愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

守田地蔵十三仏石仏

2008年11月28日 | 石仏:三重

名阪国道、伊賀上野の玄関口である上のインターの辺りが守田の地でその直ぐ南側の小高い丘には天台宗の古刹、九品寺(くぼんじ)が建っている。

辺りは交通の要所としていつも激しい喧騒の中に有る。

九品寺脇の旧道を少し南進するとやがて左手の山裾と右手、田園地帯の中を走るのぞかな道路となるが、やがて山裾の崖淵の岩に石仏の刻まれているのが見える。

向かって右手上部に舟形後背を掘りくぼめた厚肉彫りの像高63cmの地蔵立像、左手には高さ106cm、幅約30cm方形の彫り窪め三列四段、頂上に虚空蔵菩薩の十三仏が刻まれている。

地蔵石仏の下方には永正十五年(1518)、十三仏の枠外には永正十七年(1520)の年号が見えて、先ず地蔵が咲きに彫られて後十三仏が追刻されたようです。

しかしここには何の説明板も無い。

ここから少し南進すると、右手道路わきに粗末な覆屋があって下には花崗岩の大きな自然石が横たわっている。

道路反対側の岩肌に先ほどと同様の地蔵と十三仏が刻まれています。

此方の方が全体に大振りですが地蔵の位置が此方では向かって右側になっています。

時代的には先の石仏とほぼ同時代だろうと言われていて室町時代のものだそうです。

小川と道路の間にあって野の仏としてのロケーション申し分ないのですが、無粋な覆屋が邪魔をしている様に思うのは石仏好きの我侭だろうか??

撮影2007.2.12

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伊賀市 寺田地蔵堂の地蔵石仏

2008年11月25日 | 石仏:三重

三重県伊賀市の中心部、上野市街の南東部寺田の集落の地蔵堂に祭られている地蔵石仏で、近くに有る毘沙門寺奥の院道の北向き地蔵尊によく似た姿をしている。

多分同一作者の作品であろうと考えられています。

今は地蔵堂の屋内に手厚く祭られていますが顔の部分の磨耗が激しく信仰のために撫で回されたのだろうか??

扁平な花崗岩をを方形に整え、表面を高さ53cm、幅38cmの野彫りくぼめの中に敷き茄子つきの蓮弁上に地蔵坐像を厚肉彫りにしている。

顔の磨耗はともかく細部の表現は優れていて鎌倉末期の像立だといわれています。

少々小ぶりですがほかの地域ではあまり見かけない様式で、この地域の特徴をよくあらわしたものだと思います。

撮影2007.2.12

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菰野町、竹成大日堂五百羅漢石仏

2008年11月23日 | 石仏:三重

鈴鹿山系御在所岳の麓、菰野町の北部、竹成の大日堂境内に三重県の史跡に指定されている五百羅漢石仏がある。

小さな田舎町の本堂だけの明るく開けた境内の築山を、この五百羅漢石仏が埋め尽くしている。

五百羅漢石仏はの四角錐の小さな築山は高さ約7m、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに何段にも如来・菩薩・羅漢をはじめとした種々雑多な500体ほどの石仏石像を安置していて、圧巻ですが一寸食傷気味では有る。

僕がここを訪れたのは初夏はじめの暑い午後、陽射しが強く、あっけらかんとした境内は無防備すぎて厳かさに欠けるように感じたのは贅沢すぎるのかも??

僕がここを訪れたときには、崩れて危険なためか?林立する石仏のあちらこちらに縄が渡されていて立ち入り禁止部が多く、ゆっくりすべての石仏を眺めることは不可能な状態でした。

この石仏群は江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞が喜捨を求め、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。

しかしこれだけ種種雑多な石仏、石像をこれでもかと、一同に並べ立てられると何をどう見たら良いのやら???。

まるで子供の頃の夏休み後の図画工作展示会を見てるようで、・・・・・・・・、困ったもんです。

撮影2007.5.20

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若草山の地蔵石仏

2008年11月03日 | 石仏:奈良

奈良観光に来た人なら必ず一度ぐらいは耳にした事のある若草山(三笠山とも云う)。

その若草山の南端にある春日大社境外末社の野上神社はこの若草山山焼きの点火神事の行われるところとして知られている。

ここに行くには「若草山」への入山料を払って若草山園内に入山しなければならない。

この野上神社脇に建つ自然石に線彫りの地蔵石仏が刻まれています。

この石仏は明治35年に山頂の鶯塚から掘り出されて現在地に安置されたものだそうです。

高さ約3mの自然石の表面に等身大の地蔵立像で、像の横には南無春日大明神・・・・・・・・・天文十九年・・・・・・と刻まれていて春日神社のの本地仏をあらわした物だそうです。

典型的な室町様式の良く現れた石仏だそうです。

しかしここへ来るのに入園料が必要なのはどうしても解せない。

撮影2006.11.27

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