愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良県宇陀市 覚恩寺十三重石塔

2012年07月31日 | 石塔:石造物

鄙びた山里の農道脇、畑の中に十三重石塔がぽつんと立ち尽くしている。

先日紹介の大蔵寺参道分れより国道370号線を暫く南下、国道脇に沿って流れる津風呂川に掛かる小さな橋を渡ると4~5軒の民家があり、奥まった正面には九頭神社の杜。

九頭神社参道脇を右手に進むと覚恩寺址が在り、現在は収蔵庫のみが建ち、重文の遺仏が収蔵されている。

勿論厚い扉に閉ざされ全く中を窺うことは出来ないが、藤原期の薬師如来坐像と鎌倉期の阿弥陀如来坐像が安置されている。

覚恩寺は南北朝時代の南朝の忠臣であった牧(真木)定観の菩提寺であり、戦国時代に筒井順慶の手により焼け落ちたとされている。

収蔵庫奥、野道を挟んで南朝の長慶天皇の墓塔ともいわれる十三重石塔が忽然とた建っている。

石塔は低い切石組み、二重の基壇上に立ち、総高4.15m、頂部の宝珠と請花は後補。

屋根石には緩やかな軒反が見られるものの良く整い、鎌倉後期~南北朝の造立で重要文化財指定。

基壇、初軸部四面共に粗面と云うのも珍しい。

辺りは兵どもが夢の後・・・・と言う景観に青い風がそよぐだけ・・・・。

撮影2011.7.16


宇陀市 大蔵寺(おおくらじ)不動石仏/他

2012年07月30日 | 石仏:奈良

なんとも親しげで大らかな、今までこんな不動さんには出遭ったことがない、子供がお絵描きをしたような、不動明王石仏としては似つかわしく無い像容ですが・・・・。

がに股で姐さん被り、人の良さそうな満面笑顔、田舎のオバちゃんが、片手に鍬でも担いで一寸そこの畑までトコトコ歩き・・・・、今にも愛想良く話し掛けて来そうで、思わずこちらから声を掛けたくなる様な。

波切不動と呼ばれ、本堂境内への登り口、石段脇の斜面に隠れるように立っています。

高さ約70cm、江戸中期の享保13年(1728)の造立、江戸期庶民信仰の産物だろうか・・・・・。

山内、長い参道途上にあった二体の板碑と一体の地蔵石仏。

夏草にすっかり覆われ近づくのさえ憚れるような佇まい。

二体の板碑は共に六字名号板碑で高さ約1.2m、一方は頂部に月輪内の阿弥陀坐像を持ち、他の一方は月輪内にキリークを刻み付ける。

奥の板碑には弘治三年(1557)の銘が有り、共に室町後期の造立。

一番奥まったところに立つ高さ約1mの定形地蔵・・・、独得な団子鼻で庶民的な顔容。

しかしこの寺は、今やまさしく世間からますます離れて「隠れ寺」になってしまいそう・・・・。

撮影2011.7.16


奈良県宇陀市 大蔵寺(おおくらじ)十三重石塔他

2012年07月29日 | 石塔:石造物

先だって紹介した般若寺十三重石塔の作者で、日本の石造文化の発展に甚大な力を尽くした名石工「伊行末(いのすえゆき)」の作になる石塔が、此処大宇陀山中の大蔵寺境内にも残されている。

大蔵寺は国の重要伝統的建造物群保存地区として知られた、大宇陀松山地区と吉野宮滝方面を結ぶ国道370号線より約1km、右手西方山中に在る古刹です。

用明天皇の勅願により聖徳太子が創建、後、空海(弘法大師)が入山し、高野山を開く前に道場としたと事から「元高野」とも呼ばれている。

しかし現在、下記の如く一般参拝者の入山を禁止しているので事前の予約が必要です。

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今まで大蔵寺は境内を解放し、誰でも自由に出入りが出来ましたが、平成23年12月31日をもって一般参拝、観光、行楽の受け入れを終了しました。

今後、大藏寺敷地に許可無く立ち入る事を禁止致します。

敷地に許可無く立ち入った場合は防犯上、不審者として対応致します。

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参道を歩く事約20分ばかり、鬱蒼とした山中にひっそりと庫裏等が建ち、対面する石段を登った斜面上に、鐘楼、本堂(薬師堂)、大師堂が建つ。

本堂後方に建つ十三重石塔・・・・・、しかし経済的理由からか境内は整備管理等が行き届かず荒寂感は否めず、屋根の檜皮などは早急に改修が必要な状態になっている。

十三重石塔は、あの般若寺の大石塔の建立より遡ること約10年ばかし、当時宋より来朝の名石工を招致し石塔を建立させる程の権勢を誇っていたのだろう・・・・。

現高約4.2m、鎌倉時代中期 延応二年(1240)造立、地震などにより崩落、現在は屋根の傷みが激しい十重と、頂部を欠損した相輪を載せて建つ。

切石基壇の上に基礎を置き、塔身初軸部には月輪内の蓮華座上に金剛界四仏の種子を闊達な薬研彫りで刻み込む。

正面、東面には阿シュク如来のウーン・・・上部の屋根石は度々倒壊したのだろう?・欠損部が目立つ。

南東方向から・・・蔦が絡みつく宝生如来のタラーク。

北東側から・・・北面は不空成就如来のアクを刻む・・・・西面の阿弥陀は裏に周り込むのが無理でした。

正面基礎部には「道俗三千余人」「延応弐年(1240)庚子二」「月四日造口了」「大工」「大唐口州伊行末」などの刻銘が有る。

この寺は、かの白州正子も「隠れ里」シリーズで「宇陀の大蔵寺」として紹介している。 

撮影2011.7.16


京都府宇治市 白山神社九重石塔

2012年07月28日 | 石塔:石造物

宇治平等院を建立した藤原頼道の娘で後、冷泉天皇の皇后寛子がその病の治癒を願って創建したと伝えられる金色院の遺構、白山神社に建つ九重石塔。

<金色院の遺構の一つだとされる白山神社惣門>

宇治市街の住宅開発の波がなだらかな尾根を挟んで真近まで押し寄せているが、 宇治川支流白川に沿うように建ち並ぶ、此処白川の里は今も静かな離れ里の佇まいを見せている。

藤原頼道の娘、四条宮寛子の供養塔といわれる九重石塔は、白山神社へ続く参道から少し奥まった木立の中、細身の瀟洒な姿で多数の小五輪塔と共に建っている。

総高4mばかり、格狭間の入った華奢な基台に乗る細身縦長の初層軸部には金剛界四方仏の種子梵字が月輪の中に刻まれている。

刻まれた線も弱く、女性的な全容からは、鎌倉後期と言うより南北朝期の造立のように思われる。

相輪は新しく後補されたもののようです。

急な石段の上に有る檜皮葺きの白山神社拝殿は、そのまま藤原寛子の別荘だったのかも??

撮影2007.4.1


京都府笠置町 笠置寺十三重石塔

2012年07月27日 | 石塔:石造物

石仏では度々紹介している京都南山城,笠置山上に建つ、笠置寺の十三重石塔です。

笠置寺の本尊、「元弘の変(1331)」で戦火にまみれすっかり焼け爛れてしまった弥勒如来大磨崖仏の脇、薬師石と呼ばれる巨岩負い重なる前、両脇に小五輪塔を従えるように建っている。

元この地には平安後期の建久七年(1196)、解脱上人の発願、源頼朝が建立し木造本瓦葺の「十三重塔」が建っていたが、「元弘の変」で焼失、跡地に 戦死者の供養塔としてこの十三重石塔が建立されたと伝えられている。

一見、細身で力強さが無くなった様に見えますが、総高4、7m、鎌倉後期の造立、重要文化財指定。

初軸部には二重円光背を彫り窪め、中に顕教四仏を半肉彫りする。

正面、東面には連座に座する薬師如来・・・・、像高約30cm。

向かって左手、南面には釈迦如来坐像・・・、心なしか蓮弁の力強さも弱いような。

裏側、西面の阿弥陀如来坐像

北面には弥勒如来坐像を配すが、刻銘は一切見当たらないのも不思議と言えば不思議です。

弥勒磨崖仏の正面には古式な宝篋印塔。

「元弘の変」直前、元応元年(1319)の銘が確認されており、戦火を潜り抜け建っています。

いずれにしても、この山は石造美術の宝の山、まだまだ人知れず埋もれた石造品も限りなく有るかも??

撮影2011.3.15


奈良市 般若寺笠塔婆

2012年07月26日 | 石塔:石造物

日本では最大最優美なる笠塔婆、前回紹介の般若寺十三重石塔のすぐ脇の境内に建っていて、見るものを圧倒させる。

この笠塔婆は十三重石塔を造った伊行末(いのゆきすえ)の嫡男 「伊行吉(いのゆきよし)」が、亡父の一周忌にあたり、一基は父のため一基は現存の母の後世のため建立した笠塔婆で、刻まれた梵字漢字は鎌倉時代独特の雄渾な「薬研彫り」の代表例とされ、他の銘文は石造美術の貴重な資料となっている。

元、寺の南に在った般若野五三昧(平安期、畿内の代表的な五火葬場)南都の惣墓の入口に建っていたが、明治の廃仏毀釈に遭い、その後明治25年ここ般若寺に移されてきたようです。

笠塔婆は低い板石を基礎に、幅57cmの板状塔身の上に方形笠と宝珠を置く、至って簡素な造り。

同様の笠塔婆が南北に二基並び建ち、北塔総高476cm、南塔総高446cmと見上げても更に高い。

正面向かって右、南塔には 上部に釈迦三尊、下部に胎蔵界五仏の種子、右手北塔にも同様に阿弥陀三尊の種子と、下に金剛界五仏の種子を雄渾な薬研彫り梵字で表す。

南塔下部から北塔下部に続く長文が石工伊行末(いのゆきすえ)の、来朝とその業績伝えているが現在判読は困難。

北方向から・・・笠塔婆の向こうに十三重石塔が見える。

南方向からの裏面。

奥の北塔には胎蔵界大日如来の種子と梵文二行を、手前南塔にも胎蔵界大日如来の種子と下に光明真言種子二行を刻み込む。

東南方向から

いずれにしても日本の石造美術界に大いなる影響を与えた伊一派の記念碑的な笠塔婆で、鎌倉中期の弘長元年(1261)七月造立、国の重要文化財に指定されている。

撮影2011.6.29:2006.10.31

奈良市 般若寺十三重石塔

2012年07月25日 | 石塔:石造物

十三重石塔といえば先ず思いつくのがこの石塔、雄渾にして稀有なる美しさを併せ持ち、観光寺院にしては周りの景観も過度に整備されすぎる事無く心地よい。

花の寺に石の塔、しかし頂に立つ真新しい相輪が一寸不釣合な気もしますが・・・・。

般若寺は奈良市街の北外れ、京山城との国境、奈良坂を越える旧奈良街道(京街道とも呼ぶ)脇に建ち、要所を占める位置に在る。

奈良時代に平城京の鬼門鎮護のために聖武天皇が天平18年(746)、官寺として建立したのが始まりとされる名古刹・・・・しかし後その要所を占める位置が災いしたのか?平重衡の南都焼討ちを始め幾多の兵火や明治初期の廃仏毀釈に遭遇、しかし現在の姿にまで復興しています。

本堂前、さりげなく適度に荒れた景観がなんとも心地よい空間を提供してくれる。

この少し荒れたありふれた日常の中に有る景観、「コスモス、石仏の寺」として近年訪れる人も多く、奈良の隠れ名所のひとつにもなっている般若寺、これが寺院側の演出だとしたら心憎いばかりです。

箱形笠石仏と耕運機とのミスマッチもなんとなくGOODで許せてしまう・・・・・、京都の有名観光寺院では有得ない事。

さて肝心の十三重石塔は南都焼討ちで灰燼と化し、礎石だけが残った境内跡に東大寺の復興のために南宋から渡来した石工・伊行末(いのゆきすえ)が、発願者「大善巧の人」、即ち重源上人??のもと、鎌倉時代中期の建長五年(1253)頃に建立したものです。

どこから、どんな角度から見ても見事だとしか言いようのない多層石塔・・・国の重要文化財に指定され一辺が12.3mも有る広々とした切り石積み基壇の上、14.2mの十三重石塔が聳え建っている。

その安定感の有る重層屋根のリズミカルな逓減率は、誰の目にも見事で釘付けにしてしまうほど、良い物は良いとしか云い様がなく見るものを飽きさせない。

基台上の初軸部は四隅を面取り、其々見事な顕教四方仏を刻み出している。

東面には薬師如来坐像、二重円光背を持ち、高さ約60cm程か?鎌倉期の特徴有る大きな蓮弁に座す。

南面は釈迦如来坐像、同じく二重光背の線彫り、向かって左下部が欠落しています。

西面は、お馴染み阿弥陀如来坐像

北面には弥勒如来坐像を置き、顕教四仏とする。

どの坐像も鎌倉期特徴を代表する様な像容で石仏単体としても一級品です。

石塔の片隅には後補した後、出土したのか本来の相輪がむなしく置かれていた・・・・、今からでも入れ替えられないのでしょうか??。

まあしかし、いずれにしても日本を代表する石塔の一つには違いない。

撮影2011.6.29:2006.10.31


京都府京田辺市草内 法泉寺十三重石塔

2012年07月24日 | 石塔:石造物

我が家から車で約5分、子供の頃には、お袋の実家近くなので、よく通りかかって見上げた記憶が有るけど・・・・周りの景観がすっかり変わって全く別物のような気がするほどです。

僕が子供の頃、木造校舎の前の道を挟んだ田圃に囲まれた空き地が法泉寺の境内、広い空き地に本堂と庫裏、それにこの十三重の塔が建ちつくしていたような・・・・・・・。

国道24号線と国道307号線が交差する山城大橋交差点を西方向へ、木津川を渡る山城大橋を越え初めての信号で左折、やがて右手田圃の向こうに小学校と思しき建物が見えそれに向かって田圃道を右折するとこの十三重石塔に出遭う。

新設された白い築地塀ですっかり見紛うばかりに成った寺観、昔は境内の隅に在ったと思っていた塔は境内の入り口、国宝十三塔の石碑を前に白壁塀の横に建っていた。

<北面>

旧国宝、現在国の重要文化財に指定されたこの石塔は、奈良西大寺の叡尊が、畿内各地の寺院の中から水防の要所を選び発願し、建立した石塔の一つで有るとされている。

<南東面>

伊派の石大工 猪末行(いのすえゆき)の作、鎌倉代中期の弘安元年(1278年)に建立。

子供の頃に無かった 相輪は、近年の補われた新しいものに成り、屋根部軒先もかなり欠損部が目立つ。

<北西面>

総高6mばかり、二重基壇の上に載る初軸部は幅70cm高さ54cm、その四面に二重光背を背負う中肉彫りの顕教四方仏を刻んでいる。

<北東面初軸部>

共に見事な鎌倉期の蓮華座に座す如来坐像で、像高40cm。

東面には薬師如来。

南面には釈迦如来

西面は阿弥陀如来

北面は弥勒仏。

この石塔は見慣れたせいか余り感動しないが、初軸部の四方仏だけでも充分時を忘れるほどの見事さです。

しかし昭和30年頃の当時を知ってる者には余りの変化に唖然とします。

当時この塔は雑草に囲まれ、もっと危なげに建って居た様な気がする・・・・・・。

撮影2011.3.23:他


五條市畑田町 落合川不動磨崖石仏

2012年07月23日 | 石仏:奈良

奈良県五條市と和歌山県橋本市を分ける吉野川(和歌山県側では紀ノ川と呼ぶ)の支流、落合川の谷を埋める巨岩に不動磨崖石仏と梵字仏などが刻まれている。

五條市の北に連なる金剛山系の山裾、やがては京奈和道と成る予定の五條道路を突っ切り落合川を遡ると目の前に谷川を埋め尽くす巨岩に出遭う。

細い流れの谷川はジーパンの裾を捲くり上げると入れる程度、川下に向かって屹立する数個の巨岩に「梵字仏」「偈文」「飛天像」「五輪塔」などなど、さまざまの石彫と共にその中央には不動三尊が刻まれています。

向かって右脇の岩には「南無大師遍照金剛]の銘号と小さな「背光五輪塔」・・・・蓮弁基台に乗って居たりして一寸不思議な五輪塔ですが??

右手メインの巨岩中央には総高約90cm、像高50cm足らずの不動明王、脇侍の二体は像高約30cm、ローカル色豊かと云うより一見素人ぽく見える不動三尊ですが・・・・。

向かって右側には大きく梵字で「アビラウンケン」と大日如来真言を刻む・・・・左側には拙い字ながら涅槃経の「諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅為楽」と刻みこんでいる。

中央に立つ不動明王より、脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子( せいたかどうじ)の方が像容にも動きがあり写実的にみえる。

右壁面に応永2年(1395)の銘が確認されており、室町初期の造立だと考えられて居る。

これらの石は斜面上から、ずり落ちてきたと言われていますが石仏はちゃんとまともに立っています。

上流に向かって左手斜面の大岩にも不動明王磨崖仏・・・・、迫力有る大きさながら昭和21年造立の現代石仏。

この地は今尚、信仰篤く祀られている場所のようです。

撮影2011.7.30


五條市旧西吉野村  黒淵春日神社三体石仏

2012年07月22日 | 石仏:奈良

奈良県旧西吉野村は南朝所縁の地、その吉野川支流丹生川沿い、黒淵にある春日神社に三体の観音石仏が安置されている。

五條市、国道24号線より分岐して紀伊半島を縦断する国道168号線を南下する事約30分、緑濃く山谷ともに深い西吉野地区は、

秘境十津川への序章のように、山肌にしがみつくような山岳集落もそここに望める。

賀名生(あのう)皇居跡のある賀名生歴史資料館を越えすぐ、西吉野トンネル手前を左折、丹生川を望む大きい一軒屋、旧家「公文家」の脇道を辿ると黒渕春日神社がある。

春日神社はダムに依る水没から逃れるためこの高台に遷宮、そういえば歴史を感じる重みには欠ける境内です。

そんな境内の片隅に簡素な覆屋があり、鍵の掛かった格子戸の奥に三体の石仏が安置されている。

光の足りない小さな堂内、それも格子戸の隙間にレンズを差込み、至難の技での撮影、不満足な画像ですが・・・・

元、近くに在った奈良時代建立だと伝えられる崇福寺跡に伝えられた石仏だと言われています。

向かって左、二重光背を持ち、蓮華座に座し、合掌する宝冠の観音石仏。

中央に座す石仏も殆ど変わりない像容・・・・

右端の石仏も他の二体と瓜二つ。

像高約40cm、きめの粗い凝灰岩質の石材一石で蓮台二重光背、半肉彫りの合掌観音坐像石仏を刻みだしている。

蓮弁や全体の像容から、古く藤原時代の遺仏で有ろうと考えられている。

境内傍らにある「南朝三帝黒木御所跡」の石碑がどこか侘しく建って居ます。

歴史の片隅に忘れ去られたような、しかし重要な一頁がここには隠されているのかも??

それにしても同じような合掌観音石仏が三体も有るのはどう云う事なのだろうか??

撮影2011.7.30


奈良市大慈仙(だいじせん)町 真如霊苑の石仏

2012年07月21日 | 石仏:奈良

墓地入り口にはまるでモニュメントのような石造物の一群。

中央には基壇の上に立つ何処にでも有るようなありふれた宝篋印塔、周りを囲むかの様、東西南北に板碑。

正面西向きには背の高い山形六字名号板碑、高さ1.8m、弘治三年(1553)の室町後期造立。

南面には阿弥陀三尊種子板碑、高さ約1.6m、同じく室町後期の作風

対面にはこんな阿弥陀坐像板碑石仏。

二重光背の中、蓮台に座す中肉彫りの像高40cm

弥陀定印を組み、下部に刻銘が有りますが判読不能・・・同じく室町後期か・・・・。

墓地南側には夥しい数量の小石仏や背光五輪板碑などがびっしりと並べ立てられ壮観です。

殆どは江戸期のものですが阿弥陀、地蔵の中には室町後期~安土桃山期のものも混じっています。

これほどまでに大量にここに有るのはどういう事なのか??まさかこの墓地だけの石造物では有るまい・・・。

参道背面、小高い斜面に建つ五輪塔群と大きな笠石を持つ地蔵箱石仏。

下部を地中に埋めていますが像高約60cm、中々落ち着きの有る深い顔付の定形地蔵立像です。

墓地から少し斜面を登ると単独で建つ五輪塔。

傷みも無く総て揃って、鎌倉後期の像立・・・・。

この墓地ではまだ土葬が行われているのだろうか???埋め墓の新仏にはこんな竹矢来・・・。

野犬や野獣が新仏を掘り起こさないため??はたまた新仏が迷い出てこないため??

もうこんな土葬儀礼の見られる処も殆どないだろう。 

撮影2011.7.9:2012.7.3

奈良市大慈仙(だいじせん)町 真如霊苑参道の石仏

2012年07月20日 | 石仏:奈良

どうして墓地参道にこうも多くの石仏達が立ち並んで居るのだろうか??

柳生街道、古い大慈仙(だいじせん)集落の埋め墓と石塔墓が並ぶ共同墓地、ここを何故に真如霊苑と呼ぶのだろうか??あの新興宗教の真如苑とは縁も由縁も無いと思うが紛らわしい。

前回紹介の平清水バス停より道成りに柳生方面へ進むと次のバス停が大慈仙、その先100m程、右手高台に大きな墓地が見える。

参道両側にずらっと舟形光背の中型石仏が一列横隊・・・、その数合わせて20体ばかり。

入り口左手一番手前に建つ比較的大きな地蔵三体。

手前から半顔を亡くした定形の地蔵立像。

真ん中に建つ、高さ約120cm、像高約85cmの定形地蔵立像、大永二年(1522)の銘を持ち室町後期像立。

その右手には光背頂部の「カ」の種子を持つ地蔵立像、大永七年(1527)室町後期の像立。

何が満足なのかしたり顔でニンマリ笑っています。

三体の地蔵から少し間を空けて立ち並ぶ六地蔵・・・これは本来の六地蔵ではなく寄せ集めのよう・・・六体共に錫杖、宝珠の定形地蔵ですが、錫杖の形や蓮弁、像容も異なり、造立年代も室町後期~江戸期でしょうか??

その上手には二体の地蔵と三体の阿弥陀石仏。

二体の地蔵のうち向かって左の一体には大永の文字が見える室町後期・・・・右手は貧弱な江戸期の地蔵。

こうして並べられると、その差は誰の目にも明らか。

参道の一番奥、居並ぶ三体の阿弥陀石仏、向かって左の二体は明らかに良く似て、形式化の進んだ像容を持つ江戸期の施無畏印、与願印の阿弥陀立像。

右端の阿弥陀も施無畏印、与願印の阿弥陀立像ながら少し像容が古く室町末期のものでしょうか??

この墓地には石仏が多すぎて一度に紹介しきれません・・・・・。

撮影2011.7.9


奈良市平清水町 辻堂地蔵石仏 

2012年07月19日 | 石仏:奈良

トタン屋根の簡素な吹き晒し覆屋にぽつんと立ち尽くす地蔵石仏。

慣れ親しんだ柳生街道(国道369号線)、周りの風景に余りにも溶け込んでしまって目立たなく、すっと通りすぎてしまいそうな辻堂。

国道369号線、中ノ川分れより本線を道成りに約5分、工場とゴルフ場入り口に挟まれるように平清水集落への脇道があり、平清水バス停脇にこの辻堂がたっている。

付近に集落の家並は見えず集落はこの先、200m程奥まった処に10軒ばかしが軒を並べる・・・・郵便ポストがこんな場所に在り、ここもまた隠れ里。

高さ1m足らず、石質が脆い凝灰岩なのか??風化磨耗が激しく殆どつんつるてん・・・・。

舟形光背も優しい丸みを帯びた曲線です。

空を見上げるような目鼻立ちは今では殆ど確認出来ません。

やっぱり四頭身の体躯は幼児体形・・・・錫杖、宝珠の中肉彫り定形地蔵立像。

全体から受ける印象は、やはり室町後期でしょうか??

この地蔵一体を祀るにしては大きすぎる辻堂ですけどね。

撮影2012.5.13


奈良市法用町 阿弥陀石仏

2012年07月18日 | 石仏:奈良

幼児体形をそのまま残して大人にな成り切れ無かった様な阿弥陀さん・・・・・いやいや500年近く経った今も成長過程なのかも(笑)??

先日より紹介の中ノ川より県道を道なりに東へ約く3km、詳細地図でないと道路も出てこないような、交差点も無い右折の脇道に入り、棚田の淵を通って約1km・・・・、やっとこの辺りが法用町集落の入り口と思しき辺り。

この先山中を柳生街道(国道369号線)へ抜ける旧道が在り、その道を少し登った吹晒しの地蔵堂に、この幼児阿弥陀が安置されている。

これぞまさしく日本の原風景、今に山から「柴刈り」にいった老爺が背一杯の柴を背負って降りてくるかも・・・・・。

覆屋の中央には方形基台の上に阿弥陀石仏、石灯篭と小石仏。

高さ約1m、舟形光背を持ち像高約70cm、蓮弁に立つ四頭身の阿弥陀石仏を中肉彫りで刻み出している。

拙い写真でよく分かりませんが右手胸元で施無畏印(せむいいん)、左手腰元で与願印(よがんいん)、光背に天文八年(1539)の紀銘が有り室町後期の造立。

なだらかな大和高原北端、山間に取り残されたような集落の、そのまた外れに有って、尚信仰が息づいて居ます。

撮影2012.5.13


奈良市中ノ川墓地 地蔵石仏/他

2012年07月17日 | 石仏:奈良

もうとっくの昔にその役目を終えたただろう??埋墓に残された石仏さん達。

先日紹介の中ノ川集落を大きく迂回するように走る国道369号線柳生街道脇からほんの少し旧道へ入れば・・・・雑木林の枯葉の上に佇む石仏達。

中央にでんと構える地蔵石仏、その脇に小石仏が五体ほど・・・・。

地蔵石仏は舟形光背を持つ高さ約140cm、蓮弁の上に立つ像高約100cm。

錫杖・宝珠の定形地蔵、頭上に地蔵の種子の「カ」を刻み光背には室町中後期、大永四年(1524)の紀銘を刻む。

不思議なことに錫杖を持つ左手小指がピンと伸びています。

因みにすぐ近く中ノ川辻堂の目無し地蔵に遅れること八年、像容はかなり違うようですが・・・。

箱型笠石仏は蓮台に立つ四頭身の地蔵立像を中肉で刻みだし、高さ約70cmばかり。

笠石や台座は箱石部分と石質も異なり別物の様な気します。

向かって左手の小石仏は合掌地蔵板碑と、頂部の臍(臍)を持つ少し笑みを浮かべた地蔵さん。

景観と共に愛しき者達です。

撮影2012.5.13