愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大分市 伽藍石仏

2010年03月26日 | 石仏:九州

なんとか辿りついたもののすごく大回りをしたものだ・・・

ナビのやつはとんでもない道路を引きずり回した挙句に、大分美術館横からとんでもなく細い山道を奈落へと下るようにしてここまで辿り着かされてしまった。

後から考えるとちゃんとしたの集落からここまで登って来られたような????。

ここは大分川河口域上野台地の南斜面、往時この一帯には太平寺という寺が勢力をはっていたところで、この石窟仏はその寺院ゆかりのものであるらしい。

しかし現在では「伽藍大明神」などと呼ばれている杵築神社の前にこの伽藍石仏が残るだけ、他には何の面影もない。

薄暗いすり鉢状になった境内??の横手崖状になった丘すそに三っつの穴を掘り石窟として奥壁と周りの岩壁に石仏を刻みだしている。

穴はさほど大きくも無く、間口約1.8m、高さ、奥行き、共に1.5mぐらいで、周りは昼なを暗く、石仏の彫られている奥壁は撮影にも 一苦労する。

向かって右側の石窟は間口 約170Cm・高さ 約160Cm、入口両脇の岩面、左に多門天と良く見えないが右に不動明王??、奥に阿弥陀三尊(観音は欠失)が刻まれていると言うが、全く崩れ去っていて殆ど解らない。

中央の石窟の奥には像高54Cmの阿弥陀如来坐像が彫られている  彩色の少し残る舟形光背を彫りくぼめ定印の阿弥陀如来を彫り出している。

向かって左側の石窟は、間口 150Cm・高さ 135Cm・奥行 130Cmの中に小窟龕があり、どこから持ってきたのか別石の阿弥陀如来があるが、窟内は風化が激しく全く何も解らない。

石窟の石仏は厚く彫り出しており、鎌倉時代末期から室町時代の作という。

撮影2009.12.28

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岩屋寺磨崖石仏群

2010年03月19日 | 石仏:九州

気の毒過ぎるほどの痛み方です、こう成ってしまえば最早、石仏跡とでも呼んだ方が良いのかも??

しかし覆い屋は立派でまだまだ新しく、しっかり信仰の対象として地域に根ざしているようです。

前回紹介の元町石仏から歩いて数分、元々は両者ともに圓寿寺(岩屋寺)の敷地内に位置し、古国府(ふるごう)の交差点横の台地裾岩壁に刻まれていてほぼ同年代に造られたものと考えられるそうです。

17体の石仏が並び、薬師如来座像を中尊とした薬師三尊像の左右に、釈迦三尊、阿弥陀三尊の二組の三尊像を配したものと言われていますが、殆何がなにやら状態、最も保存状態がよい右端の十一面観音像でもこんな状態です。

しかし、朱や青の彩色も残り造立東寺はさぞかし荘厳、豪華な物で有ったのだろうと想像することが出来るが、こんな状態ではただただ呆然、哀れをさそう・・・・・。

像高約2.4m堂々とした大きさ、藤原前期の作と考えられているが、他の石仏とともに風化劣化が激しすぎるため県の史蹟指定を解除された。 

後はご覧の通り見る影もなく無残な石の起伏にしか見えないが、これだけの規模で17体もの石仏が並んでいた造顕当時はさぞかし目を見張る

素晴らしさだった事が伺える。

右手の覆い屋には千仏龕(せんぶつがん)と呼ばれる無数の小さな窪みの有る石塊が残されており、かっては小仏像が収められていたと推測されている。今はそのかわりの写真や絵葉書などが貼り付けられたりしていた。

このような形の物を見るのは初めてでした。 

撮影2009.12.28

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大分市.元宮磨崖仏

2010年03月16日 | 石仏:九州

これは見事な丈六石仏、まるで定朝の木彫仏のような素晴らしい磨崖石仏です。

大分市街の南東部、R10号線岩屋寺信号の少し手前、元町の新旧入り混じった集落がJR九大本線沿いに軒を連ねている。

通称薬師堂と呼ばれている元宮磨崖仏は国道からJR九大本線の線路を越え街並みの南外れ、南面する丘陵裾の崖面に刻まれている。

壁面からせり出す様な覆い屋を2棟連ね、周りは付近住民の為の広い駐車場になっている。

向かって右側の立派な覆堂が薬師堂と呼ばれる建物で、外気が直接影響しないよう堂内正面には大きな1枚ガラスを嵌め込んでいるが、脇から磨崖正面真近真で寄る事が出来る。

堂内は照明も行き届き、石仏好きには至れり尽くせり状態です。

薬師堂の名前で呼ばれている通り、その三尊形の中尊は台座共に像高5m強、結跏趺坐で丸彫りに近い厚肉彫り、薬師如来と伝えられているが両手首から先が共に欠損、確定的な事は言えない。

磨崖仏で、本尊は薬師如来と伝えられる像高が3mを越える如来形座像である。向かって右には多聞天立像、左には不動明王立像と矜羯羅童子とセイタカ童子の不動三尊刻まれているが、殆ど不明なほどに欠損してしまっている。

中尊如来石仏の顔面の欠落部分から鉄釘を打ち込んだ跡、右手首の付け根から鉄芯が見え、粘土や別石で補って塑造、彩色をプラスして仕上げたものの様です。

本尊の迫力の溢れる体躯と優和な眼差しなどは圧倒的な荘厳さと魅力を併せ持っているだけに脇侍の損傷のひどさは残念この上ない。

大分市街中心地に近いこんな場所にこれほどの磨崖仏が隠れているとは・・・・近くには古国府と言う地名があったりして興味深いところです。

平安後期の作とされ、国指定史蹟 とされている。

別棟の覆屋には、風化欠落激しく像容も定かでない三尊形式の磨崖仏が2組、今にも自然の崖面に戻りそうです。

撮影2009.12.28

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杵築市 倉成磨崖仏

2010年03月15日 | 石仏:九州

今回国東最後になる磨崖石仏です。

かなり朽ち果て、守るのも限界なのか?? もう、いつ崩壊してしまってもおかしくないほどの状態でした。

ここは、国東半島の根元部分を、縦断するR9号線、宇佐方面から来ると杵築市山香中東交差点を左折、直ぐに小川沿いに右折山手方面に向かったドン突き、小さな倉成集落が点在する丘の上の砕石場跡のような切り取られた崖に彫られている。

磨崖への入り口近くには観音堂が有って間違う事は無く、脇手にあるダラダラ登りの野道を暫く登りきると左手。

残された山裾の一部、この崖に俄か造りのような粗末な覆い屋を掛け、奥壁に龕を造り、厚肉彫りの地蔵菩薩立像を中尊にして、向かって右へ倶生神坐像・十王坐像・童子立像の三体、左へは童子坐像・十王坐像・倶生神立像の三体の合計七体が刻まれている。

とは言うものの、崖壁面には十王に断裂、亀裂が走り、今直ぐに崩れ果て瓦礫になっても何の不思議も無いほどの無残さ、右手十王の頭部は欠落している。

左手、倶生神立像と右手、童子立像 は確認不能、また壁面前には別石で阿弥陀如来立像、更に梵字仏を脇に兜跋毘沙門天立像の切り取り岩壁が置かれている。

砕石時に切り出されたものだろうか、いずれこの傍に在ったものには違い無さそうですが哀れを誘う痛ましさです。

そんな中でも「王」字を刻んだ王冠をつけて床几に坐る十王像が一際目を引く。

左右十王ともに童子・倶生神を脇侍とした三尊形式となっていて鎌倉末期(1300年頃)の作造だと考えられるそうです。

今度、この磨崖仏にこのままの姿で出逢えるかどうか一寸心配な仏さんです。

中尊、地蔵立像。

撮影2009.12.27

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宇治田原町 岩山の勧請縄

2010年03月11日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

昔流に言えば隣村である宇治田原町、宇治田原町の入り口は郷の口、今でこそ街並みを避けてR307のバイパスが町内を一気に抜けてしまう。

集落内を走る旧道は、郷の口、荒木、岩山と各集落を抜けて湯屋谷、信楽方面へと続ていた。

宇治田原町の町役場をを越え、中学校を超えた辺りが岩山、集落はなだらかな丘陵状斜面にへばりつくように家並みを連ねている。

集落入り口に当るのだろう、双栗天神社(さぐりてんじんじゃ)の大きな社碑の立つ辻にポールを建て、その間に約10mばかりの勧請縄を渡している。

主縄には何の飾りも無く、いとも単純明快、逆にこれだけ単純な勧請縄も珍しい。

神社社碑の脇にはそれなりのケヤキが在って以前はこの木を勧請木の片側として使って居たのではないだろうか??

撮影2010.2.20

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四王権現社,福真磨崖仏 

2010年03月09日 | 石仏:九州

国東の山にはとんでもないものが、さも何でも無いように残されている。

前回紹介の天念寺のちょうど裏山あたりの山裾、車で一山越えて走る事約10分ばかし、県道654号線を暫く走っていると福真磨崖仏と書かれた小さな看板を堂rp脇に発見。

周りは小さな川沿いに広がる田園、掲示板通りに田圃のあぜ道ほどの農道を進むと小川に掛かる小橋の向こうの山裾を登る石段が見える。

こんな何も無いような山裾に磨崖石仏??、近くに六郷満山、中山本寺の無動寺が有るのでその関係なのかとも思ってみたりする。

小川に掛かる石橋を渡ると小さな可愛い石鳥居、高さ1.5m程度でとても僕には潜れそうにも無いのでそれはパス、四王の「くぐり鳥居」と呼ばれているようです。

扁額には神仏混交を示す大権現の文字、細い石段を上がっていくと狭い空間があって右脇に石室のような覆い屋、この奥壁一杯に多くの石仏が刻まれている。

中央には少し彩色の残るどこか優しげな金剛界大日如来、向かって右端には少し大きめで不動明王その間を埋めて六地蔵座像、左端には多聞天、その間には六観音座像、主尊大日の周りに金剛界四仏座像を刻み込んでいて、総数 19体を半肉彫であらわしている。

殆ど人も寄り付かないのか?石段や周りにも長らく人の形跡はなさそう、かなり荒れているのが一目でわかる。

周りは薄暗く、石仏は苦今にも崩れそうな石堂内、まともな写真は撮れなかった、おまけに剥落風化が激しく、多聞天などは全く識別不能状態でした。

主尊の大日如来は像高52cm、不動明王89cm、その他約50cmとみな小ぶりですが、それは高さ160cm、幅450cmの金剛界曼荼羅です。

こうした鄙びた里山の山裾に神と仏を自然のままに受け入れ、伝え守って来た国東の懐の深さを感じる。

因みに像立は鎌倉後期~室町初期だと言われています。

撮影2009.12.27

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天念寺、川中不動三尊他

2010年03月07日 | 石仏:九州

前回紹介の富貴寺からそう遠くない一山越えた谷筋の川沿いに建つ天念寺。

天念寺は六郷満山の峰入り修行の寺院で、長岩屋山天念寺(ながいわやさんてんねんじ)といい、かつては十二院坊のあった六郷中山本寺で、川岸にそそり立つ絶壁から飛び出したような茅葺き屋根の本堂と隣りには鎮守社の 身濯神社(みそそぎじんじゃ)が並列している。

この本堂で「鬼会行事」が行われる。

本堂に安置されて居る薬師如来

この寺は「鬼会(おにえ)行事」 の寺として知られ、旧正月七日には勇壮な鬼の法舞、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

天念寺の前を流れる長岩屋川の川中に不動三尊を刻んだ大岩があって、中央に不動明王2.7mを配し、矜羯羅童子、制多迦童子両脇侍1.7mとされ、室町時代の造立とされる。

この地方のどの岩とも同じく凝灰岩で岩質が粗く風化が目立知、表面は地衣類が覆い、その顔容も定かには見えない。

しかし川中の巨岩に立つ不動三尊は国東の長閑な自然と良く溶け込み、天念寺の景観と共に国東石造仏教文化の味を良く醸し出し、氾濫を繰り返す川の水害防除の願のために造られたと伝え、「川中不動」として親しまれている。

本堂脇の崖には羅漢像・・・。

身濯神社の横の岩には頭巾をかぶった役行者の坐像が刻まれていて、明廃仏毀釈までは六所権現とと呼ばれていたそうです。

しかし国東の崖は何処を見ても」何か刻まれてるのでは無いかと思うほどに磨崖が多い。

撮影2009.12.27

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富貴寺の石仏/石造物。

2010年03月05日 | 石仏:九州

冨貴寺(蕗寺)は国東半島、六郷満山のなかで満山を統括した西叡山高山寺の末寺、また平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院でもあるとか・・・。

小さい境内ながらも正面山門の奥に立する阿弥陀堂(富貴寺大堂)は、宇治、平等院鳳凰堂、平泉、中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられるほどで、現存する九州最古の木造建築物であると同時に国宝にも指定もされ、国東を訪れる旅人は誰もが立ち寄るところのようです。

まず目に付くのは、県道脇から続く参道石段入り口両側にある石灯籠に似た六地蔵石憧(ろくじぞうせきとう)、高さ215cmで江戸時代の作造とされている。

仏前を飾る布製の幢幡を六組または八組を合わせた形のものを石造物としてあらわしたものが石幢と呼ばれるもので、灯篭では火袋に当たる六角柱に六地蔵を刻み込んでいて地域に住む人たちの「魔除け」としての意味合いを持つ。

右側の石殿

左側の石殿

石幢の脇には十王石殿、本体軸部石に対して大きすぎるほどの入母屋屋根を乗せ軒裏には垂木まで刻みだす精巧さ、片側の本体軸部二面に三体と二体の道服を着た石仏、左右合わせて十体、十王で一組、室町時代の民間信仰の遺品とされ大分県指定有形文化財。

左側石殿横には参道石段と並んで民俗臭の強そうな石造物。

これはいったい何?笠付きだけど??良く解らない。

こちらはお馴染み庚申塔、青面金剛、国東ではこんな形??やっぱり大きな笠(屋根)を載せている。

傍にはこんなものも、地蔵か、僧形八幡??、やっぱり地蔵のようです、石殿軸部の残欠かなあ??

石段参道を登ったところがこの山門。

両側には国東おきまりの石像仁王、顔は怖いというより何処と無くコミカル・・・・。

山門を越えるとカヤの樹と樹齢500年という公孫樹の大木、奥に見えるのが国宝・富貴大堂(阿弥陀堂)

内陣中央には本尊阿弥陀如来坐像(重文)が安置され、堂内の壁画(重文)は日本の四大壁画の一つに数えられています。

残念ながら堂内撮影禁止にてここに載せる写真はありません。

堂脇右側にに並ぶ石造品。

その名もずばりの国東塔、その名の通り約九割が国東半島に集中しているという、宝塔の変種、これは室町時代の国東塔。

笠塔婆が四基並んで建っていて鎌倉期の造立、県指定文化財に成っています。

その背後、石壇上には十王石仏と右端、奪衣婆。

国東石造仏教文化のオンパレードのような境内は独特な風の吹く空間です。

撮影2009.12.27  

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東近江市 神明宮の勧請縄

2010年03月02日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神



 


東近江市野中心街から、愛知川を超えて北方向に約10分ほど走った旧集落地域、南清水の変則的な四辻脇に鎮座する神明宮。




南清水集落の入口に当たるのだろうか?神社境内脇を通る道路の頭上にこの縄が掛け渡されている。



NETを検索やっと見つけた資料に依ると・・・・2月始めの亥の日、午前1時に社殿において、唐門屋根に蒸米のにぎり飯をのせた素焼きの皿を置く。こうして社守の資格を得ると、蒸米・大根の漬物と神酒で祝いを行う。その時、勧という長さ11メートル・太さ15センチ程の縄をない、その中ほどにで輪(60センチ・太さ15センチ程)をつくり、御幣を10本余り刺す。


  ほぼ上記の通り間違いないが、境内のケヤキの幹から道路を跨いでポールまで7~8m、中心には檜の枝葉の環、を吊り下げ、上下左右に二本ずつの子縄を組み、竹串に刺した御幣を三本突き立てている。




ポールの根元には白砂の狭い祀り場が有って、青竹に弊、その根元には篠竹の御幣が14本?見える。



東近江のスタンダードな勧請縄の様式を踏襲している様に見える。




撮影2010.2.13


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