愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山城の神社・・・宇治市菟道・厳島神社(いつくしまじんじゃ)

2017年04月12日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

宇治川右岸の丘陵地、西国第十番札所として名高い三室寺近く、古い集落「莵道」の旧街道に参道入口と石鳥居を持つ立派な神社です。

元は、ここより西へ約300m、大池と呼ばれていた巨椋池の古代「三室津の跡」と推定される地に鎮座していた水辺の神で 、元禄年間に現在地に遷るまでは、弁財天社と呼ばれ祈雨の神として崇敬されていた。

 少し坂道で雰囲気のある参道を登って行くと、深い杜を背によく整えられた境内が広く開けている。

社殿は杜を背に二社並び、手前が新羅神社、向こうが厳島神社・・・共に山裾の南側に南面して鎮座している。 

本殿には厳島神社の他に四つの神社合祀、それぞれには扁額が掛けられ、向かって左から稲荷大神・八幡大神・厳嶌大神・菅原大神・熊野大神と成っています。

尚、本殿は宇治市の文化財に指定されています。

本殿脇に建つ摂社新羅(しらぎ)神社・・・大津園城寺(三井寺)の新羅善神堂を勧請したものです。

また、参道入口近くには摂社大神宮が鎮座している

撮影2015.10.06


山城の神社・・・宇治市五ヶ庄古川・許波多神社 (こはたじんじゃ)

2017年03月15日 | 神事:行事:寺社: 仏像

前回に引き続き「許波多神社」という同社名を持ち互いに、延喜式神名帳に許波多神社三座『山城国宇治郡 名神大 月次新嘗』とある論社となっている。

宇治川に架かる隠元橋からそのまま東へ約200m、府道245号線に面して一の鳥居が建ち、木立の中の参道がまっすぐ奥へと伸びている。

境内への入口に丹塗りの二の鳥居が建ち、正面に拝殿と・・・

それ越しの本殿が見え隠れ・・・

この地は、元「御旅所」だった場所で旧社地は柳山と言い伝えられ、現在の黄檗山万福寺大駐車場に隣接する黄檗公園付近に当たるらしく、旧くは「柳大明神」と呼ばれ、江戸時代までは「柳神社」を正式の社名としていた。

明治8年1875、陸軍火薬庫建設につき社地全域の提供を仰せつけられ、同9年、御旅所だった現在地に移転、同時に神社名を柳神社から許波多神社と復称した。

 祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天津日子火瓊瓊杵尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)

かつて、社殿より続く東西2町の馬道で競馬(くらべうま)の神事が行われており、「競馬発祥の神社」とされ、競馬ファンや競馬関係者の信仰を集めている。

撮影2015.8.12


山城の神社・・・宇治市木幡東中・許波多神社 (こはたじんじゃ)

2017年03月08日 | 神事:行事:寺社: 仏像
 
木幡在の中程、 旧奈良街道の東側に一の鳥居が建ち民家の間を長い参道が東に伸び、その奥に鎮守の杜がある。
 
実はもう一社、ここより南南西へ約1.2km、宇治川右岸に同じく許波多神社が鎮座しており、共に延喜式神名帳に、『山城国宇治郡 許波多神社三座 名神大 月次新嘗』とある式内社の論社と成っている。
 
今回は所謂、木幡在東中に鎮座する「許波多神社」からのUPです。
 
 
参道の奥で右折、直ぐに西向きの「二の鳥居」が建ち・・・
 
 
 
奥に拝殿・・・
 
 
 
拝殿の奥に拝所と瑞垣・・・
 
 
内陣は、両側に本殿二棟が並び建ち、右の本殿が許波多神社本殿で、左のそれは合祀されている田中神社とみられる。
 
 
 
祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒアメノオシホミミ)・天照大御神(アマテラスオオミカミ)・天津日子根命(アマツヒコネ)と成っています。

 
境内左手北側には末社・合祀殿-/市杵島姫社・稲荷社・愛宕社/八幡社/天照皇大神宮/春日社 4祠が南面して並ぶ。
  
撮影2015.8.12
 

山城の神社・・・宇治市大久保町・延喜式内旦椋神社(あさくらじんじゃ)

2017年02月27日 | 神事:行事:寺社: 仏像
 
近鉄京都線大久保駅西南西約500m、現在ではすっかり新興住宅に囲まれた鎮守の杜に鎮座する。
 
 
この神社も南北に長い参道を持ち、参道入口と中程と境内への入口前を生活道路が横切っている。
 
 
当社は元、現在地より西方約500mの地に鎮座していたが、天文19(1550)に焼失、その頃現在地に在った「天満天神」20余年断絶していたので、天神を再興するとき旦椋神社と天神を合祀。
 
 
 
神社の再興後は村の「産土神」として、天神社、栗隈天神社、栗隈天満宮などと呼ばれ、明治10年6月、式内旦掠神社と認定されました。

昭和60年5月15日、旦椋神社本殿及び棟札7枚」が京都府登録有形文化財に登録されています。

 
 高皇産霊神・神皇産霊神・天満天神の三神を奉祀しています。

宇治市大久保町北ノ山鎮座・・・延喜式神名帳に、『山城国久世郡 旦椋神社』とある式内社。

撮影2015.7.30


山城の神社・・・・巨椋神社(おぐらじんじゃ)

2017年02月20日 | 神事:行事:寺社: 仏像

近鉄京都線小倉駅北東約1.5km、旧大和街道沿いによく目立つ大きな鎮守杜に鎮座する式内社・巨椋神社(おぐら じんじゃ)は旧小倉村の産土神として崇敬されてきた。

境内は南北に細長く大木が林立する古い鎮守杜で、神宮寺だと思われる二寺院が並んでいる。

『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「久世郡 二十四座 大十一座 小十三座」の「巨椋神社」に比定され、 古代(奈良時代-平安時代)、巨椋氏の氏神として祀られたとみられている。

   平安時代初期、第52代・嵯峨天皇(786-842、在位809-823)の勅命により創建されたとも言い、平安時代末期、藤原氏を祀り、春日神社と呼ばれ以後、近世(安土・桃山時代-江戸時代)まで、春日神社と称されていた。

巨椋氏は旧巨椋池の東、南部に住していたとされ、池には宇治川、桂川、木津川が流入し、古代より開発され港津が開かれ、当社もその氏神として祀られた。

本殿は覆屋の中にあってその姿をつぶさに拝観することは叶いません。

祭神は武甕槌神(たけみかづちのみこと)、経津主神(ふつぬしのかみ)、天児屋根神(あめのこやねのかみ)、姫大神(ひめのおおかみ)を祀る。

また、境内参道には第55代・文徳天皇皇子・惟喬(これたか)親王(844-897)が、子供の愛護のために創建したという子守神社が鎮座・・・祭神は天磐樟船神(あまのいわくすぶねのかみ)を奉祀。

この子守神社こそが巨椋連を祀った本来の神ともいわれ、地元では巨椋神社より子守神社でよく知られている。  

撮影2015.7.30


山城の神社 宇治市伊勢田・伊勢田神社

2017年02月13日 | 神事:行事:寺社: 仏像

南北に長く伸びる参道の入口と、境内直前を一般道が横切って居るのが珍しく広い社叢の式内社です。

近鉄京都線伊勢田駅北へ約500m足らず、細い道路が入りくんだ市街地の中に鎮座する。

参道入口の前を横切る手前には若宮八幡神社があり・・・

 もともとは別集落の氏神だったが、現在では伊勢田神社が管理していて、境外摂社の様に成っている。

長い参道を抜けると道路を挟んで奥行の無い境内・・・真正面に拝殿とその奥の本殿。

 

延喜式神名帳に、『山城国久世郡 伊勢田神社三座 鍬靫』とある式内社。

 当社の創建時期は不明だが、山城国風土記によれば、大宝3年(人皇42代文武天皇の御世)9月初め奉主田幸祭礼とあり、約1,280余年前に鎮座、明治6年村社に列せられ、同年6月延喜式内伊勢田神社と決定。

 当社は当初の穀霊信仰(国つ神の社)から、延喜式が編集される頃までには、伊勢神宮とのつながりができ、「伊勢田」すなわち伊勢神宮の料田も設けられ、天照大神を祀るようになった伊勢信仰(天つ神の社)へと変わった。

 

 木柵と金網で囲われ、古びた社殿(一間社流造・檜皮葺)が南面鎮座する・・祭神:天照皇大神・手力男大神・萬幡豊秋津姫大神

境内左手に薬医門を有し周囲を板塀(瓦葺)で囲われた中に社殿(一間社流造・瓦葺き)が、東面して鎮座する作田社(大歳神)

社伝によれば、伊勢田町井尻(当社の西約500m)から、江戸末期の水害のため当社境内に遷されたという。

撮影2015.7.30


山城の神社・・・・八幡市橋本・狩尾神社(とがのおじんじゃ)

2017年02月07日 | 神事:行事:寺社: 仏像

要塞の様にコンクリートで固められた小高い山頂に鎮座する狩尾神社。

 木津川、宇治川、桂川と京都の三川が淀川に合流する南方の丘陵地、淀川を挟んで「天下分け目」の天王山と対峙する。

コンクリートで塗り固められた小山の周りはマッチ箱のようなニュータウンの新興住宅で埋め尽くされ、小高い境内からは周りの景観が手に取るように見える。

住宅地の通りに向かって建つ石鳥居を潜り、急な切石石段を登り切ると・・・

南面して拝殿とその奥に本殿・・・

岩清水八幡宮、淀川下流からの参道にあたる狩尾社はこの地「橋本狩尾」の産土神ですが、明治10年に石清水八幡宮の飛地境内摂社となりました。

 

現在の狩尾社の本殿は慶長6年(1601)造営、石清水八幡宮に現存する建造物のなかで最も古い社殿で重要文化財指定。

詳細は不明ながら、祭神:天照大神、大己貴命、天児屋根命の三柱 

撮影2015.9.26
 
 

山城の神社・・・八幡市内里・内神社(うちじんじゃ)

2017年01月31日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

<南面する拝殿本殿に続く杜の入口にある石鳥居>

八幡市内里集落の西外れ、三方を農地に囲まれた緑濃い鎮守の杜に鎮座・・・延喜式久世郡の内神社に比定される古社です。

境内へは専ら集落に接するこちらの脇鳥居、脇参道の方から入っている。

社伝では、山城内臣の死後に祀ったのが創建とされ、中世には春日宗像神社と称して現在地の南東600m付近の「小字古宮」に大永年間(1521~28)まで内神社があって、天正年間(1573~92)に現地に遷ったと伝えている。 

古宮にしても現鎮座地にしても木津川に近い平低地に有り、延喜式内の古社の鎮座地としては相応しくなく、おそらく美濃山(内里の西南丘陵)に鎮座していたのではと言われている。

寛保三年(1743)に建築された本殿は平成15年に再建・・・祭神:山代内臣(やましろうちのおおかみ)・味師内宿禰 (うましうちのすくね)

旧本殿は京都府の登録文化財として本殿横に置かれている。

撮影2015.8.5

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山城の神社・・・八幡市岩田里・石田(いわた)神社

2017年01月23日 | 神事:行事:寺社: 仏像
 
 
 木津川右岸サイクリングロードを通るたび、見下ろす一面田圃の中のこんもりした緑の鎮守杜に鎮座する・・・いかにも小学唱歌の「村まつり」の歌詞を彷彿とさせる佇まいです。
 
 
八幡市の東南端、木津川堤に近い八幡市「東岩田集落」東外れの農道より田圃の中を長い参道が続き、鎮守杜への入口に石鳥居が建つ。
 
 
さほど大きくない鎮守杜の境内、その正面奥に拝殿
 
 
拝殿奥に漆喰塀に囲まれた神域内に本殿が建つ・・・しかし普段は拝殿入口が施錠され本殿を真正面から拝することは出来ない。
 
 
 祭神不詳ですが一説には『磐裂神(イワサク)』とありますが確認できません。
 
撮影2015.8.15
 
 

山城の神社・・・八幡市上津屋・石田神社(いわたじんじゃ)

2017年01月16日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 木津川左岸、流れ橋に近い堤防直下の鎮守杜に鎮座する石田神社(いわたじんじゃ)・・・この神社は木津川の対岸にある城陽市の上津屋にも氏子が居り、往古この集落が木津川を挟んで存在していた。

 社伝によると大宝二年(702)、隣村の内里の山中に現れた素義鳥(すさのお)神を上津屋の地に祭祀、創建・・・当地が度々木津川の水害に見舞われ、素義鳥(すさのお)神と同体の「牛頭天王」が疫病に対する守護神として信仰を集め、「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」と称されてきた。

現在の本殿は、嘉永四年(1851)の造営、拝殿も同時期のものですが、享保二十年(1735)の再建時に葺いた刻銘入り鬼瓦を屋根に載せています。

現在、神輿蔵となってる建物は、もと宮寺の福泉寺のもので、その脇に建つ十三重の石塔は南北朝時代の作と考えられ、貴重な石造遺品として知られて居ます。

 

撮影2015.8.5


山城の神社・・・八幡市岩田・式内「石田神社」(いわたじんじゃ)

2017年01月10日 | 神事:行事:寺社: 仏像

木津川左岸、八幡市の南東端「岩田」地域の府道22号線と第2京阪道間に広がる田園地帯の鎮守杜に鎮座する。

延暦6年(787・奈良末期)山階(やましな)の石田神を久世郡石田荘に遷座するようにとの神託があり当地へ勧請したと式内石田神社明細帳にあるが詳細不明。
 

江戸時代には「御霊社」と呼ばれていたが、明治6年(1873)に村社に列し、同22年(1889)に御霊社から石田神社へ改称、久世郡の式内社である石田神社(イワタ)に比定されている。
 
 
祭神は五十日足彦命(イカタラシヒコ)で、垂仁天皇の第五皇子・・・命の後裔氏族・石田君がその祖神を祀ったのが始まりとも推測される
 
 
当社は江戸時代には御霊神社と呼ばれ、平安時代の朝野で畏れられた御霊神八座の一宮田麻呂」祭祀していたらしいが現在では不詳。
 
 
末社として水神社を祀ります

撮影2015.8.15

 
 

 


山城の神社・・・玉津岡神社

2017年01月04日 | 神事:行事:寺社: 仏像

木津川左岸東方、井手台地、上井出集落背後山裾に鎮座する「玉津岡神社」

集落中程から続く長い石段参道を登って行くと一の鳥居をくぐり左手に、かっては「玉津岡神社」と密接な関係に有っただろう古刹「地蔵院」が有り、その脇に二の鳥居、それを潜って少し登ると広く開けた高台の境内に至る。

玉津岡神社神社の創祀は古く、飛鳥時代540年、下照比賣命が兎手(いで)玉津岡南峰(現在地付近、下津磐根とも)に降臨し、祀ったことに始まるという。

また、奈良時代、731年、井堤左大臣・橘諸兄は、橘一族の氏神として井手郷美津梨に椋本天神社を創建したと伝えられ、玉岡社、椋本天神、玉岡春日社などと呼ばれて居た。

数多く並ぶ摂社の一つにこの地に縁深い橘諸兄(たちばなのもろえ)を祀った橘神社があることでも知られている。

 

 現本殿は、江戸時代、1687年の造営で、檜皮葺、春日造、極彩色、京都府登録文化財に指定され、椋本神社(元天神社)の本殿を移築したといわれている。

 こんな山里に在って歴史の重厚さを感じられる佇まいです

撮影2013.3.20

 

 


山城の神社・・・式内・酒屋神社(さかやじんじゃ)

2016年12月27日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

 延喜式式内社に、『山城国綴喜郡 酒屋神社』とある式内社・・・

京田辺市の西方の山手を南北に走る山手幹線興戸宮前交差を西折れ、100m程そのまま進むと、石畳参道に石灯篭のある其れと解る山裾の鎮守杜に突き当たる。

 一の鳥居は参道を50m程進んで直角に右折して直ぐ・・・

正面に割拝殿があり、その奥、一段高く本殿が鎮座している。

 

 社頭に掲げる由緒には、「社伝によれば、神功皇后が通ったとき3箇の酒壺を神社背後の山上に安置して諸神を祀り、再度通ったとき社殿を創立したとある。
 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連の一族が来住して酒造りを伝え、祖神を祀ったものともいう」とある。

尚、当地一帯は、神功皇后の出身氏族・息長氏と深い関係がある地域として良く知られています。

神域中央に、千鳥破風・唐破風をもつ切妻造の本殿(間口1.5間・奥行一間)が鎮座するが、全体像はよく見えない。

祭神は津速魂神(ツハヤムスヒ)応神天皇(ホンダワケノミコト)・・・近く、同市内「宮津」に鎮座する「佐牙(さが)神社」と深い関係があると考えられている。

撮影2015.8.07

 


山城の神社 久御山町佐山・雙栗神社(さぐりじんじゃ)

2016年12月20日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

新興住宅団地の一角、此処だけ往古の侭を残した大きな鎮守杜に鎮座する式内社。

延喜式神名帳に、『山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫』とあるが、宇治田原町の雙栗神社から勧請と言われている。

 

 鎮守杜野三方向が完全に住宅開発され本来なら脇鳥居のはずがこの場所からでないと出来ない様になっていて不自然さを感じる。

中世以降石清水八幡宮の影響をうけて椏本八幡宮と呼ぶ、現本殿は明応3年(1494)の建立・現在拝殿は修理工事中

本殿(重文)は、三間社流造、正面に向拝付、檜皮葺。蟇股に「花と鳥」、「紅葉と鹿」、脇障子の上部に「栗鼠と葡萄」の彫刻を施す。室町時代末、1494年頃に建立されたという。

詳しくはこの説明板よりお願いします。

撮影2015.7.14

 


山城の神社 城陽市富野荒見神社

2016年12月13日 | 神事:行事:寺社: 仏像

旧富野荘の東端、現在では「スーパーアルプラザ」西端の鎮守杜に鎮座する延喜式内論社の一

 

大化3年(647)9月小篠峯に神霊が降り、在地の三富野部連金建が神殿を創建、寛正2年(1461)3月五社谷より社殿を移し、安羅見五社天神宮と称したと言われている。

「境内から見た薬医門と石鳥居」

明治21年1月9日に荒見神社と改称するまでは、阿良美五社大明神とか安羅見五社天神宮と称していた。

神井の湧水は諸禍退散生命根源だと言われている。

「拝殿正面」

慶長9年(1604)9月本殿、末社(御霊社)を再建改築・・・本殿は国の重要文化財(元国宝)

祭神は天火明尊、天香語山尊、天村雲尊、阿比良依姫尊、木花開耶姫尊の五柱・・・本来は大歳神一座

撮影2015.6.15