愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

生駒市大門町 十三仏磨崖

2012年05月30日 | 石仏:奈良

棚田集落、大門町の北外れ、小さな木立の下の大岩に一寸珍しい十三仏が刻まれている。

<磨崖付近から見た景観>

生駒谷を東大阪枚岡神社北側から暗がり峠を越え南生駒に抜ける国道308号は酷道とも称される急峻狭隘道。

その谷の一つ北の谷に広がる棚田域の中段に有る大門町。

小さな栗の木の下に有る大岩は幅3m高さ2m以上も有る大きな横玉子型をしており、その中央表面に幅60cm、高さ約1mの縦長駒形の彫り込みの中、十三仏尊像三体と種子十体を刻み出す。

中央たて三段には舟形の中、上から順に像高20cmにも満たないほどの虚空蔵・大日・釈迦の座像を刻み出し

左右に其々五体づつの種子を彫り刻み十三仏としていて珍しい。

遠めには何が彫られて居るのか分からない程ですが・・、さすが十三石仏のメッカ、こんな風代わりが在ってもおかしくはない

脇には天正十一年(1583)の銘が有り戦国期最中の造立・・・こんな山中でも不安が一杯だたのだろう・・・・・。

撮影2011.6.5


平群町椣原(しではら) 「勧請の地」薬師笠石仏??

2012年05月29日 | 石仏:奈良

平群町椣原、金勝寺近くの勧請場に祀られている薬師如来笠石仏です。

この場所には何度も訪れていますが脇に立て掛けられた塔婆が自然木を削ったものから板塔婆に変わっています。

もうこの手加工の塔婆を造れる人が居無く成ってしまったのだろうか・・。

金勝寺門前より橋を渡らず滝田川沿いに下れば昼尚暗いような岩場の川淵に有る。

勧請場に出る。

この場所は竜神の棲む場所として畏れられ、神聖化され、毎年勧請縄が掛けられる勧請の場。

 

石仏は自然岩を基壇にした単石仏で唐破風の笠を持つ薬師如来??

総高90cm足らず、像高約60cm、左手に薬壺?宝珠?を持ち右手は肩先で施無畏印を示す。

石仏前の灯籠に薬師如来御宝前と有るところから薬師仏といわれるようですが?頭部を見るとどうも地蔵のそれのようにも見えなくもない。

撮影2006.5.21/2007.2.4


平群町三里(みさと)  岩井井戸の磨崖石仏

2012年05月28日 | 石仏:奈良

弘法大師ゆかりの井戸を見守るように、その縁の岩肌に刻まれた三体の磨崖石仏。

肝心の井戸はすっかり荒れ果て、真っ赤に錆付いたトタンで覆われ、見る影も有りませんが・・・。

<集落入り口辺りには辻の地蔵さん>

近鉄生駒線平群駅の東側、矢田丘陵の西側山裾地域は住宅開発の波から逃れた長閑な集落が点在する。

現在三里と呼ばれるこの辻堂より南側は岩井村と呼ばれ、あの岩の間から湧出す弘法大師ゆかりの井戸が村名由来と成っている。

辻堂から少し山手に進むと念仏寺と言う最近改築された寺があり、その駐車場の横手、道路脇一杯にこの何やとも分からないトタン覆いの井戸が有る。

井戸の奥?はたまた正面の?幅2m足らずの山形岩に方形を彫りこみ、中に二体の如来像刻み出し、上部には月輪のキリ-クとバクの種字を刻んでいる。

良く見れば更に右手、同岩面にもう一尊、更に隅っこに阿弥陀の小石仏。

土砂と枯れ葉に腰から下は埋もれていますが・・、像高約40cm・・・、共に阿弥陀のようにも見えますが??頭上の種字は向かって左が阿弥陀、右は釈迦になっています。

天正九年(1581)の銘が有り、安土桃山期の像立。

追刻だと思われる阿弥陀如来は殆ど半身以上土に埋まってちょっと可愛そうな姿に成っています。

それでも三尊共にしっかりした彫りで中世の気風が感じられます。

撮影2011.6.5


平群町 越木塚(こしきづか)の阿弥陀磨崖仏(筆神さん)

2012年05月27日 | 石仏:奈良

小さくて一寸可愛い磨崖の阿弥陀さん。

新興住宅の建ち並ぶ平群の中心部をほんの少し離れた谷合に有る越木塚集落・・・・、ほんのそこまで開発の波が押し寄せているもののこの地は別世界。

集落の高台に光慶寺があり、その坂道脇斜面に道路拡幅で据え直されたのだろう??、自然石の基壇を設えられ祀られている。

この地は元々村の札場、札場の札が転じて筆となり、仏は転じて神となり・・・・筆神さんと呼ばれ信仰されています。

こじつけのようですが民間信仰とはそうしたもの、石仏の前には今でも毛筆や絵筆が置かれ、その上達を祈念する信仰が今に生きているようです。

筆神さんと呼ばれる小さな阿弥陀磨崖仏は総高60cm足らずの舟形彫りこみの中、像高40cmばかりの中肉彫り阿弥陀如来立像です。

右手施無畏印、左手与願印の小さな阿弥陀さんも筆神さんと呼ばれ苦笑いしてるかも??

その像容や蓮弁からは室町期の像立だと思われます。

 撮影2011.6.5


平群町信貴山 旧道の地蔵磨崖仏

2012年05月26日 | 石仏:奈良

このあたりには大きな地震でも有ったのだろうか??、すっかり山の斜面と一体化して寝そべり、大きい亀裂が入り、断裂してしまった岩肌に刻まれています。

まるで空を見上げるようなその姿、往時この大岩は直立していて道行く人々を見下ろしていたのだろう・・・・。

此処は前回紹介の目洗い地蔵より廃道同然の古道を少し下ったところ・・・、多分こちらが本来の奥の院道かも??

大岩に刻まれた石仏は舟形を彫り沈めた中に立つ地蔵菩薩立像、頭部は大部分を欠損、大きな亀裂も走り良くは解りませんが錫杖宝珠の定形地蔵。

像高約40cm、頭上には深い彫り込みが有り、庇屋の付けられて居た事を窺がわせる。

自然と一体化が進みすっかり忘れ去られているようでした。

撮影2011.6.5


平群町信貴山奥の院道 目洗い地蔵

2012年05月25日 | 石仏:奈良

聖徳太子の創建、毘沙門天王を祀り寅に縁のある神として信仰篤い信貴山、そこから奥の院へいたる旧参詣道沿いに有る石仏です。

車では信貴山フラワーロード信貴畑を東、山道に入っていくと宝青院という寺を越へ、やがて右手斜面に裏寂れた石段が見え、その最上段に付近の景観には似つかわしくないコンクリート製の祠がある。

白く塗り固められたコンクリート壁の奥、岩肌の正面を舟形に彫り沈め、中に蓮台に乗る像高約60cmばかりの阿弥陀立像を厚肉彫りで刻み出す。

舟形掘り込み側面より切石の柱を建て笠石を載せ石龕状にしています・・・・、これなら何のための祠なのかと???、せっかくの風情をぶち壊し。

それでも忘れ去られるよりはずっと良いかもですけど・・・・。

石仏の彫りは深く力強く、良く見れば中々のものに見えます。

通称、目洗い地蔵と呼ばれ信仰篤く、花や香は絶えなさそうですが、付近は昼でも暗いほど緑が濃く、更に無粋な祠と石龕で殆ど真っ暗。

阿弥陀さんは目洗い地蔵と呼ばれ暗い暗い奥の奥、これじゃいくら何でもでも目先も利かないだろうに・・・

撮影2011.6.5


平群町櫟原(いちはら) 峯の腰痛地蔵/櫟原墓地十三仏板碑

2012年05月24日 | 石仏:奈良

前回紹介の「裏の谷」の地蔵磨崖石仏への進入路直下、新しく建てられた地蔵堂に有る石仏です。

擽原や、この付近に点在する集落は、多分あの山腹を縫うように走る信貴フラワーロードが出来るまでは、人里離れた辺鄙な山間集落だったのだろう。

現在千光寺分かれ道の起点よりすぐ、櫟原トンネルを越え左手、山懐に軒を連ねるのが擽原集落、石仏は、その西外れフラワーロード出入りランプ脇に祀られている。

この場所は各集落間を繋ぐ辻に当り、又生活用水や農業用水を集落へと送る用水の守り地蔵としても大切に信仰されてきたようですが、その景観は跡形も無くすっかり無味無臭なコンクリート置き換えられています。

石仏は峯の腰痛地蔵とも呼ばれ、地域の信仰が篤いがひどく痛んでいて御覧の有様・・・・目鼻立ちも解らず舟形光背も上部で大きく欠けています。

像高約85cm、錫杖宝珠の定形地蔵ですが室町中期を下らぬ造立だと云われています。

集落北外れの墓地入り口には、生駒山系域に多い十三仏板碑

墓地内には妙な配置で江戸期の六体地蔵

十三仏板碑は高さ150cmの花崗岩製で山形の頂部を持つ

像高約20cmばかりの十二仏坐像を三列四段に・・・、最上部にはお決まりの虚空蔵菩薩像を置く。

風化磨耗も少ないと思ったら、享保四年(1719)の銘が有り江戸中期の造立でした。

撮影2008.3.8/2011.6.5


平群町擽原峯垣内  「裏の谷」の地蔵磨崖石仏

2012年05月23日 | 石仏:奈良

「裏の谷」と云う響きがぴったり、とても案内なしでは辿りつけなかっただろう磨崖の地蔵さん。

もう此処に何があったかなど完全に覆い隠すような山野に蔽いつくされ、殆ど忘れ去られたように佇む地蔵石仏・・・。

平群谷、櫟原峯垣内の西、かって河内からの古道が通っていたというが・・・・、現在巨岩の前には撮影にも困るほどの足場しかない。

笹薮に隠れた巨岩は高さ約3m、幅約2mの玉子型花崗岩・・・・・、しかし、この前に立つのには相当骨がおれます。

距離は近いが人跡未踏のジャングルのような道なき道を登ったり降りたり、踏み外したりと・・・。

あの辺りとそこに目的地は見えるのですが・・・・尋常には進めない。

その分出遭えた時、少し向こうに姿を確認できた時は・・・・、もうまるで後光がさしているようでした。

磨崖石仏は東向きの岩正面、中央一寸下方に方形龕部を設け、岩肌に線彫りにした大きい蓮弁の上に立つ、定形中肉彫りの地蔵立像です。

方形龕部は高さ約50cm、幅36cm、像高45cm、刻銘は確認されないながら、像容や蓮弁の様式からも鎌倉期の特徴が窺える。

もうこの先この石仏さんがもっと深い緑に埋もれる事は有っても、白日の下に身を晒すことはないのでしょう・・・。

それもそれとして自然のままに受け入れているような気がします。

忘れ去られても、尚更愛しさつのる石仏さん。

撮影2011.6.5


矢田寺 旧参詣道地蔵磨崖石仏

2012年05月22日 | 石仏:奈良

生駒山系東裾、平群谷から矢田丘陵東裾にある矢田寺への、古い参詣道に佇む磨崖の地蔵石仏さん。

通称矢田寺と呼ばれる金剛山寺は、また地蔵信仰のメッカとして広く知られ、多くの石仏も残されている。

金剛山寺本堂の地蔵菩薩は右手に錫杖を持たず、手を肩に上げ来迎印を示し、これを模した地蔵を矢田寺型と称し、所謂古式地蔵とされている。

落ち葉が敷き詰めたように積もる古道は、たまに中高年ハイカーが通るくらいで現在殆ど利用されてなく、道には迷いそうなので要注意です。

椣原(しではら)金勝寺近くより矢田丘陵の旧参道を歩くこと約30分ほど、右手斜面に突き出した苔生した黒っぽい岩塊のこの磨崖石仏に出遭う。

斜面と同じように寝そべった大岩の正面・・・、写真のように垂直な舟形を彫り沈め、下部の深い部分は供台としている。

向かって左手には蓮弁上の月輪の中、根本種字の「ア」を薬研彫りで刻み込んでいる。

磨崖地蔵石仏は像高40cmばかりの錫杖を持たない蓮台上に立つ矢田寺型地蔵立像を厚肉彫りで刻みだし、なぜか少し仰向き加減・・・・。

舟形彫り込み脇、向かって右下壁には小さな合掌坐像・・・・、供養者なのかも??

このような形の磨崖石仏は余り見かけないような・・・。

途中で見かけた地蔵石仏・・・・今は殆ど利用されない無い旧参道、こんな人里離れた石仏さんにも真新しい供花があり、地元の人々の信仰篤さにはただただ敬服。

勿論磨崖石仏にも真新しい供花は有りましたが写真撮影で一寸失礼しました。   

撮影2011.6.5


平群町福貴 ミヤマグチの地蔵石仏

2012年05月21日 | 石仏:奈良

平群町福貴山中、もう耕作しなくなった棚田?、もう通らなくなった旧道、もう拝むことも無くなった石仏さん。

必要の無いものはどんどん忘れ去られ、人の記憶の隅からも消えてしまいそう・・・

今にも笹薮に飲み込まれそうで・・・・、この辺りを当ても無く彷徨い見つけ出すにはとても無理な状況の中に居る石仏さんです。

そんな状況の中、地元の心有る人が刈り取ってくれたのであろうか??この石仏の前は小奇麗になって居ました。

こういう忘れ去られたような風情はとても好きなんですが・・・石仏さん自身はどう思っているのやら??

笹の枯葉で足元がすっかり隠された高さ約1m幅2m・・・・、大部分は濃い緑に苔生した小山状花崗岩に刻まれた、磨崖の地蔵菩薩立像です。

岩の正面を平らに整え、高さ約90cmの舟形を彫り沈め、中に錫杖宝珠、像高66cmの定形地蔵を中肉彫りで刻み出している。

光背には天文二十二年(1553)、室町後期の造立。

もう今のこの時期生い茂る夏草がその姿を既に隠しているかも知れない・・・・・・。

撮影2011.6.5


奈良市 東山霊苑の石仏-2

2012年05月20日 | 石仏:奈良

東山霊苑北西角地にピラミッドのように積み上げた無縁塔が在り、奥の叢の中に忘れ去られた様な三体の石仏が並んでいます。

 

中央には一際大きく見慣れない如来形の石仏さん。

こんな印相は見たことも無いけど・・・、両手を開けて胸の前に置き、頭は螺髪(らほつ)で口は締まり無く開き・・・・、一寸石仏としては戴けないが、体躯は大きく等身大。

向かって右脇には舟形光背を負う像高110cm、右手の指を丸め、冥途への渡し賃を要求してるのか??来迎印阿弥陀立像・・・。

こちらではもっとも多い室町後期の天文二十(1551)年の刻銘入り、こちらもしっかり螺髪(らほつ)着けてます。

傍らには俯き加減で、素知らぬふりの地蔵菩薩立像。

今にむせ返る緑で半身以上隠れてしまいそうです。

撮影2012.5.6


奈良市 東山霊苑の石仏 -1

2012年05月19日 | 石仏:奈良

古い時代の物としては珍しい丸堀の地蔵菩薩立像です。

奈良市内中心街より田原の里へ向かう県道80号線沿い、白毫寺墓地とも言われる大きな奈良市営東山霊苑があり、古い石造物も多く見られる。 

その入り口辺り、県道脇にこの等身大地蔵菩薩が墓守宜しく立ち尽くしている。

総高2m足らず、蓮台に立つ像高約150cm、円形頭光背を負い、右手を下げた与願印と古式地蔵の特徴を示す。

ふっくら丸顔の落ち着いた表情、体躯納衣の表現様式にも古式が見え、鎌倉後期の造立。

少し奥に入った六体地蔵脇には、特徴有るキツネ目の地蔵さん。

足元では小判草がユラユラ揺れて・・・・・、麦秋の野仏風情です。

総高115cm、像高約90cm、光背には、しっかり安土桃山末期、慶長十二年(1607)の銘が確認できる。

口元に笑みをたたえ、静かに微笑んでいるようにも・・・

撮影2007.1.13/2011.5.21


奈良市 鹿野園(ろくやおん)墓地の石仏

2012年05月18日 | 石仏:奈良

かってこの墓地には集落から、悲しい野辺送りの行列が何世代にも渡り続いて来たであろう・・・・。

今はそれも遠い昔、人生の終着点を受け入れ続けたこの地も、今や石造物の残骸を留めるだけの叢と化している。

田原の里から、鉢伏峠を下り山間集落を抜け、狭い山道をひたすら走り抜け、やっと目の前に現れる麓の里が鹿野園の集落。

目の前に迫っている奈良市近郊の住宅開発の波から何とか逃れるように、古い佇まいを見せる集落の北外れにこの古墓がある。

なんとも捨て難いロケーション、こんな場所を見つけるとどうしても立ち寄ってみたくなります。

墓地入り口にある祠の中には大きな地蔵さん。

舟形光背を持ち像高約150cm、細身の体躯で右手錫杖の定形地蔵・・・・すっかり角が取れて何が何やらツンツルテン

全体にノッペラボウのこの姿はどう見ても信仰のせいだけでは無さそう・・、見た感じ永らく川の流れに晒され削られたようにも・・・。

元々墓地地蔵ではなく、近くの川から引き上げて来た物かもと勝手な想像しています。

そんなこんなで、無銘のスマート地蔵さん。

奥の方で遠くを見つめるようにぽつんと立ってる阿弥陀さん。

足元には墓碑や小石仏の残骸が叢に埋もれて一寸哀しい情景です。

頭部で幅の広い舟形光背を持つ右手施無畏印、左手与願印、総高約150cmの阿弥陀立像。

天正八年(1580)の刻銘があり、戦国期安土桃山時代の像立。

傍らにも打ち捨てられたように叢に佇むこんな地蔵さん・・・・、やっぱり同じ時期に造られたものでしょうか??

こんな場所をうろついていると怪しいオッサンに見られますが・・・、写真は盗(撮)ってますけど、何も悪いことはしてませんので念のため。

撮影2012.5.5


奈良市鉢伏町 地蔵磨崖石仏

2012年05月17日 | 石仏:奈良

山の神とも見紛うような、斜面木立の大きな根元に小さな磨崖の地蔵さん。 

前回の鉢伏峠を越えて下り坂、集落の入り口が見え左手に棚田が見え出す辺り・・・

道路際なれど知らなきゃ全くすんなり通り過ぎる・・・、ヒノキの下枝に隠れるようにして小さな地蔵の磨崖石仏

それでもちゃんとお参りは有るのか周りはどこか小綺麗にされています。

石仏は舟形を彫り沈めた中に僅か40cmばかりの地蔵立像。

地蔵は室町後期の特徴を持つ蓮台に立つ定形地蔵。

黒っぽい地衣類がポツポツ邪魔をしていますが像容は良く整っています。

こんなところに隠れられたら一寸見つけられない。

撮影2011.4.17


奈良市鉢伏町 鉢伏峠の地蔵石仏(東金坊地蔵尊)

2012年05月16日 | 石仏:奈良

NET地図でもその存在が確認できる程良く知られた立派な地蔵石仏です。

地元では訛り訛って「とくぼさん」・・・・、一寸訛りすぎやおまへんか??

春日原生林の南谷間をすり抜け登る県道80号線、登りきると「田原の里」須山町。

奈良県ヘリポートのある手前の辻で右折すると鉢伏町から鹿野園(ろくやおん)町へと至る細くて山越えの旧街道。

山越え峠道に入ってすぐ、道路右側に一寸崩れかけたような地蔵堂があり、東金坊地蔵尊が祀られている。

深い庇をつけて暗い堂内は殆ど真っ暗状態・・・、撮影には難儀な状態です。

それでも地元の信仰は篤いらしく、供台にはロウソクやリン、勿論生花は真新しい。

地蔵石仏は、板状に整形した花崗岩の正面、中肉彫りで刻まれた像高184cmの六尺地蔵と呼ばれる立派なものです。

一見、鎌倉期の像立かと思われるような像容ですが・・・・何処と無くなくぎこちない。

しかし、大きさと言い、舟形光背でなく平石に線彫り円頭光の姿もたまりません。

峠の地蔵さんにしては立派過ぎるような・・・・、この道は伊賀赤目から東大寺へと続く「松明調進」の道でもあったとか。

撮影2011.4.17