愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

柳生街道 春日石窟仏(穴仏)

2008年07月31日 | 石仏:奈良

柳生街道滝坂道の休憩所、首切れ地蔵の前で三方向に分かれている最左側の石畳道、柳生街道のだらだら坂を少し上ると左側斜面に木の丸太で作ったはしごのようなものが見えて、春日石窟仏、穴仏の案内板も建っている。

急な斜面をはしごを伝って登りきると狭いながら平らになっていて目の前に金網と覆い屋で保護されている石窟が在る。

春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、おまけに金網越しでの拝観なので全容が掴みにくい。

中国の西安石窟仏の様に大きく奥深くは無いが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る日本では珍しい石窟仏です。

石仏は軟らかい凝灰岩のせいか風化磨耗がはげしく、破壊されたこともあるのかほとんどが激しく壊れています。

西窟の正面には如来像が三体二重の円光背を背負い連座の上にたっているが左側の阿弥陀はほぼ完全な形を残しているがあとの二体は写真の通りのひどい有様です。

しかしながら彩色の跡もわずかに残り造立当初の様子をしのぶことが出来る。

左端には多聞天像だと思われる像があって、右側の崩れた石仏の左には作者名が、又保元二年の墨書も見えるがいずれにしても近づくことの出来ない金網越しです。

東窟の壁には四体の地蔵立像が見える左側三尊はほぼ完存一体は大破していて顔が無い、あとは金網越の石窟のため確かめようもない。

しかしこの地蔵石仏の一体一体は表情も異なり穏やかな造形が伺われる。

平安時代の後期を代表する石仏で国の史跡に指定されているが、しかしいかにも山の中にあっていい加減過ぎる保存状況です。

石仏なんぞは、あまりにもマイナーな文化遺産なのか??。

撮影2005.9.11:2008.6.7


柳生街道滝坂道ー首切り地蔵

2008年07月27日 | 石仏:奈良

春日の原生林を行く柳生街道滝坂道は休憩所の建物があるこの広場で誰もが休憩を取っている。

この先道は三方に分かれていて左の道と真ん中の道の間にこの首切り地蔵が立っている。

この休憩所には幹周り5m以上もあると思われる春日の巨杉も立っていて、マイナスイオンに包まれてゆったり出来る場所です。

ここは、奈良奥山ドライブウエー、高円山コースの終点駐車場からも近く、ハイカーばかりでなく若いカップルがサンダル履きで訪れているのにも出くわしたりする。

首切り地蔵と呼ばれる石仏は、ほぼ等身大の大きさがあり首の下には横に裂け目が入っていてその昔、剣豪荒木又右衛門が試し斬りしたという話が語りつたえられている。

首なし地蔵はどの地方にいってもよく耳にする、石仏では首の部分が一番細い部分になり、一番力のかかる場所で、その傷部分に水分が入り氷結するなど寒暖の差ために首の部分が切れることになるようです。

もちろん荒木又右衛門が試し切りをした話など誰も信じないが、この道を通って柳生まで歩いたことは確かなようでちょっと夢の有る話です。

苔むしてたたずむ地蔵石仏には真新しい赤い涎掛けがよく似合っていた。

撮影2005.9 :2008.6.7


柳生街道滝坂道の石仏ー新池阿弥陀磨崖石仏。

2008年07月23日 | 石仏:奈良

この石仏の存在を知ったのはつい最近、何気なくNETで石仏を検索していて網にかかって来た。

しかし滝坂道新池の周りとだけ書いてあって、詳しくは判らなかった。

滝坂道の石仏には案内表示板などが結構親切に設置されているのだが、この石仏は価値がないと言うことなのか手抜きなのかまったくなんの案内もない。

新池は首切り地蔵からも高円山ドライブウエーからも近く、時間を見つけては新池の周囲を二度ばかり歩いてみたが見つけることは出来なかった。

つい先だっての六月半ば、高円山ドライブウエーから石切峠の峠の茶店まで車の道路があることに気づいて横着にも車で茶店まで走ってみた。

週末土曜日の午後だとは言えハイカーがたった一人居ただけで閑散とした茶店で、名物だと言う蕨餅を食べた。

古くから有る茶店で、戸の辺りのことなら何でも知っていそうな気さくそうな茶店の主人だったので、あの新池の石仏のことを聞いてみた。

さすがにこの地で育ったご主人のこと難無く石仏の詳しい位置を教えてもらって、その足でこの阿弥陀さんに逢ってきた。

ドライブウエーから石畳の滝坂道を下り新池への分かれ道をちょっと過ぎた辺りのしゃめんを左に登る獣道を進んで小山を越えた下り坂になったあたりの左手、おおきな岩にこの阿弥陀石仏が彫られている。

ほとんど最近誰も来た形跡のない道とはいえない獣道、しかしこの人影の途絶えた小道に人知れず立つ阿弥陀にはなんともいえぬいとしさを感じます。

大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、滝坂の道の磨崖仏に比べると表情が甘く、衣紋も抽象的で、室町中期の物のようですが苔むした岩肌に刻まれたこの石仏は、歴史的な価値観よりも石仏としての風情が特に印象的です。

撮影2008.6.15

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柳生街道滝坂道の石仏ー朝日観音

2008年07月21日 | 石仏:奈良

夕日観音の崖から解放されて、滝坂道を能登川�沿いに遡って渓流にかかる小さな橋をわたって左手上方の崖を見上げると岩肌に「朝日観音」と呼ばれる石仏がが彫られています。

こちらは南方に向かって立っているので朝日観音と呼ばれているようですが例によって観音さんではなくやっぱり弥勒仏だと言うことです。

石仏は三体彫られていて中央が弥勒仏、左右に地蔵菩薩、鎌倉時代中期、文永2年(1265年)の銘があって、全回紹介の夕日観音と同作者の手がけた物だと考えられています。

因みに右手の地蔵は室町初期の追刻だとか??。

しかしこの地も天を覆い隠す原始林の真っ只中、まったく光が不足で手持ち撮影ではまともな」画像が撮れません。

たぶん三脚なしで石仏のいい写真を物にしょうなどとは、横着すぎるのかも知れませんが??

ここはこの道を通るハイカーの誰もが足を止める場所で、滝坂道では一番よく知れた石仏さんです。

撮影2005.9.11:2008.6.7

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 柳生街道滝坂道の石仏ー夕日観音

2008年07月19日 | 石仏:奈良

寝仏から能登川沿いに沿って登っていくと程なく夕日観音の掲示板が見えてくるが何の案内もなくただただ矢印が上を向いてるだけ。

僕にとってこの道は二度目のアタック、この石仏さんも再びの訪問。

五尺地蔵

三体地蔵

左山肌を登る獣道がこの夕日観音への登り道、一段登りきった山肌の巨岩には三体地蔵が彫られているが午前中にここを訪れたのでまるで逆光、おまけに六月の梅雨空、感度を目いっぱい上げて撮っても何とか写ってる程度の写真しか撮れなかった。

もちろん三脚でもあればどうにでも成るのだろうが、そんな重いものを持って山道ウロウロするほど若くもないし??

「滝坂ノ道」は、平安時代の昔から、柳生を通って奈良と笠置を結ぶ道でしたが、山岳仏教信仰の場でもあったので、そのため「滝坂ノ道」沿いには数多くの石仏が残されているようです。

看板左側の斜面にそれとわかる踏み締め道があってそれをたどっていくと、直ぐに折り返してして又一段高みへと登ることになるが、その頭上には地蔵菩薩磨崖仏が、又少し下がった崖にはほとんど像容もおぼろげな三体地蔵が見えるだけで、ここの場所からは夕日観音の姿はまったく見えません。

この場所で引き返してしまう人も多い様ですが、目的の夕日観音は折り返した崖横の道を伝って再度ターンして崖をよじ登った上のドン突きの三角形の花崗岩の前面に刻まれている。

しかし回りは狭く右側は崖になっていて下に小さく滝坂道が見えて、足を踏み外すと一卷の終わりのようなところです。

頭上は空いっぱいの春日原始林の深い緑で、真昼と言えども好露出が得らるような状態ではなく、なかなか自分の思うような画像にはしづらかった。

夕日観音と呼ばれるように夕日に向かって西向きにたっているが観音像ではなく等身大の弥勒仏で、弥勒信仰の盛んであった鎌倉期の像立だとされています。

撮影2005.9.11:2008.6.7

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柳生街道滝坂道の石仏ー寝仏

2008年07月02日 | 石仏:奈良

旧柳生街道は何処から始まっていたのかは知らないけど、今は奈良市高畑町から春日大社横の車どおりを抜けて能登川沿いにさかのぼり、突き当りの住宅街をひとしきり登ると春日原生林の中へと続く柳生滝坂道に吸い込まれていく。

昼なお暗く、じめじめした山道を歩き始めると何組かのハイカーに出会うが、僕のように1人で山道を歩く人には出会わない。

歩き始めて10分程でこの寝仏の所に来る。

「寝仏」の案内板が立てかけられていますが、道に転がっている比較的大きい石の裏側に、彫られていますがよく見ると石仏だと判る程度のものです。

何度も首を斜めにしたり、カメラのファインダーで覗いて見たのですが一体何がどうなっているのかよく分かりません。

近頃老眼と乱視が進んで遠くから見るとボヤけるし、近くで見るとよけいに分からずでした。

前には白い磁器の皿が置いてあり一円玉や10円玉などが入れられています。

家に帰って写真を見るとそれなりに石仏らしく見えてきますが、もうじきただの石ころとして片付けられるかもですね。

頭は如来のようで智拳印を結ぶ大日如来のようです、近くの四方仏の一体が転がり落ちたもので室町時代の作品だといわれていますが、では残りの三体は何処に??、一度見てみたいものです。

磨崖の大日部分が崩れてきたようですが回りにそのような 磨崖など見当たりません。

この大日如来はいつからこうして寝転がされてるのだろうか??

撮影2005. 2008.6.7

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