愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

和歌山県橋本市高野口町 嵯峨谷の六地蔵六面石憧

2014年09月28日 | 石仏:その他

我が国最古の六地蔵六面石幢(せきとう)が、先日から紹介の「三谷坂」からそう遠くない場所に在ると言うので序でに訪ねた。

石幢のある橋本市高野口町は「三谷坂」のかつらぎ町からは隣町、「紀ノ川」を挟んで右岸、金剛山系の斜面に拓けた山間棚田集落。

山全体が杉林に変わることなく、秋の終わり色に染められ素晴らしい景観を見せて呉れていた。

集落奥の辻に新しく造られたブロック基壇が設えられ、多分墓地に在ったで有ろう小石仏や石造物が並べられて居る。

その中央にずんぐりむっくり、大きな六角形の傘を持つ身だけの六地蔵六面石憧が安置されて居る。

六地蔵六面石憧は高さ約90cm、幢身は六角柱でその幅約40cm足らず・・・

各面に舟形を彫り沈め、中に蓮座に立つ、像高38cmの六体地蔵を中肉彫りで刻み出す。

正面の錫杖を持つ地蔵立像は、厳しい中に優しさの滲む尊顔は、小さいながら素晴らしい出来栄え。

地蔵側面縁には貞和5年(1349年)の銘が残され南北朝時代の造立。

惜しいかな、それ以下の側面は欠落しています。

我が国最古の六地蔵石仏も、日の当たらない裏側日陰部分は地衣類の繁殖が酷く、気の毒な程でした。

撮影2012.11.25


和歌山県かつらぎ町 三谷坂の頬切(ほ きれ)地蔵(

2014年09月26日 | 石仏:その他

日本ではこれだけ、他には類例を見ることさえ出来ない石造物だそうですが・・・・、地元では三谷坂の頬切(ほ きれ)地蔵と呼ばれて居ます。

ひとめ見ると誰でも判る様に単なる地蔵石仏では有りません。

前回紹介の笠石より三谷坂参詣古道を更に40分ほど登りり詰めた奥、今は杉山と化した山道わきに看板が建ち・・・

杉林に囲まれる様に粗末な覆屋が懸けられ、見慣れない形態の磨崖仏が地中から顔を覗かせて居る。

写真でも判る様に磨崖の石仏は三体・・・

地中から顔を出した細長い島状自然石の前部三面に一尊ずつ配され、上部を屋根形の笠に整形加工、上部には欠損したのか?本来の宝珠の代わりに小型五輪塔の水輪が載せられている。

因みに地中より掘り出した??自然石は奥行2.23m、幅1.17m、高さ65cmの緑色片岩。

石は北側を正面に南北に横たわり、北面正面に中尊として大日如来・・・・

向かって左手東面には釈迦如来・・・

向かって右手西面には阿弥陀如来の三尊・・・・所謂、塔身に三尊を配した磨崖一重塔の形態をとっている。

主尊、北面の金剛界大日如来は・・・・・

荒く鏨痕の残る北面に薄い二重円光背を負い大きい蓮座に結跏趺坐。

像高約40cm足らずだが豊かな力量が感じられる。

右上部、笠石部分から伸びた石の割れ目が頬部を貫いて居る事から頬切(ほ きれ)地蔵の名で呼ばれて居る。

 東面、釈迦如来坐像

もちろん主尊に良く似た像容で殆ど同じ法量を持つ。

こちら西面の阿弥陀如来坐像。

三如来はいずれも、大きく刻出した蓮弁に座し、薄肉彫の二重円光の中、ふくよかな尊顔と衣文の尊像を造り出している。

また、石仏だけでなくその頭上に作り出された笠の形態も極めて古式なもので、高さは低く左右によくのび、屋根の流れや隅の降り棟の曲線はおおらかで、鎌倉時代初期の造立と推定される。

自然の磐座を利用した丸彫りの一重塔は他に類例が無く、極めて貴重な遺物であり、金剛界大日如来が阿弥陀如来と釈迦如来の二如来を従えて、この世に現れた姿を表現したのではないかと推定されている。

撮影2012.11.25


和歌山県かつらぎ町 三谷坂の笠石(笠石仏)

2014年09月25日 | 石仏:その他

石友さんに連れられヘコヘコ登った三谷坂の「一本足の案山子」じゃなく「笠石仏」 

秋も終わりに近い11月の週末、和歌山県紀ノ川流域かつらぎ町三谷、公孫樹の大木が色づく「丹生酒殿神社」脇、天野大社参道の石柱がある道をひたすら登る。

一気に高度を上げていく高野山系斜面道、途中から見る山肌は段畑に開墾され、見事な果樹園が広がり 、彼方には紀ノ川の流れが臨める。

この道三谷坂は、高野山参詣道の一つ、丹生都比売神社」の神主や勅使が通った「勅使坂」とも呼ばれる古道です。

古道入口よりのんびり登って20分弱、なだらかな果樹園の連なる尾根道沿い、狭い空き地に山茶花の木立を背負うように、まるで、割り箸の先に輪切りの大根を突き刺したような笠塔婆が目にとまります。

「笠石」の名で呼ばれるこの笠塔婆には実しやかな「昔噺」もあり・・・・弘法大師が高野山への道中、かぶっていた編笠が風に飛ばされたところ、この石に引っ掛かって居たことから「笠石」と呼ばれる様になったとか??

時代も合わないし何の説明にも成って無い他愛もない昔噺ですが・・・昔の人は弘法大師というだけでもありがたく納得したのでしょう・・・。

石造美術の分類では所謂「笠塔婆」と呼ばれるもので緑泥片岩の高さ約130cm、幅15cm程の石柱上端に、幅70cm程の板石状笠石を突き刺す特異な形と成って居る。

笠石直下の塔身上部には、舟形に削り出した中、蓮弁に座し定印を組む、像高約15cmの阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出している。

初源的な木製時代の卒塔婆の名残を留めた特異な形態で、南北朝期の造立だと考えられている。

ここから見る晩秋の山麓集落の景観は、感動さえ覚え程の素晴らしさでした。

撮影2012.11.25


新潟県佐渡市宿根木(しゅくねぎ) 岩屋山磨崖仏

2012年10月05日 | 石仏:その他

今回の旅でどうしても足を伸ばしておきたかった佐渡島にある磨崖石仏です。

東北裏日本の取っ掛かり、新潟に行ったら必ず寄ろうとしていた佐渡島、予想以上に大きく思ってたよりは活気にあふれた島でした。

出かける前に島での移動手段のレンタカーを予約、前日には長岡に宿を取り、郊外の寺泊港より高速船で約1時間佐渡島南部の赤泊港に到着。

頼んでおいたレンタカーにて海沿い道を約1時間、島南端部の宿根木(しゅくねぎ)集落に入る。

宿根木は、佐渡金山繁栄期の江戸寛文期(1661~1678)に回船業の集落として発展した「千石船と船大工の里」、入り江の狭い地形に家屋が密集する町並みは独特な景観を残し、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

県道45号線が宿根木集落にぶち当たる少し手前、道路脇にそれと解る案内板がありその通り右折山側に走れば直ぐに斜面へと延びる参道の前に着く。

竹藪と杉木立に囲まれた石段の参道を10分足らず・・・・、目の前に曰く有りげな木組みを掛けられた洞窟が口を開け、入口近くには四国八十八ヶ所の小石仏が並べられ、ここは今でも信仰篤い場所だと知らされる。

多分、山門に当たる木組みを潜ると・・・

左手壁面には岩面を階段状に穿ち、小石仏がところ狭しと並び建てられ怪しい雰囲気を醸し出しています。

窟内に庇をを掛け、岩谷堂として現在も篤い信仰の中にあり、中央には囲炉裏が切られ真新しい燃えカスも残っていた。

暗い堂内はその煤のおかげで尚更暗く、奥壁などは真っ暗闇で何も見えないほど。

向かって左壁面には柱が立ち須弥壇が設けられ、その奥壁に三体の如来形だと思われる磨崖仏。

これらの像を地元では弘法大師の作と伝えているが・・・・、像高約1、5m、全て坐像ですが周りが暗いのと、煤がこびり付いて殆ど何が何やら状態。

中央は結跏趺坐した定印の阿弥陀坐像の様に見えます。

凝灰岩の軟岩で風化摩耗が激しく、おまけに煤だらけ。

向かって右側にはやっぱり両手を膝の上に置いたこんな石仏。

中央のものより1段と風化摩耗が激しく如来形だとさえ確定できない有様ですが、肩張り肘張には力が強さが感じ取れます。

この2体はどう枠内に有って対をなして居る様に見えます。

向かって左手には別枠で仕切ったようなこんな石仏。

やっぱり膝の上に両手を置いて居ますが何様やら??

庇屋内右側壁、高さ約2mの突き出した岩を彫り窪めた中に像高約70cm、中肉彫りで、二体の地蔵坐像だとされる磨崖仏。

右側は両手を膝に置き宝珠を持っているようにも見える・・・・。

一方左手の像は右手に錫杖、左手に宝珠を持ち椅座しているようにも見えるが・・・、どうも地蔵だとは俄には信じがたいような像容です。

それにしても額の絆創膏(ばんそうこう)でも貼ったかの様に見える白いものが気にかかる。

こちらも体躯にそれなりの力強さが感じられ室町期以前の息吹が感じられる。

撮影2012.9.14


上越市浦川原区 法定寺石仏群/他

2012年10月04日 | 石仏:その他

上越市東部山懐の浦川原区に法定寺と言う寒村が有り、おそらくその地名の元となった古刹「法定寺」に一種独特な古石仏が集められている。

集落外れの法定寺は無住に成って何年経つのか??杉木立の山間、夏草に埋もれる様に建ち、まったくの手付かずで今にも山林に飲み込まれそうな有様でした。

草茫茫の境内には敗れ果てた庫裡と本堂、その脇には蔵のような建物と鐘楼・・・・・、石仏群はこの蔵のような建物の中、見るも無残な放ったらかし状態で置かれて居ました。

正面はアルミサッシのガラス戸、格子は無いもののしっかり施錠されガラス越しの撮影しかできません。

長らく誰ひとり足を踏み入れた形跡もなく、その荒れ様には目を覆うばかりです。 

頭部だけのものが5~6体、あとはずんぐりむっくりの丸掘り石仏が10体程、まるで打ち捨てられたように板床に転がっていました。

この地域では平安の昔から存続してきたといわれる「雨降り地蔵信仰」が有り、この石仏もその雨乞い石仏達だと言われています。

板の間中央一番奥にあるのが石仏群の本尊とされる阿弥陀石仏、像高約1.3m、肩先から下部に断裂しているように見えるのは寄木工法で造られているからだそうです。

因に定印を持つ阿弥陀如来で妙高関山のものと同様、胴から下部は有りません。

首だけを別石の台石に置かれた如来形頭部・・・・素朴で童顔、平安末期の造立だとされる。

やけに丸味をを帯びた丸掘り石仏が多いのですが、右下部の様な妙ちくりんな石仏も見えます。

単に石仏と言うよりもっと土俗臭いものを感じさせられます。

一方こちらは集落入口近くで見かけた沖見地蔵尊と書かれた石仏。

ふっくらまん丸ボディーの丸彫り石仏・・・・真っ赤な涎掛けに雪国独特の真っ赤な巾着帽??おまけに胴には太いロープが巻かれています。

左脇には同じような小石仏と右手には石柱に乗せられた如来形仏頭石。

最早目鼻立ちもはっきりしませんが両手は膝の上で定印を組む阿弥陀石仏のようです。

達磨さんに縄でも掛けたようなその姿は「雨降り地蔵」の名残でしょうか??それとも現在でも続けられているのでしょうか?

因に「雨降り地蔵」とは旱魃になると石仏を荒縄でしばり、何度も池へ投込んでは引き上げ、雨乞いのお祈りをする農耕儀礼に使われた石仏の事でこの地域には多く残っている。 

撮影2012.9.13


上越市三和区水吉 堂百石造仏頭

2012年10月03日 | 石仏:その他

「生け込み石仏」群のある妙高関山神社から北東方面に約30km、上越の海岸線から伸びた平野部がちょうど山裾にぶち当たる三和地区水吉にある石造仏頭です。 

<付近の景観>

水吉集落の南外れ、東部山裾に堂百地蔵宮と呼ぶ簡素な堂が有り、地元では「首切地蔵」と呼ばれる3体の?石造仏頭が祀られている。

お堂は最近改修されたらしく真新しい外観で正面はガラス張りの格子戸にしっかり鍵をかけら何とも撮影しづらい状況でした。

往古この地は東大寺荘園地でも有り近くには古墳群もある古い土地、またこの堂百という地名にも古いこの地の歴史が偲ばれる。

仏頭だけが3体も並ぶちょっと異常な堂内ですが・・・・・・。

ガラス越しに撮影した中央の仏頭は丸彫りで高さ73cm、頂部螺髪部が半欠損、鼻先も欠けているものの気魄に満ちた若々しい顔容。

73cmと言う数字だけでは小さそうですがそれが頭部だけなので結構立派で大きいものです。

頚部にはほぞ穴が穿たれ諏訪「万治の石仏」を思い起こしたりする。

如来形には違いないのですが体躯は無く、良くは解りませんが掲示板には阿弥陀如来、鎌倉期の造立とあります。

向かって左手には頭部宝冠に阿弥陀の化仏を戴いた高さ71cmの 観音菩薩頭部。

石材は近くから採出される大光寺石と言われる軟質の凝灰岩で、これら二体は近くの新田開拓の折掘り出されたと言う。

いずれにしても体躯は失われている。

右手にはまるでタコ坊主の様な地蔵の頭部、殆ど石塊になってしまって、額に開けられた白毫穴だけが目立ちます。

高さ55cm、この地蔵頭部は水吉地蔵屋敷から移されたものだそうですが・・・・それがどこに在るのやら??

何れにしても現在では頭部だけですが木彫仏の寄木工法と同様に造られていたものだと考えられている。

三体共に鎌倉期の造立、新潟県の文化財に指定されている。

撮影2012.9.13


新潟県妙高市関山 関山神社付近の石仏‐2

2012年10月02日 | 石仏:その他

関山「生え抜き石仏」の中では最大だと言われる一体。

因にこれは仲町一号石仏と呼ばれ、他の関山石仏と同じく妙高石と呼ぶ軟質凝灰岩の丸掘り石仏。

神社正面鳥居より約100mも南に歩いた畑の中、弥勒菩薩と書かれた簡素なコンクリートブロックの覆屋に祀られています。

関西では見かける事のない真っ赤な巾着帽と、どこでも見かける真っ赤な涎掛けを掛けられ、今にも地中から全身を現しそうな胸から上だけの石仏さん。

いつもの様にちょっと失礼・・・。

重量感が有り頭部だけでも相当な大きさが有るのですが像高約1.5m、なにせ胸から下部は有りません。

右手は地上すれすれでの施無畏印、左手は悲しいかな肩から下部を体部と共に欠損。

荒削りながらパワーを感じる顔付きです。

ここより少し南に歩いた個人の畑地には、崩れかけた覆い屋の下、三体の「生え抜き石仏」

関山神社境内のものと殆ど同じ、右端の石仏などは最早突起のある石塊と化し、石仏やら狛犬やら・・・・。

こうして数多くの関山「生え抜き石仏」を見てくると仏教以前の原始信仰につながる石の原点を感じる。

中央の仏教美術とは一線を画した庶民信仰の息吹すら感じ取れます。

もともと妙高堂奥の院の有った妙高山頂までは、ここから直線で約15kmと遥かに遠いが・・・・。

撮影2012.9.13


新潟県妙高市関山 関山神社付近の石仏/他

2012年10月01日 | 石仏:その他

関山神社近くの集落内にも神社境内の「いけ込み式」石仏と同じ形態の石仏が3ヶ所に分れ祀られている。

これらは集落の道路脇や畑の中に覆い屋をかけられ祀られ、神社境内のものと違って誰でも真近まで近づくことが出来る。

一箇所は神社正面の道路を少し南に行った民家脇の覆い屋に二体のまるで地中から這い出ようとしてるかの様な石仏さん。

向かって左側には像高約1m 、まるで猿の惑星からでも来たような様相のずんぐりむっくりな石仏さん。

向かって右手は面相のしっかりした如来型石仏。

左手の石仏は右手が欠落・・、顔容も定かではないが素朴でローカル色豊かです。

右手の石仏は高い肉髻(にくけい)を持ち、右手は肩先で大きく施無畏印。

正面から見ればこんな感じでやっぱり朴訥な石仏です。

素人彫りにしては手馴れた感じもしないでは有りません。

こちら、少し離れた神社脇空き地の小さなお堂に祀られている仏足石。

高さ約2mの自然石中央に釈迦の足裏を刻んだ仏足、左脇には舎利塔、右脇には佛の指紋だという「仏手華判」を刻みつけている。

因に、この様に三種を同一面に刻み付けた仏足石は皆無で大変珍しく、奈良薬師寺の仏足石に次ぐ古いものだそうです。

撮影2012.9.13


新潟県妙高市関山 関山神社石仏群

2012年09月30日 | 石仏:その他

昨日紹介した福島南相馬小高の磨崖は別として今回の旅で最初に出会った石仏さん。

新潟県と長野県の県境近く、妙高山の麓、関燕スキーゲレンデへの進入路近くに位置する関山神社境内に安置された石仏群です。

上信越道妙高ICを出て南に約2km、関山集落の奥に鎮座する関山神社は今でこそ神社の形態を取るが、かって関山大権現とも呼ばれた仏教色の強い山岳修行道場として栄えた。

勿論佛の山「妙高山」の里宮としての性格が強く今でも聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩、文珠菩薩の三体を祀っている。

そんな境内の片隅に妙高堂と呼ばれる阿弥陀如来を祀るお堂が有り、その脇に覆屋を設けて一種独特な素朴さを持つ石仏が25体並べられ新潟県の文化財に指定されている。

石仏はこの地域独特な姿の丸掘り仏でそれぞれに赤い涎掛けを付けられ腰から下は無く、地中から生え抜いたような形で、その像容も飾りけを極端に廃した単純素朴な感じを強く受ける。

その石仏達は殆どが像高70~80cm、ずっくりむっくりの体躯に頭でっかち、どちらかと言うとあのアニメ漫画の天才バカボン似が多い。

この地はかって佛の山「妙高山」への参拝道入口、参拝道の傍ら、丁石代わりに置かれて居た石仏がここに集められたようです。

頭部に大きな肉髻(にくけい)を戴き右手は胸元で施無畏印、左手は腰元に下げ一般的には弥勒仏だと言われている。

素朴で朴訥に見え、その下部のない像容から「いけ込み式」石仏と呼ばれているが、後々足が生えて世の中は平和になるというような願いを込め、わざと膝までしか彫らなかったということのようです。

平安時代後期から鎌倉期にかけて庶民信者に依って彫られたものだと言われています。

地方色豊かな石仏達です。

撮影2012.9.13


福井県南越前町二ツ屋(ふたつや) 地蔵石仏/他

2012年03月31日 | 石仏:その他

この奥二ツ屋のすっかり寂れた日吉神社へ巨樹の撮影に来て偶々お目に懸かった石仏さんです。

敦賀湾より北陸自動車道がトンネルで抜ける今庄までを旧国鉄北陸線の軌道上に造られ、深い山中を峠道で抜ける県道207号線沿いの南越前町二ツ屋集落

集落のずっと奥、今は離村してしまったかっての二ツ屋集落跡地、墓場入り口と思しき道路脇に立っていた石仏さんです。

高さ1.5mばかしの舟形状自然石の表面を整形、大きく拙い蓮弁を線彫りで表し、その上部に舟形を彫下げ、像高60cmばかりの合掌地蔵菩薩立像を中肉で刻み出している。

形式化、意匠化してこじんまりまとまった衣文、顔容も穏やかで文政六年銘を持つ江戸後期の石仏ながら、この素朴な感じは景観と共に捨て難い。

集落への入り口県道207号線新道交差点辺りで見かけた地蔵堂には・・・・

像高1mばかしの錫杖宝珠の定形地蔵・・・・、永らく近くで寝ていたものを起こして来たとか??

まあ近世のものでしょうが全く傷みも無く良く出来た石仏さんでした。

こんな雪深い越前山中の小さな集落でこうした石仏さんに出遭えるなど思いもよらなかったけど。

その昔この道筋は越前から近江に抜ける冬には行くに帰るに・・・・豪雪の道。

撮影2009.11.7


愛知県豊田市 押井の磨崖石仏

2011年11月17日 | 石仏:その他

ひょんな所でひょんな物にお遭いしましたという感じの磨崖の石仏さん。

此処は愛知県といえども岐阜県恵那市に近い山又山の谷筋にある豊田市押井町を走りぬける県道490号線沿い。

谷間の集落に入る峠道、大きな欅が根元の岩を噛む様に聳え、その岩肌に1m足らずの舟形光背を2つ並列させ二尊を中肉彫りで刻み出している。

その昔ここは街道筋の休憩所でもあり、村内の安寧を祈った場所でもあったのだろう??役の行者像や六字名号碑も建っている。

向かって左手には像高約70cm程の錫杖を持つ穏やかな地蔵菩薩立像、右手には像容がはっきりしないものの倶利迦羅不動

像間には文久三年(1863)の銘が刻まれ 、今から150年ほど前の幕末期の像立。

それにしても、こんな山深い愛知の山中で磨崖の石仏さんに出遭とは思ってもいなかった。

因みに愛知での磨崖石仏は二体だけだという。

撮影2009.5.23


長野県下諏訪町 万治の石仏

2011年05月05日 | 石仏:その他

もう何十年も前に何かの写真集??で強烈な印象を受けた石仏さんです。

なんと言うか・・・。大岩自体を体躯にみたて、別石で頭部を造り臍穴で繋ぐというユニークさ・・・。

それまでにこんな石仏は見たことないし、なんと云っても岩全体を体躯として捉えた姿に強いインパクトを感じないわけにはいかない。

長野県下諏訪町、諏訪大社下社春宮の砥川対岸を5分ほど遡ったところ、近年造成されたであろう住宅地を見上げる丘陵裾の僅かな農地の空き地にその石仏が在る。

あの岡本太郎や新田次郎などが賞賛したことにより有名になったようだが最近(もう随分前か??)では首の伸びる石仏としてもTVで取り上げられ一躍パワースポットとしても名を馳せた。

何のことはない臍穴に溜まった雨水が冬季凍ることによって頭部が持ちあげられただけのことだが・・・・。

最近ではすっかり整備、観光地化され旗や幟の喧伝も激しく、野の仏のイメージは失われているが・・・・・・。

体躯、頭部の彫りは稚拙で単純、一流の石工の手になったとは思えないが、そのぶんローカル色豊かな素朴さと、この石仏を刻んだ思いのようなものが強く伝わって来る。

高さ2.7m、奥行き約6m、正面から見ると半球形の自然石に落ち込んだ目に団子鼻の頭部をちょこんと載せて異型石仏といえば確かに異型。

体躯左脇には大きく南無阿弥陀仏と刻み、「万治三年(1660年・江戸初期)十一月一日」その下に「願主 明誉浄光 心誉広春」の銘を入れている。

日本では異型異型とよく言われるが、お隣、韓国の石仏では何度か見た形態で、それがこの江戸時代初期にも伝わっていたのかは定かではないけど・・・

万治の石仏は上品上生定印の阿弥陀磨崖石仏、異型と云うよりあえて別石で頭部を造るという方法を選んだのは何故だったのだろう??

この石に一石で石仏を刻む方法は他にいくらでもあっただろうに??

撮影2009.4.30


福井県 朝倉氏遺跡義景(よしかげ)墓所 不動明王石仏

2011年05月04日 | 石仏:その他

一乗谷朝倉氏遺跡の中心部を成す朝倉館跡は五代百年にわたって越前を実力支配した最後の当主朝倉義景の館跡でその東南隅に墓地がある。

織田信長との戦いに敗れ滅ぼされたが、当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれ、館跡の寺と墓は義景の法名をとって「松雲院」として残されることとなりました。

現在一乗谷朝倉氏遺跡の景観を代表する景観として取り上げられる唐門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門の様です。

栄華盛衰、さしも権勢を誇った朝倉氏も長続きはしなかった・・・

そんな墓所横に立つ不動明王石仏・・・・墓所横に現世利益の不動明王は一寸違う気がするけど???

多分近くから発掘されたものだろうが・・・

像容はこれまで紹介した一乗谷石仏より単純にみえるが、眼光の鋭さでは劣らない。

近くにはこんな石仏も・・・、これは大黒天??

不思議なところです・・・。

 

帰りがけに邸内より見たから唐門も中々どうして良いものでした。

撮影2008.4.27


福井市 一乗谷盛源寺(せいげんじ)の石仏群

2011年05月02日 | 石仏:その他

西山光照寺が 一乗谷朝倉遺跡の入り口付近に有るのに対し、盛源寺はその背後を固めるように一乗谷の最奥山裾にある天台宗真盛派の寺院、宗派祖「真盛上人」によって建立されたといわれている。

現在の盛源寺は鄙びた谷筋の一乗集落山裾に有る無住の荒れ寺、その参道や境内に打ち捨てられたように居並ぶ石仏と景観に惹かれて訪れる人も多い。

そう長くもない参道脇の山裾には傷みの激しい石仏が無残にも崩れ果て立ち並んでいる。

その数約200体以上とも・・・・盛源寺全体では700体??にも及ぶ石仏が残されているとか・・・・・・、

<阿弥陀如来坐像(室町時代)>

莫大な量の涙を湛えた薄緑色の笏谷石(しゃくだにいし)の石仏さんたち。

顔を削り落とされた地蔵菩薩立像。

こんな無残な石仏さんも・・・ 

こちら十一面観音石仏と隣には首をなくした阿弥陀石仏・・

十一面観音の横顔は僕の思い込みが強いのか??何と無く物悲しげ・・・・

六層屋根の層塔を奥に破壊あとの激しい阿弥陀如来、此処にも首なし阿弥陀

向かって左側、磨崖板碑??その前には・・

無残な姿のこれは多分〇〇観音石仏さん・・

こちらは阿弥陀でしょうか・・。

奥には完体に近い大型地蔵、不動明王、他に二体。

中でも総高約2.7mの地蔵菩薩立像は天文六年(1537)の銘を持ち、大きな月輪を持つ光背を背負う。

月輪内には阿弥陀な種子のキリークを刻み、光背に六個の月輪を陽刻し、六尊の種子を刻みだす。

厚肉彫りで刻み出した地蔵菩薩は写実性に冨、精細な表現で生身の温もりまでが伝わってきそう・・・・

眉間には大きな白毫の穴・・

傍らに立つ不動明王立像石仏は弘治二年(1556)の銘を持ち、高さ 約2.2m

火焔光背を背にに丸彫りに近い厚肉彫りで憤怒相だが、鼻先の痛みで少し顔容が崩れて、カラス天狗のような顔付きに見えない事はない。

向かって右には顔をなくした阿弥陀二体と毘沙門天立像が立っている。

ここでもてんこ盛り、これだけ一気はやっぱり消化不良・・・。

撮影2008.4.27


福井 西山光照寺跡石仏群

2011年05月01日 | 石仏:その他

西山光照寺あの戦国大名朝倉氏の城下町、一乗谷朝倉氏遺跡のすぐ入り口辺りに有った天台宗真盛派の寺院、織田信長の朝倉攻めにより城下町もろともに灰燼と化し、昭和後期の発掘調査まで約400年間は地中に埋もれていたらしい??。

北陸自動車の福井ICから九頭竜川支流の足羽川に沿って約5km程遡った足羽川西岸、山裾の野道を奥めた田園真っ只中に西山光照寺跡が在り・・・・

その空池を取り巻くように建てられた覆屋に大型石仏約40体が整備保存されている。

因みに西山光照寺の所属した天台宗真盛派は真盛上人によって一派を成し,石仏を多く残したことでも知られている。

入り口から入って一番手前の覆屋には三体の大石仏・・・・・

この地の石仏は青味が独特な笏谷石(しゃくだにいし)を用いていて一種独得な味の有る石仏です。

向かって右端にはすらっとした長身、この地で最も古い在銘石仏の地蔵菩薩立像

室町時代後期 の享禄三年(1530)、舟形後背一杯に飛雲を刻み月輪に阿弥陀種子のキリークを持つ。

高さ約240cmと見事に大きく、厚肉彫りで刻み出している。

奈良方面の室町期石仏は形式化が進み貧弱に成り勝ちなのに、この地の石仏は実に写実的で独得な文化を感じないでもない。

左には如意輪観音・・・・・同じく室町期の造立。

同じ並びには大きな覆屋が有り、比較的損傷の少ない石仏が収められて居る。

一列にこれだけの石仏が並び建つと実に壮観・・・・

向かって左端には定印の阿弥陀坐像石仏・・・室町後期

四体目には善光寺型阿弥陀三尊石仏、脇侍に観音・勢至・・・全ての尊顔がそぎ落とされている。

七体目の千手観音などは顔がすっぱり落とされていて余りにも痛々しい

ほぼ中程に有る観音菩薩立像・・・・天文年号の銘記有り。

慈悲深く引き締まった顔つきには惹かれるものが有り・・何か言いたげにも見える。

右端には実に堂々とした不動明王立像、傍らには阿弥陀立像石仏。

入り口対面の覆屋と南面の覆屋。

入り口対面の覆屋の中央には阿弥陀と虚空蔵の二体・・・両脇には山と積まれた無残な石造物の残欠。

放射状後背を持つ阿弥陀如来石仏は来迎印を結ぶ。

南面側石仏群

此の覆屋には傷みの激しい物を含めて14体の石仏さん達。

どの石仏も表情豊かで・・・・

僕の室町期造立の概念をぶち壊してくれそう。

特に左端から4体目、首のところで断裂補修の後も痛々しい阿弥陀立像・・・。

此の慈悲深い仏頭はまるで血が通っているのかのようで今にも動き出しそうなほど・・・・。

こちら右から三体目の阿弥陀如来。

その脇にも阿弥陀立像

何処か塑像を思わせる様な滑らかさ・・・

右端には破壊痕も痛々しい阿弥陀石仏

この地で最大の石仏は西面の覆屋に制多迦童子と共に立つ不動明王明王立像。

室町時代後期の天文二年(1533)の記銘を持つ総高2.6m

見事な石仏には違いないけど右目と鼻先に傷みがあり、少し躍動感には欠ける。

一方こちらは躍動感溢れ・・・・

眼光鋭く不動明王を見上げる制多迦童子

此の西山光照寺跡石仏を取り上げる時、誰もが一番に取り上げるのが納得出来る像容です。

有るべきはずの矜羯羅童子は何処へ行ったのやら・・・・最早石屑となってしまっているのか??

三体一緒に立ち並ぶ姿を見てみたかった・・・。

背後には阿弥陀三尊の種子石仏が建っている。

これだけの石仏が一同に会すると壮観なのだがちょっと食い過ぎ・・・、どれがどれやら状態になってしまうことは否めない。

また機会が有ったら何度も訪れたい石仏さん達です。

何ページかに分けようかと思ったのですが敢えて1ページにしました・・・・・、お疲れさん。

撮影2008.4.27