愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

三重県熊野市紀和町 長尾の棚田

2013年03月31日 | 棚田景観

熊野地域の巨樹を追いかけての帰り道、素晴らしい棚田景観に出逢いました。

丸山千枚田を越え、県道40号線の尾根道を走ること10分ばかり、峠の下り道、眼下に素晴らしい景観の棚田集落が目に飛び込んで来る。

田植えにはまだ少し間のある桜満開の時期、田起こしが始まったばかりの山深い棚田は、まだ冬の名残の色を留めていた。

熊野市紀和町長尾地区、どの市街からも遥遠く離れ、和歌山、奈良との県境に近い風光明媚な山間集落。

人工的な音は響かず自然の侭に時間さえのんびり流れるような・・・

民家や棚田は斜面に積み上げた自然石の石組みの上・・・・何世代も親から子へ、子から孫へと引き継ぎ守り、また拓いて来たのだろう・・・・。

しかし石組上、段々墓地横に建つ小学校には、最早子供の声が響くこともなく廃校になって久しい。

最早過疎化はいたるところでますます進行・・・・、もう止めようもない。

美しい景観を愛でるだけでは人は生きて行けない・・・しかし地域が活性化すると自然は破壊されかねない。

僕はただ通りすがりの傍観者に過ぎないけれど。

撮影2009.3.28


三重県津市美杉町太郎生(たろう) 日神(ひかわ)の棚田

2013年03月30日 | 棚田景観

もうここには何度来ただろう・・・、この地に来るたびこの位置から棚田を眺める事になる。 

しかしこうして写真を選んでみると青田の緑や、黄金色に色付く写真がない。

ここは棚田が目的で来る訳じゃなく、この背後の墓地にある素晴らしい石仏が目的で来る場所・・・。

こうして見えるだけの小規模な棚田・・・・・それでも十二分に美しい。

しかし、墓地から見下ろす棚田もまた捨てがたい景観を醸し出しているのでUPしておきます。

こうして見ると茅葺き屋根に掛けられたトタンの色が、塗り替えらて居るのが少し嬉しい。

撮影2012.3.7/2006.4.23


宇陀市菟田野 平井大師の石仏群

2013年03月29日 | 石仏:奈良

幕末、稀代の名石工として誉れ高い「丹波の佐吉照信」が弟子達と刻んだ石仏。

石仏ファンならずとも多くのページで紹介し尽くされているので・・・、僕は僕なり気に入ったものだけをUPしておきます。

宇陀市古市場を貫く国道166号線から、国道369号線に抜ける県道218号線沿いの通称「平井大師」と呼ばれる四国八十八カ所ミニ霊場がある。

殆どは簡素な覆い堂を掛けられた背丈60~70cmの舟形石仏・・・、どこのミニ霊場でも見かけそうな石仏です。

入口には四国八十八カ所第一番霊仙寺(りょうぜんじ)釈迦如来と弘法大師坐像。

等身大程の地蔵菩薩

厚肉彫りで慈悲深く落ち着いた表情が印象的。

第26番金剛頂寺の札が上がる石仏・・・検索してみると室戸に在って西寺という通称らしい。

この霊場は、嘉永、安政の頃(1848~1859)に各地の施主によって寄進、建立されたもので、台石に寄進者の指名が残されている。

第39番、赤亀山延光寺の薬師如来石仏。

名石工故の哀しさか・・・顔立ちにも隙が無さすぎるような???

第42番、佛木寺の金剛界大日如来・・・・。

僕のお気に入り・・・、第45番、海岸山岩屋寺の不動明王。

総供養塔と刻まれた石祠に収められて居ます。

何故かこの一体は特別な意味でも有るのでしょうか・・・・・。

小さいながら力強く、リアリティーに富んだ像容で力強さが感じ取れます。

最後にほぼ等身大の長谷寺型十一面観音菩薩立像。

やっぱり落ち着き払った表情です。

88ヶ所石仏を一つ一つつぶさに見て回ると、ちょっと食い過ぎになるかも??

撮影2011.11.17


宇陀市室生下田口 三郎岳の磨崖仏

2013年03月28日 | 石仏:奈良

石友さんに教えられ行ってきた磨崖仏・・・・・、思わず室生の奥で素晴らしい山里の景観にも出遭うことが出来ました。

<車窓から見える元上田口>

県道28号線で室生寺を越えると暫く山中を走り目の前が開けて室生田口の里・・・、このあたりまで来ると正しく鄙びた山間集落、まるで日本の原風景のような景観に出逢う事が出来る。

元田口入口で県道と岐れ林道へ、元上田口の集落を越え、その奥にある石割集落へと入る。

石割集落は明治になって新しく開拓された小さな集落、周りを棚田に囲まれ、わずか五軒ばかりの家が建つ。

<この建物が宿坊跡だとか??>

民家脇から北方、三郎岳にに登る登山道が有り、この山中に在る明開寺奥の院のまだその上・・・・、大きな岩壁四ヶ所に分かれて磨崖石仏が刻まれている。

日蓮宗石割山明開寺はこの集落が拓かれた時期に新しく出来たのであろう・・・、納得出来る寺名です。

それと相前後して刻まれた磨崖石仏は紛れもない近世石仏。

明開寺宿坊跡から登ること10分ばかし、石仏の標識があり、そのルートを辿ると・・・・

一番奥の壁面には舟形光背の中、等身大程の十一面観音菩薩立像。

良くは出来ていますがどことなく現代顔・・・・明治の中頃の造立だろうか??、当時のことを知ってる人がいても不思議は・・・、いやちょっともう無理かも??

その手前には地蔵磨崖仏。

右手には真新しい鉄製錫杖を握っています。

こちらは俗名「石割石松」と刻まれた石像。

この村の名士か開拓第一人者なのだろうか・・・・。

通路入口の岩には宗祖「日蓮」・・・深い龕の中に座って居ます。

石仏としての魅力はイマイチの磨崖ですが・・・。

撮影2011.11.7


柳生町 中村六体地蔵磨崖石仏/他

2013年03月27日 | 石仏:奈良

旧柳生街道沿い、前回紹介のほうそう地蔵へのちょっと手前、杉木立斜面に突き出した岩に刻まれた六体地蔵。

民家脇から山道に入ってほんの五分ほど、右側斜面に石組みが有り、今にも落ちそうな大岩の表面に「六体こけし」のような「中村六体地蔵磨崖石仏」

突き出した岩は高さ幅ともに約1.5mばかし・・・・

中央より少し左よりに高さ約60cm、幅約1m余りの枠取りの中、六体地蔵を彫り刻む。

像高33cm、蓮華座に立つ六体地蔵立像・・・・、しかしその像容はこけしよろしく略式化・・・

持ち物は全て違う様ですが風化摩耗も進んで何が何やら状態・・・・。

室町中期の明応十年(1501)銘がある様です。

この磨崖よりもっと手前、山道入口直ぐ右脇には「寝地蔵」と呼ばれる磨崖仏。

斜面からずり落ち、地中に埋もれたのでしょうか??

こうして写真を立てると何となく石仏と言う感じはしますが・・・、果たして地蔵なのか阿弥陀なのかは解りません。

それでも像高1m近く、室町末期作風だとか???。

撮影2011.11.24


柳生町 ほうそう(疱瘡)地蔵

2013年03月26日 | 石仏:奈良

もう、とっくの昔にUPしたと思い切ってた柳生のほうそう(疱瘡)地蔵と呼ばれる磨崖仏。

奈良市街からの旧柳生街道終着点近く、柳生陣屋跡より南へ1kmばかりの山裾に突き出した大岩に都合5~6体の石仏と室町初期の徳政令(借金棒引き)の銘文が刻まれている。

現在磨崖には簡素な覆い屋が掛けられ、保護のため?の柵も設けられ、野趣が消えさってしまったのは否めない。

大岩は幅約3.3m、高さ3m、奥行き約4mのボール型。

覆い屋の正面に高さ約1.5m幅80cmばかし長方形を彫り沈め、蓮台に立つ像高110cmの地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻み出す。

地蔵立像はスラッとした定形の長等身、光背壁の両側には薄肉彫りの蓮華花瓶が配され、珍しい。

頭部には円頭光が見えるが風化摩耗が激しく像容は覚束無い。

昔、顔の部分が剥がれ欠損して居たが昭和44年、土中から発見、接合され元通りに成ったようです。

顔の無い時代、まるで疱瘡を患ったように見えた事からこの名で呼ばれているとか??

地蔵の左脇には角枠の中に双体仏・・・、一体は剥落してしまったのか確認もままならず。

ほうそう地蔵は鎌倉後期、 元応元年(1319)の銘が確認されて居ます。

向かって地蔵右下方にある刻文・・・・これが国の史跡指定としてこの磨崖を広く知らしめている。

肉眼では何が何やらさっぱりですが・・・

上記の通りです。

一方地蔵の右側、街道沿い面には・・・・・、

二体の阿弥陀仏と五輪塔を刻み出す。

中央大きい方の阿弥陀如来立像。

こちら小阿弥陀如来・・・・。

この石は地域にとって特別な石だったのでしょうか・・・・・、地蔵は鎌倉後期の元応元年(1319)、徳政令文(史跡)は室町前期の正長元年(1428)、この阿弥陀は戦国時代の天正三年(1575)の銘が有るそうです。

凡そ350年間に三回も同じ石に刻み込んでいる。

撮影2011.11.24


茨木市 忍頂寺阿弥陀二尊笠石仏

2013年03月25日 | 石仏:大阪

豊能町切畑方面からの帰り道・・・・・・、豊能町境界に近い茨木市の山中集落、「忍頂寺」の街道沿い民家の前に佇んでいた石仏さんです。

この石仏も石友さんの計らいでお目に掛かれたもの、この日逢うまでは全く未知の石仏でした。

いくらNET検索を掛けようが石友さん以外のページはヒットしません。

なんでも無い街道筋の民家脇、切石の低い擁壁上に小石仏と一緒に祀られて居ます。

豊能町では最古の年号を持つと言われる大円釈迦堂の阿弥陀三尊笠塔婆に良く似た様式の石仏です。

高さ約2mも有ろうかと言う縦長棒状の自然石の中程を彫り窪め、定印を組み二重蓮華座?に座する阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出している。

蓮華座を含めても像高50cmにも満たないような小像ながら、笠石も失われず完品です。

包容力の有る落ち着いた表情・・・・・

銘の確認などは出来ていませんが・・・・、少なくとも江戸時代の近世仏では無く中世仏の臭がします。

地方色豊かな逆修塔と言ったところでしょうか???。

撮影2011.11.3


豊能町 大円小松阿弥陀三尊磨崖仏

2013年03月24日 | 石仏:大阪

前回紹介の大円下所阿弥陀磨崖と良く似た中尊を持つ阿弥陀三尊磨崖石仏。

切畑区内を縫うように走る府道109号線沿い、大円集落センターに隣接する観音堂と県道を挟んで対峙する斜面上に在る。

山裾の大きい民家の脇を失礼して斜面に登り獣道を掻き分ける様に府道側の尾根に出ると・・・・、写真のような磨崖石仏に出逢う事が出来る。

とても案内無しでは到底見つけられないような石仏さんです。

殆ど誰も訪れる事は無いのだろうか?降り積もった枯葉がふかふか・・・・ガサゴソ枯葉を踏みしめる音がするだけ。

もはや供花の痕跡すら見当たりません。

地表に頭を出した高さ高さ75cm、幅3mばかりの扁平な卵型自然石に、見た目もほのぼの小さな阿弥陀三尊が刻まれて居ます。

中尊阿弥陀は舟形光背の中、二重蓮台に坐す定印の阿弥陀如来、その像容は大円下所阿弥陀磨崖に瓜二つ、同一作者の同時期造立だと思われます。

脇侍の観音、勢至菩薩は中尊阿弥陀に寄り添うように内側向きに刻まれ、地元では「小松の横向き地蔵」と呼ばれているようです。

中肉彫り、像高30cm足らず・・・なんとも温和で優しい童顔の阿弥陀さん。

南北朝期の造立。

撮影2011.11.3


豊能町 大円下所(おおまるしもんじょ)阿弥陀磨崖仏

2013年03月23日 | 石仏:大阪

前回、この地を訪れた際にも探してみたのですが、結局訊ねる人さえ見つからず諦めた石仏さん。

今回は石友さんの案内で難なく出逢えましたが・・・・、とても何の手掛かり無しでは滅多に見つからないような場所でした。

この辺りには往古長安寺という寺が有ったらしくこの磨崖石仏も「長安寺跡阿弥陀石仏」とも呼ばれているが、今は昔、現在放ったらかしの竹藪に埋もれて居ます。

傍まで行くと説明板は有るのですが県道からの案内板は無く人に聴くより探し様も有りません。

もう獣道に成り果てた旧道の脇、竹藪への落ち込み縁に巨大おにぎりのような大石が突き出し、露頭下部にしっかり存在感の有る阿弥陀石仏が刻まれている。

高さ約2m、幅2.3m、これだけの大きい石に何故か遠慮がちに小さく彫られた阿弥陀坐像。

深く彫り沈めた舟形の中、蓮華座に坐す像高25cmの阿弥陀坐像を厚く刻み出している。

小さいながら彫りは見事で、反花の有る蓮華座、張りのある組膝、弥陀定印を組み、顔容は穏やかながら、力が感じれます。

昼なお暗い竹藪の中、友達にスポットライトを照らして貰いましたが色温度が違いすぎるかなあ・・・

最早忘れ去られてしまった感が拭えない石仏さん。

その形式から南北朝期の造立だとされ、小さいながら中々存在感の有る磨崖石仏です。

撮影2011.11.3


豊能町切畑 大円風上地蔵磨崖石仏

2013年03月22日 | 石仏:大阪

この石仏は全く未知の石仏さん、石友さんの案内無しでは恐らくお目に掛かれなかった小さな磨崖(これを磨崖と呼んで良いのか?)の地蔵さん。

大円集落の北外れ、棚田の奥に溜池があり、その土手沿いにある斜面を登る廃道脇にポツンと置かれた様に立って居ます。

雑木林の斜面は枯葉を積もるに任せ、何処が廃道やら獣道やら・・・・。

突然三角オニギリ石が現れ、その正面に小さく可愛い地蔵さん。

高さ1mばかしの三角石、前には地表から頭を覗かせた丸石が供台の代わりだったのか・・・・。

もう永年誰も訪れないのか何の形跡もなく、忘れ去られたように佇んでいる。

小さな舟形光背の中、蓮華座に立つ定形地蔵は像高約20cmばかり・・・・。

略式化定形化、おまけにミニチュア化の進んだ江戸期の造立か??

こけし地蔵一歩手前の像容ですが、やっぱり通行人の安全を願って刻まれたものでしょうか??

鄙びた山村の鄙びた地蔵さん。

撮影2011.11.3


豊能町切畑 大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏(再UP)

2013年03月21日 | 石仏:大阪

4~5年前にも紹介した事のある切畑大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏。

今回近くまで行ったので再撮したので写真だけでも再UPです・・・・、しかしまあ再撮しても余り芳しく無い画像ですが。

切畑は豊能町北東部、山懐に抱かれたひなびた山里、この地区にも多くの石仏が集まっています。

この多尊磨崖仏のあるところや深い緑が始まる森の入り口近くにあって、木漏れ日がちらつく最悪の撮影条件でした。

ここはまったく日差しの弱く木漏れ日の射さない日に行かなければいい写真など撮れそうにない。 

高さ約2.5m、幅3mの半球形の石英閃緑岩面に舟形光背を有する阿弥陀像と、二十体の合掌坐像仏とその脇に五輪塔を彫ったものですが風化も進み、ちらつく木漏れ日の中ではなかなか見づらい。

天正二年(1574)の紀銘があって、桃山時代の像立。

しかし訪れる人もほとんどないのか岩の上には枯葉が積もり、ほとんど手付かずで忘れ去られているような状態になっています。

しかし野の仏としての鄙び佇まいは捨てがたい物がある。

撮影2011.11.3


箕面市 上止々呂美(かみとどろみ)の石仏

2013年03月20日 | 石仏:大阪

先日紹介の薬師堂多尊石仏より余野川沿いに少し遡った上止々呂美にある一石六地蔵と多尊石仏です。

集落北端の願生寺は新しく整地された墓地と釈迦堂が建つだけの小さな境内。

その墓地入口にコンクリート製の簡素な掛屋が有り、通常の六体地蔵と共に、この地域でよく見かける多尊石仏や一石六地蔵が安置されている。

中央にキメの荒い花崗岩自然石に刻まれた一石六体地蔵、右手には通常の六体地蔵さん。

下方に大きく図案化された線彫り蓮弁が三体づつの地蔵を載せている。

地蔵はそれぞれの蓮座を持ち個性化の乏しい形式化の進んだ像容、像高約25cm、横1列に錫杖持ち立ち並んでいる。

薄肉のためか風化もかなり進んでいます。

一方多尊石仏は最上段に阿弥陀三尊と思われる三体。

下部は三段に区切り六体づつ計18体の合掌立像を刻み出している。

高さ約110cm、像高約20cmにも満たない様な大きさですが、この地域性を良く表して居ます。

天正十三年(1586)四月廿八日 「逆修衆」の銘が確認され安土桃山時代戦乱期の造立。

撮影2011.11.3


箕面市 下止々呂美(しもとどろみ) 薬師堂多尊石仏/他

2013年03月19日 | 石仏:大阪

能勢の近く豊能町南端と境界を接する箕面市「下止々呂美(しもとどろみ)」の薬師堂境内に有る多尊石仏と地蔵さん。

「止々呂美」と書いて「とどろみ」と読ませる難解地名ですが・・・・轟(とどろき)が訛って「とどろみ」漢字は後々当てはめられた様ですが・・・、所謂轟く谷川淵に出来た集落のようです。

大阪池田方面から京都亀岡方面に抜ける国道423号線は箕面市西端をかすめて流れる余野川に沿うように緑濃い谷間を縫うように遡って行く。

谷間に少し拓けた下止々呂美集落、国道沿いの左手際、小高くなった山裾に薬師堂が建ち、その狭い境内、民家風情の戸口の前に質素な覆屋が在る。

覆屋内には多くの石造物が集められて賑やか。

中央には直ぐそば、豊能地域に多い多尊石仏・・・・高さ1mばかりの舟形花崗岩を三段に分け・・・・、

上部に中尊が大きめの三尊、その下に六尊、最下段にも同じく六尊。

小さいのは殆ど目鼻立ちも怪しい「こけし」状態・・・、それでもローカル色豊かな素朴が嬉しい。

傍らの地蔵尊?長い数珠を合掌した手に掛け、垂らしています。

撮影2011.11.3


豊能町 吉川高代寺 地蔵石仏と一石六体地蔵石仏

2013年03月18日 | 石仏:大阪

豊能町、高代寺への旧参道脇、野の仏としては申し分のない景観の中、地蔵石仏と一石六地蔵石仏が在る。

 北摂山間部の谷間に拓けた豊能郡、能勢町と豊能町は鄙びた景観を今に残す大阪の奥座敷。

そんな豊能町能勢電鉄終着駅の妙見口は、吉川集落への入口でも有り、妙見山への登山口であると共に、高代寺への旧参道への集落。

集落の中程、西側山手に登る高代寺への参道は棚田の脇を抜け、ハイキングや写生に訪れる人も居るほどの景観。

野道山道を辿ること20分ばかり・・・、程よい登りだと思いかけた頃、右手斜面に石積み基壇の上、地蔵石仏が立っている。

高さ1mばかりの花崗岩自然石に深く舟形を彫り沈め、

中に中肉の定形地蔵立像を刻み出している。

単純素朴な像容・・・・石仏としての価値は薄いだろうが?石仏好きにはたまらない風情の中にある。

地蔵の先、少し進むと六体地蔵。

高代寺大墓への入口を示す六体地蔵だと言われている。

高代寺は弘法大師が開闢、霊域が紀州「高野山」に似ており、高野山に代わる寺として名付けられたという由緒正しき古刹。

往時、「源満仲公」の信仰により隆盛を見たようだが・・・、今では鄙びた山寺に成っている。

台形自然石の上部に横長枠を残して彫り沈め、六体地蔵を薄肉で刻み出す。

所謂一石六体地蔵・・・・、しかし風化激しく像容も覚束無い。

右端に銘が在り、江戸前期の慶安二年(1649)「玉手喜兵衛」を願主として吉川村の衆生が造立したと有る。

それにしてもこの参道風情にこの六体地蔵はよく似合います。

撮影2011.11.3


能勢町 今西墓地六地蔵板碑と弥陀一尊板碑

2013年03月17日 | 石仏:大阪

何故にこんな山奥に作らなければ成らなかったのだろう?昼なお薄暗い山中杉林の中。

道の駅能勢栗の里方面から北上して来ると能勢の中心辺り、国道173号線栗巣の交差点を左折、程なく見える岐尼(きね)小学校の先、野面道を斜面に登っていくと山道となり歩くこと10分ばかし・・・・・・。

杉林の山腹に説明板が建つ墓地入口に着く。

向かって左手奥には阿弥陀板碑・・・・・、左手脇には単尊地蔵板碑が六体、土中に突き刺す様に並び立っている。

左手、阿弥陀一尊板碑は花崗岩製の総高約1m、幅約25cm、頂部を山形にし、二段の伏刻をいれた額面としている。

額面下には浅い彫りながら定印の阿弥陀坐像を刻み出し、南北朝時代中期の造立。

<向かって右端旗を持つ地蔵>

六地蔵板碑は高さ約1.2m、幅23cm、同じく頂部を山形にし二重刻みを入れる。

「右志者、為法界衆生、奉造立供養之処也、応安二年酉六月廿四日、道智、如心、敬白」の刻銘が有り、南北朝中期の応安二年(1369)の造立。

右から二番目の地蔵・・・六体共に舟形光背の中、蓮華座に立つ像高約20cm

七世の父母のため道智・如心が造立したと刻む。

右から三番目

道智が自身の逆修供養のため造立したと刻まれている。

右より四体目・・・

「右志者為、先考先妣、奉造立供、養之処也、孝子、如心、敬白」と刻まれる。

五体目・・・

亡き両親のため如心が造立したと有る。

左端には宝珠を掲げる地蔵。

「右志者為、如心逆修、奉造立供、養之処也、如心、敬白」と有り、道智・如心という夫婦が、両親や七世先祖、自身の逆修供養のために造立した六地蔵板碑。

応安二年造立は一体一石六地蔵としては最も古いと言われています。

撮影2011.11.3