愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

慶尚北道慶州市 皇龍寺址西、残欠塔身石仏

2011年11月08日 | 韓国 石仏:史跡他

皇龍寺の広大な寺址西側空き地に打ち捨てられたの様に置かれている塔身の四天王像です。

去年、此処の近くを通って気に成って仕方なかったので今年はどうしても寄ってみたかった。

これといって何も無いだだぴろい空き地にこの塔身と笠部の残欠それに片方を失った幢竿支柱が取り残されたように建っている。

それこそつわものどもが夢の跡だと言わんばかりに・・・。

<巨大な三尊像の基壇石>

皇龍寺は新羅王朝の国家プロジェクトとして建てられた巨大寺院でその規模は東洋一だといわれているが高麗蒙古の侵略に灰燼と化したようです。

初層部だと思われる塔身に刻まれた四天王像 ・・・ 皇龍寺西回廊外に在って付属施設の遺物でしょうが??

それ程大きな石塔ではなかったようで、像高も約50~60cm・・・

しかしどの像を見ても新羅石造美術の素晴らしさが充分伝わる塔身四天王像です。

これにて今回の韓国シリーズはひとまず終わり・・。

撮影2011.10.2

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏/他-3

2011年11月07日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州国立博物館の表門から一番奥まった野外展示場に有る石造物群から・・・・。

中でも一番大きく聳えているのは仏国寺の風変わりな石塔ですが・・それはレプリカなのでさて置き、今ひとつ国宝第38号指定の素晴らしい三層石塔があります。

この石塔は1975年、慶州市東部郊外に有る一大観光リゾート地、普門湖から更に上流の徳洞湖に注ぐ徳洞川上流域の徳洞ダム建設により水没の危機に瀕していた高仙寺址に在ったもので、1977年此処慶州博物館に移設されたものだそうです。

ところどころ傷みは有るものの規模、形状ともに見事な三層石塔で高さ10.2m、統一新羅初期(7世紀末)の典型的な石塔だとされています。

基壇塔身には何の彫刻もありませんが・・・、四石を組み合わせ、見事な技術で大きな笠石を造りだしています。

こちらの金剛力士像(仁王像)は、あの三層模磚石塔の有る芬皇寺(ブンファンサ)近くの寺址に在ったものだそうです。

高さ約1.5m、やっぱり石塔の扉石だったのでしょうか?芬皇寺の扉石仁王像と同じ形状をしています。

阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)なのでしょうが??どちらがどうなのかは判断し兼ねますが随分と表情は違います。

こちらはちょっと変わった塔身?

四方に二体ずつの僧形立像を配している。

建物脇に一列に並べられた首を無くした石仏像・・・・、

その多くは芬皇寺の古井戸から発見されたとか・・・・。

戦禍や儒教の仏教弾圧の餌食と成ったもの言わぬ石仏たち・・・・、惨たらしいけどこれも現実。

こうして難を逃れた石仏も居るようですが・・・・・、殆どは像高1m程の丸彫り如来座像。

これは光背が有るだけで難を逃れたのかも??

 

傍らには夥しい数の石造品の残欠・・・・・。

此処慶州は石造美術ファンには何日居ても飽きないところです。

撮影2011.10.2


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏(塔身仏)-2

2011年11月06日 | 韓国 石仏:史跡他

国宝エミレの鐘脇の野外展示場に置かれていた石塔、塔身仏の数々です

入り口を入って石仏とは反対側、相当量展示されていて見事ですが僕の目で選んでみました。

日本ではこれほどの石塔基壇にはお目に掛かった事が無い。

見事な彫りの四天王、像高は約1mぐらい。

残念ながらどれがどれだか僕には見分けがつきません。

こちらは妙に艶かしい感じさえする仁王像 

こんな仁王でも護りに役立つのだろうか??手が四本あったりして仁王では無いかも?

こちらは仏像の刻まれている塔身部。

如来型にも見えるが塔身に立像も珍しい

一面はすっかり削ぎ落とされている。

こちら通常如来型坐像の塔身部

これはかなり略式化された彫りになってます。

まだまだ一杯あったけど切が無い。

撮影2011.10.2


慶尚北道慶州市 慶州国立博物館の石仏

2011年11月05日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州国立博物館前庭に置かれた三体の石仏です。

最近このように三体だけに並び変えられたようですが、以前はもっとたくさんの石仏がこの付近ににも並んでいたようです。

僕が此処を訪れた日はちょうど日曜、以前は有料だったこの博物館は整理券だけの無料開放、韓国各地から慶州を訪れた人たちでごった返していました。

先ずは一番目につく大きな仏頭

博物館背後に連なる南山の鉄瓦谷(チョルアゴル)からここに移されたものだとか・・・

仏頭は高さ153cm、統一新羅8~10世紀のものだと云われていますが体躯は見つかって居ないのか在りません。

大きな肉髻(にっけい)と白毫(びゃくごう)が目立つ如来頭部ですが果たしてどんな体躯だったんでしょうか??

体躯が在ったとしたら全体像を見てみたいけど・・・・・それは叶いそうにもありません。

鼻がすっぽり削がれているのは、その昔、韓国には石仏の鼻を落として煎じて飲むと子宝に恵まれるという迷信があり、子供がどうしても欲しいという人たちの思いが石仏の鼻を削ぎ落としたという・・・・。

なにやら哀しいけれど・・・・儒教の仏教弾圧に旨く利用されたのかも???大きい鼻は偉大な力を発揮するのかも??

三体のうち真ん中に立つのがこの菩薩像・・・如何も頭部が少し不自然に前に傾いて見えます。

蓮華座の上、さらに蓮弁を造りその上に立つ高さ約3.8mも有る大きな観音菩薩立像。

以前から頭部は博物館に、体部は此処からそう遠くない衆生寺(チュンセンサ)前の水田に放置されていたものだという。

この石仏も大きい白毫(びゃくごう)の穴が目立ち、やっぱり鼻はぺったんこ・・

統一新羅様式の8世紀の像立。

これが三尊仏の脇侍仏陀としたら中尊はいかばかりだったのだろう??

最後の一体は妙に紅っぽい石の石仏。

古い写真などを見ると補修の痕が白っぽく目立ちますが現在旨く調整されて補修の痕が目立ちませんが少し綺麗過ぎるような??

南山東部山裾、月城、璋項里寺址に散乱していた物を集めて復元したもののようです。

半レプリカ状態だとは思いますが細部まで見事な彫刻が施された高さ2.5m、統一新羅8世紀の造立。

光背の化仏にはやはり顔を削られた仏達・・

月城、璋項里寺址には現在も塔身一層目に見事な仁王を刻みだした、宝物第236号指定の素晴らしい五層石塔が残っている。

撮影2011.10.2 


慶尚北道慶州市 狼山陵只塔(ヌンジタプ)

2011年11月04日 | 韓国 石仏:史跡他

此処は少し前に紹介した狼山衆生寺(チュンセンサ)の入り口近くあって、殆ど訪れる人も無く、広い空き地にこの塔だけがぽつんと在る。

昔から陵只塔または蓮花塔址と呼ばれ、つい最近までは崩壊した石材が埋没散乱していたようですが、ようやく最近になって復元されたようです。

先日紹介した宗武烈大王の長男、統一新羅のたて役者として知られる文武王の火葬施設だと推定されている塔です。

文武王は、死しても東海を守る龍になって倭寇から新羅を守るとの遺言通り、世界でも唯一だと云われる東海(日本海)の海中陵墓に葬られている。

<これは西面>

底辺約10m、高さ約5mの石積二段の四角塚・・・・その一段目の護石にはあの十二支神像が刻まれている。

護石は上部に庇のように突き出した蓮華紋石の下、東南西北四方に三支神ずつ配し合計十二支神像と成るが内三神は失われて現存しない。

付近にもまだ多くの石材が残り、建立当初は五重石塔であったと推定されています。

護石の高さ約1m、幅約50~70cm、枠取りの中一杯に各十二支神像が薄肉彫りで刻まれています。

永らく崩壊して土中に在ったものか?1300年以上経た今も尚勇ましい姿を良く残している。

正面南の真ん中には午・・・・

向かって左隣の羊かな

東側は2体が欠損中央にはこれ・・・卯

北側にはこの三体

これは戌??・・、黒化していて良くわからない。

西側には、この三体・・・・こちらの十二支神像は全て勇ましい戦闘衣を着けて武具を持つ。

 史跡の参道は採りいれた籾の天日乾し場と化していた。

韓国ではこれが当たり前。

撮影2011.10.3

場所


慶尚道北慶州市 太宗武烈大王之碑

2011年11月03日 | 韓国 石仏:史跡他

前回紹介の金庚信(キム・ユシン)墓より約1.5km程南下した仙桃山(ソンド山)麓に西岳里古墳群と呼ばれる陵墓郡があり、最前列、最大のものが新羅第29代王である太宗武烈王(金春秋、在位654~661)の陵墓です。

陵墓は、お馴染み韓国式の土饅頭で余り代わり映えはしませんがその参道脇に有る石造墓碑は韓国国宝第25号に指定される見事な石造美術品です。

太宗武烈王は、金庚信(キム・ユシン)と共にに唐の後援勢力のもと、三国統一の基盤を固めた人物でその業績を称える為、文武王の元年(661)に造立された。

表門を入ってすぐ、碑閣の中にこの国宝は誰の監視も無く据え置かれ、勿論直に触ることは出来ないがすぐそばまで近づき写真を撮ることは全くのフリーです。

有るべきはずの業績を称えた碑身そのものは現在欠損して見られませんが見事な亀跌(きふ)と、本来「碑身」の上に載る魑首(ちしゅ)が残されています。

碑身の一部は近くの民家から発見されたようですが現在何処に有るかは知りませんが??

「亀跌」と呼ばれる霊亀は像身3.8m、高さ約1m、幅2.5m首を掲げた全身には見事な彫刻が施され寸分のすきも見れ無いほどの完成度です。

当時同盟関係にあった唐の影響を受けたと言われるこの亀跌は群を抜く、再興傑作だと称されています。

本来「碑身」の載る位置には6匹の龍が3匹ずつ絡まって如意珠を奉じた「魑首」が据えられています。

高さ1.1m、幅1m、厚さ36cm。

左右側面に三体づつの竜頭を連ねた造形も素晴らしいと云うより他に言葉も見つからないほど・・・・・。

中央で断裂していますが見事に複雑な絡まりようです。

中央には武烈王(武烈王)の次男であるギムインムンの書であるという「太宗武烈大王之碑」の八文字・・・

全体的に力強く、緻密で統一新羅初期の写実主義様式の代表作と云われているのも納得できます。

明日香キトラ古墳のあの亀と龍が絡み合う「玄武壁画」をふと思い出した。

撮影2011.10.3

MAP


慶尚北道慶州市 金庚信(キム・ユシン)墓十二支神像

2011年11月02日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州市街の程近く、兄山江の対岸に有る新羅の英雄、三国統一に命を捧げたという金庚信(キム・ユシン)墓の護石に刻まれた十二支神像です。

金庚信(キム・ユシン)墓はどの王陵にも引けを取らない立派な円墳、周囲約50m、高さ3.5m墳墓を囲む石柵の中、基部に板石状の護石を巡らし十二支神像をそれぞれ刻み付けている。

南面を正面に向け、高さ約1m、幅約50cmの花崗岩石板いっぱいに枠を取り、枠内一杯に十二支神像を薄肉彫りで刻み出している。

正面南には午(馬)

次に巳(蛇)

金庚信(キム・ユシン)は西暦673年、78歳で死亡。

次に辰(龍)・・、どうにもこの影には困ったもんです。

東には卯(兎)

十二支神像はそれぞれに武器を持ち墳丘の護り神として刻まれている。

次には寅(虎)・・・・・、これが虎かと思うほど何故かしらおとなしそうな顔をしている。

この像だけが少し割れている。

次は丑(牛)、南から東北へと左回りに廻っています。

ちょうど裏側、北は子(鼠)

普段着の姿で武器を持つ十二支神像は珍しく、新羅中期以後には見られないようです。

次は亥(猪)・・・・、

戌(犬)はこれ・・・

ちょうど西側には酉(鶏)・・、犬の顔は優しいのに鶏は結構いかつい顔をしてる。

次に申(猿)・・・、全ての像がかなり高い表現力です。

最後は未(羊)、十二支神像全て欠けることなく1300年以上もこうして墳墓を護り続けている。

それはそれなりに結構良い保存状態です。

撮影2011.10.3

MAP


全羅北道南原市山内面 実相寺(シルサンサ)

2011年11月01日 | 韓国 石仏:史跡他

実相寺(シルサンサ)は全羅南道、南原郊外智異山麓の鄙びた里山に有る新羅の828年創建の名古刹です。

<実相寺山門へ続く野道>

豊臣秀吉の「文禄慶長の役」の激戦地として知られ、全てが灰燼と為したが、多くの石造美術品や鉄佛を伝え、1884年から再建に取り掛かり今の姿をとどめている。

山門脇には仁王像ならぬド派手な四天王像、韓国寺院ではではこれが一般的・・・日本人には少し馴染み難い気もするが

山門を入るとだだ広い境内、山門脇には石積みならぬ古瓦を積み上げた、ストゥパー状の塚(未だに固有名詞が解りません)??

韓国寺院の鐘楼・・・

日本と違って鐘は何故か、地上スレスレの位置にある・・・、理由は知りませんが??

広い境内のあちこちに礎石が有って相当大きな寺であったことが想像できます。

境内奥中央には普光殿、その前に並列して建つ三層石塔、高さ8.4m、新羅様式で宝物第37号指定。

並立する三層石塔と普光殿の間には風変わりな石灯。

日本の神社で目にするものとはかなり風変わり。

やっぱり此処では仏教の匂いしか感じられない意匠に成っている。

統一新羅の像立で、宝物35号指定・・・、前に有る鴟尾(しび)状石は何なのだろう?

現在は薬師殿が再築中のためか?バラック屋根の下に祀られていた実相寺創建当時の薬師如来鉄佛、宝物第41号指定。

跏趺坐する像高226cm、戦禍に焼け爛れた痕の残る痛々しさだが、それだけにはとどまらず日本占領時代には両手首も切り落とされ、現在の手首から先は木製で補修されている。

こんな平和そうに見える里山にそんな悲劇が眠っていたのかと思うとなんともやりきれない。

撮影2011.9.30

MAP

スカイビュー


忠清南道瑞山市 普願寺(ボウォンサ)址

2011年10月31日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国シリーズの最初に紹介した 瑞山磨崖三尊仏より渓谷沿いに約1km程遡った谷間台地に広がり、百済時代に創建、建立されたという大寺院の伽藍址です。

何も知らずにあのどうしても見てみたかった磨崖三尊仏からすぐ近くでも有るしと・・・、訪ねてみたがご覧の通り、此処もやっぱり発掘調査中、思うようには見学撮影できなかった。

それでも大らかな韓国人気質に従って調査中の遺跡に入って、何とか出来る限りの撮影はしてきた・・・。

寺址は小川を挟んで広い台地一面に広がり広大な範囲で発掘調査中、足のふみ入れられる範囲も限られてはいたものの、正面には韓国の古寺には欠かせない大型のダンガンジジュ(普愿寺址幢竿支柱)。

何の装飾も施されてないが、高さ4.2m、統一新羅様式を良く表し宝物第1103号指定。

韓国の荒野に建つダンガンジジュはどこか日本人の僕にも心惹かれるものがある。

周りは全て発掘調査中だったが、寺址中央部に建つ五層石塔には近づくことが出来たので思う存分撮影してきた。

<こちら東面>

<東南面>

<こちらは西北面>

<南面から>

初軸部?(第二基壇)に見事な八部衆の像が刻まれているので撮影して来た。

尊名までは知る由もないのですが??

彫りは中々見事なものです。

なかなか具象味が有って簡略化される事のない丁寧な彫りです。

遠くに日本の灯篭のように見える石造物はボウォンサボプイングクサボスンタプ(普愿寺法印国師宝乘塔)と呼ばれる高僧の舎利を納めておく石造物で浮屠(ふと)と呼ばれることも有るようです。

全体を史跡第316号に指定された古刹跡です。

この寺があの国宝磨崖三尊仏と無関係だったとは思えない。

撮影2011.9.28

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔/他

2011年10月30日 | 韓国 石仏:史跡他

日本には移入されなかったのか?往時、明日香や平城京時代には在って、崩壊し果て現代では見ることが出来なくなってしまったものだろうか?とにかく今の日本では見ることの出来ない石塔に違いない。

去年慶州に来たときにもどうしてもこれが見たくて寄ってみたが運悪く修復作業中、足場が組まれテントや網に囲まれ殆ど見られず終い、今回もまたまた訪れた。

此処は慶州新羅遺跡群の中でも最東端、国立慶州博物館前の信号からテクテク耕地の中に広がるだだっぴろい「皇龍寺跡」などを巡りながら約30分も歩くと到着。

なんと言ってもこのレンガを積み上げて造ったような石塔は僕の目にはなんとも新鮮・・・、中国西安の小雁塔(しょうがんとう)などの磚塔を模して造ったものだと言われています。

此処はしっかり慶州の観光地、人出も多く拝観料もそれなりに取られます。

芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔と呼ばれるこの石塔は、善徳女王の634年、芬皇寺創建と同時に造られ、13.6mの石積み基壇の上に建つ高さ9.3m三層磚塔。

長さ30~45cm、厚さ4.5~9cmの安山岩切石をレンガ状に積み重ねています。

下部四方向に開口部があり、入り口を仁王像が守り、基壇四方向をヘテ(日本の狛犬に相当する?)と海獣に守らせている。(この両方がヘテだとする資料も有って良くわからないが・・・)

<これがヘテと呼ばれる韓国狛犬>

これなら全く日本の神社に居る狛犬と変わりは無いですが・・

このヘテは高句麗から、海獣は倭寇の進入を食い止め、国(新羅)を守ることを願って据えられたものだといわれ、その方角を向いています。

有る資料などに拠るとヘテは獅子と海獣を両具した聖獣だとも言われ、ソウル景福宮光化門前で見られるそうですが??

こちらどう見てもオットセイかセイウチ、倭寇から新羅を守るには頼りなさげです。

現在は三層のこの磚塔も幾度と無く崩壊再建を繰り返したらしく、明らかな根拠は無いようですが当初九層磚塔ではなかったか?と言われています。

現在有るものは1915年、当時植民地化していた日本人の手によって解体復元されたもののようで、どの程度原型を留めているかは解らないとされています。

しかしそれはさて置き、開口部脇の仁王像を西面から・・・

向かって左の仁王像・・

右側・・・・・どの像も胴長短足、余り格好よくない。

南面は・・・

左側像は顔が削ぎ落とされたよう・・

右側像・・・・全て像高150cmぐらいかな??

次に東面・・・この左右の基壇隅には例の海獣

こちら左側・・

こちら右側で顔が潰れています。

ぐるっと一廻りしてこちらは北面

左側・・

右側の仁王・・・しかし、どの仁王にも迫力に欠け・・・・、これじゃなあという気がしないでもない。

こちらは去年行った時の画像です・・・・・これではやっぱり艶消しですもんね。

おまけは境内片隅にあった石仏さん。

やっぱり顔も手印も削がれています。

戦乱の犠牲者か??儒教のせいなのかは判然としないようですが??付近の古井戸からも大量に首の落とされた石仏が発見され(後から何点か紹介しますが)慶州博物館の庭に展示されています。

因みに芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔は韓国国宝30号に指定されています。

撮影2010.10.16/2011..10.2

場所


慶尚北道慶州市 瞻星台(チョムソンデ)

2011年10月29日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国南部の旅のガイドでは必ず仏国寺と共に写真で紹介される慶州史跡の中心地に有る独特の形をした石造建築物です。

韓国は遠い昔から戦乱に明け暮れた地、木造の建築物や仏像は殆どその戦火に見舞われたのか殆ど現存せず、唯一破壊しつくされても残ったのはこういう石造物と石仏・・・・。

慶州市内、中心部より繋がる史跡地域のほぼ中心に位置する瞻星台付近の史跡は、僕の訪れた10月最初の日曜日には身動きも出来ないほどの車列の波が続いていた。

瞻星台は煉瓦状石を円筒形に積み上げた天体観測施設だとされていますが、実のところ色々異説もあるようです。

総高約9m強、基盤石の一辺は約5.3m、その上の円径は5.1m、上部径は3.1mと成っていて意外とどっしりしています。

厚さ約30cmの煉瓦状切り石(花崗岩)約360個を27段に積み上げ、12段目から15段目には真南に向の窓が設けられいています。

新羅が百済や高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一するきっかけになった善徳女王(632~647)の7世紀の造立、今から約1400年程前の事。

色々資料をあさってみましたがこれが当時のままのものか崩れたのち近世に成って再建されたものかは不明でした・・・。

1400年もこのまま立ち尽くしていたとは思えないけどね。

詳しいことなど知る由もないがこの独特な石の建造物は造形的にも素晴らしい形の様な気がします。

韓国国宝第31号指定。

向かいには土饅頭がいくつも並ぶ仁旺洞古墳群。

撮影2011.10.2

場所


慶尚北道慶州市 狼山衆生寺(チュンセンサ)磨崖三尊佛

2011年10月28日 | 韓国 石仏:史跡他

気の毒なほど焼け爛れ、粉々にひび割れまさに現状は留めないが、地蔵殿と言う立派な覆い堂を建てられ、今でもしっかり祀られている磨崖石仏です。

慶州市街地近くの新羅史跡が広がる東方、耕地とKR線を挟んで狼山と呼ばれる小高い丘陵が在り、付近にも新羅史跡が点在している。

観光地慶州も市街地を少し離れてしまうと、僕が子供だった頃の田舎に瓜二つ 、あの懐かしい牛の啼き声がひびき、家畜の糞入り混じった強い臭いがして、それこそ田舎道を放し飼いの鶏が走り廻ってたりする。

鄙びた田舎寺の感が強いここ衆生寺(チュンセンサ)も度重なる戦禍に見舞われたのであろう、すっかり寂れ果てた田舎寺院の感が強い。

新しい物であろうが境内入り口には豚とも犬ともつかぬこんなユニークな・・・・やっぱり狛犬さん??。

本堂左手脇の山裾に青丹も鮮やかな地蔵殿・・・・、赤茶け焼け爛れた岩に磨崖石仏。

中尊には高麗仏画に登場してくる、頭に頭巾被った地蔵と思われるような姿、法衣をすっぽり肩から被って、足は結跏趺坐、手印は法衣の下に隠れて不明ですが、おぼろげながら頭光背と身光背が見えます。

両脇にもそれぞれ、殆ど目視でも解らないほど痛んだぞうが有り、向かって右には剣を持つ神将像・・・

向かって左にも同じく神将像・・・、どちらも武人像をあらわしているのではないかと言われ、三尊磨崖には違いありません。

近くによってもご覧の通り・・、剣も持ってるのも確認できませんが、韓国でも珍しいものでその彫刻手法から統一新羅時代のものだとされ、宝物第665号指定。

この辺りまで来る物好きな日本人もまた珍しいかも??。

撮影2011.10.3

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 斗垈里阿弥陀三尊磨崖石仏

2011年10月27日 | 韓国 石仏:史跡他

高速道慶州ICのちょうど裏側に当たる村外れから、かなり山道を奥に進んだ緩やかな斜面の小さなお堂の背後に静かに佇んでいました。

石仏が山ほど残る慶州の町外れ、小さな邑の山中深くに在るこの磨崖石仏を訪れる人など余程のマニア以外はいないようです。

山奥の小さな駐車場から約10分、山肌を拓いた台地に小さく簡素お堂、それでも寝起きする聖職者は居る様です。

お堂脇の短い石段を登り詰めると山肌に立つ大岩に磨崖三尊石仏。

阿弥陀三尊だと言うが、あの日本の定印阿弥陀を見慣れた僕には如何もしっくり来なくて、弥勒と呼ばれたほうが頷けるような??

右手は下に自然に下げ、左手は胸の前で親指と中指を合わせている。

すらりとと伸びた体躯は蓮華座の上に立ち像高約3.2m、こちらで良く見かける新羅様式の二重光背。

顔容は穏やかにわずか下方を向け、目は少し開きぎみ・・・衣文は薄く流麗にあらわされている。

斜め横から見ると伏せ目がちの目に慈悲深さをたたえ、よく引き締まっているが、わずかに微笑んでいるようにも???

向かって左手の勢至菩薩像??

向かって右手の観音菩薩像??・・・共にスリムな体躯で女性的な表現ですが手尊に比べ風化磨耗が進んでいます。

此処から慶州市街を挟んだグルブルサジ(堀佛寺址)石仏と良く似ていて、統一羅時代の代表的な作品だと言われています。 

撮影2011.10.3

場所


慶尚北道慶州市 斷石山神仙寺磨崖佛像群

2011年10月26日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州市街より西方郊外へ車で約30分、霊山南山に対峙するように狭い盆地を挟んで峰を並べる断石山、その西山麓頂上近く、秘境とも思えるところに断石山神仙寺という古刹があり、その脇に聳え立つコの字状に屹立する岩塊を石窟にみなし内壁三面に石仏、石像を彫り刻んでいる。

断石山西側麓を走る幹線道路より神仙寺へと続く小さな集落を越え、奥まったオドッ禅院まで進み、その先もタクシーの進めるところまで進んでもらうが余りの急坂に運転手のアジョシもギブアップ、「此処から先は歩いてくれ」帰るまで待ってるからと降される。

降ろされた場所から断石山神仙寺までは約1kmのきつい登り、しかしこの山道は車も通る幅があり舗装されていた、僕の車なら登って居ただろうが・・・

<ポクポク音の聴こえる辺りまで歩くとこんな山道、工事車両はキャタピラ付きの運搬車でした>

4日続きの山登り、此処まで来たら諦める訳にも行かず登り初めて約30分強、遠くからあの韓国独特の木魚の音・・・・・「OOO観音菩薩・・」というリズミカルな祈りの声も聞こえて来る。

確かに秘境、一体誰が訪ねて来るのやらと思うが此処韓国ではハイキング登山が盛ん、何人かのそうした人達には出遭った。

それ以外に見かけたのは工事中の人達ばかり・・・・、此処もまた寺院の整備工事に余念がなさそう。

登るのもきついような斜面に数棟の堂が建ち、今まさに新しい堂も建設中、歩くのにも苦労するほど急斜面です。

いつ崩れ落ちるや解らないような大石がごろごろする境内は人が通るだけの幅しか取れ無い。

大雄殿の中はこんな塩梅、韓国の寺は大体こんな感じです。

問題の石窟は大雄殿の建つ斜面渓谷を挟んで右側山肌に巨岩が折り重なり、真新しい透明ドーム状の覆屋で覆われた下に有る。

此処まで来て一瞬たじろぐような様相・・・、屈内には何段もの足場が組まれ、ただでさえ狭い内部は殆ど見通しが効きません。

おそるおそる進入して撮影するもののメインカメラの超ワイドは使えず、殆ど苦労して此処まできたのが報われないような結果となってしまいました。

コの字型、三面二切り立つ岩壁は三面共に10m強もあろうか?間口は約2mほど奥行き10m強と行ったところでしょうか??

いずれまた出直す事になるでしょうが?やっぱり足場が邪魔で殆ど肉眼でも見えません。

入り口正面から左手岩壁に刻まれている七体の菩薩像のうち上部に刻まれた四体。

下部に一体の菩薩像と・・

脇の岩壁に刻まれた二体の人物像・・・・・。

頭に古新羅の冠帽を被りチョゴリを着、香炉と柳の枝をそれぞれに持っていて供養者像だとされています。

同じく北岩と呼ばれる並びの大岩には像高8.2mにも及ぶ如来立像、惜しいかなこの写真では顔容も定かではないが、それほど具象化された像には見えないが、いわゆるこの石仏が主尊の弥勒だと言うことです。

奥壁、入り口に対峙するように切り立つ岩には殆ど見えなかった像高6mの菩薩立像、蓮弁と足元がかろうじて見えた程度です。

<コの字石窟は左奥壁面に隙間があります>

どうにも撮影できなかった右手壁面にもやや小さめの菩薩立像と四百字に及ぶ尊像造立文が刻まれているようです。

なんとも情けない紹介ですが、この上、断石山頂上付近にもまだ余り知られていない磨崖石仏が有る様なので、それと一緒に再度此処を訪れることを誓って急坂を下った。

七世紀前半、古新羅を知る上には貴重な石窟だとされ、韓国国宝第199号指定。

撮影2011.9.3

場所


慶尚北道慶州市 南山三稜谷磨崖釈迦如来坐像(画像更新)

2011年10月25日 | 韓国 石仏:史跡他

前回は三稜谷から南山ピークの金鰲(クムオ)山へ、今回の南山は茸長寺谷から金鰲山に至り三稜谷を降りると言う前回とは逆コース

新しくみつけたベストスポットからこの石仏の写真が撮れたので再UPしました。

三稜谷への下り道、ちょうどこの巨大な磨崖石仏を見下ろせる岩の上から・・・・・・、若い僧侶と共に随って来た信者がこの石仏の前で礼拝する姿に出遭って、思わずシャッターを切りました。

三稜谷登山口より一時間、急な登りとなって上禅庵の庵へと続く・・。

こんな山奥の小さな庵にも法灯を守り続けている聖職者が住まいしていてちょうどハイカーの休憩場所にも成っている。

この三稜谷一番の石仏はさらにこの庵の背後岩山を登った上の岩壁に光背ごと彫り出し、その前面に高肉彫りの釈迦如来を刻んでいる。

頭部は鮮明に良く仕上げられているが体躯は荒削りで線彫り様式、像高7m、この三稜谷一番の大きさを誇る磨崖釈迦如来坐像です。

表情豊かな顔、丸い眉毛に半眼の目、口は強く閉じられ全体的な彫刻手法から見て、統一新羅時代の後期に造られたものと見られているようです。

慶尚北道有形文化財第158号

撮影2010.10.17/2011.10.2

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