愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

米原市 醒ヶ井の茅葺き民家 小林養鱒場

2015年06月30日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

国道21号線を米原方面から東進、醒井付近でたまたま国道脇になんの前触れもなく茅葺民家が見えた。

醒ヶ井は、清らかな地蔵川の流れに梅花藻が揺れ、そこかしこに懐かしい景観が残されている中山道の宿場町。

その清冽な清水を利用しての養鱒が盛んな処で、この茅葺き民家も家前の生簀で鱒の養殖をしていた。

家の前には「活き鱒」運ぶトラックが停まっている。

ちょうど国道脇ギリギリに生簀が設けられ、覗いてみると鱒がウジャウジャ群れ泳いでいたが、車の騒音など無関係なのかしらん・・??

茅葺き屋根は通常農家風の妻入入母屋造りで、取り立てて言う程変わったところもない。

屋根の手入れは行われてる様に見えるが・・・ここでもアライグマがいたずらするのか屋根の要所要所にはブルーの網戸用網が懸けられている。

今や茅葺き屋根の1番の敵はカラスではなく、もっと手ごわいアライグマと成ってしまった

撮影2015.6.27


彦根市 中山道鳥居本の茅葺き民家

2015年06月29日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

旧中山道鳥居本宿、古い町並に残る唯一の茅葺き民家です。

中山道鳥居本宿は国道8号線で佐和山トンネルを通過、国道の右、山手側に並行して走る旧街道の町並・・・・

その殆ど北端に近い急カーブ正面に「赤玉神教丸」でその名を馳せる有川家の見事な建物があり、その対面、少し向こうに茅葺き屋根の民家が見える。

茅葺き民家は街道筋に妻側を向けて建つ、妻入り入母屋造りの茅葺き民家。

この鳥居本では唯一残された茅葺き民家なのだが、寄る年波には勝てぬと言わんばかりに相当疲れ果てている。

誰か住んでいるのか?はたまた空家なのかは定かでないが、殆ど手入れが出来て無いようで、傷みも激しい・・・

玄関には駒形の板に棒屋跡と書かれていたが??

因みに調べてみると・・・農具等、いわゆる鍬や鎌の棒柄を作ったり、その修理を生業にしていた家らしい。

しかし、この茅葺き屋根も、もう永くはなさそう。

撮影2015.6.27


桜井市 高家(たいえ)の阿弥陀磨崖仏

2015年06月27日 | 石仏:奈良

 

桜井市・高家(たいえ)の山裾に残された磨崖仏です。

明日香八釣から談山神社への旧道に当たる高家集落の南山裾、家並が途切れた辺りに・・・・

斜面から突き出た大岩が有り、その上方に磨崖仏が刻まれ、岩前にはその信仰の証か?石灯籠が建てられている。

磨崖仏は二重光背を彫り沈めた中、定印を組み、蓮座に座する阿弥陀如来坐像を浅く刻み出している。

石仏は小さいながら像容は良く整い、童顔にて眉目秀麗・・・・なかなか腕の良い石工の手に寄るもにだと思われます。

全体の印象からは室町期以前??の様な気がします。

岩肌は斜めに石英が斑に走り、肝心の磨崖仏も見づらく成って居ます

撮影2013.4.14

 


井手町 多賀新田の六体地蔵

2015年06月26日 | 石仏:京都

良い物では有りませんが僕の忘備録のつもりでのUPです。 

 となり村、多賀から山越え道で有王へと向う山道の途上・・・万燈籠山の峠を越えてもう随分有王に近づいた頃、右手に六体石仏の案内板。

その脇道を少し進むとこの六体地蔵に出遇う。

この地は多賀新田として江戸中期に開拓、昭和初期までは集落としての生活の場があったとか??

今では全くその面影は無くこの石仏が杉林にひそりと佇むばかり

石仏は明和7年(1771)の銘が確認されている・・・この付近に集落の墓地があったのだろう・・・

この集落は250年ほど前に開拓され、200年も経たずに地上から消えてしまったのだろう??

撮影2013.3.9

 


長浜市 上八木町の葦葺き民家

2015年06月25日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

湖北からの帰り道たまたま見付けた茅葺き民家。

県道44号線を南下中集落外れの田圃のの中にちょっとイレギュラーな茅葺き民家・・・・

県道から見えたのは裏側で近づくのも裏側からの方が行きやすかった。

入母屋葦葺きの大きな屋根を一部切り取り、棧瓦葺きの二階屋に改造したのだろうか??

隣には白壁土蔵も在って大きな屋敷。

前庭屋敷内には別棟の住まいが建てられ世代間住み分けをされてる様でした。

正面右妻には湖北のスタイルが残されて居た。

撮影2015.5.27


長浜市湖北町 延勝寺の茅葺き民家

2015年06月24日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

見たところ、かなり傷みが酷く、もう抜け殻の様に見えた茅葺き民家。

湖北町延勝寺は賤ヶ岳より湖畔沿いに伸び出した尾根筋が終わる辺り、湖畔穀倉地帯に軒を連ねる農村集落。

集落の湖岸には湖北水鳥公園なる施設も有る様です。

集落内の在所道は狭くその上、民家が密集していて見渡しが悪く、撮影ポイントは見つかりません。

隣家の庭越しに見える大屋根はすでに棟瓦が崩落寸前・・・

1ッ箇所だけ見付けた撮影ポイントからは、まだまだ大丈夫そうにも見える入母屋の茅葺き民家。

もう次の機会は無さそうな気がした・・・・

撮影2015.5.27


笠置町上有市 法明寺薬師堂の茅葺き屋根

2015年06月22日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

笠置に用事が有り出掛けた序に、有市に茅葺き屋根の寺があったことを思い出したので寄ってみた。

もう何年か前にも寄ったのだが・・・当時から相当傷んで居たのであまり期待はしてなかったけど。

笠置山への笠置大橋の信号を越え、トンネルを潜り抜けると、左手山裾に建ち並ぶのが有市の集落。

集落内を行く旧伊賀街道、上有市の村外れに墓地と併存するように、この茅葺き御堂が建っている。

一目見るなりあっと驚くタメゴロウ・・・確か腐れ屋根の様に見えていた茅葺き屋根が完全に息を吹き返し蘇っている。

屋根が葺き替えられたのは未だつい最近の事だろう・・・・小振りだが、寄せ棟葺き下ろしの茅葺き屋根が凛としている。

法明寺「薬師堂」と言う事なのだが無住の戸締めでは傷みも早い事だろう・・・・檀家の人たちも、それ相応の負担を強いられたのだろうと思う。

撮影2015.6.21


京田辺市 大住岡村「来迎寺」脇の地蔵石仏

2015年06月21日 | 石仏:京都

 

 散歩がてらの集落で見掛けた地蔵石仏。

見た感じ、それ程それ程新しいものでは無く、充分中世仏の範疇に入りそうなのでひとまずここにUPしておきます。

京田辺市の北端、大住の岡村集落「来迎寺」のブロック塀に簡素な地蔵堂が有り、その中に安置された地蔵石仏。

 地蔵石仏は舟形光背の頂部を欠損、おまけに蓮台上足元で断裂、痛々しいお姿です。

像高約1m足らず、断裂してるとは言え、古式な二重蓮台に立つ定形地蔵立像。

風化摩耗が進み尊顔も覚付きませんが、にこやかに微笑んでいるようにも見えます。

永らく地中にでも埋まって居たのでしょうか?、赤錆色が染み付いて居ます。

この石仏に関するデーターは何一つ見つかりませんが、少なくとも全体から受ける印象では室町期以前の造立では無いでしょうか??

撮影2013.3.10


奈良市 佐保川地蔵

2015年06月19日 | 石仏:奈良

「佐保川地蔵」の名で呼ばれる、いわゆる大正九年奈良市の佐保川流域上水道工事で出土した石仏群です。

奈良市北端に近い今在家町の路地裏に天棚機姫神社(佐保姫神社)と桜七所明神社、二社の小さな祠の境内地が有り、そのムクロジの古木脇に地蔵堂が建てられ中に多くの石仏が安置、信仰されて居る。

堂内向かって左手入口脇にはこんな地蔵石仏・・・舟形光背を負い、蓮華座に立つ総高150cm程の定形地蔵。

大きな錫杖に大きな宝珠の定形地蔵・・・おそらく全容から室町後期の造立。

永らく金気の水に浸かっていたのか赤錆色が全体に付着している。

正面奥中央には丸彫りの地蔵立像石仏

その脇には丸彫りの地蔵坐像石仏・・・いや地蔵にしては右手の位置がおかしい。

頭部と体部の色が全く違うと言う事は頭部が後補という事なのだろう??・・・一体どんな頭部だったのだろうか??

この坐像石仏などは室町期以前の造立の様な感じがします。

こちらは大和地域で比較的多く見られる特徴を持つキツネ目の地蔵菩薩。

やっぱり錆色に変色している。

同じく阿弥陀だと思われる箱石仏。

この地域にはまだまだいっぱい石仏が埋まっているのかも知れない

撮影2013.3.7 


白毫寺参道前 薬師如来石仏

2015年06月18日 | 石仏:奈良

滅多に見かけない丸彫り立像の薬師如来石仏です。

白毫寺への参道手前、私設駐車場の片隅に掘立て小屋の様な簡素なコンクリートブロックの覆屋があり、その中に祀られて居る。

石塔の四方仏や十二神将の中尊としての薬師如来坐像は良く見かけるが、単尊で尚且つ立像の薬師石仏は殆ど見かけない。

石仏は見慣れぬ方形の二重蓮台に立ち、円頭光をもつ丸彫り立像・・・・しかしなんの解説板もなく詳細は一切不明。

像高およそ120cm程、右手肩先で施無畏印、左手は胸元で薬壺を抱く。

どのようないきさつでここに祀られて居るのか不明ですが、隣には江戸時代中期の庚申塔も同居している。

さりとてこの薬師石仏は、それ程新しいものでは無い。

撮影2013.3.7


奈良市 奈良坂町「西福寺」の石仏

2015年06月17日 | 石仏:奈良

チャリで奈良へ出かける序に寄った奈良坂町「西福寺」の石仏さん達。

奈良街道、奈良坂のちょうど頂上ぐらい、奈良豆比古神社の隣にあるのが西福寺。

西福寺は貞観年間の開創、古い歴史の古刹と伝えられるがだが詳細は不明・・・・・僕は逆だと思っていたが、奈良豆比古神社は西福寺の鎮守社であったと言う。

貞観仏の残る古刹も現在、見る影もなく浄土宗の小さな檀那寺と成っている。

旧奈良街道に面した山門を入り右手の土蔵脇に一列石造物が並べられて居る。

中程には凝灰岩製、高さ約2mの六字名号板碑、慶長14年2月24日造立。

向かって左端には十一面観音菩薩立像。

総高1m足らず、づ上に11面化仏を戴き右手に宝瓶?を抱いて、多分江戸期の造立。

その右手には像高50~60cmの定形地蔵石仏・・・像容蓮台から室町末期の造立。

その脇にも室町期の阿弥陀石仏。

右端には中央の大きい「六字名号板碑」と同高ぐらいの地蔵菩薩立像。

元禄16年の銘が有り、江戸時代中期の造立。

本堂の前には見たことも無い様な八角の石灯篭・・・そもそも石灯篭か??どうかも解らないけど。

撮影2013.3.7


旧高月町 熊野の葦葺き民家

2015年06月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

湖北、高月町熊野に見付けた堂々たる葦葺き民家。

高月町熊野は前面に湖北の水田を、先日と同じく低い山を背にする湖岸よりの小さな集落

近江の民家らしくところどころにベンガラの柱が見える佇まい・・・。

この家は地域の名家なのだろう・・・・赤いポストと郵便マークの看板が門に下げられて居る。

大屋根は最近葺き替えが終わったばかりか??実に凛として清々しい。

妻裏側で落ち棟になっているが平入の湖北型入母屋造り・・・・この家はまだまだ大丈夫そうでした。

撮影2015.5.27


旧木之本町赤尾 西徳寺本堂の茅葺き屋根

2015年06月15日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

旧木之本町最南端にあたる赤尾集落に有る「西徳寺本堂」の大きな茅葺き屋根

賤ヶ岳から琵琶湖沿いに張り出した尾根筋の東山裾にある赤尾の集落。

湖岸からは500mほどしか離れてないのに全く湖畔らしくもなく、背に緑いっぱいの山を抱いてる。

桁行九間、梁間六間の大きな茅葺き本堂・・・本堂は妻側を正面に向けた入母屋造りの妻入り。

記録に拠ると正徳三年(1713)の建築、昭和61年に国の重要文化財に指定されて居る。

小さな集落の檀那寺では茅葺き屋根も殆ど見かけなくなって来ました。

撮影2015.5.27


旧木之本町 古橋の葦葺き民家

2015年06月13日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県
 
湖北、木之本町の山里で見付けた葦葺き民家。
 
木之本地蔵のある木之本中心街より国道303号線を岐阜方面へ、途中右折して紅葉で有名を馳せる「鶏足寺」のある古橋方面へ・・・・
 
 
集落の中心あたりで旧県道281号線方向に向かえば、集落の途切れる辺りでこの葦葺き屋根に出逢う。
 
 
屋根はそれなりに痩せ、ここでもアライグマに巣喰われたのか??妻にはブルーの網が懸けられ、対応に苦慮している様です。
 
 
中二階の急傾斜な入母屋湖北型屋根は、山城や大和で見る茅葺き屋根とは一線を隔し、随分おもむきを異にして僕には新鮮でさえ有る。
 
ここはもう随分湖岸とは離れて居るがやっぱり葦葺き屋根なのだろう・・・
 
撮影2015.6.5

奈良市 下須川墓地の石仏

2015年06月12日 | 石仏:奈良

柳生方面からの帰り道、下須川墓地で見掛けた石仏さんたち。

大和高原や柳生方面から僕の山城までの帰り道は多いが、その都度の気分で色々替えている。

この須川や狭川を通る道は随分遠廻りにはなるが、途中の鄙びた景観がなんとも好きなので幾度となく通っている。

そんな中、集落外れの山斜面に昔ながらの古い墓地らしきものが、ちらっと見えたので立ち寄ってみる。

なんの事はない、入口すぐには近世の舟形六体地蔵・・・・最近弔いでも有ったのか??辻蝋がそれぞれの地蔵の前に立てられている。

六体地蔵脇の簡素な堂には総高1mばかりの「お迎え地蔵」

鏨痕の残る舟形後輩を負い、特色ある蓮座の立つ定形地蔵立像。

像容の特色から室町末期の造立。

墓地内には形式化の進んだ、特徴のある像容の阿弥陀石仏。

来迎印を組む・・・多分江戸初期の像立。

他にも室町期の造立だと思われる箱石仏や・・・

山形板碑石仏などがみられ、古い墓地だということがよく判る。

撮影2013.2.26