愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市 誓多林道の笠石仏

2015年01月31日 | 石仏:奈良

 

人知れず、新道の切通道崖上に倒れ掛かるように佇む見事な笠石仏。

 国道389号線大慈仙町から誓多林町へと向かう県道184号線、誓多林峠近く・・・・道路から見えず何の目印もなく辺りを自分の足と目で探す他はない。

多分旧道が石仏の前を通って居たのだろう・・・・

そんな場所にも、今でも信仰は続き「輪締め」に裏白を付けた松飾りが置かれていた。

殆ど斜面に凭れかかり、笠石から落ちた宝珠が斜面に転がって居る。

笠石が立派すぎ、頭でっかちに耐え切れなかったのだろう・・・・。

石仏は総高140cm、身部表面を隅切にした枠を採り深く彫り下げ・・・・

 中に蓮華座に立つ像高73cmの定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出す。

笠石の様式や像容から南北朝期の造立だと考えられている。

こんなにも立派な石仏が茂みに隠れるようにして、人知れず佇むのは・・・・流石奈良の片田舎

撮影2012.7.29


京都府井手町 田村新田(有王新田) 

2015年01月30日 | 街道街並集落 景観 

 

我が山城にあっても知らない人の方が多いだろう??井手町の田村新田集落、・・・その数約10軒にも満たない。

それも、木津川市の飛び地に成ってる枝在所を含めての話。

 

ここは井手町中心、町役場から玉川沿いに山懐を縫い約6km、山を越えた隣町和束町から峠を越えて約8km、まったく地元車以外は走らない府道321号線(府道玉水~和束線)有王山懐に在る。

我が家からもそう遠くなく、時々山越え散歩と洒落込んで歩いて出掛けることもある。

有王山は往古、元弘の変の戦いに破れた後醍醐天皇が笠置山から落ち延び、捕らえられたと伝わる処・・・・しかしこの土地に新田開発がされ、人が住み着くように成ったのはずっと後、戦国時代~江戸初期だと言われて居る。

集落入口、府道からすぐのところにまだ新しそうに見える有王分校・・・・・明治8年創立開校、平成元年に現在の校舎となるも、休校、再開を繰り返し、平成17年より休校中・・・ただしもう再開の見通しは無い。

山里で見掛けた子供は3人・・・麓の学校へはどうして通って居るのだろう??田んぼで遊ぶ姿は無邪気に明るかったが。

山懐の緩やかな斜面の小規模な棚田を前に民家がポツポツと建つ・・・・

土日以外の日に訪れても殆ど誰にも出逢わず、たまに出合う農作業の人に話しかけると、他所から来てるから何も知らないと言われたり・・・。

とにかく集落の人に出逢うことなどありもしないのは、車のおかげで10分も走れば麓に降りられるからみんな昼間は留守がちで勤め人が多いのだろう・・・。

その棚田の脇道を走り、有王山の山懐の峠を越えて約2km、木津川市山城町内に井手町の飛び地、「田村新田」の枝集落が有り・・・。

飛び飛びに民家が4~5軒見える。

この枝集落は、生まれてこの方60年程も、この山城住まいなのだが、この歳に成るまで全く耳にしたこともない。

まさしく今に至るも、隠れ里と言う感が強い。

撮影・・最終2014.11

 


奈良市阪原 北出橋畔「阿弥陀磨崖仏」

2015年01月29日 | 石仏:奈良

先日に同じく「柳生阪原」・・・・集落脇を流れる白砂川淵の大きな岩に刻まれた磨崖仏。

この石仏もその景観の良さと、石仏自身の素晴らしさから、近くを通るたびに何度も足を運んでいる。

集落の入り口に産直の販売所が在り、集落内に入る旧道をしばらく行くと、白砂川に架かる北出橋に差し掛かる。

北出橋の手前右側、白砂川越の岸壁にこの磨崖石仏が見えてくるが、案内板や標識はまったく無いので見逃しかねない。

いかにも、川沿いの長閑な石仏でこの地と好く溶け合って、いかにも野の仏としての雰囲気が素敵な磨崖石仏です。

その昔この石仏の前を柳生への古道が通じていた様・・・・・剣豪たちはこの石仏を前にして何を祈った事だろう。

大きな岸壁の中央部に長方形の枠取をして、その中につぼ型光背を深く彫り窪め、その中に像高91cmの来迎印阿弥陀如来が彫られています。

文和5年(1356)という南北朝時代の年号が入っている来迎印阿弥陀立像。

鄙びた柳生の片田舎にあって、人知れず佇んでいる。

昔のページはここから・・・・・

撮影2013.7.29


柳生坂下 阿弥陀磨崖仏

2015年01月28日 | 石仏:奈良

何度も何度も・・・・・この近くを通るたび、ついつい寄ってしまう棚田の畦の石仏さん。

<画像は新しいけど文は古いものも使っています。>

もう何度この石仏に会いにきたことか、春先、桜のあと、真夏の炎天下・・・。

奈良坂の般若寺から柳生に向かうと、柳生の里ひとつ手前の集落が柳生坂原、大和高原入り口にある鄙びた風情の里山です。

この坂原の地には多くの石仏があって、ファンにとっては何度も訪れたい土地に違いない。

この地の国道369号線南側の白砂川が流れる、田園の1本木立の影にこの石仏がある大きい岩が頭を出している。

崖というようなものでは無く,あぜ道から首をもたげた大きい石、頂上部は苔むして、蔓状植物が覆いこの石に風情を出している。

この石の北面に船形光背を彫りくぼめ、目測約70cmの阿弥陀如来を半肉彫りにしている。

阿弥陀は力強くも無く、技巧的にもさほど上手くも無いし、さほど古くもなさそうだが・・・・・。

しかし、この田園の中のあぜ道、大きくも無い木陰のこの石仏には得も言われぬ魅力がある。

やはり野に置け野の仏、この石仏は、石仏の専門誌に紹介されているわけでもなく、特別な名前が付けられてる訳でもなく、もちろん表示板や案内板があるわけでもありません。

新しく手向けられたような花もなく、農作業の帰り道、農夫が手を合わせて行くぐらい・・・・・。

この景観、この佇まい、なんとも野の石仏の魅力満載と言っても過言ではない。

撮影2012.8.11


天理市長滝町 地蔵寺の不動石仏

2015年01月27日 | 石仏:奈良

 

ちょっと物足りなさを感じる不動さん・・・・きっとそれは尊顔が憤怒相には成ってないからかも・・・・

 

長滝町地蔵寺は天理市街東方の大和高原山中の小さな在所山寺・・・

天理ダムを越す旧国道25号線から分岐して林道を約1km、山中の谷間に約30戸程の長滝集落が甍を並べる。

 

集落奥、高台に小さな境内を持ち、その片隅に寺墓がある。

寺墓の片隅にどうも不自然な不動石仏・・・・・

高さ1m足らずの花崗岩自然石の正面に方形を彫り沈め、像高55cmの不動明王とは思えないほど穏やかな立像を半肉で刻み出している。

しかし何度見ても、不動明王としては物足りない・・・・ひょっとしてそれは僕の固定観念なのかも??

撮影2012.7.8


旧美杉村八知 長楽寺の石仏

2015年01月26日 | 石仏:三重
津市美杉八知、長楽寺で見掛けたいたずら坊主の様な青面金剛の庚申さん。

長楽寺は、2009年台風18号災害により未だにバスでの代行輸送のJR名松線矢知駅を南西に約1km足らず、雲出川左岸の高台に有る曹洞宗の古刹。

寺伝の伝える処に依ると、壬申の乱の時、地元民に助けられた大海人皇子、後の「天武天皇」がその恩に報いて白鳳10年(681)に七堂伽藍建立、七堂伽藍をそなえた長楽寺を贈ったという・・・・・後、この寺は信長の兵火にあって消滅。

その後も焼失が重なり、現在は本堂に薬師堂?を残すのみ・・・・

そんな大伽藍時代を偲ぶように八知の家並を見下ろす高台の長楽寺は「大御堂」とも呼ばれ、地区名にも成っている。

そんな境内で見付けた石仏は「享」の字がよく目立つ江戸後期の青面金剛像。

三猿の上に立ち四臂の簡略型で特筆すべき事もない。

寺墓への入口には大きな自然石を詰んだ石龕(せきがん) が有り、中に小さな二体一石の六体地蔵が並んでいた。

白鳳の大寺も今は田舎の山寺に過ぎない。

撮影2012.6.2

京田辺市 飯岡

2015年01月25日 | 街道街並集落 景観 

僕の散歩コースの一つに成ってる飯岡の在所・・・・我が家から木津川を挟み左岸の少し上流に位置する。

 正式には「飯岡」と書いて「いのおか」と呼ぶそうだが・・・・何が正式やら通称やら。

土地の人やら、周辺の者やらは「いのか」と呼び親しんでいた。

その土地の呼び名より、どこかの役人が付けた名称が正式名称とされる馬鹿らしさには呆れてしまうけど・・・・・

まあ、そんなことはさておき、飯岡は木津川中流左岸、南山城平野の中央部にある孤立丘陵で、木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。

子供の頃、「いのか山」は全部古墳や・・・・・と、教えられて育った程古墳も多く、また、萬葉集にも柿本人麻呂が詠める詩として 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」が有る程に古い土地。

 木津川堤下の田園地帯は全て木津川の氾濫原だったのだろう・・・・。

昔話の一節に・・・笠置峡谷の大岩が大雨の落雷により大小二つに割れ、その大洪水で大岩は流され、一方は当時恭仁京があった瓶原(みかのはら)に流れ着き・・・もう一方は更に下流の田辺まで流れ、離れ離れに成った大岩は互に恋しがり、田辺の岩からは「いのか(山城弁では、帰ろうかの意)」と、叫ぶ声が聞こえ、人々は「いのか」と叫んだ大岩を「飯岡(いのか)」と呼ぶように成った。

その大岩こそ飯岡丘陵、現在でもそのまま地名として残されている壮大な話で、昔から木津川が山をも流しだす暴れ川だった事を想像させる。

集落は丘陵中腹、標高50~60mの緩斜面に石垣を積み軒を連ねている。

集落中央部は、旧い昔のままの在所の形態が現在もそのまま残され・・・・

車での通行不能な細い道が縦横に走りとても他所者が迷わずには歩けない程。

これは集落中央部貫き、車の通る道・・・・落ち着いた景観の家並が続く。

同じく逆方向から眺めて見る・・・・・

この集落ではどこに行っても、道の両側は石垣と・・・

白壁土蔵が一セットに成り、昔のままの集落の形を今に伝えてる。

集落へ登る道と・・・

集落から降りる道・・・・。

そして古墳の斜面は茶畑で覆い尽くされ・・・

あちこちに由緒有りげな石碑や説明板が建って居る。

ここ飯岡(いのか)は木津川と共に有り、僕の散歩道。

この地は一週間に二度ほど散歩するので撮影日の特定はせず。


甲賀市雲井 永仙寺の茅葺き鐘楼

2015年01月24日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る・・・・の鐘は確かこんな茅葺き鐘楼に吊り下げられていた挿絵を見たような記憶が蘇る。

 

信楽から湖東方面に向かう国道307号線を走り、旧そうな在所だと集落内を走っていて目に付いた茅葺き鐘楼。

陶器の町、信楽中央部より約10分足らず、あの信楽高原鉄道雲井駅近くの永仙寺という寺に建っていた。

素通しの四本柱の上に小ぢんまりした入母屋造りの茅葺き屋根・・・・背後に裸木の公孫樹の古木が色を添えてる。

葺き替えられて日も浅いのか美しく整えられた茅葺き屋根に吊り下げられた大鐘は「夕焼け小焼け・・・・・」の唄を彷彿とさせる。

撮影2013.3.23


守山市 赤野井の茅葺き民家-2  

2015年01月23日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

 

昨日に引き続き守山市赤野井に残された茅葺き民家・・・・

 蓮如上人の赤野井西別院や、あの「大庄屋諏訪家屋敷」のある赤野井本体部とは、少し離れた水田地帯に軒を連ねる西地区??。

その集落の中程、重厚な門扉を閉ざす長屋門の奥に茅葺き屋根の妻側が少し覗いてる。

この方向からはとても全容を窺い知る事はできないがかなり大規模な屋敷だということは判る。

こちらから見る限りどうも特殊な屋根の形をしている。

少し横手の空き地に廻ってポイントを見付けたもののこれ以上は無理。

片妻はお入母屋造り、向かって右側妻は大和棟を思わせる落棟が張り出している。

しかし近所の人の話では、もう傷んだ屋根の補修をする人もいないとか??

撮影2014.2.25


守山市 赤野井の茅葺き民家 

2015年01月22日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

同じく守山市、あの大庄屋諏訪家屋敷と同集落に建つ茅葺き民家。

この近くには「もりやま芦刈園」なる水辺公園もあり、その名称から往時はこの辺りが「葦切り場(茅場)」だったことが窺える。

葺き替え葦が足りなかったのか??まだ葺き替えて間もない妻側と正面大屋根の屋根色が少し違ってる。

この家では2シーズン掛けて一屋根葺き替えたのだろう・・・

何処か斑に見えるのは旧い材料も再利用してるからなのか?? 

下屋は補修の手が入り改築されてるようだが・・・一般民家がこうして茅葺き屋根を保存して行かれるのには、ただただ頭の下がる思いがする。

撮影2014.2.25


守山市 川田町の茅葺き民家

2015年01月21日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

守山市の最東端、野洲川左岸に残された茅葺き民家。

先日紹介の野洲市から野洲川を西に越えれば守山市、ここもまた広大な田園地帯に小さな集落が散在する田舎町。

そんな国道151号線から茅葺き民家の屋根がすぐそこに見える。

少し前までは大きな屋敷を構えていたような佇まい・・・・現在周りは自家菜園と成っている。

茅葺き屋根はそのままに、下屋は大きく補修改装されアルミッシュがハマって居たり・・・

 

 

しかしこの辺りも、いたずらアライグマの被害が多いようで茅葺き屋根には大きな穴を空けられている。

こんな事だとますます茅葺き屋根を守って行こうとする気が失せてしまいそう・・・・。

撮影2014.2.25


野洲市 木部の茅葺き民家

2015年01月20日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

先日に同じ野洲市の木部集落で見掛けた茅葺き民家。

あの兵主大社より南へ約1km強、湖岸穀倉地帯の真っ只中に軒を連ねる旧い集落・・・・・そんな集落の東入口近く、三叉路辻の正面に茅葺き屋根が見える。

道路側に妻側を見せ、ブロック塀で目隠しをした一般農家風茅葺民家。

先日の五条集落の茅葺き屋根にウリ二つ、規模は少々小さいが入母屋造りで棧瓦の箱棟終い。

表側に廻ってみると特別な上級農家風でもなし、一昔前には何処にでも有った肩肘張らない軒先風景が懐かしい。

こういう一般農家風民家は最近殆ど見かけなくなり、貴重な存在に成ってしまった。

撮影2014.2.25


野洲市 五条の茅葺き民家

2015年01月19日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

 

近江八幡からの帰り道、国道477号線を走っていて見付けた茅葺き民家。

のどかな田園地帯が広がる野洲市五条の静かな集落、ひときわ際立つ「鎮守の森」の兵主大社にすぐ近く、国道に対して妻向きで建っている。

白壁土蔵と納屋、生垣に囲まれた大きな屋敷に大きな入母屋の茅葺き民家がそびえ建つ。

棟終いは棧瓦の箱棟としてるが、向かって右側破風付近には大きな乱れが認められアライグマでも巣食っているのではないかと心配になる。

僕らが子供の頃には考えられもしなかった事が、現実として目の前にある。

動物は可愛がれと言うけど・・・・猿や鹿、猪、そしてののアライグマなど都会人には可愛い動物であっても・・・・・田舎人にとっては憎き害獣以外の何者でもない。

撮影2014.2.25


近江八幡市 円山町の茅葺き民家-2

2015年01月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

昨日と同じ集落に建つ、大きな茅葺き屋根の本堂を持つ檀那寺

石段を30段程登った少し高い境内に茅葺き本堂と瓦屋根の庫裡がならび建ち、右手山懐には鎮守圓山神社が鎮座する。

 

 つい最近、建物も含め大屋根も補修されたのだろう・・・・・出来立てほやほやで眩いばかり。

 

この寺は集落衆の旦那寺だろうから・・・こういう時、田舎では大変さが身にしみるだろう・・・。

撮影2014.2.25


近江八幡市 円山町の茅葺き民家

2015年01月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

琵琶湖畔、西の湖と琵琶湖をつなぐ水郷端に建つ茅葺き民家。

集落の前を「水郷めぐり」船着場の水路が流れ、春過ぎには豊かに茂る「よしの原」をのんびりと行く和船で楽しむ人も多い。

そんな川岸から眺めると小高い竹藪を背に茅葺き民家と、まだ新しい現代風建物が違和感なく並び建っている。

一般的な農家風入母屋茅葺き屋根、トイレだけは新しくしたのであろうが・・・・・それでも屋内には無く屋外で若者には馴染めない。

少し裏の竹藪へ登っててパチリ、陽裏の欧陽では相当苔生し痛んでる。

若者用の新しい建物が横に建ち・・・・もうこの茅葺き屋根もそれほど永くはないかも??

広い敷地の田舎ゆえに許される贅沢なのだろう・・・・・同敷地内別居で老若二所帯が暮らしてるようです。

撮影2014.2.25