愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

忠清南道瑞山市 普願寺(ボウォンサ)址

2011年10月31日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国シリーズの最初に紹介した 瑞山磨崖三尊仏より渓谷沿いに約1km程遡った谷間台地に広がり、百済時代に創建、建立されたという大寺院の伽藍址です。

何も知らずにあのどうしても見てみたかった磨崖三尊仏からすぐ近くでも有るしと・・・、訪ねてみたがご覧の通り、此処もやっぱり発掘調査中、思うようには見学撮影できなかった。

それでも大らかな韓国人気質に従って調査中の遺跡に入って、何とか出来る限りの撮影はしてきた・・・。

寺址は小川を挟んで広い台地一面に広がり広大な範囲で発掘調査中、足のふみ入れられる範囲も限られてはいたものの、正面には韓国の古寺には欠かせない大型のダンガンジジュ(普愿寺址幢竿支柱)。

何の装飾も施されてないが、高さ4.2m、統一新羅様式を良く表し宝物第1103号指定。

韓国の荒野に建つダンガンジジュはどこか日本人の僕にも心惹かれるものがある。

周りは全て発掘調査中だったが、寺址中央部に建つ五層石塔には近づくことが出来たので思う存分撮影してきた。

<こちら東面>

<東南面>

<こちらは西北面>

<南面から>

初軸部?(第二基壇)に見事な八部衆の像が刻まれているので撮影して来た。

尊名までは知る由もないのですが??

彫りは中々見事なものです。

なかなか具象味が有って簡略化される事のない丁寧な彫りです。

遠くに日本の灯篭のように見える石造物はボウォンサボプイングクサボスンタプ(普愿寺法印国師宝乘塔)と呼ばれる高僧の舎利を納めておく石造物で浮屠(ふと)と呼ばれることも有るようです。

全体を史跡第316号に指定された古刹跡です。

この寺があの国宝磨崖三尊仏と無関係だったとは思えない。

撮影2011.9.28

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔/他

2011年10月30日 | 韓国 石仏:史跡他

日本には移入されなかったのか?往時、明日香や平城京時代には在って、崩壊し果て現代では見ることが出来なくなってしまったものだろうか?とにかく今の日本では見ることの出来ない石塔に違いない。

去年慶州に来たときにもどうしてもこれが見たくて寄ってみたが運悪く修復作業中、足場が組まれテントや網に囲まれ殆ど見られず終い、今回もまたまた訪れた。

此処は慶州新羅遺跡群の中でも最東端、国立慶州博物館前の信号からテクテク耕地の中に広がるだだっぴろい「皇龍寺跡」などを巡りながら約30分も歩くと到着。

なんと言ってもこのレンガを積み上げて造ったような石塔は僕の目にはなんとも新鮮・・・、中国西安の小雁塔(しょうがんとう)などの磚塔を模して造ったものだと言われています。

此処はしっかり慶州の観光地、人出も多く拝観料もそれなりに取られます。

芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔と呼ばれるこの石塔は、善徳女王の634年、芬皇寺創建と同時に造られ、13.6mの石積み基壇の上に建つ高さ9.3m三層磚塔。

長さ30~45cm、厚さ4.5~9cmの安山岩切石をレンガ状に積み重ねています。

下部四方向に開口部があり、入り口を仁王像が守り、基壇四方向をヘテ(日本の狛犬に相当する?)と海獣に守らせている。(この両方がヘテだとする資料も有って良くわからないが・・・)

<これがヘテと呼ばれる韓国狛犬>

これなら全く日本の神社に居る狛犬と変わりは無いですが・・

このヘテは高句麗から、海獣は倭寇の進入を食い止め、国(新羅)を守ることを願って据えられたものだといわれ、その方角を向いています。

有る資料などに拠るとヘテは獅子と海獣を両具した聖獣だとも言われ、ソウル景福宮光化門前で見られるそうですが??

こちらどう見てもオットセイかセイウチ、倭寇から新羅を守るには頼りなさげです。

現在は三層のこの磚塔も幾度と無く崩壊再建を繰り返したらしく、明らかな根拠は無いようですが当初九層磚塔ではなかったか?と言われています。

現在有るものは1915年、当時植民地化していた日本人の手によって解体復元されたもののようで、どの程度原型を留めているかは解らないとされています。

しかしそれはさて置き、開口部脇の仁王像を西面から・・・

向かって左の仁王像・・

右側・・・・・どの像も胴長短足、余り格好よくない。

南面は・・・

左側像は顔が削ぎ落とされたよう・・

右側像・・・・全て像高150cmぐらいかな??

次に東面・・・この左右の基壇隅には例の海獣

こちら左側・・

こちら右側で顔が潰れています。

ぐるっと一廻りしてこちらは北面

左側・・

右側の仁王・・・しかし、どの仁王にも迫力に欠け・・・・、これじゃなあという気がしないでもない。

こちらは去年行った時の画像です・・・・・これではやっぱり艶消しですもんね。

おまけは境内片隅にあった石仏さん。

やっぱり顔も手印も削がれています。

戦乱の犠牲者か??儒教のせいなのかは判然としないようですが??付近の古井戸からも大量に首の落とされた石仏が発見され(後から何点か紹介しますが)慶州博物館の庭に展示されています。

因みに芬皇寺(ブンファンサ)三層模磚石塔は韓国国宝30号に指定されています。

撮影2010.10.16/2011..10.2

場所


慶尚北道慶州市 瞻星台(チョムソンデ)

2011年10月29日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国南部の旅のガイドでは必ず仏国寺と共に写真で紹介される慶州史跡の中心地に有る独特の形をした石造建築物です。

韓国は遠い昔から戦乱に明け暮れた地、木造の建築物や仏像は殆どその戦火に見舞われたのか殆ど現存せず、唯一破壊しつくされても残ったのはこういう石造物と石仏・・・・。

慶州市内、中心部より繋がる史跡地域のほぼ中心に位置する瞻星台付近の史跡は、僕の訪れた10月最初の日曜日には身動きも出来ないほどの車列の波が続いていた。

瞻星台は煉瓦状石を円筒形に積み上げた天体観測施設だとされていますが、実のところ色々異説もあるようです。

総高約9m強、基盤石の一辺は約5.3m、その上の円径は5.1m、上部径は3.1mと成っていて意外とどっしりしています。

厚さ約30cmの煉瓦状切り石(花崗岩)約360個を27段に積み上げ、12段目から15段目には真南に向の窓が設けられいています。

新羅が百済や高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一するきっかけになった善徳女王(632~647)の7世紀の造立、今から約1400年程前の事。

色々資料をあさってみましたがこれが当時のままのものか崩れたのち近世に成って再建されたものかは不明でした・・・。

1400年もこのまま立ち尽くしていたとは思えないけどね。

詳しいことなど知る由もないがこの独特な石の建造物は造形的にも素晴らしい形の様な気がします。

韓国国宝第31号指定。

向かいには土饅頭がいくつも並ぶ仁旺洞古墳群。

撮影2011.10.2

場所


慶尚北道慶州市 狼山衆生寺(チュンセンサ)磨崖三尊佛

2011年10月28日 | 韓国 石仏:史跡他

気の毒なほど焼け爛れ、粉々にひび割れまさに現状は留めないが、地蔵殿と言う立派な覆い堂を建てられ、今でもしっかり祀られている磨崖石仏です。

慶州市街地近くの新羅史跡が広がる東方、耕地とKR線を挟んで狼山と呼ばれる小高い丘陵が在り、付近にも新羅史跡が点在している。

観光地慶州も市街地を少し離れてしまうと、僕が子供だった頃の田舎に瓜二つ 、あの懐かしい牛の啼き声がひびき、家畜の糞入り混じった強い臭いがして、それこそ田舎道を放し飼いの鶏が走り廻ってたりする。

鄙びた田舎寺の感が強いここ衆生寺(チュンセンサ)も度重なる戦禍に見舞われたのであろう、すっかり寂れ果てた田舎寺院の感が強い。

新しい物であろうが境内入り口には豚とも犬ともつかぬこんなユニークな・・・・やっぱり狛犬さん??。

本堂左手脇の山裾に青丹も鮮やかな地蔵殿・・・・、赤茶け焼け爛れた岩に磨崖石仏。

中尊には高麗仏画に登場してくる、頭に頭巾被った地蔵と思われるような姿、法衣をすっぽり肩から被って、足は結跏趺坐、手印は法衣の下に隠れて不明ですが、おぼろげながら頭光背と身光背が見えます。

両脇にもそれぞれ、殆ど目視でも解らないほど痛んだぞうが有り、向かって右には剣を持つ神将像・・・

向かって左にも同じく神将像・・・、どちらも武人像をあらわしているのではないかと言われ、三尊磨崖には違いありません。

近くによってもご覧の通り・・、剣も持ってるのも確認できませんが、韓国でも珍しいものでその彫刻手法から統一新羅時代のものだとされ、宝物第665号指定。

この辺りまで来る物好きな日本人もまた珍しいかも??。

撮影2011.10.3

場所

スカイビュー


慶尚北道慶州市 斗垈里阿弥陀三尊磨崖石仏

2011年10月27日 | 韓国 石仏:史跡他

高速道慶州ICのちょうど裏側に当たる村外れから、かなり山道を奥に進んだ緩やかな斜面の小さなお堂の背後に静かに佇んでいました。

石仏が山ほど残る慶州の町外れ、小さな邑の山中深くに在るこの磨崖石仏を訪れる人など余程のマニア以外はいないようです。

山奥の小さな駐車場から約10分、山肌を拓いた台地に小さく簡素お堂、それでも寝起きする聖職者は居る様です。

お堂脇の短い石段を登り詰めると山肌に立つ大岩に磨崖三尊石仏。

阿弥陀三尊だと言うが、あの日本の定印阿弥陀を見慣れた僕には如何もしっくり来なくて、弥勒と呼ばれたほうが頷けるような??

右手は下に自然に下げ、左手は胸の前で親指と中指を合わせている。

すらりとと伸びた体躯は蓮華座の上に立ち像高約3.2m、こちらで良く見かける新羅様式の二重光背。

顔容は穏やかにわずか下方を向け、目は少し開きぎみ・・・衣文は薄く流麗にあらわされている。

斜め横から見ると伏せ目がちの目に慈悲深さをたたえ、よく引き締まっているが、わずかに微笑んでいるようにも???

向かって左手の勢至菩薩像??

向かって右手の観音菩薩像??・・・共にスリムな体躯で女性的な表現ですが手尊に比べ風化磨耗が進んでいます。

此処から慶州市街を挟んだグルブルサジ(堀佛寺址)石仏と良く似ていて、統一羅時代の代表的な作品だと言われています。 

撮影2011.10.3

場所


慶尚北道慶州市 斷石山神仙寺磨崖佛像群

2011年10月26日 | 韓国 石仏:史跡他

慶州市街より西方郊外へ車で約30分、霊山南山に対峙するように狭い盆地を挟んで峰を並べる断石山、その西山麓頂上近く、秘境とも思えるところに断石山神仙寺という古刹があり、その脇に聳え立つコの字状に屹立する岩塊を石窟にみなし内壁三面に石仏、石像を彫り刻んでいる。

断石山西側麓を走る幹線道路より神仙寺へと続く小さな集落を越え、奥まったオドッ禅院まで進み、その先もタクシーの進めるところまで進んでもらうが余りの急坂に運転手のアジョシもギブアップ、「此処から先は歩いてくれ」帰るまで待ってるからと降される。

降ろされた場所から断石山神仙寺までは約1kmのきつい登り、しかしこの山道は車も通る幅があり舗装されていた、僕の車なら登って居ただろうが・・・

<ポクポク音の聴こえる辺りまで歩くとこんな山道、工事車両はキャタピラ付きの運搬車でした>

4日続きの山登り、此処まで来たら諦める訳にも行かず登り初めて約30分強、遠くからあの韓国独特の木魚の音・・・・・「OOO観音菩薩・・」というリズミカルな祈りの声も聞こえて来る。

確かに秘境、一体誰が訪ねて来るのやらと思うが此処韓国ではハイキング登山が盛ん、何人かのそうした人達には出遭った。

それ以外に見かけたのは工事中の人達ばかり・・・・、此処もまた寺院の整備工事に余念がなさそう。

登るのもきついような斜面に数棟の堂が建ち、今まさに新しい堂も建設中、歩くのにも苦労するほど急斜面です。

いつ崩れ落ちるや解らないような大石がごろごろする境内は人が通るだけの幅しか取れ無い。

大雄殿の中はこんな塩梅、韓国の寺は大体こんな感じです。

問題の石窟は大雄殿の建つ斜面渓谷を挟んで右側山肌に巨岩が折り重なり、真新しい透明ドーム状の覆屋で覆われた下に有る。

此処まで来て一瞬たじろぐような様相・・・、屈内には何段もの足場が組まれ、ただでさえ狭い内部は殆ど見通しが効きません。

おそるおそる進入して撮影するもののメインカメラの超ワイドは使えず、殆ど苦労して此処まできたのが報われないような結果となってしまいました。

コの字型、三面二切り立つ岩壁は三面共に10m強もあろうか?間口は約2mほど奥行き10m強と行ったところでしょうか??

いずれまた出直す事になるでしょうが?やっぱり足場が邪魔で殆ど肉眼でも見えません。

入り口正面から左手岩壁に刻まれている七体の菩薩像のうち上部に刻まれた四体。

下部に一体の菩薩像と・・

脇の岩壁に刻まれた二体の人物像・・・・・。

頭に古新羅の冠帽を被りチョゴリを着、香炉と柳の枝をそれぞれに持っていて供養者像だとされています。

同じく北岩と呼ばれる並びの大岩には像高8.2mにも及ぶ如来立像、惜しいかなこの写真では顔容も定かではないが、それほど具象化された像には見えないが、いわゆるこの石仏が主尊の弥勒だと言うことです。

奥壁、入り口に対峙するように切り立つ岩には殆ど見えなかった像高6mの菩薩立像、蓮弁と足元がかろうじて見えた程度です。

<コの字石窟は左奥壁面に隙間があります>

どうにも撮影できなかった右手壁面にもやや小さめの菩薩立像と四百字に及ぶ尊像造立文が刻まれているようです。

なんとも情けない紹介ですが、この上、断石山頂上付近にもまだ余り知られていない磨崖石仏が有る様なので、それと一緒に再度此処を訪れることを誓って急坂を下った。

七世紀前半、古新羅を知る上には貴重な石窟だとされ、韓国国宝第199号指定。

撮影2011.9.3

場所


慶尚北道慶州市 南山三稜谷磨崖釈迦如来坐像(画像更新)

2011年10月25日 | 韓国 石仏:史跡他

前回は三稜谷から南山ピークの金鰲(クムオ)山へ、今回の南山は茸長寺谷から金鰲山に至り三稜谷を降りると言う前回とは逆コース

新しくみつけたベストスポットからこの石仏の写真が撮れたので再UPしました。

三稜谷への下り道、ちょうどこの巨大な磨崖石仏を見下ろせる岩の上から・・・・・・、若い僧侶と共に随って来た信者がこの石仏の前で礼拝する姿に出遭って、思わずシャッターを切りました。

三稜谷登山口より一時間、急な登りとなって上禅庵の庵へと続く・・。

こんな山奥の小さな庵にも法灯を守り続けている聖職者が住まいしていてちょうどハイカーの休憩場所にも成っている。

この三稜谷一番の石仏はさらにこの庵の背後岩山を登った上の岩壁に光背ごと彫り出し、その前面に高肉彫りの釈迦如来を刻んでいる。

頭部は鮮明に良く仕上げられているが体躯は荒削りで線彫り様式、像高7m、この三稜谷一番の大きさを誇る磨崖釈迦如来坐像です。

表情豊かな顔、丸い眉毛に半眼の目、口は強く閉じられ全体的な彫刻手法から見て、統一新羅時代の後期に造られたものと見られているようです。

慶尚北道有形文化財第158号

撮影2010.10.17/2011.10.2

MAP


慶尚北道慶州市 南山茸長寺谷三層石塔

2011年10月24日 | 韓国 石仏:史跡他

石塔となると石仏よりも解らない僕ですが余りにも見事な景観にあり、素人目の僕にもその端麗さは充分に解る三層石塔です。

前回紹介の石仏より再度ロープ使ってよじ登った岩山、他には何も無いの岩盤に孤立、屹立しています。

岩盤を直接基壇に見立て上層基壇を設けその上に三層の塔身部と屋根を乗せている。

とりわけ特徴的な装飾や彫り物が有るわけでもないこの三層石塔は、新羅の石塔としては小振りな高さ約4.5m。

それにしても見事な景観の中にあって、慶州南山の代表的な仏教遺跡として必ず登場するほどです。

岩山に松林、眼下に広がる慶州郊外の黄金に色づいた里山風情。

9世紀統一新羅の造立、1200年もの間風雪と共にこの場所で建ち続けていたのだろう。

撮影2011.10.2

場所


慶尚北道慶州市 南山茸長寺谷石仏坐像/磨崖如來坐像

2011年10月23日 | 韓国 石仏:史跡他

この石仏達には去年、この南山に登った帰り道に寄る予定だった石仏。

大邱(テグ)から慶州(キョンジュ)に来て、いの一番に遭いに出かけた。

昨日のきつい山登りの翌日一番の山登り、少々疲れ気味の女房の小言を聞かぬふりしてまたまた山登り・・・。

市街からタクシーで約20分、南山中西部山裾に有る茸長里邑の奥、茸長寺址への登山道入り口までつれて来て貰った。

この谷は昨日に比べればまだまだ穏やか、谷筋道のあちこちに石積が見られます・・・・・、整備されたハイキング道とは言えこの程度・・・。

途中何度か迷いそうに成りながらも、ネットガイドで何度も読んだロープ伝いの岩場に辿り着く。

此処まで麓の村から約一時間半・・・・、昨日のように人と出遭うことも無い。

ロープ伝いに登りきった小さな台地に先ず目に飛び込むこの姿。

もう何度写真で見たことだろう、今こうして目の前に現実としてあるこの見事な円盤状台座を持つ石仏・・、しかし頭部は欠損、いかにも惜しいと言うか悔しい

三層を持つこんな円盤状台座にはお目に掛かったためしがない。

最上部台座と仏身は一石で造られその台座には見事が蓮華がぐるっと彫りめぐらされている。

基壇部は自然石を利用、その上の初層と二層目は石塔のそれに準えられ石仏の台座とは言わないようですが??

それにしても特異な様式でその不安定さからか??過去に何度も崩れ落ちたようです。

総高約4.5m見上げるほど高い台座に座する仏身は結跏趺坐する像高約1.5m弱、首無し坐像。

見事に流麗な裳裾と背後の三段重ねの蓮弁も見掛けた事がない・・。

頭部欠損のため想像するしかないが通肩衣の僧衣から僧形石仏ではなかったか??と言われています。

統一新羅造立、宝物第187号指定。

一方、ちょうど台座のような岩盤上の斜面から突き出した岩には磨崖如来坐像。

ちょうど三角握り状、大岩の正面中心部に二重光背を持ち、左手は膝の上にのせ、右手は下げて降魔触地印を示す。

台座は中央に大きく刻んだ蓮弁、左右は上向き蓮花を細長くを長く刻み付け

その上に大きく膝を張り、結跏趺坐する如来坐像をレリーフ調の薄肉彫りで刻み出している。

頭部は螺髪(らほつ)で、穏やか笑みをを浮かべながらも、引き締まった顔付で緊張感が伺える。

肉感豊かとはいえないが衣文は繊細に表現され、活気に満ちたものと成っている。

像高1.6m、統一新羅時代8世紀半ばを代表し、宝物第913号指定。

 

因みに此処は茸長寺の高僧が庵を結んで棲んでいたといわれています。

この石仏前の岩から見る里山は日本のそれに殆ど変わらない。

ただひとつ韓国の山に、あの杉の植林は無い。

撮影2011.10.2

場所


全羅北道南原 龍潭寺(ヨンダムサ)址石佛立像/他

2011年10月22日 | 韓国 石仏:史跡他

像高6mに及ぶ単立する巨大な石仏です。

しかし、やっぱり戦火に飲み込まれれ、最早見る影もなく焼けただれ、激しく傷んでいます。

前回紹介の萬福寺址より南原市街を越へ西方約12~13km、龍潭の流れが大きく迂回する内側台地に龍潭寺址があり、現在小さなお堂が2~3再建され、僧侶がその址を守っています。

ネットのページなどを見ると青天の下この巨大な石仏の写真を見かけるのでこの覆屋が建ったのはそう古い事では無さそう。

若い僧侶は僕たち日本人初老の僕たちを気持ちよく迎えてくれて、親切に接してくれた。

宝物第42号に指定されたこの石仏は、楕円形の自然石を利用した台座の上に立つ、一石から彫り出した如来形石仏で高麗初期の造立。

光背も頭上脇から欠損したのか奇妙な形に成っている。

それにしてもよほど戦火が激しかったのか石仏の焼け爛れかたもひどいもの・・

尊顔の目鼻立ちなども全く想像にまかすより他にない。

両手は前で腹部で組んでいるようにも見えるが激しい傷みでなんとも・・・・・。

この石仏の前で僕たち日本人は手を合わせ懺悔するより他になかった。

一方石仏の前には石燈籠・・・

その前方には今にも倒れそうなほどに細く高い七層石塔が建っている。

高さ約10m、高麗時代の造立。

他では見かけない造形・・・、こんなものが倒れもしないで良く建ち続けているもんだと不思議に思わざるを得ない。

撮影2011.9.30

場所


慶尚北道慶山市 冠峰石造如来座像(カッパウィ)

2011年10月21日 | 韓国 石仏:史跡他

この石仏は今回の旅では一番の難所、麓の登山口から、山道を約2.2km、冠峰と呼ばれる八公山の峰の頂上に有る大岩を穿って造られている。

それこそ途中からは杖か手摺がないと登れないような石段が延々と続いて途中何回休んだことか。この日は前に紹介した「桐華寺薬師如来磨崖石佛」とこのカッパウィだけの予定、いくら時間が掛かろうと登る決心でいた。

此処は大都市「大邱(テグ) 」の観光地(ハイキングコース)の様に宣伝されているがその実、行政的には隣町「慶山市(キョンサン)」に位置し、そちら側の禅本寺からも登山道があり、その寺の石仏だと言うことです。

はじめチョロチョロ中パッパ・・・・取り合えず登山道も最初はこんな具合で整備の行き届いた緩やかな登り・・。

それにしてもこの人の多さには驚く、これがみなこの石仏に会いに行く人、遭ってきた人・・・・。

歩き始めて約40分くらい、そろそろきつくなって来た頃、目の前に現れる韓国独特のストゥパー、韓国の寺域などでは良く見かけるけど未だに固有名詞が解らない。

目の前の高い石垣上に冠岩寺の境内・・・此処で冠峰までの約半分、この境内を越えていよいよ本格的な山登りとなる。

ガイドには登り約1時間と書かれているが、僕は最初から2時間と踏んでいた。

この登りだもん、とても一気には登れません、こちとら足腰貧弱な日本の初老・・・・、10歩進んでは一息。

それにしても、ぞろぞろぞろぞろ・・・・人並みは絶えません。

一休みした山頂近くから見た景色・・・・真下に見えるのが慶山(キョンサン)側の禅本寺かも??

やっと辿りついて見た石仏前のそれなりの空間はところ狭しと人の波・・・・五体投地用の敷物と、まさしく石仏にぬかずく人達。

石仏の前には供物を売る店もあり、此処はやっぱり韓国仏教の今に生きる一大聖地なのかも??

此処で願いをすれば必ず一つは叶えられるとか??受験や恋愛成就のために登ってくる若者の多いのもうなずける賑わいです。

前置きが長く成り過ぎましたが・・・石仏石仏、どうもみんな真剣に祈っているようで、中々思うようには撮影が出来ませんが・・・・。

俗称カッパウィと呼ばれるこの石仏は冠峰頂上の岩塊から一石で彫りだしたもので、冠をかぶったような平らな自然石を頭上に載せている。

石仏は像高4mという巨大さ、左手上の薬壺は見当たりませんが、方形裳掛座上に座する薬師如来だとされていて韓国一の薬師如来聖地になっているようです。

正面岩越に見る尊顔はよく引き締まり厳しい表情で緊張感に満ちている。

背面に屏風のように立つ岩壁が光背の役割を果たすよう造られているのか??右手は膝上でいわゆる降魔触地印を示している。

新羅27代王である善徳女王の7年 (638)に造立したと伝わる古石仏ですが、やっぱり此処までは戦禍も届かなかったようで、時代を感じさせないほど見事な保存状態です。

韓国宝物第431号指定。

大きな白毫、切れ長の半眼、1500年もこの地でこれほど見事に残っているのは不思議なくらいです。

苦労して登った甲斐は充分にありました・・・ただ、この八公山中にはまだまだ見るべき石仏が何体も有るようですが、またの楽しみにして下山。

往復3時間やっぱしちょっときつかった・・・。

撮影2011.10.1

場所


大邱(テグ)広域市 八公山桐華寺薬師如来磨崖石佛(パルゴンサン トファンサ ヤクシマエソクブル)

2011年10月20日 | 韓国 石仏:史跡他

文字もろくに読めなく言葉もしゃべれなく地理にも不案内、おまけに乗りなれた車にも乗れないと言う事は、かくも多くの時間と多くの努力が必要なんだと言う事をまざまざと感じた・・・。

こんな所にある磨崖なら日本では、さっとそばまで車で乗りつけ撮影していただろうが・・・。

この薬師如来磨崖石佛のある桐華寺は韓国中部地方きっての大都会「大邱(テグ)」の東北部に連なる霊峰八公山中腹に建つ新羅時代の西暦493年創建と伝える名古刹。

再興の折、冬にも桐の花が咲いたと言う伝説から寺名を「桐華寺」また、桐の林に棲み、その実をついばむという鳳凰に因んだ建物や装飾が多いことで知られる。

因みに大雄殿前に相対峙する楼門は「鳳棲樓」と呼ばれ、壬辰倭乱(文禄慶長の役)時には此処に嶺南僧軍司令部を置き僧軍を指揮したという。

さすが有名寺院、この寺の境内には案内所が二ケ所も有って薬師磨崖石佛の事を聞くがイマイチ要領を得ない、それもそのはず33mにも及ぶ巨大な統一薬師如来石仏が新しく造られそちらの方が有名に成っている。

要領を得ないまま何度も聴くうちに問題の薬師如来磨崖石佛は、ず~~っと下の参道に建つ「鳳凰門」脇、斜面に屹立する岩壁に刻まれているという。

広大な山岳寺院その鳳凰門までは参道を下って約20分ばかり歩くという・・・、下れば登りも有るのになあ・・・。

途中ちょっと脇に入れば巨大な統一薬師如来石仏が有るのに脇目も振らずにテクテクテク、ぴったり20分も歩くと、あの韓国独特のケバイ門、その脇に磨崖を思わせる岩盤。

来る人、帰る人、老も若きも誰もがこの前で立ち停まり、深々と体を曲げしばし手をあわせていく。

 高さ約5~6mの岩肌の上部に総高2m程の浮かぶ雲に乗る薬師如来石仏が刻まれている。

頂部には庇のように別岩が飛び出しまるで石仏を雨露から守っているようです。

仏身は浅く彫り沈めた二重光背野中央にやや薄い中肉で刻みだしその姿は何処から見ても見事に美しくその完成度は素晴らしい。

石仏は左手に薬壺を持ち右手は膝上で降魔触地印を示し、下向する蓮華座上に右足を突きし結跏趺坐する。

光背や飛雲の細工もレリーフ調ながら細緻にわたり見事な彫りです。

此処からそう遠くない慶州(キョンジュ)南山、神仙庵の磨崖菩薩半跏像と共通するものがある。

像高は約1mと大きくないが・・9世紀統一新羅後期の像立、宝物第243号に指定されている。

風化破損も少なく保存状態は良好です。

撮影2011.10.1

場所


全羅北道南原市 萬福寺址石仏/他

2011年10月19日 | 韓国 石仏:史跡他

KTR全羅線南原駅に程近い市街地からは少し外れた小さな川沿いに有る大伽藍跡の萬福寺址。

此処も文禄慶長の役ですっかり焼け野となり、つい最近の1985年に発掘調査が終え、現在3200坪のだだ広い境内は国の文化財に指定され、石塔や石の遺物のいくつかが靜かに寺跡を見守って佇んでいます。

史書に拠ると高麗時代の文宗(1046~1086年在位)に創建され、五重塔や像高12mにも及ぶ金銅仏が有り、数百名の僧侶が修行に励む大規模な寺院であったようです。

現在整備された寺域は、いくつかの土壇と新しく建てられたお堂が一棟、韓国の田舎民家をバックに、あとは緑一面の野原となって整備開放されています。

史跡の中に足を踏み入れるとなんとも目につくこの石造物・・・・・・??なんとも奇妙な石仏??チャンスンを思わすような柱状体躯に振り返ったような頭部。

土俗的な顔付き、両手は前に掲げ腰から下には裳を付けていて・・、なんとも見かけた事がない。

石人像と呼ばれているようですが???良くわからない。

ここを訪ねた第一の目的は何と云ってもこの石仏さん。

今まで草むしりをしていた数人のオモニが国定宝物石仏の傍らで昼寝をしていて、なんともおおらかな有りのままの韓国を感じる。

像高約2m、台座を含めた総高は3mにも及び、台座光背を含め一石の花崗岩より彫り出している。

円頭光を中心に見事に装飾された光背、良く引き締まった体躯、手首から先は欠損しているが施無畏印(せむいいん)、与願印(よがんいん)を示していたと考えられる如来型石仏です。

永らく土中に有ったのか比較的保存は良いが戦乱に遭ったのは素人の僕にも一目で解る。

この寺の創建時(1046~1086)と共に造立されたと考えられ、宝物第43号指定。

堂の傍らに建つ萬福寺五層石塔。

塔高5.5m 、やっぱり戦乱の傷痕か欠損していて痛々しい。

 

寺の創建時に造立、宝物第30号に指定されてる。

宝物第32号指定の幢竿支柱。

萬福寺創建時の高麗時代のものだとか・・・。

韓国の古寺址には必ず有ると言える程良く見かける・・・・、荒野に屹立する幢竿支柱は韓国の原風景かも??

しかし日本では見かけたことが無いけど、どうしてこれは伝わらなかったのだろうか??

これも創建時に造られたと云う佛像台座、宝物第32号指定。

どんな仏像が鎮座していたのだろうか??

台座から想像するにかなり素晴らしい巨像が有ったに違いない。

因みにここは誰でもが通りすがりにでも足を踏み入れる事が出来る全くのオープンスペースです。

撮影2011.9.30

場所


全羅北道南原市 新溪里磨崖如来坐像

2011年10月18日 | 韓国 石仏:史跡他

雨の日の翌日は爽快に晴れ渡る青空が特に蒼く、韓国全羅北道田舎周りの旅をより印象強いものにしてくれた。

しかしこの日からメインカメラは失っての片肺飛行になってしまった。

まるで大和の白鳳仏そっくりのその顔容、やっぱり此処は飛鳥のふるさと・・・あの「国宝山田寺仏頭」にも瓜二つ。

この朝早くに益山のモテルからKTR全羅線で約一時間足らず、南原駅に降り立ち先に遠方の1箇所を廻り、昼一番にタクシーを拾いここまでやって来た。

市街からそう遠くは無いけど、運転手のアジョシには悪いような悪路の山道、ボディーを擦り、腹を打ちながらもこの石仏の有る参道入り口まで連れて行って呉れた。

あの運転手のアジョシには感謝感激です。

参道といえど松林が広がるただの山道、建物らしいものは何も無く10分ばかし斜面を登ると石垣を詰まれた台地状の一角に石仏の頭が見え出してそれとわかる。

こちら韓国では見慣れた大きさだが・・・・やっぱり大きい。

斜面台地に突き出した大岩自体を彫り刻み、光背と共に一つの石で造成したマエソクブル(磨崖石仏)・・・。

総高3.4m、統一新羅時代の石仏様式を良く踏襲した高麗初期の造立だとされている。

 岩全体を光背に見立てその前面を丸彫り近く深く彫り刻み、岩盤をそのまま台座とした上に如来坐像を彫りだしている。

円形頭光には単純化された11枚の連弁、外部には連珠紋帯、さらに火焔紋を全面に配している。

全体的に保存は良く、戦乱の影響を受けた形跡も見出すことは無い。

豊満できれいな顔に豊かな表情、量感豊かな体躯は大和の白鳳仏を彷沸とさせてくれる。

手印は特殊な古式で如来には違いないが仏名まではわからない・・・。

韓国の場合そんな時は大抵ミロクブル(弥勒佛)、韓国宝物第423号指定に指定されている。

撮影2011.9.30

場所


全羅北道益山市 蓮洞里(石仏寺)石佛坐像

2011年10月17日 | 韓国 石仏:史跡他

韓国3日目の終わりに訪ねた石仏は鄙びた農村の古寺という風情で山門には弥勒山石佛寺の扁額が掲げられていた。

狭い境内に入るとオモニが庫裏の縁側で真っ赤な唐辛子をより分けていて、一声掛けると傍らの大雄殿を指差してくれた。

現在でも大雄殿の本尊として、信仰対象の石仏さんとして篤く祀られています。

ぱっと見には、上半身が白っぽく、頭部がアンバランスで異常な感じの強い石仏です。

やっぱり日本の倭寇、「文禄慶長の役」の犠牲になり頭部は失われ、近代に新しく後補されたようで馴染まない。

それでも光背や、体躯は百済時代(西暦600年頃)造立当時のまま残されており貴重な石仏だといわれています。

弥勒山の山号通り弥勒石仏なのでしょうか??どうしてもた「タコ入道」のような頭部の異様さが邪魔になります。

賑やかな供台で下部は全く確認は出来ないのですが四角形の裳掛台座になっているようです。

韓国宝物45号に指定され、光背高は約3.3m、頭部を除いた像高156cmとかなり大きい。

因みに光背は法隆寺百済観音の原型だとされています。

撮影2011.9.29

場所