愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

三重県名張市 布生(ふのう)の「山の神」

2012年04月30日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

十体もの山ノ神が一列に並んだ布生国津神社境内奥の斜面に有る山の神場です。

布生は往古、布乃布と記し、伊勢神宮領にあって布を献上したことにより、そう呼ばれていたと言う。

<正面惣正寺より見た国津神社>

長瀬の不動寺の脇を通り青蓮寺湖方面に抜ける県道693号線の山道で峠を越えると布生(ふのう)の山里、国津神社の案内板が出ていて直ぐにわかる。

神社は深い緑を背に負い、拓けた境内を持ついかにも村の鎮守さんと言った風情です。

10箇所もの山の神が此処に集められ、合祀されているのだろうか?カギヒキ場の様子は長瀬地区の物と殆どかわりない。

カギヒキのウツギの枝も福俵の数も多く参加人数も多いのだろう・・・。

背景にはびっしり杉木立が在って、此処はいかにも山の神が鎮まりそうなところでした。

藁と木の枝が作り出す農耕民族、原始信仰の一端を感じます。

撮影2012.4.15


三重県名張市 長瀬「山の神」

2012年04月29日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

名張川沿いに走る国道368号線の傍ら、ちょうど川が蛇行して川瀬に成るあたり、崖渕の少ない木立の中に山ノ神場が設けられている。

<山の神から長瀬の中心辺り>

名張方面から行くと、前回紹介、上長瀬より一つ手前の集落、長瀬地区の真ん中辺り・・・、余所者には小字名までは解らないがこの場所も小字名で呼ばれてるに違いない。

元々道路が新しく広くなるまでは、もっと林のように木々が生繁って居たのであろうが??今はすっかり御覧の有様・・、どうも山の神には似つかわしくない場所です。

切石の壇上に三体の山の神碑を祀り、両側の注連縄を渡し、カギヒキのウツギの枝が吊るされている。

使用は前回紹介した上長瀬国津の物と酷似してるが、此処では木枝を削った木牌に「奉納山林道具一式」の文字が見える。

山の神碑が三体と云う事は三小字の山の神をここに合祀したものだろうか??。

撮影2012.4.15


三重県名張市 上長瀬の「山の神」

2012年04月28日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

上長瀬国津神社境内傍らに有る山ノ神の「カギヒキ」場です。

上長瀬地区は三重県奥伊賀、名張市最南端部、旧美杉村と境を接する山深い名張川源流域にあって、まさに山紫水明を絵に描いたような山里です。

国道165号線と分かれ国道368号線で南方の山をめがけて約20分ばかり、源流域の川瀬に続く斜面に小さな集落が点在している。

国津神社はこの付近から伊賀、大和高原域に数多く有る神社で、妙に山ノ神の「カギヒキ神事」を行う地域と合致しているような??

山ノ神場は国津神社境内、拝殿に向かって右手にあって、山の神、庚申、地蔵石仏など多くの小石造物が並べられている。

カギヒキの鍵は背丈ほどの長さのウツギの枝で四~五本を一纏めにして、掛け渡された注連縄に吊るされています。

ウツギの鍵手枝には、この辺りで福俵と呼ぶ藁苞が吊り下げられている。

藁苞はやっぱり♂そのものを表す呪具なのでしょうか??中には川の小石を七個入れるそうですが、意味は解りません。

単に吉兆の印なのかも??

撮影2012.4.8


伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)

2012年04月27日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている。

「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で、山の神と共々農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ・・・と祈って今尚行われている。

その現場には中々出遭う事は出来ませんが、その場所を後から訪ねることは出来ます。

先ずは滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る、神事の行われる「山の口」の大ケヤキ

この地、西高倉の「カギヒキ」は例年1月7日に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う。

 両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている。

此処では東近江や湖南地域で良く見かける股木人形を見つけることが出来なかった。

 

又この西高倉では、縄は掛け渡されることなく片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない。

勧請縄でも片方が切り捨てられているのを見たことが有る。

不思議なことに、この地で山の神と刻まれた石碑を見なかったのは、僕の見落としなのだろうか??

はたまたこの大欅こそが山の神そのものなのだろうか??

撮影2008.2.16/2012.1.31


三重県名張市 上三谷の勧請縄

2012年04月26日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

何の予備知識も無く、偶々通り掛けに見掛けた勧請縄です。

<鎮守白山神社境内からの集落>

名張市の上三谷地区は、あの赤目渓谷の一筋西側の谷筋、奈良県旧室生村と隣接した山里で、戸数約10戸ばかり小さな集落です。

国道165号線より南方山中へ約3km足らず、県道にも指定されない谷川沿いの広域林道?を走ること5分ばかり、右手細い谷川の上に勧請縄が吊り渡されている。

元々この地が集落への入り口、はたまた特別な意味を持つ場所でもあったのだろうか??現在良く整備された新道が一気に走りぬけ、こんな縄に気づく人など殆ど居ないのではないだろうか??

縄はコンクリートポールと川を挟んだ杉の木に掛け渡されその長さ約5m足らず、中央3mほどがやや太く、藁房が三箇所に取り付けられた、実にシンプルな勧請縄です。

こんな所で勧請縄に出会うとは思っても居なかったので、略式化したこんな縄でも残っている事に感激でした。

撮影2012.4.8


天理市山田町 岩掛城跡不動磨崖石仏

2012年04月25日 | 石仏:奈良

戦国時代戦乱で荒廃した奈良東大寺の大仏殿修復に尽力を尽くし、書や画をたしなんだ文化人でもあった戦国武将の山田道安が刻んだと言う不動磨崖仏です。

大和高原旧都祁(つげ)村の南端、馬場町より県道47号線で天理市方面に向かう途中、長閑な里山風情が嬉しい山田道安ゆかりの地、天理市山田町。

都祁方面から来ると木津川支流の布目川が県道47号線と交差する辺りに懐かしい木造校舎があり、今も現役の山田公民館として利用されている。

公民館脇から旧道、布目川沿いに進めば川淵に山田道安の出城だったと言う岩掛城跡があり、その岩肌に不動磨崖仏が刻まれている。

旧道からほんの少し石段を登ると今でも信仰篤く祀られた岩肌の小さくて穏やかな姿の不動明王に出合う。

岩肌を整え岩座上に立つ像高約45cm、不動明王立像を薄肉と線彫りで刻み出している。

不動にしては穏やかな表情、絵画的に単純化された像容からも、画家でも有った山田道安の手に拠る磨崖仏だと納得できそう・・・。

因みに山田道安は天正三年(1573)の没、近くの蔵輪寺に葬られて居る。

磨崖不動への石段崖下で見かけた多尊石仏さん・・・高さ1m位の紡錘形自然石に像高約20cmにも満たない二列二段、頂部にも一尊の石仏さん??。

尊名も解らないほど小さくて略式化され、なにがなんだか解りませんが、思わず出会えたこんな石仏さんも嬉しいもんです。

撮影2011.4.29


桜井市 小夫(おおぶ)六字名号磨崖碑/地蔵磨崖仏

2012年04月24日 | 石仏:奈良

六字名号碑と小さな地蔵を刻み付けた磨崖石仏です。

長谷寺へ行くのに名阪針ICから大和高原山間部を突き抜ける県道38号線を走る物好きは少ないとは思うが、道中の景観には素晴らしいものがあって僕はよく利用する。

都祁の里を越え、山中を5分も走れば突然目の前が開けて、そこは小夫の里。

集落の北入り口に当たる、旧道と新道に挟まれた狭い空き地に覆屋が二棟在って、そのいずれにも大きな岩が祀られて居る。

向かって右側メインの覆屋には二段に重ねられた巨岩があり、下段の大岩左側に六字名号碑、右側には可愛い舟形光背を持つ小さな地蔵立像。

やっぱり新道の造成によりこの地に移動されたようです。

六字名号碑には天正十一年(1583)の銘が在り安土桃山時代の造立。

傍らの小さな地蔵はいかにも可愛いく、像高30cm・・・こんな小さな石仏にもふと癒されます。 

撮影2012.4.14


桜井市 笠の不動磨崖石仏

2012年04月23日 | 石仏:奈良

なんともユニークと言うか全く不動らしくないと言うか、とても人なつっこい姿の不動明王石仏です。

小夫(おおぶ)から笠に至る大和高原の鄙びた山間集落の景観が好きでよく走りますが、つい最近までついつい見逃してきた磨崖の石仏さん。

大和では竈の神として親しまれている笠山荒神の近く、斜面に軒を連ねる笠集落の一番低い谷川沿いに突き出た岩に刻まれています。

その岩は集落南入り口近く、三叉路橋の畔に有って、高さ1m余り、幅約1.8mの横長方形 、岩の表面を整え、中央部にがに股、短足、右手には肩に担ぐように利剣を持ち・・おまけに顔はチンクシャ。

何処からどう見ても、よく言えばユニーク、別の言い方では稚拙でユーモラスな像容です。

まるで狆がクシャミでもしたような・・・・それだけに親しみを感じて撫で撫でしたくなるような・・・。

脇に廻ると少しは威圧感も有りますが、どう見ても力足らずの腰砕け・・・・。

なんとも可愛い不動磨崖石仏は像高約60cm、室町初期の応永二十二年(1415)造立です。 

撮影2011.4.29


奈良市大柳生 上出墓地の石仏

2012年04月22日 | 石仏:奈良

大柳生の南外れ、大柳生から田原方面へと山間部を抜ける県道47号線沿い、上出墓地の石仏さん達です。

大柳生の産土神である夜支布(やぎう)山口神社の深い鎮守の杜を右手に見て田原方面に向かうと大柳生最後の集落「上出垣内」

この集落の上出墓地には多くの石仏が残されていて知る人ぞ知る捨て墓と石塔墓が一緒に有る墓地です。

この辺り、大和高原域ではこれが当たり前のように今でも捨て墓が利用されることが有るのか?真新しい白木の墓標にお目にかかることも良くあります。

この石仏を一目見た時、おかしい石仏だなあと不思議に思いました。

埋め墓の棺台脇に立っているのに阿弥陀でも地蔵でもなく、どう見ても智拳印を結ぶ大日如来のようです。

しかしこの場所に、阿弥陀ではなく大日と言うのがどうも僕にはなんとも解せません。

凡そ等身大の大きな石仏ですが・・・大日如来にして裸足で蓮台に立ち、ダンゴ鼻でどう見ても庶民的、何処にでも居そうな親父さん風・・・、地蔵型の大日如来と云ったところでしょうか??

光背部に江戸時代中期享保三年(1718)の銘を持つ・・・・、江戸中期ここでは大日を阿弥陀や地蔵の身代わりにしたのだろうか??

墓地中央、覆い堂内に祀られた阿弥陀坐像石仏。

独得な幾何学文様の衣文を持ち、舟形光背状石材に二重光背を彫り窪め、総高91cm、像高約40cm、室町末期の永禄九年の造立。

墓地入り口に近い石塔墓には・・光背部に十三仏の種子を刻み付け、室町後期の天文四年(1535)造立。

高さ約1.3m、像高85cm、粗い鑿痕も残っているほど保存状態は良好です。

墓石群内に立つ、高さ約1.1m、像高77cmの阿弥陀立像は天正十八年(1590)

安土桃山期の慶長四年(1599)造立の阿弥陀立像、総高85cm、像高62cm。

中々凛々しい顔つきですが・・・どこか漫画チックです。

撮影2005.9.10/2012.3.3


奈良市大柳生 泉垣内(いずみがいと)の地蔵石仏

2012年04月21日 | 石仏:奈良

僕が勝手に赤地蔵と呼んでいる地蔵さんが大柳生の山沿い集落、泉垣内の多門神社前に古びた祠と並び立っています。

前回紹介の上脇地蔵の交差点からJA大柳生の横を行く野面道をまっすぐ進めば泉垣内の集落、そのまま斜面集落を登っていくと赤い鳥居の多門神社の前に出る。

多門神社は集落を見下ろす高台にあり、此処から一望する大柳生の棚田や、大和棟が見える景観には素晴らしいものがあります。

多門神社の鳥居脇に立つこの地蔵と祠内の仏像は、かって此処に併存していた寺院の旧仏だと云われています。

祠を覗いて見ると、向かって左より木造地蔵菩薩、中央には石造如意輪観音、右端は木造の弘法大師像が居並んでました。

傍らには弘法大師御廟の石碑もあり何らかの曰く因縁でも有るのでしょうが??

大きい舟形光背を持つ総高約140cm、像高約1m強の通常型地蔵菩薩立像。

石質の影響でも有るのか?赤い地衣類が全身にまとわりつき、赤地蔵と呼ぶに相応しい姿で立ち尽くしています。

小石仏や背の低い草木が足元にあり蓮台までは確認できませんが、刻銘から室町時代後期の永正十一年(1514)の造立だと解ります。

光背上部には十数個の梵字が刻まれて居るそうですが確認も覚束無いほどの地衣類の繁殖です。

長閑な斜面集落を見下ろす赤い鳥居脇に立つ赤い地蔵さんは、俗に「泉の地蔵さん」と呼ばれ、地元では親しまれているようです。

大和高原の里山を代表するような景観がここには有ります。 

撮影2012.2.16


奈良市大柳生(おおやぎゅう) 上脇地蔵石仏

2012年04月20日 | 石仏:奈良

まるで頭の上にタンコブでも出来たように、土蜂の巣を造られてもにこやかな顔つきの地蔵さん。

国道369号線の柳生街道、大柳生バス停の国道を少し奈良寄りに戻った小高い丘に、ぽつんと立ち尽くしている。

昔はここに地蔵堂が在り、大切に祀られて居たようですが、今ではすっかりこの有様・・・・。

民家もほん傍に在るのですが、すっかり忘れ去られたように小笹や夏草が足元をすっかり隠しています。

高さ130cm、像高94cm、元亀2年(1571)室町末期の造立。

大和地域では良く見かける切れ長の目、穏やかな顔つきの定形地蔵です。

野の仏として中々の風情ですが、頭の上のタンコブぐらいは取ってやってください。 

撮影2011.4.17


三重県名張市 家野の地蔵磨崖仏

2012年04月19日 | 石仏:三重

前回紹介の葛尾より名張川沿いに遡ると対岸に家野集落が在り、集落入り口の橋近くにこの磨崖石仏が有る。

家野の集落は名張川越しに在って背後を山に囲まれ、集落に入るには名張川に架かるたった一本の橋を渡って行く他、この集落へ入る道は無い。

このたった一本の橋が落ちればこの集落は陸の孤島と化す。

名張川沿いに走る県道30号線のガードレールの向こう側、名張川岸に突き出した三角錐形の大岩に地蔵菩薩立像が刻まれている。

名張川沿いには磨崖石仏が数多く残されているが、それは大きく蛇行して暴川の様相を呈していることから、古来より洪水遭難の供養仏として刻まれ続けてきたものでは無いのだろうか??

岩の中央に舟形光背を深く彫り沈め、中に蓮華座に立つ像高60~70cmばかりの定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出している。

岩全体に薄緑色の苔がまとわりついていますが、全体的には保存状態も良好・・、円頭光背と大きな錫杖が良く目立ちます。

顔容はそれ程果々しくは無いが名張川を背に小さな集落の見渡せる景観は素晴らしいものが有る。

撮影2011.4.10


三重県名張市 葛尾(くずお)磨崖仏残欠

2012年04月18日 | 石仏:三重

奈良県山添村と三重県名張市に県境を挟んで同じ葛尾(くずお)と云う集落があり、その昔は同じ集落だったで有ろう事を窺わせる。 

仔細は知らないで居ることの方が良い場合も多いので深くは考えないが・・・・。 

<三重県側葛尾バス停付近・・・奥に見える木立の向こうは奈良県側です。>

元は三重県側に有ったものか奈良県側に在った物かは知らないけれど・・・現在石仏の置かれた場所は三重県名張市葛尾に成っている。

いずれ道路拡張の邪魔になり磨崖仏だったものが切り出され、現在の料理旅館脇に移動されて祀られています。

まるで残欠のように三個のサイコロ状に切り出され、磨崖としてあった頃の姿は全く想像するしか有りませんが・・。

三個の石塊に分けられた向かって左端から、如来石仏、三体地蔵、次も同じく三体地蔵。

多分阿弥陀如来だと思われる立像は像高70cm足らずか?劣化が激しく像容もままなりません。

おまけに切り出し時の失敗か?光背上部が飛んでしまっています。

この岩は後の三体地蔵とは別の場所にあったのでしょうか?地衣類の付き方が全く違います。

中央岩の三体地蔵、方形に彫り込んだ中にぞ凡そ像高40cmぐらいの地蔵立像を三体。

右側の三体地蔵も中央にほぼ等しく・・・・、何故に六体じゃなく三体と三体なのだろう???

全く別々に刻まれたものだろうか??今となっては知る由も無い。

撮影2011.4.10


山添村 勝原六地蔵磨崖石仏

2012年04月17日 | 石仏:奈良

大和高原を縦断して大阪から名古屋へ抜ける幹線道の名阪国道を目の前にして、小川沿いの杉林の中に余り人に知られる事無く磨崖石仏がある。

名阪国道神野口ICで降り、旧国道25号線、廃校跡を利用した「大和高原民俗資料館」脇から県道263号線で南下、直ぐの小川沿いの里山道10分ほど歩くとこの磨崖石仏に出遭える。

杉林の川べりに突き出した幅約4m足らず、高さ約1.5mの方形岩に合計九体の石仏と・・・

中央には板碑型の富士山・浅間供養碑、所謂「富士講碑」が刻まれている。

向かって左から双体地蔵仏、富士講碑、六体地蔵、右端には阿弥陀仏。

六体地蔵は大和高原で見かける多尊石仏と同じように極端に略式化の進んだこけし状態で六体共に像高約30cmの合掌地蔵、両端の阿弥陀と双体地蔵仏は共に像高50cmばかり。

地域の人達によって信仰は続けられているようですが人里離れていつ忘れ去られてもおかしくないような雰囲気です。

富士講碑に正応三年の銘があり、いずれも江戸時代初期の造立。

それにしても、富士山や浅間は遠く離れたこの地でも信仰対象だったのでしょうか??

そういえば伊賀や甲賀でも富士講碑にはお目に掛かったような・・・・

撮影2011.4.10


山添村 大塩の七体地蔵磨崖石仏

2012年04月16日 | 石仏:奈良

大和高原中央部、山添村大塩にも隠れるようにして丹生の千体磨崖石仏に良く似た七体地蔵磨崖石仏が有る。

山添村神野山の鍋倉渓近くより大塩に方面に下りる新しく造られた道路を下って行くと大塩集落に入る直前で道が二手に分れる

旧道側に入ると道路脇、大きい樒の木陰に巨岩が突き出し、ちょうど樒の幹に隠れるようにして小さな石仏が方形枠の中に刻まれている。

新道はこの石仏を迂回するかの様に裏側を走り、地元民でもない限り全く石仏の存在など知る由もない。

大和高原域でよく見かける多尊磨崖石仏に等しく略式化の進んだ地蔵立像が七体横一列に並んで居ます。

六体地蔵では無く七体とはどう云う事なのでしょうか??六体だけでは救い切れない苦しみがあったと云う事なのだろうか。

ここは、大和高原山間僻地の寒村だったに違いない。 

撮影2011.4.10