愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

伊賀市 空鉢山不動尊

2014年06月30日 | 石仏:三重

何やら「信貴山縁起絵巻」を思い起こす様な名前の「空鉢山」の巨岩に刻まれた磨崖石仏。

この山は何か信貴山とまつわる謂れでも有るのでしょうか??

空鉢山はJR関西線伊賀上野駅傍らを掠めて山中を越え諏訪、円柱方面に抜ける狭隘国道422号線沿い、やがて峠に差し掛かる少し手前、三田神社奥から山道を30分ほど登りきったところ。

山道を喘ぎ喘ぎ登ると谷間の一画に二間四方程の簡素な小堂が建ち不動明王の旗が揺れている。

往時、このあたりには空鉢山常住院という大寺が有ったようですが、戦火で消失荒廃、後麓に、空鉢山常住院西盛寺として再興され現在も天台真盛派と称し、西教寺の末寺としてその法灯を残している。

しかし、不動堂正面に立って見てもそれらしき石仏などは見えない。

不動堂脇に回ると堂外岩肌に小さな地蔵磨崖仏・・・・像高40cm程の定形地蔵立像。

堂と岩盤の間に人一人が何とかすり抜けられるような隙間が有り、ちょっと失礼して堂内内陣へ・・・・少し見上げるとこんな感じ。

不動堂と言うからにはお不動さんが居るはずと、目を逸らせばそれらしき磨崖仏。

舟形を彫り込み中に不動明王らしき立像が一体・・・・風化摩耗が激しいのか?どうも確信が持てない程度の像容です。

上の不動明王が本体だとすると、この地蔵菩薩達は追刻なのだろう・・・

あちらにもこちらにもと言った感じで岩肌に刻み付けられて居る。

これは向かって左側、堂外岩肌に刻まれて居た双体地蔵磨崖仏。

しかし、やっぱりどう見ても不動明王磨崖より、この四体の地蔵磨崖の方が目立って居る。

撮影2012.5.12


奈良市 狭川両町光明寺の石仏

2014年06月29日 | 石仏:奈良

 

狭川、光明寺にも室町末期の地蔵石仏が立つ。

旧狭川郷の南端、両町の外れ、県道33号線沿いの高台、石段の奥に建つ光明寺。

地蔵石仏は境内の片隅、寺墓入口脇に六字名号板碑と並び建っている。

総高約130cm、舟形光背を負い、室町末期の特徴ある蓮台に立つ。

像高91cm、顔にほのかな笑みを浮かべた錫杖、宝珠の定形地蔵立像。

顔面や光背などに赤錆色の地衣類が這って居てちょっと気の毒な状態。

傍らにはちょっと小さいけれど、これも室町後期だと思われる阿弥陀石仏??

しかしここでの石仏はやっぱりこれ・・・ちょっと傷んでいるが、風情ある覆屋に安置された六観音石仏。 

六観音石仏は高さ約1m足らずの砂岩製、向かって右から如意輪、十一面、不空羂索、聖、馬頭、准胝の六観音を配したもので珍しい

江戸時代中期の享保17年(1732)銘だが、なかなか出来栄えは良い。

撮影2012.5.13


奈良市狭川 門垣内墓地??の石仏

2014年06月28日 | 石仏:奈良

先日紹介の金剛院墓地への山道、左手脇の墓地にも、何やら中墓寺や金剛院墓地に良く似た阿弥陀石仏等々。

墓地の奥津城に三体並んで中世の匂いが強い石仏さん達。

少しエラの張った裾すぼみの舟形光背を持つが、像容は先の金剛院墓地や中墓寺のものに良く似ている。

おそらくはこの石仏も同作者の手に依るものではなかろうか???

塔婆受けを目の前に置かれた中央の阿弥陀さん。

目の前の塔婆台が邪魔になり真正面からの写真は撮れませんが・・これも室町後期の特徴を良く表わしている。

こちら向かって右端の地蔵菩薩立像、力なくこじんまり、まとまって居ます。

三体の傍らに少し間を開けちょっと小振りな阿弥陀石仏。

やっぱり室町後期から戦国期に造立されたものの様です。

これは墓地入口建てられて居た珍しい三石六体地蔵。

近世のものですが、舟形光背の中に、こけし人形の様な単純素朴な地蔵を二体づつ刻みつけ、三石を並べ六体地蔵としている。

こんな形式の六体地蔵は始めて見ました。

撮影2012.5.13


奈良市下狭川 金剛院墓地の石仏

2014年06月27日 | 石仏:奈良

 

往時この地を治めた狭川氏の菩提寺、金剛院の跡地に残された石仏。

前回に同じく下狭川、 県道33号線を挟んだ山手、中墓寺奥の山中に「狭川家金剛院墓地」と刻まれた石柱が建ち、その奥、馬場跡だと言う参道を進むと鬱蒼たる緑滴る中にひっそりと石碑群の建ち並ぶ墓地が有る。

途中、参道脇にたった一体、ひっそりと立つ阿弥陀石仏。

この顔付き、像容はどこかで見覚えの有る様な・・・・。

この山中への入口、中墓寺に安置された「大永四年の阿弥陀石仏」に瓜二つ・・・まるで双生仏??。

中墓寺に安置された石仏類はこの地より移動されたと言うから当たり前なのだろうが??どうしてこの阿弥陀さんだけがここに残されたのかが解らない。

向かって左の肩先から、ちょうど石仏の喉元、右肩下へと大きな断裂痕・・・まともならここに2体並べられて居たのかも??

中墓寺の阿弥陀とは同作者に依る、同時期のものじゃ無いだろうか??

どこか哀しげに主の居無くなった墓地を守って居るかの様です。

撮影2012.5.13


奈良市下狭川町 二石六体地蔵:阿弥陀石仏

2014年06月26日 | 石仏:奈良

 

奈良市の北の端、京都府笠置町の県府境に近い下狭川に、この地域では珍しい二石の六体地蔵が在る。

 木津川に合流する白砂川の左岸、急な斜面を登った下の在所の奥深く、波打つように斜面を下る棚田を眼前、緑に隠れた斜面に墓地が有る。

 棚田のドン突きから墓地への山道を登ると、切り返しの踊り場にこの六体地蔵が安置されて居る。

高さ50~60cm、幅1m程の板石を二枚並べ、其々に3体づつの地蔵立像を刻み付けている。

苔生し果てた像容は「こけし」を六体並べたような素朴さと、溶け合って居る・・・・いずれ名もない村の石屋さんが刻んだろうか??

更に石段を登り、墓入口の無縁墓には、中世の匂いが漂う阿弥陀と地蔵石仏。

多分にどちらも室町期のものだろうが・・・・これはどう見ても村の石工の仕事ではない。

 撮影2012.5.13


奈良市 和田墓地の阿弥陀三尊石仏

2014年06月25日 | 石仏:奈良

先日の鉢ケ坪より田圃道や小高い在所道を北へ約1km、和田墓地にもこれはと言う石仏が在るらしいので寄ってみた。

和田墓地は集落の北外れ、大柳生から笠置で木津川に合流する白砂川の源流域、左岸斜面に良く整備されながらも、色濃く古いしきたりを残した両墓制墓地。

ここでも土葬の真新しい白木の墓標が建って居た。

埋め墓正面に近世の小さな六体地蔵と、その脇に少し大きめの石仏が2体並んで居る。

向かって右手背の高い方の石仏は、室町後期の永禄七年の銘を持つ阿弥陀三尊。

残念ながら、ふ風化激しく、地衣類が全面を覆って居ますが、石仏の多いこの大和川地方に於いても珍しい石仏です。

中央に阿弥陀、左右に脇侍の観音、勢至、を配している。

もう片側にも室町後期の造立だと思われる地蔵石仏が建って居る。 

撮影2012.5.12


奈良市 鉢ケ坪墓地の地蔵石仏

2014年06月24日 | 石仏:奈良

 

前回の天理市福住別所から一山越えた奈良市田原の墓地に残された地蔵石仏。 

福住別所よりジグザグ峠道を越え、なだらかな田原の山里に入った所が矢田原町、その右手小高い所に集落が有り、集落外れに鉢ケ坪墓地が濃い緑の中、埋もれるように有る。

現在でも古いしきたりを残し白木の墓標が建つ埋め墓としても利用されて居る様な気配。

この地蔵さんも受け取り地蔵なのだろう、僕にも見覚えのある弔いの痕が残って居た。

地蔵石仏は総高150cm足らず、重厚な舟形光背を持つが、上部を袈裟懸けに欠損し少し痛々しい。

それでも像高120cm足らず、その彫りの深さからも重厚さと、鎌倉期の彫刻の力強い気迫が感じられる

 深いと言えば余りにも深い彫りは、その錫杖の先に良く表れ、見事だと言うしかない。

室町期の地蔵石仏は多いが鎌倉期の地蔵石仏は多くない。

こんな鄙びた寒村の受け取り地蔵にしては立派過ぎます。

隣には小さな箱石仏が・・・・・。 

撮影2012.5.12


天理市 福住別所下之坊の不動明王石仏

2014年06月23日 | 石仏:奈良

地域からは下之坊と呼ばれる山寺の古刹に残された不動明王石仏。

先日紹介の七廻り峠への道筋、正式名称を「普光院永照寺下之坊」と称し、その門前に「婆羅門杉」と言う見事な二株の巨杉が聳えて居る。

鄙びた山寺風情と点を突き刺す巨杉とのコントラストが圧巻で僕も何度となく訪れて居る。

正面、石段下の石垣に板石で組み込んだ石龕を設け、中に50~60cmの不動明王石仏を安置している。

石龕の造作が七廻り峠のそれに酷似していて一人頷いてしまう。

不動明王石仏は腰から下部が地中に埋もれ詳しくは判りませんが、舟形光背に火焔を刻み込み、右手に利剣、左手に羂索を持つ。

 憤怒相で有るはずの尊顔は楓花の為かすっかり穏やかな顔つきに見えてしまう。

ここはやっぱり密教寺院、七廻り峠の不動さんも何となく勝手に納得してしまう。

撮影2012.5.12


天理市 七曲がり峠の地蔵石仏

2014年06月22日 | 石仏:奈良

昼尚薄暗き昔ながらの埋墓脇の七廻り峠、その頂上に立つ「受け取り地蔵」さんだろうか??

この石仏も前回と同じように再撮して来ました。

山裾の福住別所から下之坊寺寺を越え七廻り峠を降れば中畑町、何十年か前にはおそらくこの道が山間集落を結ぶ唯一の街道だったのだろう??

 峠を下って中畑町に降りたことは無いのだが、今はすっかり獣道にも似て、たまにハイカーが通るだけの様です。

地図を見ると、この下った先にクネクネ七廻りがある様です。

高さ約2.2m、幅1.9mの石龕を荒削りな花崗岩板石で造り、自然石の笠石が良い風情を醸し出す。

石龕の中には大柄な地蔵石仏とちょっと小柄な不動明王・・・・ちょっと不思議な取り合わせだが??

地蔵石仏は二重光背を負い、総高190cm・・・蓮台はは地中に埋もれ確認は出来ませんが二重蓮華座の上に立って居るそうです。

10年ほど前の時にもそうだったが、未だにこのマジックペンの眉毛がはっきり残って居る。

子供のイタズラだとは思うが?まあバカなことをしたもので未だに恥を晒してる・・・・簡単に消せると思うのだが??未だに残っているのはどう言う訳??

そんなことならと・・・・・僕がちょちょっと画像処理、消しゴムで消してみました(笑)

像高146cm、光背向かって右には鎌倉中期の建長五年十一月七日(1253)の文字がしっかり読み取れる

彫りの深さもさる事ながら、鎌倉様式古式地蔵を良く表して居る。

脇に立つ不動明王・・・・なぜこんなところにお不動さん??

多分元々ここにあったものでは無くどこからか持ってきたものだろうが??・・・そう悪いものでは無く室町期??

石龕脇には小石仏や墓石等が乱積みにされ・・・

中には中世の匂いがする石仏も・・・。

一方、右手脇には近世の六体地蔵と、これはと思える地蔵石仏。

凛々しく美形な顔立ち、向かって右手の光背には多分永禄だと思える銘がある。

いずれにしても室町期の地蔵石仏に違いない。

今は辺境の地も鎌倉室町期にはメインの街道筋だったのだろう。

撮影2012.5.12


天理市 福住別所双体笠石仏

2014年06月21日 | 石仏:奈良
 
このブログを始めて間もない頃一度UP、再度あの辺りをぶらついて来たのでこの石仏さんにも手を合わせて来た。
 
国道25号線、名阪道福住インターより奈良市「田原の里」へと抜ける県道186号線沿い、福住別所のゴルフ場進入道脇に野晒の侭、ぽつんと立っている。
 
 
やはり野に置け、野の仏、覆い屋を懸けられるでもなく、祠に祀られるでも無く・・・
 
 
緑の中に佇む石仏さんもどこか穏やかな表情を浮かべて居る様で・・・・この風情が石仏ファンには堪らない魅力。
 
 
総高150cm、高さ約120cmの板石に角切りを下枠取りをして、中に像高約90cm阿弥陀と地蔵の立像を半肉彫りで刻み出す。
 
 
 枠外左右に明徳元年(1390)の銘があり、南北朝末期の造立。
 
双仏石としては最大最古とされ、地元では「泥掛け地蔵」の名で親しまれて居る。
 
やっぱり何度見ても良いものは良い。
 
撮影2012.5.12
 

京都府笠置町 笠置山両面石仏

2014年06月20日 | 石仏:京都

まるで長いヒゲでも蓄えたように日陰草を垂らしていた磨崖仏。

実はこの磨崖仏は以前に紹介した笠置寺東山墓地への参道途中にある地蔵磨崖石仏の裏面に刻まれて居る。

資料には両面石仏と成っているが、分からず終いの侭だったが、石友さんが見つけ出し、僕はその「おこぼれ」を頂戴してきた。

良く見てみると明らかに現参道に面した地蔵磨崖より、現在裏面に成ってるこの髭爺さん地蔵の方が、明らかに大きく出来が良い。

これはきっと本来の参道はこの石仏の前を通って居たのだろうが?山崩れでも有って、いつの間にやら裏側に廻り込んだのではなかろうか??

髭爺さんも良い風情なのですが・・・もっと姿を良く見たいのでちょっと失礼して・・・

岩面に石龕ほどに深く彫り込んだ舟形の中、像高約50cm、厚肉彫りの定形地蔵立像が刻まれている。

龕外下部岩面に室町期の特徴ある蓮弁を刻み込み、龕内にも蓮台を設ける丁寧な造りと成っている。

穏やかな顔つきで四等身・・・・どう見ても現代人には幼児体型、頭でっかちに見えてしまうのだが??

こうして人知れず山中に身を隠してしまった磨崖仏もまだまだ一杯居るにに違いない

撮影2012.5.1


京都府 和束町の茶園 

2014年06月19日 | 風物:陵墓

宇治茶の主産地、和束町のなだらかな山斜面を埋め尽くす様に広がる新緑の茶畑。

我が家から一山越えた和束町は、往時恭仁京時代には信楽宮や大津京への道筋に当たり、悠久の歴史を秘めた山里。

そんな歴史濃い山里を埋め尽くすかのように、茶畑が山並みを埋め尽くしている。

萌え立つばかり・・・、新緑の茶畝と空のブルーがなんとも言われぬ鮮やかなコントラストを醸し出している。

 濃い緑の畝は煎茶用、遮光シートを掛けた黒い畝は多分上級玉露用・・・

 もうこの山里では滅多に手摘みの茶畑が観られなくなって久しい。

手摘みするには規模が広大過ぎて茶の生育に人間の手では追いつかないのだろう・・・・。

南山城を代表する初夏の色がここにある。 


河内長野市滝畑の茅葺き民家(左近家住宅)

2014年06月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

ここ滝畑には都合2回訪れ、1度目にはどうしても見つからなかった左近家住宅の茅葺き屋根に巡り逢って来た。 

一度目の時もほんの近くまで行っていたのに見つからず終い・・・・それと言うのも、鯉山の緑に隠れ、全く見通しの効かない山海に埋もれて居る。

滝畑ダム上流入口、岩脇山茅場への道筋に建つが、下を走る集落道からは全く見えない。

現在も敷地内に新しい別棟が建ち生活はそちらが主体と成ってる様でした。

「滝畑型民家」と呼ばれる山村農家、屋根は入母屋造で妻入り・・・しかし何分建物を隠すほどに樹木が生い茂り、おまけに引きもなく撮影は困難。

国の指定文化財となっているが公開はされて居らず、ここをピンポイントで行かない限り出逢える事はない。

因みにこの左近家住宅は江戸前期に建てられたものだと言うことです。

撮影2013.12.4


河内長野市滝畑の茅葺き民家

2014年06月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

先日の滝畑ダムサイト右岸高台から対岸方向に見つけた茅葺き民家。 

滝畑ダム湖口、左岸段丘上に居を構える入母屋造りの茅葺き民家。

外見上はそれほど古い民家とも見えず、現在も住居としての機能を充分に備えて居そう・・・。

茅葺き母屋から突き出した建物は新しく

屋内はきっと現代風に住みやすく成って居るのだろう・・・・

 庭先に停められた車も若者が乗るものだった・・・。

この地では車が足の生活に違いない。

撮影2013.11.12


河内長野市滝畑の茅葺き民家

2014年06月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

滝畑ダム湖には呑み込まれる事を免れたのであろう?・・大きな屋敷を持つ大庄屋クラスの茅葺き民家。

ダム湖を挟んで右岸斜面上に石垣白壁土塀と白壁土蔵に抱かれた大きな茅葺き屋根を突き出し、それだけでも充分絵になる景観・・・・。

左岸斜面上段より撮影するとこんな風、資料に拠ると北尾家住宅らしいが現在も住居として活用されている。

長屋門と言うには立派過ぎる程のおおきな門構え、滝畑地域の大庄屋さんだったのだろうか??

 この地に在っては珍しい寄せ棟茅葺き屋根におおきな棧瓦の箱棟を載せ、実に堂々としている。

12月始め、再度訪ねた滝畑は山が色付きなんとも見応えのある景観と成っていた。

撮影2013.11.16:2013.12.4