愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伊賀市島ヶ原 中村六地蔵磨崖仏

2015年12月24日 | 石仏:三重

我が山城のすぐ隣、伊賀市島ヶ原にまだ六地蔵地蔵の磨崖仏が隠れて居ました。

この辺りはもう虱潰しに隈なく探したつもりでしたが、石友さんからこの磨崖仏の事を聞いた時はまさかという感じでしたが・・・

島ヶ原の名古刹、正月堂「観菩提寺」近くの旧集落内、旧家進入路脇に突き出した大石に六地蔵が刻まれて居る。

六地蔵磨崖仏は近く「薬師沢の六地蔵磨崖仏」によく似た意匠、大石の正面に横長方形を彫り沈め・・・

中に蓮台に立つ像高30cmばかりの六地蔵を刻み出している・・・しかし「薬師沢の六地蔵磨崖仏」に比べると随分見劣りがするのは時代がうんと下がるからでしょうか??

側面には良く見ないと判らないのですが、小さな五輪塔が三基刻まれて居ました。

この前の道も正月堂への古道だったのでしょうか??

撮影2013.11.5

伊賀市青山町  妙楽地の磨崖仏

2015年09月19日 | 石仏:三重

旧青山町妙楽地の県道沿いに見える磨崖仏。

国道165号線、青山伊勢路より大山田方面へと抜ける県道2号線、妙楽地集落への在所道の入口付近に茂みが有り・・・・

その根元に突き出した岩肌に5体の石仏が刻まれて居る。

白い地衣類に覆われた岩肌に舟形を彫り沈め、中に中肉彫りの地蔵立像を刻み出している。

像高凡そ40cm内外・・・地衣類の繁殖がひどく詳細は不明ながら、なかなか味のある像容。

中でもこれが一番はっきりしていますが、よく見ると江戸期以前の中世仏の様な気もしてきます。

その脇にも2~3体の地蔵立像が見られますが、どれもこれもさっぱり像容も覚付きません。

茂みの左側には小さな祠が祀られて居て、何かの信仰の場で有ったことには違いない。

鄙びた山里の名も無き「野の仏」です。

撮影2013.8.14


伊賀市比土(ひど)上出 目なし地蔵

2015年09月17日 | 石仏:三重
 
眼も鼻も・・・像容さえも覚束無いほど崩れ去り、其れ故に人呼んで「目無し地蔵」??
 
近くの寺からの帰り道、なにげに通った集落外れで「目無し地蔵」の看板を発見、早速確認
 

比土上出集落の入口と思しき辺り、常緑樹の老木根元にそれらしき高さ1m足らずの岩が有り・・・
 
 
その正面に軒を突き出した覆い屋を設け、凝灰岩肌に石仏だとかろうじて判る彫刻が施されて居る。
 
 
頼りない舟形を彫りくぼめ、像高50cm程の多分地蔵立像だろうと思われる石仏を刻み込む。
 
詳細は何一つ確認できませんが・・・・おそらくは素人彫りの未完成仏ではないだろうか?
 
撮影2012.8.19
 
 

名張市南古山 地蔵石仏

2015年09月09日 | 石仏:三重

名張方面からの帰り道、たまたま見つけた石仏さん。

いつもの事ながら新道はパスしての、わざわざ通った南古山の集落入口に信仰篤く祀られて居た。

石仏は磨崖の一部を思わせる様な自然石で、近くの旧街道筋から移動してきたような雰囲気。

多分ここは旧初瀬街道だったんじゃないだろうか??

石仏は高さ1m程の岩塊正面に舟形を彫り沈め、ローカル色豊かな造容の地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻み出している。

たぶん江戸期の造立だろうが、供花や薫香も絶える事なく今も篤い信仰の中に生きているのが手に取るように判る。

撮影2013.8.4


伊賀市 中之瀬磨崖石仏

2015年08月29日 | 石仏:三重

伊賀上野から国道163号線で伊勢方面に向かう、名阪道の高架下をくぐるとやがて服部川の橋を渡り道路は大きく右にカーブする。 服部川沿いに走るとすぐ、左手にこの磨崖石仏が道路脇に見えてくる。 道路接近しすぎていて駐車スペースはありません。 右手側も服部川が道路脇ぎりぎりまでせまっています。
 
 
 
道路脇の露出した花崗岩の崖の表面に中尊の阿弥陀如来、脇待の観音、勢至。 さらに左側に不動明王,右側には地蔵菩薩、その右手に月輪の中の梵字と、壁面一杯に使われていてにぎやかです。


中尊は、阿弥陀如来立像で半肉彫り、像高2.76m 脇待は、各1.5mで線彫り。 中尊の阿弥陀の彫りと他の各線彫り石仏は明らかに違う。 阿弥陀如来は鎌倉時代の様式が見られるが、他は室町期以降のものであるようです。
 
 
 
不動明王立像・像高2.33m 線彫りのローカル色強い顔立ちです。
 

右側の地蔵菩薩は彫りも浅くはっきりしませんが、像高2.51m

この石仏群は最初に阿弥陀如来が彫りだされた後、じょじょに彫り加えられて行ったもののようです。

撮影2006.2.20


伊賀市白樫 慈尊寺阿弥陀種子板碑

2015年08月28日 | 石仏:三重

 

伊賀市白樫の慈尊寺に残されて居る県指定文化財の阿弥陀種子板碑と地蔵石仏。

名阪国道白樫ICから北西へ約1km強、白樫集落の入口の一段高い境内に建っている。

 本堂に向かって左手、携帯の片隅に覆屋を設け、中央に板碑、向かって左に地蔵石仏を安置している。

板碑は頭部山形、下に二条の切込を入れた安山岩製・・・

高さ 134Cm 、幅 43Cm、二条の切込すぐ下には蓮華座と月輪を線彫り、阿弥陀種子の「キリーク」を薬研彫りにて刻み込む。

鎌倉時代後期 元亨元年(1321)造立、長文の銘文が刻まれている。

説明板

 また板碑の隣には中型だけど姿の良い地蔵石仏・・・

舟形光背を負い、総高約70cm程か??下部蓮華座部が地中埋もれて居て、全体像は覚束ない

しかし光背右下に銘が確認出来、室町後期の永禄三年(1560)の造立。

ハナホゲながら、なかなかのご尊顔・・・

撮影2013.7.13

 


三重県 伊賀市丸柱 みのいし地蔵

2015年04月21日 | 石仏:三重

 

車窓からたまたま見付けた「みのいし地蔵」

伊賀焼調理鍋で名を馳せた長谷製陶の前を通って、阿山音羽方面へと抜ける旧道脇に「みのいし地蔵」の看板を発見・・・思わず車を停車。

これはと思しき杉の木立の根元を見ると・・・あっと驚き、予想に反して磨崖仏の刻まれた大石が有った。

 杉根が岩を喰み、なんとも言えぬ魅力的な景観を醸し出している。

 石仏は山形の大きな花崗岩の正面に舟形を彫り沈め、中に大きな錫杖を持つ定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出している。

 磨崖石仏は略式化が進む、中世末期から江戸初期の造立だと思われますが・・・石仏足元下には細い谷川の流れが有り、その流れに沿って旧道が磨崖仏の前を通って居たのだろう。

 

過ぎた昔日の面影を今に伝えているような気がする磨崖仏です。

撮影2013.11.20


旧美杉村八知 長楽寺の石仏

2015年01月26日 | 石仏:三重
津市美杉八知、長楽寺で見掛けたいたずら坊主の様な青面金剛の庚申さん。

長楽寺は、2009年台風18号災害により未だにバスでの代行輸送のJR名松線矢知駅を南西に約1km足らず、雲出川左岸の高台に有る曹洞宗の古刹。

寺伝の伝える処に依ると、壬申の乱の時、地元民に助けられた大海人皇子、後の「天武天皇」がその恩に報いて白鳳10年(681)に七堂伽藍建立、七堂伽藍をそなえた長楽寺を贈ったという・・・・・後、この寺は信長の兵火にあって消滅。

その後も焼失が重なり、現在は本堂に薬師堂?を残すのみ・・・・

そんな大伽藍時代を偲ぶように八知の家並を見下ろす高台の長楽寺は「大御堂」とも呼ばれ、地区名にも成っている。

そんな境内で見付けた石仏は「享」の字がよく目立つ江戸後期の青面金剛像。

三猿の上に立ち四臂の簡略型で特筆すべき事もない。

寺墓への入口には大きな自然石を詰んだ石龕(せきがん) が有り、中に小さな二体一石の六体地蔵が並んでいた。

白鳳の大寺も今は田舎の山寺に過ぎない。

撮影2012.6.2

名張市 滝之原墓地参道の石仏

2014年11月20日 | 石仏:三重

この地域では良く見かけるローカル色豊かな石仏さん。

名張市東部、桔梗が丘団地と鈴蘭台団地に挟まれ、すっかり取り残されたように昔日の景観をよく残す滝の原・・・

そんな地区の中央部、龍性院裏山にある墓地参道に地域の特徴豊かな石仏二体がたって居る。

二体共に良く似た大きさの舟形自然石表面を平に整え方形を彫り沈め中に石仏を彫りだしている。

向かって右側には阿弥陀と地蔵の双体仏・・・・簡略化、変形化がが可能な限り進んで極端にデフォルメされて居るのが面白い。

傍らの五輪塔と合掌地蔵のコラボ石仏??

まるで素人彫り、幼児が描いた絵のような印象が残ります。

名張地域では良く見かける像容ですが・・・一時期のただ一人の仕事なのだろうか??

あまりに強すぎる個性です。

撮影2012.6.24


旧美杉村 三多気蔵王堂の石仏

2014年11月19日 | 石仏:三重
 
 旧美杉村 三多気蔵王堂の境内に残された石仏さん達。
 
 
美杉の霊山とされ親しみ深い「大洞山」中腹に残された嘗ての常庵寺の蔵王堂で、西蔵王とも呼ばれる。



常庵寺は看た気真福院の末寺として栄えたが明治初期に廃寺となり、蔵王堂のみが残された。
 
太郎生(たろう)から三多気へ抜ける旧道沿いに有り、現在その旧道は東海自然歩道と成っている。
 
 
堂脇の石垣土壇には江戸中期造立の観音石仏が並び立っている。
 
往時寺は地方の観音霊場の一つにでも成って居たのだろうか??・・・二体共に聖観音菩薩で江戸中期の元禄五年銘が有る。
 
 
向かって右端の小さな笠石仏は双体観音だろうか・・・どうも誰かが道祖神と間違えそうな・・・。
 
三体共に同じ顔つきで同一石工のものだろう。
 
撮影2012.6.24

旧美杉村  日神(ひかわ)の今不動石仏

2014年11月18日 | 石仏:三重

 

先日と同じ、旧美杉村日神(ひかわ)に有る磨崖仏で「今不動石仏」と呼ばれている様です。

前回UPの不動院参道脇の斜面を登った杉林に鎮座する大岩に刻まれた磨崖仏・・・・。

磨崖仏には違い無いのですがどうも良く判りません・・・・・日輪と月輪、その中間に鳥居・・・・向かって右手には猿回しのような姿にに刻まれた像。

高さ1.5m、幅2.5mの凝灰岩・・・・これを磨崖仏、石仏の範疇に入れて良いものなのか??。

今不動と言うからにはそれ婦だけの根拠が有るとは思うのですが??色々資料を調べて見ても何も出てこない。

僕が猿回しのようなと言ったのが「不動明王と信者」らしいのですが・・・全くそうは見えず猿回しの親方と紐で繋がれた猿の様にしか見えません。

何ゆえ「今不動石仏」と呼ばれるのかは知りませんが・・・・、僕にとっては「判じ絵」のパズルのような印象でした。

撮影2012.6.24


旧美杉村 日神不動院不動明王石仏 

2014年11月17日 | 石仏:三重

旧美杉村太郎生日神、不動院に焼け残された不動石仏が有る。

ここは何度来てもその地名の読みを忘れてしまっていつも戸惑う・・・・太郎生と書いて「たろう」、日神と書いて「ひかわ」と読ませる。

曰く因縁の有りそうな地名だが・・・2~3年間を於いて訪ねるとすっかりその読みを忘れてしまっていたりする。

日神の集落は麓を走る国道368号線、飯垣内(はがいと)より約1.5林道を登った山間集落、・・・・もの好きはこの奥にある日神墓地の石仏群を訪ねここまでやって来る。

墓地から一谷挟んで対面する山肌に不動院なる小堂が建ち、この地域独特の鎌倉期の種子板碑や、珍しい「オハツキイチョウ」の巨木が残って居たりする。

この山上中に有る磨崖仏を訪ね、序でに立ち寄った不動院が珍しく開いていて珍しく人の気配もする・・・・・、もしやと撮影を乞うと二つ返事でどうぞどうぞとOK.

ちょうどこの日は不動明王の縁日だということで信者さんが集まって居たようです。

記録によると平安中期の保安3年(1122)頃の造営、天正9年(1581年)天正伊賀の乱で戦火に遭い、さしもの不動明王石仏も焼けただれ哀れな姿と化してしまったようです。

石仏は坐像で結跏趺坐、右手宝剣、左手には索条なのでしょうが手首で欠損、躰部と頭部も首筋で断裂、継目の跡が痛々しい。

焼け崩れた火焔光背を背に約等身大・・・尊顔は酷く灼け削げ、何の手がかりも残っていない

 童子の一体が不動石仏に隠れるように見えるが・・・もうこれは「木偶の棒」。

平家六代墓と言われる日神墓地石仏と言い、この不動院の焼けただれた不動石仏と言い、強烈な印象が残る。

撮影2012.6.24


名張川左岸域 地蔵五輪磨崖仏

2014年11月16日 | 石仏:三重

個人宅裏庭の斜面に突き出した半山状石に刻まれた双体地蔵と背光五輪塔。

名張地域ではよく見かけるスタイル、単純ながらローカル色豊かな合掌地蔵の双体仏と・・

横並びに大きめの背光五輪塔を岩いっぱいの大きさに彫りだしている。

単純化、デフォルメされた双体地蔵は、目元、口元も線一本程に簡略化されているが

時代の浅さはさておき味わい深いものと成っている。

撮影2012.6.24


名張市羽根 蓮福寺の双仏石

2014年11月15日 | 石仏:三重
 
先日紹介した地蔵磨崖仏の有る羽根集落、蓮福寺に残された阿弥陀、地蔵の双体仏。
 
 
集落の上手、山林を切り拓いた境内に小さな集落にしては立派過ぎる程の本堂の蓮福寺。
 
 
境内脇、斜面を背に基礎石を設け、小石仏や墓石が無数に並び立てられている。
 
 
問題の双体仏は頂部が欠損、中央部に上部の丸みを持った方形を彫り沈め、中に向かって右に来迎印の阿弥陀如来立像、左手には錫杖宝珠の地蔵立像。
 

向かって右枠には、南北朝初期の南朝の延元二年(1337)銘を持つ、名張市内で最古級の石仏です。

上比奈知国津神社の双と共に比奈知型の双躰として並び称される。

因みに上比奈知国津神社の双仏は先立つこと二年、建武二年(1335)の銘が確認されています。

少し目を惹くこんな石仏も有りました。

撮影2012.6.24


名張市 羽根の地蔵磨崖仏

2014年11月14日 | 石仏:三重

田舎好きには堪らない景観の中、谷川につい出した大岩に小さな石仏が二体刻まれて居ます。

名張市東南部、比奈知湖南部に広がる山間部に取り残されたように鄙びた山間集落が点在・・・その一つ羽根集落の棚田の下を流れる谷川に突き出した巨岩が有る。

その景観は一気に半世紀ほど時空を逆戻りしたような・・・子供の頃に遊びまわった遠い記憶のままの風景。

元水車小屋だったと言う簡素な野小屋・・・同じ大きさほどの巨岩の左下方にちょこんと小さな地蔵さん。

この大岩は、村人にとって信仰の対象・・・きっと神聖視されて居たのだろう・・・・

左手の1体はどうも後補のような感じです。

こんな土地では神仏の存在も間近に感じる事だろう。

撮影2012.6.24