。

薄紫色の小さな花が樹一杯に花をつけていて辺り一面に甘い香りが漂っていました。

「桐」は日本では古くから材として、軽く、割れにくく、火に強くて燃えにくく、 湿気を通しにくく、木目や材の色が優れていることから、家具、特に、箪笥とか木 箱材として、僕が子供のころには桐の下駄を履いていたことがあった。

誰でもが知っている名前なのに、今までゆっくりと見たことが無い。

桐の材に接する機会は多くても、花の時期にゆっくりと観察する機会 の少ない植物です。

淡紫色の筒状のつりがね形の花、それぞれがうつむ いて咲いていました。

撮影2006.5.21