愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良県五條市 新町界隈(重要伝統的建造物群)

2013年01月31日 | 街道街並集落 景観 

もう何度となく訪れその古い町並みを散策、落ち着いた佇まいの素晴らしさに時を忘れてしまいます。

奈良県五條市は奈良県南西部、和歌山県橋本市戸県境を接する金剛山系を北側に背負い、直ぐ下流では「紀の川」と名を変える吉野川が目の前を悠然と流れて居ます。

大和国と紀伊国を結ぶ交通の紀州街道要衝として重要視され、また吉野山地への入口、物資の集散地、宿場町、在郷町として栄えた。

奈良市街から国道24号線経由で一路南へ約40km、1時間余りで五條市中心、24号線本陣交差点につく、ここで左折、紀伊半島を縦断する国道168号の最初の交差点が新町口・・・、もうこの辺りにそれらしき街並みや建物が見える。

168号線、通りに面して門戸を開く本瓦葺きの栗山家住宅、内部は未公開ながらその重厚な構えには驚かされる。

漆喰で塗り固められた大きく頑丈な『煙出し』が本瓦葺き屋根と素晴らしいコントラストを見せて居る。

江戸時代初期、慶長十二(1607)年築、建築年代の判る民家では日本最古だそうで国指定の重要文化財です。

こちら新町口辺りから西向きに撮影、左手の民家も栗山家、先の栗山家とは親戚同族なのでしょう・・・、勿論こちらも内部は非公開です。

ここからもう異次元の様な町並が続いています。

細い路地に入り込むと清酒工場「山本本家」の酒蔵が建ち並び・・・

酒蔵と酒蔵の間を歩けばこんな珍しい景観に出遭った。

吉野川からの風情ある水路脇を辿れば・・・・・・五條の町並みでは必ず目にする景色。

端のたもとの「一ツ橋餅商」の看板・・・・向こうに続く家並もいい味を出しています。

一ツ橋を渡り切り、東向きに撮影した町並・・・

同じ位置から振り返って見れば・・・・・白壁虫籠窓の古い町並が整然と続いて居ます。

やっぱりカラコロ下駄の音と和服が似合いそうな通りです。

町並伝承館前から東向きに撮影・・・・このあたりの建物は新しく補修されたのか白壁が眩しいほどです。

振り返って西方向・・・、これから先は新しい家も混じって居ます。

この先西に進むとギョッとするようなこんなものが目に飛び込んで来ます。

明治時代に計画、昭和12年から着工され、紀伊半島を縦断する予定だった「五新鉄道」の跡・・・・・・ついぞこの上にレールの敷かれる事なく頓挫 、強者共が夢の跡のコンクリートの塊はこの新町通を越したところで途切れている。

この鉄道が頓挫したお陰で古い町並が再開発されることなく残ったのかも知れない。

撮影2009.11.28/2006.5.3


福井県勝山市 旧木下家住宅

2013年01月30日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

この写真を撮った2008年当時は未だ個人(木下家)の所有物だったらしいが、その後維持しきれないと町(勝山市)に寄贈され現在では勝山市が維持管理しているようです。

この奥、岩屋川を3km程遡った岩谷観音へ巨杉の撮影に行き、たまたま見つけた茅葺き屋根の民家です。

代々この地域の庄屋を務めるなどした上層農家さんの民家、天保7年(1836)に上棟され、その建設には永平寺大 工が関わった事が解っています。

建物は南北に棟を上げ、北側に両袖を設け、四方に破風を持ち独特な屋根型となっている。

<北側門口方向>

僕がここを訪れた5年前には相当荒れていて、最早人は住めない戸締状態で別途傍らに簡素な住まいが在った。

<東面方向>

個人の力ではこれ以上の維持管理は無理だろう・・・・。

平成22年には国の重要文化財にも指定され、解体修理されることだろう・・・・。

この状態のまま朽ち果てる事が避けられたのは嬉しいが、血の通わない展示場と成ってしまうのに、一種の哀れを感じない訳はない。

撮影2008.4.27


福井県坂井市丸岡町  坪川家千古の家

2013年01月29日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

福井県永平寺近辺から山中温泉近くへの移動中、やっぱり看板を見かけて寄り道してきた重文民家です。

優雅で豪放な曲線を持つこの茅葺き屋根をもつ武家民家は中世末期の建築と云われ、全国的にも貴重な古民家として国の重要文化財にも登録されて居る。

国道364号線、福井県最北端、石川県境に近い山懐に囲まれた旧丸岡町山竹田地区の坪川家住宅。

坪川家の先祖坪川但馬丞貞純は北面の武士で、源三位頼政の後裔と云われ、故有って700年前、この地に定住した。

おいえ(主室)側から見る屋根にも被さるような曲線の入母屋破風があり、中世武家住宅を彷彿とさせてくれる。

屋根は重量感のある一連した茅葺き屋根、正面の破風と二つの角屋の破風を入母屋破風とするのに対し、主屋背面を寄棟とするなど変化に富んでいる。

それでもやっぱり正面のこのむっくり窺うような曲線破風の屋根厚とも相まって独特な美しさを持って居る。

このような民家が現存することに目を見張りました。 

撮影2008.4.28


大阪府太子町竹内街道 大道「旧山本家住宅」

2013年01月28日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

日本最古の官道として整備された二上山麓、太子町の竹内街道沿いに建つ、古い茅葺き大和棟の民家です。

国道166号線太子町六枚橋東の交差点を左折して旧道をしばらく歩くと・・・・・

10分足らずで道路右手下方にいかにも文化財と言わんばかしの手入れの良く行き届いた茅葺き大和棟の屋敷が見える。

この旧山本家住宅は現在太子町の管理物となり、有料ながら4.5.9.10.11月の土・日・祝日は開館、内部も見学可能と成って居るようです。

その構造手法から江戸末期の建築と推定される主屋は茅葺きの傾斜の急な大和棟切妻屋根の両側を一段落とした本瓦葺きとし、更にもう一段落として落ち棟を出し、煙り出し櫓を乗せている。

かど側前方正面から見ると単純な直線構成ですが茅葺き屋根と、妻や庇の瓦屋根のコントラストが美しい。

良く見ると茅葺き屋根、大和棟の真ん中あたりには写真の様な縁起物??だと思われる松飾りが乗せられて居るのが見える。

瓦の鐘馗様や茅葺き屋根のアワビの貝殻などは良く見かけるけど、こんな針金細工の松の木を見かけるのは初めて・・・・、もしやこれが避雷針の代わりなのかなあ????

撮影2006.10.14


奈良県五條市(旧西吉野村) 堀家住宅「賀名生(あのう)皇居跡」

2013年01月27日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

南北朝期の一時期、南朝の皇居として使われた屋敷だそうです。

紀伊半島の山深い山岳地域を縫うように縦断する国道168号線、その起点の五條市街より10km足らず、平野部を抜け吉野川支流の丹生川が左手に見え出し、短いトンネルを抜けると左手下方に一目でそれと解る歴史記念館と、この茅葺き屋根が見え隠れする。

この地が一時期南朝の中心地になった「 賀名生」、後醍醐天皇は吉野への途次、この「堀孫太郎信増」の邸宅に迎えられ、後村上天皇が吉野より難を逃れ入邸、更に長慶、後亀山天皇が皇居に使ったと伝えられています。

この堀家は藤原家の末裔として熊野の初代別当として陸奥の国から移り、その後代々別当職を継ぎながらこの地に居を構えた名家らしい。

茅葺き平屋建ての主屋は六間取り、田の字型に八畳間を四間取りし、更に奥へ二間・・・・、建物の半分はドマのダイドコロや伴部屋とし、多くの武士が待機していた。

大きい葺き降ろし茅葺き屋根は単純ながら美しい姿をもち、全国でも最古に属する民家として国の重要文化財に指定されています。

茅葺き屋根の「冠木門」には、倒幕の志士天誅組の吉村寅太郎の筆による「皇居」の扁額が掲げられ、格式を醸し出す。

現在は子孫の方がこの家屋を守り住まわれ、見学には事前の申し込みが必要だそうです。

撮影2009.11.28


三重県伊賀市 初瀬街道「阿保宿(あおじゅく)」

2013年01月26日 | 街道街並集落 景観 

ここは前回の「名張」より北東伊勢方面へ10km余り、初瀬街道(伊勢街道青越え)次の「阿保宿」にも懐かしい街道筋の面影が残る。

「阿保」と書いて「あお」と読む、まあどう言う謂れが有るのかは知らないけれど「アホ」と読まないだけでも救われもん・・・。

我が山城を縫うように縦断する木津川源流域の右岸に位置する小さな里山盆地に軒を連ねている。

多分阿保宿西端辺り、慈福寺門前より東向きに見る、この辺り宿場町の風情ではなく田舎町の片隅。

国道165号線、阿保信号から木津川に架かる橋を渡ると宿場町を彷彿とさせる、こんな懐かしい街並みに出逢う。

この辺りが宿場の中心であったのだろうか?? 嘉永六年(1853)創業の清酒「若戎」の重藤酒造場さん、新しい建物だが懐かしい風情の建物に成って居る。

式台「大村神社」への参道口辺りの町並、古い街並みが宿場の雰囲気を醸し出す・・・・・、しかし田舎町は何処でも人通りもなく寂しい 限り。

大村神社には要石が在り、巨大なナマズが暴れないように抑えているという伝説があり「地震の神さま」として知られています。

それ故か、拝殿の欄干には多くのナマズの土偶が置かれていた。

撮影2011.3.12:2011.2.26


三重県名張市 旧町界隈

2013年01月25日 | 街道街並集落 景観 

名張はなだらかな山に新興住宅団地が開発され、町の中心部にある古い町並みは旧名張として埋没してしまいそう。

「隠」と書いて「なばり」と読む、名張は山に囲まれて隠れるように在り、古語の「隠(なば)る」が「隠(なばり)」に転じたとも言われている。

古くは陣屋町、また初瀬街道(伊勢表街道)が通る宿場町として大いに栄え、今もその懐かしさの残る町並みが見られる.

名張川右岸、宇流冨志禰(うるふしね)神社一の鳥居を三角形の頂点のように古い街並みが有る。

道路の真ん中に石鳥居と松の木が残され、ここが古い街道筋であることを今に伝えて居る。

杉玉の架かる古い造り酒屋さん、、白壁に虫籠窓(むしこまど)が美しい。

昔ながらの掘割通りにはこんな懐かしい銭湯の建物・・。

古い名張の街並みには「ひやわい」と呼ぶ狭い路地があちこちで見られ、今にもカラコロ下駄の音が聞こえて来そう・・・・・ちなみに「ひやわい」は「庇間(ひあわい)」が訛ったもので、家と家の間の狭くて日の通らないところと言う意味らしいのですが・・・・。

また名張の旧街はあの「江戸川乱歩」の生誕地。

あの怪人20面相の話を彷彿とさせるようなこんな建物も在ったり・・・。

こんな古い軒先の和菓子屋さんが有ったりと・・・・、懐かしさを充分に楽しめる街並みが残って居ます。

最近は隠街道市など開かれるが、変に観光地化されて居ないのが嬉しくも有る

撮影2009.10.11


福島県南会津郡下郷町 大内宿

2013年01月24日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

今から30年余り前、まだ長距離トラックに乗って間もない頃、友達を助手席に載せ仕事ついでに寄り道、この大内宿を訪ねた事がある。

当時はまだ観光地として売り出し始めたばかりだったのだろう・・・・、2~3軒の食事処だけがあって、タイムスリップした様に鄙びた茅葺き屋根建ち並ぶ宿場の雰囲気がそのまま残っていた。

去年の秋、東北の旅の最終日、福島郡山からの帰り道、この大内宿に寄り道して北陸廻りで帰って来た。

しかし30年前のあの鄙びた感は完全に消え去り、大駐車場を完備した一大「茅葺き宿場テーマパーク」へと変身していて、拍子抜け・・・.

この地は、会津若松より南へ約25km、現在では主要道から取り残され山に囲まれた山間僻地、江戸時代には会津藩が参勤交代に使った重要な宿場町として本陣や脇本陣が設置されていた。

所謂「会津西街道(下野街道)」、この街道が日光、江戸へと続いて居た。

中央を貫く通りの両側はすべての軒先で土産物やら食事やらと、何らかの店に成っている。

観光バスで乗り付ける団体客やらなにやらと・・・・・、土日でもないのにこの人出です。

ちなみに30年前は誰にも合わなかったけど、食堂に入って店のおばちゃんと話した記憶がある。

 

通りを歩いて居ると、建物は殆ど変わりなく、いやむしろ、整備が行き届き茅葺き屋根などは見やすくなって居る。

しかし、生活感は無くなり・・・・・

地に足のつかないハリボテのような・・・・・、美しいけど絵に書いた餅のような・・・・。

しかし、これだけ多くの茅葺き屋根が通りに面し、妻を向け建ち並ぶ景観は、他では見ることが出来ない程貴重です。

美しい、素晴らしい景観には違い有りません。

いかにも洗練された単純な美を感じます・・・・しかし洗練され過ぎ、観光客の目を意識した集落に成り過ぎて居るかのようです。

ちょっと外れて、裏側から見れば、オープンセットの書割のように見えてしまいます。

良く保存されてるけど何かが違う、時代が変化するのに過去をそのまま保存する事など出来ないのですよね。

国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定、現在年間100万人以上が訪れる一大観光地と成って居る。

撮影2012.9.27


岩手県花巻市東和町 旧小原家住宅

2013年01月23日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

遠野から北上市の宿への帰り道、県道284号線で「重文旧小原家住宅」の看板を見かけて立ち寄った南部曲り屋。

ここは花巻市東和町、北上川支流の猿ヶ石川、その上流域の静かな里山、赤松林の台地にある旧谷内村の小学校跡地。

昭和50年、所有者から東和町が寄贈を受け、現在地に移築されたようです。

因に、あの『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの童話や「雨ニモマケズ・・・・・」で有名な農民作家「宮沢賢治」記念館からは12km程、東寄り。

前回紹介の千葉家曲り屋などとは比ぶべくも無いが、あれは特別、この旧小原家住宅が曲がり屋としては標準サイズなのだろうか・・・・。

正面L字の開口部が玄関口土間、左手突き出し部が厩で、右側主屋根部が居住区域。

葺き下ろしの主体部茅葺き屋根と、突き出し部の妻屋の調和が美しい。

旧小原家については明確な資料がなく、由緒及び住宅の建築年代とも明らかではない様ですが、この地方の一般的な農家で厩(馬屋)の突出部が非常に小さく、曲家として古い形態とされ、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1764)頃の建築だと推測されています。

古い時期に直家から曲家に改造されたもので、曲家の発生過程を窺うことのできる貴重な遺構であるとされ、国の重要文化財に指定されている。

現在地元の人々の管理のもと誰でも自由に見学出来ます・・・、因に冬季(12/1~4/30)は閉鎖されて居ます

撮影2012.9.21


岩手県遠野市 千葉家住宅

2013年01月22日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

南部「曲り屋」を代表する建物として知られ、映画『遠野物語』のオープンセットとしても使われたようです。

盛岡から途中「岳、早池峰(はやちね)神社」へ寄り、国道369号線で遠野に向かう途中、左手高台に石垣積みの豪壮な館が見え、何の予備知識もなく思わず立ち寄った。

まるで城郭を思わすような規模・・・・、これが一軒の民家なのかと??

ここは国の重要文化財、現在も住居として使われており、敷地と建物の一部を公開されている。

<庭の真ん中には駒繋ぎ杭>

国道脇の専用駐車場から私道の坂道を登りきると蔵、ちょうど石垣上になるテラス状通路の向うに主屋である茅葺き屋根の豪壮な曲り屋が建つ。

千葉家の由緒は良く解らない様ですが江戸中期にはこの地方の一大豪農だったようです。

建坪約160坪、 L字型の右手居室部には二階部も設けられ、曲部袖部には台所と土間、その先は厩に成って居たようです。

天明、天保の大飢饉は、この遠野郷では凄まじく、四代目当主、喜右衛門が救済普請として主屋などを建設、村の婦女子や老人も人夫としてその糧を得たと云われ、その建築期間も10年の永きに亘ったと言われて居る。

<東側より主屋居住部を見る>

この高台から見渡す限りの田畑は千葉家が所有していたと云われ、その権勢ぶりも、この屋敷の佇まいから窺い知れる。

敷地面積約5600?(1695坪)、昔流に言えば五反歩以上に蔵や作業小屋、物置など6~7棟が建って居る。

奥に建つのは大工小屋、常時大工がいて補修営繕など大工仕事をしていたのだろうか??

屋敷には常時25人と馬20匹が寝起きを共にしていたという桁外れの大所帯・・・・しかし現在では何人で暮らしているのであろうか???

屋敷奥には自前の鎮守?稲荷社もしっかりした社で祀られて居る。

何もかもが桁違いで目をまん丸くしないでは居られない・・・・・、この歳になっても世の中知らないことばかり。

撮影2012.9.21


山形県鶴岡市田麦俣(たむぎまた) 多層民家(旧遠藤家住宅)

2013年01月21日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

ここはもう何十年も昔、僕の若いとき長距離トラックで全国を飛び回ってた頃、この集落の事を何かの本で知り、どうしても訪ねてみたいと思っていたがあんな大きなトラックで訪ねる事も出来ず・・・やっとの想いを今回遂げました。

しかし時は非常にも周りの景観をすっかり変化させ、僕の記憶の底に有る、あの鄙びた集落の景観は最早望むべくも無くなって居ましたが・・・。

山形県鶴岡市街より山形自動車道を使い約30分強、田麦俣集落は月山花笠ラインと呼ばれる国道112号線から遥下方、もう今の時期ならとても慣れない僕の運転では行き着けそうにもない、雪深い月山、湯殿山麓谷間に20戸ばかりが軒を寄せ合う。

田麦俣は古くから湯殿山の参詣拠点として集落が形成され、また日本海に面した庄内地方と内陸部の村山地方を結ぶ六十里越街道の中間点であった集落は宿場町としての性格も持つように成りました。

正面からは一見豪壮な単相茅葺き屋根に見えますが・・・高八方と呼ばれる破風窓が設けられ、単相ではないことが窺われる。

妻側の兜屋根部から見ると三層に成って居るのが良くわかる・・・・・

山間僻地、豪雪地帯の田麦俣では積雪時の出入りを容易にするためと、谷間ゆえの敷地の確保が困難なことから、居住空間と客人を泊める空間を確保するため、このような三層構造になったようです。

このような見事で豪壮な兜造り多層民家が幾棟も建ち並んで居た頃に寄ってみたかったが時は既に遅し・・・・・。

現在二棟が再生整備され、手前の民家は民宿を営み、奥の旧遠藤家住宅は県文化財として一般公開されています。

因に旧遠藤家住宅は訪ねたときはちょうど茅葺き屋根の補修工事中、内部には入らず終いに成りました。

現地にこうして残っただけでも良いのでしょうがなんとなく周りの景観とは不釣り合いで物足りなさを感じてしまいます。

山形県有形文化財指定。

撮影2012.9.17


新潟県岩船郡関川村下関  津野家

2013年01月20日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

旅の途中、新潟から山形への移動中、村上市から荒川沿いに走る米沢街道(国道113号線ー小国越え)で見かけた重文渡辺家の看板に引き付けられ寄り道した関川村の民家の一つ。

国道から少し外れた関川村の中心部、役場前の旧街道脇には目を疑うような、まるで時空間を超越した様な懐かしくも豪壮な屋敷が建ち並んでいた。

しかしその中心である、「重文渡邉邸」は主体部が平成の大修理のため工事テントで全く絵には成らず写真は諦め、隣の素晴らしい茅葺き屋根を持つ津野家に釘付け。

茅葺き屋根の複雑な造形美、白壁と黒塗りの木部のコントラストも実に清楚で美しい・・・・

真正面から見るとこんな感じ、隣の渡邉邸の屋敷が広大すぎ、これだけの構えながら津野家は意外とこじんまり見えてしまう。

つい最近屋根の葺き替えがあったのだろうか端正な美しさに整えられている。

津野家は天明八(1788)年、隣接の渡邉邸からの出火で類焼し、翌年(1789年)に現在の建物が建築された。

屋号は湊屋戸称した旅籠で、商家構造の建造物として極めて貴重な存在らしいが、現在も現役住居として住まわれており内部は非公開。

通りに面して平入りの棟と妻入りの棟をドッキングさせてT字型にした建て方を撞木造りと言い、この地域の特徴となっているようです。

独特な茅葺き屋根の玄関に簡素な一対の祭り提灯・・・・切ないほどに美しい日本の伝統美です。

平成3(1991)年、新潟県指定文化財指定。

撮影2012.9.16


三重県伊賀市丸柱 伊賀焼登り窯

2013年01月19日 | 街道街並集落 景観 

16連登り窯が見事な景観を見せてくれる伊賀焼窯元・・・、その機能美にはしばし呆然、時の経つのを忘れてしまう。

滋賀県甲賀市旧信楽町は全国区で名前の知れ渡った陶器の町、そんな信楽より国道422号線で東方へ約15分、県境の桜峠を越えればそこは三重県丸柱(まるばしら)生活雑器の陶器、伊賀焼の里。

県境の峠を越え、左手高台に見る大きな徳王寺を過ぎ、丸柱郵便局前で右折、道なりに進めば長閑里山景観の中、それと解る伊賀焼の窯元に出逢う。

一画全てがその建物である長谷園(ながたにえん)<長谷製陶株式会社>、伊賀焼の日用雑器、土鍋を作り続けて居る。

古風な西洋アンティック風の建物が目を惹く・・・・整備された駐車場も用意され、直売場もあり登り窯の見学もOK

通路の標識通りに進めば広場の向うに斜面を駆け上る登り窯、天保三年(1832)創業時から昭和40年代まで稼動していた登り窯。

窯は16連、かってすべての窯を焚きあげるのに15~20日間を要したということです。

何よりもこの赤く変色した耐火レンガや土窯が、炎を一杯体に溜めて斜面を立ち上がる姿が、竜が天に昇る姿と重なる様にも思えたり・・・。(ちょっと大袈裟か?)

<こちらは焚口付近です>

でもやっぱりこれだけ大きく長いと目を見張るものが有る・・・、因に16連房で現存しているのは、これ一基だということです。

もう一基あった登り窯、付近には巻がうず高く積まれていて、まだ稼働しているのかも???。

レトロな古い事務所は自由な休憩スペースと成っていて、セルフコーヒーが、器持ち帰りOKで350円、モダンジャッズの音楽が流れなかなかのセンスで感動一入。

撮影2012.3.16


名古屋市緑区 有松の町並

2013年01月18日 | 街道街並集落 景観 

名古屋市の町並保存地区に指定されているものの、 国の重要伝統的建造物群保存地区には選定されず、ほどよく保存と観光地化が調和した街並みになって居ます。

それはひとえに観光だけを当てにしなくても良い地理的、経済的基盤があるからに他ならない。

名古屋市の南東郊外、桶狭間古戦場近く、国道1号線と名鉄本線有松駅を挟んだ旧東海道沿いに「有松縮緬」の伝統産業を基盤とした重厚な町家が建ち並ぶ。

今でも伝統的な店構えで縮緬を扱う大店が通りのあちこちに見られ愛知県や名古屋市の有形文化財に指定されて居る。

なめこ壁の白壁土蔵、黒く重厚な屋根を持ち、いかにも頑丈そうに見える店構え。

愛知県指定文化財、都市景観重要建築物、服部邸は連子格子、虫籠窓、塗ごめ造り、卯達と防火を強く意識した有松を代表する建物だという。

因に有松は天明四年(1784)の大火に見舞われている。

竹田嘉兵衛家は、黒漆喰の塗ごめ造り、庇には明治期のガス灯が当時の竹田家の繁栄ぶりを窺わせる。

小塚邸の建物は重厚な黒漆喰、本卯建に頑強な虫籠窓。

岡邸は江戸末期の建造、建物としては有松一大きなもので、虫籠窓が全面亘り、庇下の塗り込め壁が波状になって居る。

有松の旧東海道に建ち並ぶ商家は、黒く重厚で迫力が有る、それは大火の後、黒漆喰の塗込めとして虫籠窓をつけ防火構造の家で復興を図り、現在まで朽ちることなく残されて居る。

撮影2009.8.29


福井県若狭町 鯖街道熊川宿

2013年01月17日 | 街道街並集落 景観 

まるでタイムマシーンで来たような錯覚に陥りそうな空間、すっかりそのままオープンスタジオに紛れ込んだような雰囲気の町並みです。

鯖街道、若狭の起点小浜中心街より国道27号線を東進、途中旧上中町で363号線に乗り換え車で約30分、若狭湾に注ぐ北川沿いの谷間に並び立つ熊川集落に着く。

宿場町らしく集落の中央を「鯖街道」が一直線に貫き、 道路の脇には雪国らしく、澄み切った水量豊かな流れが在り、道路に沿って両側に整然と懐かしい匂いの残る建物が立ち並んで居る。

車さえなければまるで50年以上ほど一気にタイムスリップしたような・・・・1996年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定、整備され通りに電柱は全く見当たらない。

若狭では「京は遠ても十八里」と言われており、若狭と京都はきわめて深い関係にあり、若狭湾で大量に水揚げされる鯖が広く京都町衆に愛され祭礼にも欠く事が出来なかったため、通行量は増え熊川宿も大いに発展したという。

近江にも近いせいかあの鮮やかなベンガラ格子の民家も見える。

そんな中一際目立つ旧逸見勘兵衛家は伊藤忠商事の伊藤竹之助の生家で熊川宿を代表する民家として公開されて居る。

大部分の民家は手を加えられ良く整備されているように見え、茅葺き屋根やあばら家は、ほとんど見られない。

昭和15年に熊川村役場として建築された建物は 「宿場館」として利用され街道の歴史を物語る拠点となって居る。

整備化、観光地化されたきらいがあって、ありのままの町並みではない気がするが、保存維持するにはこれしかないのかも??

撮影2009.2.28