愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

普光寺磨崖仏

2010年05月31日 | 石仏:九州

普光寺磨崖仏の在る大分県 豊後大野市朝地町は、あの「荒城の月」の唄で有名な岡城の在る豊後竹田市の隣町で岡城とは直線距離にして凡そ4km、しかし深い山の中ゆえひどく遠回りしなければならない。

豊肥本線朝地駅、南方へ約2.5kmの山中に有って、最近になって道路も整備され、案内看板も所々に立てられ、それほど苦労せずに行き着いた。

さすがに門前まで車は進入できずに約10分ばかり徒歩にて谷を下ったところに山寺の鄙びた山門があり、小さな境内にはまるで申し訳程度の本堂と庫裏が建っていて人の気配は在るものの結構荒果てていて誰に合うでも無い。

普光寺は583年、敏達天皇の時代に日羅によって開山されたと伝えられる真言宗古義派の霊場、平安期には荘司・大野氏によって、また鎌倉期には岡城に居を構えた志賀能郷の庇護により大変な発展を遂げたと言われているが現在では見る影も無く、岩壁の石窟と磨崖仏に往時を偲ぶのみ。

本堂に廻ってみるとピアノ寺という、とんでも無い表示があり、ピアノが置かれていたりして、「ここはどこ、ここはいったい何??」って感じがしないでも無い。

境内から谷を隔てて約100m、向こうの山肌の岩壁に二つの石窟と、不動三尊磨崖仏が見える。

谷を下る道があるので近づいてみようと途中まで歩いてみたが余りの整備の悪さ、荒れようにに諦めざるを得なかった。

岩壁に彫られた不動明王は坐像で、扁平感は否めないながら中肉彫り、豊前豊後の不動明王が殆どそうで在るように、ここでもあの燃盛る憤怒の顔容には成らず、まるで「べそ」でも掻いているような顔つきにみえる。

像高約11.3m、脇侍の制多迦童子と矜褐羅童子は共に像高約5mと巨大で鎌倉時代の像立だといわれている。 

不動明王像の向かって右手に大きな石窟が2箇所並んでおり、右端は懸造りの護摩堂がはめ込むようにして建てられ、高さ3mの多聞天立像が浮彫りとなっているらしい。

真ん中の石窟は近世の磨崖不動三尊像や丸彫りの大日如来像その他が数体安置され居るという。

しかし観光客が殆ど無いからと言って、僕が目にしたところ谷間を埋めるアジサイの説明は有る物の、不動磨崖や二つの石窟の説明板など全く無く、何の案内書なども無いのはちょっといただけない。

撮影2010.5.1


曲石仏 (まがりせきぶつ)他

2010年05月26日 | 石仏:九州

大分川 右岸の丘陵にある大分市立森岡小学校を目指して車を走らせる、小学校の横には小さな駐車スペースがあって、目的地の石窟へは此処から徒歩でこの丘陵を下がることになる。

5~6分も歩くと小さな平地状になっていて、2つの石窟がその岩肌のに口をあけているのに出合う。

向かって右の石窟は、間口3m、奥行7m、高さ6mの大きな石窟で釈迦堂と呼ばれ、窟内は間口3mの入り口から射し込む外光のみの明るさで、写真撮影は勿論ストロボに頼らざるを得ず、また補強の為か、屋根つきの無造作な鉄骨も組まれていたりしてちょっとうんざり。

窟内の中央に像高3mの丸彫り石仏の座像が安置されている、実は丸彫りというものの頭・胸・腰・両膝部というパーツ石材を組み合わせて作ったもので釈迦如来と伝えられている。

石窟内に丸彫りの石仏を刻むという事の技法の難しさと、製作に係わる途方もない時間を短縮させる為の方策なのだろうか?どうしても僕には不自然な石仏に見えるのだが??

石窟の内部壁にも幾つかの小龕が作られていて小石仏が置かれている、また入り口の岩壁には向かい合って等身大の多聞天と持国天の二天を半厚肉彫にしており、個人的にはこの石仏の方により魅力を感じてしまう。

鎌倉時代の作

向かって左の石窟は、高さ2.2m、幅4.9m、奥行3mで、中央に天井からの壁を造り出しその岩肌に像高109cmの阿弥陀三尊像を厚肉彫りにしている。

三尊は共に相当痛んではいるものの中尊阿弥陀像は、二重の蓮華上に座る定印の阿弥陀如来像であり平安末期の作と言われており、この曲石仏のうち一番初期のものだとされています。

当初、この地は曲別府と呼ばれた宇佐神宮の領地であり、宇佐の影響下に造顕された石窟だそうです。

途中の山道脇にも高さ約1.7mの石窟が2つあり、五輪塔、七基連碑の板碑などが彫られています・

撮影2009.12.28


龍岩寺奥院礼堂 木彫仏

2010年05月23日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 
阿弥陀如来像293cm

しかし、見事な仏像彫刻です、奈良や京都のそれとは一線劃していて、かってこの様な木彫物は見たことがない。

楠の一木彫り、所謂丈六坐像でまるで、臼杵の磨崖石仏を思わせるような素木仕上げ 、木目に沿った細かい干割がなければ石仏かと見まごうばかりです。

 

大分県宇佐市院内町字大門の県道から石段を少し登ると奥まった山裾に小さな本堂の龍岩寺があり,訪れる人も少ないようで少し荒れた感じは否めない。住職が?所在無さげに独り留守番をしており拝観料を支払い奥の院礼堂への山登りとなる。

 

山道をを登る事約10分程度か?あの鳥取三朝の投げ入れ堂を思い起こすような、目の前の岩壁にしがみ付くようにこの礼堂が建っていて、本来ならば礼堂直下の一木造りの階(きざはし)と呼ばれる楠の一本造りの階段をよじ登る、それが本来の参道なのだが現在では危険防止のためか?通行禁止になっていて、大きく山肌を迂回して礼堂へと辿りつく。

 

 英彦山系につながるこの一帯は古くから修験道の実践行場だったようで、龍岩寺もそれら修験者たちの道場であったのか?岩窟の奥に阿弥陀如来坐像を中尊とする三体の仏像を安置し、その前面に張り付くような礼堂を設けています。

 

仏像は岩壁と礼堂の間にあり、その中に岩のゴツゴツした巌窟を背や天井にして礼堂より丈が高いかと思われる巨像三体が安置されているが、何故に磨崖石仏では無く、楠の巨木から彫りだした一木彫りの仏像なのかと不思議な気さえする。

 

棟礼に依ると「奉修造岩屋堂一宇」「弘安九年歳次丙戌二月廿六日」とあり、1286年に建立された由、平安時代に造られた様式に倣って鎌倉時代に再建されたものと考えられる。
 
 

 阿弥陀如来坐像を中央に、向って右に薬師如来坐像、左に不動明王坐像と並んでいるが、仏像の前に格子柵の目は細かく少し離れると邪魔になって全体像を見届けることは出来ない。

 
 
格子にレンズを突っ込み撮影してみたが、格子と仏像の間に適当な引きが無く、一体の全体像を捕らえる事もおぼつかなく況してや、三体を同時に写す事は不可能なのでちょっと合成して見ましたが現物のような迫力は出ません。 仏像の構成や配置も独特なもので、中央に阿弥陀があるものの所謂三尊形式の阿弥陀三尊では無く、左:薬師如来、右:不動明王共に丈六坐像を越えるの約3mの巨像で一体一体が単独仏の様でもあり・・・・それでもやっぱりこうして三体1対で完結されているという珍しさです。

 
不動明王像 283cm

仏像の一体一体については専門家ではないので良く説明できないが不動明王などは良く見かける所謂、憤怒相ではなく素人の僕には穏やかな顔容に見える。 こうした、不動明王はこの地豊前、国東の磨崖石仏で見かける不動と共通していて、この地独特の天台修験と民間信仰の複雑な結び付きによるものだろうか??
 

木造薬師如来坐像  303cm

それにしても見事な仏像であることには違いなく、平安時代後期(12世紀)重要文化財。

                                   

     撮影2010.5.2


佐賀県、鵜殿窟磨崖仏  

2010年05月15日 | 石仏:九州

前回紹介の立石観音の程近く、どちらかと言うとこっちがメインですが ・・・、

JR唐津線、相地駅近く南側にある山裾の大きな岩場にこの鵜殿石仏群がひっそりとある。

小さな田舎町で村田英雄記念館もこの町のメイン通りでチラッと見かけた。

入り口ちかくにちゃんと整備された駐車場もあり石窟まではちゃんと整備された階段も用意されていて、いともたやすく辿りつくことができる。

登りつくとやや広い台地状になった広場??境内??があって、前方のおおきな岩場に数多くの石仏が刻まれている。

この鵜殿石仏群は、唐で密教を学んだ空海(弘法大師)が、帰朝した大同元年(806年)この地に立ち寄り、大洞窟内に釈迦、弥陀、観音の三尊を刻まれたのが 始まりと伝えられていますが、其の時代のものは今、此処には存在しなくて、空海の話も確認のしようがありません。

現在建物など、何処にもなく、ただただ大きな磐のところどころにちょっと妙な、地方色豊かで、どこか異国風でもあり、独特な石仏が60体弱残るだけ。

もとは大きな洞窟で、その中には『平等寺』というお寺が建っていて、その寺が天正年間に、佐賀の竜造寺と、植松浦党主波多氏との戦いのときに焼けたので、天井の岩石が落下して、今では全くその面影がなくなっているようです。

 
鵜殿窟磨崖仏の代表的な石仏は、十一面観音とその両脇に配された多聞天と持国天でその異国風な像容から南北朝時代の作と推定されていますが、それにしても独特な容姿で観るものを驚かしてくれます。

此処での主尊は十一面観音、脇侍としての多聞天や持国天の方が格段に大きく何だかなあ~と言う感じがし、全く儀軌にとらわれないつくりにひどく感心、

左、持国天脇にもなにやら奇妙に目玉の飛び出した不動明王にも見える石仏が刻まれていたりする。

因みに十一面観音像  72cm 、左:持国天像 168cm 、右:多聞天像 182cm となっている。

正面最左翼,窓状彫り窪み内小石仏脇には此処での最大石仏である不動明王2.2m立って居るが、どうもパッと見、不動とは見難い。

崩落した岩なのだろう階段を上がって最初に目に付くのがこれ↓

左側の岩には・・・・・・・


 

其の傍らにはなんとも妙な不動明王?写実性に乏しく、ひどくデフォルメされている、これがいったい何処の岩肌だったものなのか??

もう一つの岩には・・ これも不動明王なのか??

歯を食いしばり、目玉の飛び出した形相が怪奇的、土俗的。

横に廻ると、海底が隆起した出来たというこんな岩肌にも・・

裏に廻った岩山にも小石仏が・・、正面は大日如来?

こちらにも不動明王

少し奥に進むとオーバーハングした岩壁には小さな祠や近世の小石仏が祀られて居る

鵜殿山は一種の「極楽浄土」や死後の「仏の世界」に例えられていて、一連の修行は「擬死再生」といわれ、多くの石仏を刻んだ山岳仏教の修行場であったとされています。

鵜殿窟の石仏は写実性に欠け、容姿、姿体はアンバランスにデフォルメされているが、妙に心惹かれるものが残る石仏では有る、

感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉時代末期から室町期と思われる。

撮影2010.4.30


立石観音 (タツイシカンノン) 磨崖仏 

2010年05月10日 | 石仏:九州

此処は解り辛かった、農耕用の軽自動車が1台何とか通れるような野道のドン突きにちょっとした車止めが有って、其処には何の案内板も無く、あやふやに昼なを暗い林の中の小道を進むと朱の鳥居が見えてほっとする。

磨崖参道前、車止めより振り向く・・。

此処は佐賀県唐津市相知町の立石観音、米の山という小高い山の、県道からすると裏山裾に当る巨大な砂岩に三体の磨崖石仏が刻まれている。

岩には粗末な覆屋が掛けられ、磨崖石仏の前には、いつの時代か粗末な基壇が設けられ、中世以降だと思われる丸彫りの地蔵や五輪塔の残欠などが何体も立ち並んでいる。

正面奥壁のハングした岩肌に向かって左から十一面観音、阿弥陀如来、少し間を置いて大きく薬師如来を刻んでいる。

脆い砂岩質の岩肌に地方色濃厚で土俗的な匂いのする三体を薄肉彫りで刻んで居る。

見たところ、左の二体と薬師はどうもアンバランス、像容も違って作者や造立年代が違うような気もしないではない。

合掌する十一面観音??

ちょっと長顔の阿弥陀如来

丸顔な薬師如来

説明板によると左の二体は藤原時代、右の薬師は平安時代末期の造顕となっているがいかがなものか??

土地の人に信仰篤いとは言え、もう暫く人の来た気配が見えず、他所者が近づくには少しおどろおどろしくさえ感じる。

撮影2010.4.30

MAP


緒方宮迫東磨崖仏

2010年05月08日 | 石仏:九州

こちら緒方宮迫東磨崖仏は彩色や石仏の痛みなど、西磨崖石仏に比べ保存状況は良くない。

西磨崖仏と同じ山裾の崖に同じ様に崖から突き出した覆い屋を掛け、崖に石屈を穿ち奥壁に大日如来と伝えられている如来形座像を中尊として右に不動明王立像、左に多聞天を丸彫り近くまで厚肉彫りにして居る。

その左右の側壁に一体は破損しているが、仁王立像の厚肉彫り像が刻まれている。

覆い屋の庇が深く、光の状態が最悪で、影が石像の真ん中を断ち切るような写真しか撮れないのは悔しいけれどいたしかたがない。

間口670cm、高さ約700cm、奥行き約300cmの石窟中央の如来型坐像は、豊後地域ではよく如来形大日と伝えられるものの一つで本当の意味では大日如来ではないかも知れない。

中尊の如来像は 像高265cm、方形の裳懸座に結跏趺坐し、体をぐっと後ろに反らせ右手は胸元につけ左手は掌を上にして膝上に置く。眉・螺髪・口ひげは墨書し、唇・衣紋・肉髻が朱で彩色されているが、其の像容は何処と無く親しみを覚える大らかさがあって森厳さには欠けるような??

向かって右手の持国天立像は像高160cm、頭部の一部が欠落しているが全体には凛々しい、左手の不動明王は像高180cm、持国天立像と同じ作者と思えないほど妙に人なつこい感じがする。

右側仁王の残欠

左手側壁の仁王は上体をひねり、左手を上に上げ躍動感にあふれている、その左側には、二基の磨崖宝塔が刻まれている

所謂三尊形式で、 西磨崖同時期の像立だと考えられている。

撮影2009.12.28

MAP


緒方宮迫西磨崖仏

2010年05月07日 | 石仏:九州

目の覚めるような彩色が残る磨崖石仏、この彩色が原初のもので有るとするなら、これは素晴らしい保存状態で一部補採は有るものの、 仏身や光背の色彩や文様は原初の物が残って居るということで驚きである。

なんでもない豊後の山間の片田舎の集落のなだらかな裏山にある緒方宮迫西磨崖仏、直ぐ近くには緒方宮迫東磨崖仏もあって当時この地には 

何があったのだろうかと興味深々では有るが其の事については何も解らない。

道路わきにそれと解る駐車スペースと道案内看板がが有って見落とす事はない、車を降りて雑木林の小道を暫く登ると急な登り石段、豊前、豊後の神社の特徴でも有るかの様な急階段を登りきると崖から突き出すような覆い屋があり、其の奥崖に大きな石龕を彫りぬき奥壁一杯にこの磨崖石仏が刻まれている。

石仏は基壇、方形の裳懸座(もかけざ)に結跏趺坐(ケッカフザ)した三体の石仏を丸彫りに近い厚肉彫りで刻み出していて、其の鮮やかな彩色と共に迫力あるものになっているが、やや形式的になっていることは否めない。

釈迦如来坐像

 

薬師如来坐像  

 

阿弥陀如来坐像 

右から,阿弥陀如来,釈迦如来,薬師如来、平安後期から鎌倉初期の像立、像高約1.5m

所謂三尊形式ではない如来三尊として知られ、国の史跡に指定されて居る。

撮影2009.12.28

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犬飼不動磨崖仏

2010年05月04日 | 石仏:九州

久住高原を源水域に持ち、別府湾に注ぐ大野川に沿って、国道10号線は、この豊後大野市犬飼の地で、国道326号線と二方向に分岐、目指す犬飼石仏のある

犬飼田原の地は、大野川沿いに走るR 326を暫く進み旧集落へと入っていく。

大きい崖を背に負い、岩肌から差し掛けて建てられた覆い堂が有り、背後の岩肌には「南無大師遍照金剛」と大きく刻まれていて大師の篤さを知ると共に、周りの景観にも捨てがたいものが有る。

大分の神社や寺にはこうした岩から突き出たような建物が多く、それはあたかも石造仏教文化が花開いた土地であることの証でもあるように思われる。

堂内中央には像高3.8mの巨大な不動明王、向かって左のセイタカ童子は1.72m、右のコンガラ童子は1.7m、覆い堂が小さすぎるのか不動明王が大き過ぎるのか?狭い堂内にはかなりの圧迫感がある。

朱の 彩色も残る丸彫りに近い厚肉で、質量的な迫力は感じるが像自身が発する迫力には乏しく感じるのは、岩肌の粗く脆い、阿蘇礫質凝灰岩の性なのか??はたまた時代的背景なのだろうか??

因みに平安時代の様式を模して造られた鎌倉初期の像立だと考えられているようです。

撮影2009.12.28

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