柳生街道滝坂道の休憩所、首切れ地蔵の前で三方向に分かれている最左側の石畳道、柳生街道のだらだら坂を少し上ると左側斜面に木の丸太で作ったはしごのようなものが見えて、春日石窟仏、穴仏の案内板も建っている。
急な斜面をはしごを伝って登りきると狭いながら平らになっていて目の前に金網と覆い屋で保護されている石窟が在る。
春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、おまけに金網越しでの拝観なので全容が掴みにくい。
中国の西安石窟仏の様に大きく奥深くは無いが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る日本では珍しい石窟仏です。
石仏は軟らかい凝灰岩のせいか風化磨耗がはげしく、破壊されたこともあるのかほとんどが激しく壊れています。
西窟の正面には如来像が三体二重の円光背を背負い連座の上にたっているが左側の阿弥陀はほぼ完全な形を残しているがあとの二体は写真の通りのひどい有様です。
しかしながら彩色の跡もわずかに残り造立当初の様子をしのぶことが出来る。
左端には多聞天像だと思われる像があって、右側の崩れた石仏の左には作者名が、又保元二年の墨書も見えるがいずれにしても近づくことの出来ない金網越しです。
東窟の壁には四体の地蔵立像が見える左側三尊はほぼ完存一体は大破していて顔が無い、あとは金網越の石窟のため確かめようもない。
しかしこの地蔵石仏の一体一体は表情も異なり穏やかな造形が伺われる。
平安時代の後期を代表する石仏で国の史跡に指定されているが、しかしいかにも山の中にあっていい加減過ぎる保存状況です。
石仏なんぞは、あまりにもマイナーな文化遺産なのか??。
撮影2005.9.11:2008.6.7