愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

一乗寺 北墓の弥勒坐像石仏

2011年11月30日 | 石仏:京都

先日紹介した清賢院さんの前の細い道を道成りに1kmも進めばそこは 一乗寺北墓という共同墓地。

このあたりまで来ると京都も洛北の静かな里山になって全く街の喧騒はない。

墓地入り口の一段高い六体地蔵傍らに大きい舟形光背を持つ立派な石仏があります。

墓地は整備が行き届き過ぎ、ちょっと風情には欠けますが??・・。

やっぱり比叡山型とでも云うのか大きい幅広の光背共々花崗岩一石から彫り出した総高約1.8m、等身大の丸彫り近くまで厚彫りの坐像です。

蓮華座に結跏趺坐し、右手は施無畏印、左手を上向きに膝の上に置く。

目鼻立ちも定かで無いほど風化磨耗も激しく厳密には解りませんが弥勒石仏だといわれています。

横に廻って見るとその彫り出しの厚さがなおさら良く解ります。

この辺り一円は比叡山西麓にも当り、こうした大型の如来石仏の多い所で琵琶湖側の坂本と並び称され、西坂本とも呼ばれた寺院の密集地域でもあったようです。

墓地石仏としては似つかわしくないほどに立派なこの石仏さんも、いずれあの織田信長の比叡山焼き討ちの犠牲に成った寺院の遺仏なのでしょう??

京都鎌倉期の石仏の特徴を余すところ無く持っている石仏です。

撮影2011.8.27


一乗寺 清賢院(せいけんいん)の地蔵石仏/他

2011年11月29日 | 石仏:京都

古い写真を見ていると後ろの家が茅葺屋根、その風情がなんとも良く訪ねて見たくなった地蔵さん。

叡電修学院駅から東へ約1キロ足らず、比叡山系西山裾あたり、まだまだ田舎の匂いの残る中に溶け込むようにして、瀟洒な浄土宗清賢院がある。

山門を潜って個人の庭のような小さな境内の左手、見覚えの有る茅葺屋根にトタンを被せた民家をバックに背の高い地蔵さんと六字名号板碑と共に立って居る。

総高約2m、像高1.6m、舟形光背を背負い、殆ど丸彫り近くまで厚く彫り出した等身大地蔵菩薩立像。

ここでもちょっと失礼をして前掛けはしばし外させて戴きました・・・ちょっとそっくり返って見えるのはワイドレンズのいたずらかも??

左手宝珠、右手は何も持たない古式地蔵で菅やっぱり磨耗が進み目鼻立ちも定かでは有りません。

造立は鎌倉期だとされる袈裟懸けの古い修行地蔵石仏です??。

山門を出て表通り左手脇にもこんな石仏さん。

ちょっと良さそうな二体には失礼ですが涎掛けを捲くって貰いました。

二体共に定印阿弥陀のように見えて・・・中々ふっくらといい顔立ちです。

撮影2011.8.27

                

京都市左京区 知恩寺の石仏

2011年11月28日 | 石仏:京都

百万遍、百万遍、京都人なら誰でもわかる今出川東大路、勿論この辻の東北角に在る知恩寺の通称からそう呼び親しまれている。

知恩寺は法然上人が念仏道場として創建、「南無阿弥陀仏」百万遍念仏業が修されていることからそう呼ばれる浄土宗の大きい寺です。

付近は京都大学野キャンパスが建ち並ぶ文教地域にあって街中とは言え、独特な一種静寂感の中に有る。

そんな本堂脇から連なる大きな墓地の一画、東隅にこの阿弥陀石仏が蓮座も無く直に土の上に結跏趺坐している。

像高約1.7m、、光背を負って丸彫り程に厚く刻みだし、筋肉の盛り上がった堂々とした体躯、弥陀定印を持つ阿弥陀如来ですが首から上が断裂・・

後補された頭部のようですが顔つきに、どこかすっきり馴染めない感があります。

この石仏も前回紹介の「子安観音」や北白川の「二体阿弥陀石仏」と近くにあって同じように街道筋に在ったものかも??

鼻筋が通ってちょっと奥目、如何もモンゴリアンの顔つきではなさそうな??

胸が張り出し大きく張った膝元などに鎌倉時代の像立が伺われる。

一方、江戸期の石仏では有るが珍しいアフロヘアーの阿弥陀石仏がこの石仏の近くに居られます。

アフロヘアーの石仏が二体揃って・・・・・。

五劫思惟阿弥陀如来」と呼ばれるもので、石仏で見るのは初めてです。

なんとも仏教というのは面白いことを考えるもんです。

撮影2007.12.23


北区鞍馬口 上善寺の石仏

2011年11月27日 | 石仏:京都

前回紹介の定禅寺は京の六地蔵の一つの「鞍馬口地蔵」を安置していることでも良く知られているが、その傍らにも多くの石仏が集められていてその中にも見るべき石仏がある。

<地蔵堂内に有る「鞍馬口地蔵」>

正面奥手、一列に並ぶ石仏の内、京都市内では珍しい十三仏板碑石仏があり目をひく。

大和や河内地域では良く見かける十三仏板碑ですがここのものは、本来一番上に居る虚空蔵菩薩が阿弥陀になっていて珍しいとされています。

高さ約1m、幅約50cm江戸時代中期。

次にこの地蔵さん、幅広の舟形光背を背負い、左手には宝珠を持っているようですが、右手には何も持っていません。

右手は脇に下ろし与願印を示す古式地蔵立像で鎌倉後期の造立・・・、高さ1.3m、磨耗が激しく顔容は定かではありませんが丸顔童顔の様です。

今ひとつ激しく傷んでいますが、地蔵の左隣にはこれもちょっと珍しい聖観音座像石仏。

光背と頭部の一部は欠損、顔容も定かではなく哀しい姿ですが、像高85cm、鎌倉時代後期造立だといわれています。

撮影2011.8.27


北区鞍馬口 上善寺の大日如来石仏

2011年11月26日 | 石仏:京都

高野川が加茂川と合流して鴨川となり京都市内に下って行く辺り、あの下鴨神社の糺森(ただすのもり)はこの二川の狭間にあり加茂川を挟んで西側、寺町筋の最奥辺りにこの大日如来石仏の有る上善寺の静かな佇まいが在る。

簡素な山門をそのまま車で潜り広い境内に入ると、山門を入ってすぐの右脇に小さな祠が在って、その中にちょっと窮屈そうにこの石仏が祀られて居る。

祠の軒先には天道大日如来の文字、石仏さんにはどっしり重たいほどに重ねられた涎掛け・・・。

これはもうお手上げ、とても涎掛けを外してスッポンポンにするわけにはいきません。

総高1.6m、像高約1.3m・・・、しかし現実には程遠い背丈しかなく、膝から下は堂内に敷かれた黒い玉砂利に埋まっています。

このままでは大日さんだと言うことも解らず終い、ちょっとまくって首吊り状態・・・・それでこんな塩梅、智拳印を結ぶ鎌倉期像立の金剛界大日如来だと云うけど、手印もイマイチはっきりしません。

厚く刻みだした如来形石仏には違いないのですが、面容も写真のようにツンツルテン・・、なんとも気の毒な石仏さんです。

撮影2011.8.27


北白川 子安観音石仏(太閤石仏)

2011年11月25日 | 石仏:京都

大きくて立派だけど、なんともやりきれないほど傷んで何が何やら・・・・、まるで大きなタコ入道のような・・・・。

かって志賀越えとも、「山中越え」とも呼ばれた比叡山裾、白川谷を大津方面に抜ける今出川北白川の辻にある大きな石仏です。

この石仏はその昔豊臣秀吉の目に留まり聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られたそうですが連日連夜「白川に戻せ~~・・・」と唸り声上げたので又この地に戻されたと云う曰く因縁を持っています。

その後文政十三(1813)年、白川村の大火見舞われ、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれたいた時代もあったとか??・・また最近の平成8年にはトラックの衝突により首が落ちたという・・・・・。

現在見ての通りの有様、名前は「子安観音」と呼ばれていますがその実大日如来坐像のようですが、しかしそれとて、はっきり確かめようも無いほどに劣化が激しい。

それでも付近の住民には信仰篤く香華の絶えることは無く、広く親しまれているようです。

鎌倉期の像立といわれるこの石仏もその原型は殆ど留めず、顔つきもはなはだ石仏には似つかわしくないほど稚拙過ぎる。

座高2m余りに及ぶその大きさから、志賀側の「見世の大仏」に相対する京都側「北白川の子安観音」では無かったのだろうか??

秀吉が一目ぼれした頃、この石仏っさんはどんな顔をしていたのだろう??。

撮影2011.8.27


六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の阿弥陀石仏/他

2011年11月24日 | 石仏:京都

中学校の歴史で習ったあの口に咥えた蝋燭立でお馴染み、空也上人が造った寺として名高い六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)。

僕が学生だった頃、よくあの前を通って友達の下宿まで通ったもんだが・・・その頃の荒れ寺とは一変、久しぶりに訪れた六波羅蜜寺はすっかり整備が行き届き、どこか別の寺に来た様な変わりようだった。

その分、風情はかいもく、この石仏さんも何やら別のものを見ている様な・・・・。

如何も僕の記憶ではあの頃と場所も移動したような??

この石仏は古いものとしては珍しく光背も無い丸彫り、その像高は約2m強にも及ぶ。

不似合いで真っ赤な小さな涎かけ、その上の頭部は断裂して居たのか補修の痕が見える。

どう見ても不思議に思うのがこの顔・・・・マスクでも被ったように正面の色が違っている。

そこだけ石質が違うような・・・・まさか顔まで後補と言うことではあるまいが??

頭部に螺髪を刻み、別石?の蓮台に坐し、結跏趺坐した膝の上で定印を組む阿弥陀坐像石仏。

体躯の衣紋や手の造りは簡略化されているのか風化磨耗に拠るのか判然としない。

鎌倉後期の像立・・・、しかしこの尊顔の色の違いがなんとも気に成る。

口をつぐんでいるけど、この石仏さんは知ってるんだよね・・。

傍らに在った古めかしい宝塔と五輪塔。

阿古屋塚と呼ばれる宝塔は鎌倉時代中期・・、五輪塔は平清盛塚だとされています。

又来年は大河ドラマで大変そう??もっともこの五輪塔では時代が合わないけど・・・。

撮影2011.9.4


東山区 慈芳院薬師如来石仏

2011年11月23日 | 石仏:京都

京都流に言えば東山五条下がる一筋目西入ると云った塩梅の所に慈芳院という目立たない小さな寺が京都の家並みの細い通りに隠れるように在る。

この辺りは清水寺参道への玄関口、清水焼のふるさとして賑う所だが一筋通りを入った慈芳院は誰一人訪ねる人も無く静まりかえっていた。

簡素な山門を潜ると、正面に本堂その左手に覆屋が在り此処にもあの大日如来の提灯の下、どう見ても大日とは見えない如来石仏さん。

写真で見ると小さくまとまって見えるが総高約1.8mと中々の大物・・・しかし風化磨耗が進んで殆どピカピカのツンツルテン・・・、それだけ信仰篤いということかも??

大日と言われているようですが、左手に小さい薬壺、右手は胸の前で施無畏印を結び、高い三重蓮台に座す厚肉彫り等身大の薬師如来坐像です。

良く整った体躯、殆ど顔容は解らないが気高く端正な顔つき、見事に流れる衣紋と写実的なそのプロポーションは鎌倉中期の像立。

やっぱり過去二回の義経にまつわる石仏に何処と無く似通っている気もするが・・・。

傍ら、覆い堂外にも小石仏・・小さいながらもこの阿弥陀石仏も肩や膝の張りも良く中々の優品です。

しかし・・・やっぱり京都市内で見る石仏には、どこと無く野趣が足りないような・・・・・。

撮影2011.9.4


東山区 安養寺阿弥陀石仏

2011年11月22日 | 石仏:京都

この石仏も前回、前々回紹介の石仏に良く似た造形を持っている。

同じ様な名前の寺がいくつもあってややこしいけど??。

こちら、京都では観光の中心地、東山円山公園内に有る「知恩院」の大きな山門を潜り、境内を抜けあの日本一大きい梵鐘からさらに奥へあがったところに有る安養寺。

安養寺は寺と云うより庵と云った方が良く似合いそうな小さなお堂。

浄土宗宗祖「法然上人」が浄土教を説き親鸞上人に此処で教えを授けた場所だそうです。

そんな瀟洒な境内の片隅、緑濃い木立を背に、この端正な石仏が在る。

寺伝ではここでも大日如来といわれて居るようですが・・・・総高1.5m、丸みを帯びた舟形光背、大きい蓮弁の蓮華坐に結跏趺坐する弥陀定印の阿弥陀坐像。

隙のない整った像容、落ち着いて涼しい顔容・・・・、像高90cm、厚肉彫りで写実的な体躯の表現も素晴らしい。

保存状態も良く、京都鎌倉期の特徴を良く表す石仏として高く評価されています。

撮影2011.9.3


京都市東山区 日ノ岡大日堂薬師如来石仏

2011年11月21日 | 石仏:京都

前回の石仏からすぐ近く、旧国道1号線をほんの少し大津方面に行くと左手道路わきにも 大日如来と掲げられた簡素な覆堂がある。

大きな天道大日如来と書かれた提灯の下、地蔵石仏や小石仏と共に、この大日如来と呼び慕われる石仏が祀られて居る。

大きな横広の舟形光背を背負い立派な肉髻(にっけい)を持ち蓮華坐上に結跏趺坐する如来石仏坐像です。

此処では真っ赤な涎掛けを外すのが躊躇われ、印相が解りませんが・・・。

総高約1.3m、像高90cm、厚く彫り出した像容は良くまとまった中にも力強さが感じられ、前回紹介の義経大日石仏に相通じる。

大日如来と呼ばれるこの石仏は、薬壺を持たない古式の薬師如来像と考えられて居るようですが、紅い涎掛けがなんとも・・・

近場だから再度行って確かめてこようとは思いますが・・・鎌倉中後期の造立。

所謂これも義経石仏の内の一体だといわれています。

伝説はともかくとして京都市内にはこうした造形の石仏が数多く有る。

撮影2009.5.30


京都市東山区 義経大日石仏(安養寺前阿弥陀石仏)

2011年11月20日 | 石仏:京都

ちょっと失礼して紅い涎掛けは撮影の間だけ外して頂きました。

車で行こうと思うと非常に行き辛く、歩きなら難なく辿りつける場所に有るせ石仏さん・・・・、蹴上バス停からインクラインを歩いて登るも良し、地下鉄蹴上駅からすぐ安養寺:日向神社参道を登るのも良し。

旧国道1号線から東手山裾に伸びる石段を上がるとそこは昔のインクライン舟溜り跡地・・・、その一角が児童公園となり、片隅に簡素な覆堂が設えられ、この石仏が祀られています。

この石仏は「義経大日」と呼ばれるように「源義経」が奥州へ赴く際、馬ですれ違い様、馬の蹴上げた水が義経に当たり相手を悉く切り捨て、その9人の菩提を弔うために九体彫られたという石仏の内の一体だと云われています。

この地名が「蹴上」(けあげ)と呼ばれるのもその所以に拠るものだとか・・・・。

話は脱線しましたが、この「義経大日」は安養寺前阿弥陀石仏と云われるように、大日如来ではなく定印を持つ阿弥陀如来、総高1.6m、舟形光背を背負い角ばった蓮華坐に結跏趺坐する像高91cm、見事な造形を見せている。

丸彫り近くにまで厚く彫り出した体躯、顔容共に良く引き締まり、衣紋や三道の彫にも力が感じられる。

涎掛けを掛けた石仏さんは、いつも変な虫の産卵場所になって気の毒です。

目だった傷みも少なく、保存状態も良好、その像容から鎌倉中後期の造立と考えられているようです。

撮影2009.5.30


京都 国立博物館の石仏

2011年11月19日 | 石仏:京都

京都国立博物館西庭園に屋外展示されている石仏さんたち。

京都国博は我国を代表する博物館ですが屋外展示の石仏に限って言うとそれ程良い物が保管展示されている訳でもなく、京都の個人庭の方が余程良い物が有るという話も聴きます。

そんな中これはと思った石仏・・・・京都:行願寺(革堂)伝来と伝わる大日如来坐像石仏。

両手を揃えた足の上で組む法界定印に結び、頭上に宝冠を戴く胎蔵界(たいぞうかい)大日如来です。

像高86cm、良く整った穏やかな顔容、豊かな肉付きから平安時代後期の作とされています。

体躯に剥離が目立ちますが、これは中々良い石仏さんです。

こちらは個人が寄贈したという地蔵坐像石仏。

厚く彫り出した穏やかな顔、二重円光背を背負い二重蓮華坐に座する定型地蔵で鎌倉後期の作だとしていますが・・・出所不明。

こちら室町期の作だといわれる不動明王立像。

わさびを一杯くちにでも入れたようなしかめ面・・・それなりの像容ですが体躯中央部あたりで断裂、補修しているようです。

しかしまあ、石仏はやっぱりこんな芝生の上で見るのには馴染まないようです。

これでは全くこれらの石仏さんが辿った歴史など知りようも無い・・・・

撮影2009.11.2


京都市伏見区 安楽寿院の石仏(画像更新)

2011年11月18日 | 石仏:京都

京都国立博物館西庭に展示保管されている安楽寿院の石塔基壇四方石仏の阿弥陀三尊像を撮影してきたので再UPします。 

地中から堀起こされたというこの石塔基壇石仏は三面、そのうちでもっとも保存状態の良いこの阿弥陀三尊像、もろい凝灰岩ゆえかやっぱり傷みが激しく尊顔もままならないですがやっぱり古式が良く残った素晴らしい石仏です。

中尊は結跏趺坐して定印を組む阿弥陀如来、両脇時菩薩は胸の前で合掌印を組む・・・・、確かにこの三尊の保存状態が一番良い。

三体共に厚く彫り出し程良い量感があり、裳には僅かばかりの朱の色が残っている。

これほどまでの基壇石仏をもつ石塔はどんなものだったのだろうか・・、在りし日の雄姿を想像するに難くない。

それにしても残りの弥勒三尊は何処へ行ったのやら・・・・上記3点の写真は2009.11.2撮影。

京都市伏見区にある安楽 寿院は名神高速道京都南インターのすぐ南側、今ではすっかり新興住宅地に囲まれた一角。

安楽 寿院の南側には近衛天皇の安楽 寿院南稜があって多宝塔が立っていて美しい姿を残している。

このあたりは鳥羽天皇、白河天皇の稜もあるところで、往古鳥羽離宮の在ったところだが今はこの安楽寿院あたりにその面影を留めるに過ぎない。

石造三如来像は本堂西側の仮堂内に三尊石仏二基が安置されている。

これらの石仏は江戸時代に近くの旧成菩提院跡から出土発掘されたといわれ、三基出土したうちの二基で、一番状態の良い阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に寄託保管されている。

釈迦三尊

この石仏は凝灰岩で高さ約1m、幅1.1m、、厚さ40cmばかりで、平安期の特徴がよく現れています。

向かって右側には釈迦三尊、左側は薬師三尊といわれています。

薬師三尊

どういう理由で土中にうずもれていたのかは定かではないが、顕教四仏をあらわした石塔の四方仏であったと考えられています。

摩滅、欠損ともに大きく無惨な姿にもかかわらずわずかに残った、古式な表現に藤原文化のにおいが感じられる。

国立博物館に保管されている阿弥陀三尊石仏もぜひ見てみたい。

撮影2006.9.15

MAP


愛知県豊田市 押井の磨崖石仏

2011年11月17日 | 石仏:その他

ひょんな所でひょんな物にお遭いしましたという感じの磨崖の石仏さん。

此処は愛知県といえども岐阜県恵那市に近い山又山の谷筋にある豊田市押井町を走りぬける県道490号線沿い。

谷間の集落に入る峠道、大きな欅が根元の岩を噛む様に聳え、その岩肌に1m足らずの舟形光背を2つ並列させ二尊を中肉彫りで刻み出している。

その昔ここは街道筋の休憩所でもあり、村内の安寧を祈った場所でもあったのだろう??役の行者像や六字名号碑も建っている。

向かって左手には像高約70cm程の錫杖を持つ穏やかな地蔵菩薩立像、右手には像容がはっきりしないものの倶利迦羅不動

像間には文久三年(1863)の銘が刻まれ 、今から150年ほど前の幕末期の像立。

それにしても、こんな山深い愛知の山中で磨崖の石仏さんに出遭とは思ってもいなかった。

因みに愛知での磨崖石仏は二体だけだという。

撮影2009.5.23


奈良市南ノ庄町 腰痛地蔵

2011年11月16日 | 石仏:奈良

奈良市街から柳生方面に続く国道369号線は里山を縫って延びる走り慣れた好きな道。

市街を出てほんの10分も走ると県道33号線との分岐点、中の川の信号を左手に取って10分も走れば鄙びた長閑な里山の南の庄。

集落の入り口辺り、県道の左手脇に簡素な覆堂と、横の空地には小さな建物。

覆堂には所狭しといっぱいの槌が置かれ・・・・・、なんやこれと思わず云った感じ。

堂の正面に掲げられた説明板に依れば、曰く、腰痛で悩む人はこの槌を持ち帰り、これで腰を叩けば治ると言われており、治れば新しい槌を御礼参りに奉納するという民間信仰だそうです。

俗に腰痛地蔵と呼ばれるこの石仏は近くの地中から村人が掘り出したもので、舟形に削り出した花崗岩に身の丈約1mばかしの阿弥陀如来立像を刻みだしたもの、全く地蔵さんでは有りませんが・・・・。

阿弥陀石仏は江戸期のもののようで、左手にはキリークを刻んだ銘号碑・・・・。

辺鄙な里山の農作業がいかに過酷で辛く腰への負担が強かった事を偲ばせるせる石仏さんで、捨てがたい景観とまだまだ民間信仰の中にある。

撮影2006.9.16