愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

竜王町 薬師(くずし)墓地入り口の石仏

2011年02月28日 | 石仏:滋賀

この石仏結構良いものだと思うんだけど、何処をどう調べてみても出てこない。

竜王町薬師(くずし)に有る勝手神社に寄った帰り道、通った道路わきで見かけた石仏さん。

約1.5mも有るかと思われる舟形に加工した花崗岩に定印の阿弥陀如来坐像だと思われるを石仏を中肉彫りで刻み出している。

墓地の入り口と思われる薄暗い斜面に小石仏や一石五輪搭と共に立っているがこの石仏だけがやけに目に付く。

風化磨耗も強く詳細は不明ながら、全体の堂々と力強い造形から鎌倉期の古風な感じがしないでもない。

僕が今まで見た石仏の中では、日吉大社近くの八講堂の阿弥陀石仏に良く似ているように思う。

この地には往古廃寺になってしまった寺院でも有ったのだろうか??

撮影2008.2.10


甲賀市信楽町多羅尾 浄顕寺の十王石仏

2011年02月27日 | 石仏:滋賀

今、巷で話題になっている大河ドラマで徳川家康が堺から遁走したといわれる伊賀越え。

<現在の多羅尾峠付近・・・旧道と新道が交わる付近>

その伊賀越えで最大難所の御斎峠(おとぎとうげ)越えに際し、言い伝えの残る石仏が近くの多羅尾集落の浄顕寺に祀られている。

御斎峠(おとぎとうげ)は伊賀と、甲賀、山城、を隔てる峠で付近からは伊賀平野を一望出来る。

多羅尾の集落は、家康の伊賀越えに尽力した多羅尾氏が褒賞に幕府直轄代官を任じられ、一時期城下町の様相を呈したと云うが、現在では山懐の辺鄙ながら彼方此方に歴史の匂いが感じられ懐かしさに出遭える山里です。

集落の中程、学校や神社の有る山裾の高台に多羅尾氏の菩提寺とされる清龍山浄顕寺がある。

最近綺麗に整備された浄顕寺の瀟洒な山門を入ると本堂脇の鐘楼前に十王石仏が整然と並べられている。

元々は御斎峠近くの刑場跡に有ったようですがこの寺に移設されたらしい。

ずんぐりむっくりの十王石仏は像高40cmばかりの丸彫で江戸時代初期のものだと考えられてるようですが、顔の表情があの恐ろしい地獄の裁判官の十王にしては穏やかなのがちょっと不思議・・・。

前一列の五王は像容も良く残り痛みも有りませんが、後列に於いては傷みが甚だしく、頭部が無くなったり殆ど残欠状態になっています。

十王なのに此処に並んでいるのは九体、足りない一体は 徳川家の伊賀越えに石仏を駕籠に乗せ、自分の身代わりにしたという伝説が残っているとか??

まあ、話としては面白いがですが・・・。

他、境内には何処からもってきたのかこんな石仏達にも出遭いました。 

 

こっちは道標??

撮影2006.11.05他


伊賀市 滝仙寺(りゅうせんじ)道の六地蔵磨崖石仏他

2011年02月26日 | 石仏:三重

前回紹介の勝地集落より、木津川の源流域へと妙楽地集落を越え瀧集落へと至る。

集落の中程に左山手に入る滝仙寺(りゅうせんじ)への新しい参道がつけられ寺の石垣が見え出した左手に崖から切り出され置物の様になった石仏が置かれて居る。

この切り取られて磨崖ではなく成った石仏は妙楽地集落の県道脇にあったもののようだが、県道拡張に伴いこの地まで引越しを余儀なくされたようです。

無残にも岩肌から切り離されコンクリートの基礎に固められたその姿には哀れこそ感じるが・・・・どうもそれは本来有るべき姿では無く抜け殻の様な気がする。

あまりにも日当たりの良い無味乾燥なコンクリートに囲まれて苦笑いでもしてるのだろうか??

石仏は六体地蔵で江戸時代の作、僕は田舎道の崖の上で微笑む姿を想像してたのに・・・・・。

まあ世の流れとはこうしたものです。

登りきれば滝泉寺の境内。

最近になって伊賀市の文化財に指定された、恐ろしく枝を伸ばした松と・・・・・・。

三重県文化財に指定されている九重石塔が迎えてくれる。

軸部に顕教四方仏が薄肉彫りされ、総高329cm、南北朝期の造立。

滝仙寺から妙楽地辺りの景色です。

撮影2008.11.30


伊賀市青山町勝地(かちじ) 勝福寺金剛界五智如来石仏他

2011年02月25日 | 石仏:三重

前回紹介した、摺見(するみ)の集落から尾根を一つ越したところに勝地という集落が、木津川上流域の流れに沿った旧道脇にある。

昔は山越えの旧道も有ったようだが現在では、山裾を大回りして、国道165号線、県道25号線経由で谷沿いに連なる集落の一つである勝地に着く。

勝地集落は木津川上流域の細い流れを挟む谷間の里山で公民館の奥まった高台に五智如来石仏の有る勝福寺がた建っている。

五智如来石仏を祀る如来堂が本堂左手にその中央に金剛界の五智如来が鎮座している。

中尊、金剛界大日如来は一段と高い台石上の蓮坐に座し舟形光背を持つ中肉彫り、智拳印を結び南に向き、その像高60cm弱

中尊大日を囲むように一段低く、それぞれに舟形光背を持つ中肉彫りの四如来石仏が台石上に居る。

東から阿上ゥ(あしゅく)如来。

南には宝生(ほうしょう)如来

西はお馴染み阿弥陀如来。

北向きは不空成就如来となっているが、共に高さは60cm足らず。

不空成就如来と阿弥陀如来に銘が在り、室町期の石仏です。

このような石仏は余り見かけたことが無い。

背後の斜面を少し登ったところに有った地蔵さんと不動明王石仏。

ちょっと雰囲気がよいので撮ってみた。

手向けた花もすっかり枯れ果て、訪れる人も無さそう。

撮影2008.11.30


伊賀市 清岸寺阿弥陀三尊石龕仏(せきがんぶつ)

2011年02月24日 | 石仏:三重

人知れず伊賀の片田舎、小さなに寺に佇む石仏さん。

ここは伊賀と伊勢を隔てる青山高原の南西山裾、木津川支流の比自岐川(ひじきかわ)沿いに開けた鄙びた里山。

<比自岐神社境内>

伊賀上野方面から近鉄本線伊賀神戸駅まで延びる伊賀鉄道(平成7年までは近鉄伊賀線)に並行するように走る国道422号線を南下すること10km足らず、丸山駅を過ぎて直ぐ左手に延びる県道683号線にと進路取り、長閑な田舎道を進むと左手に立派な比自岐神社が見えて来る。

比自岐神社の前までは行かずにJAの辻で左手に進路を取り、比自岐の集落を抜け突き当った集落が摺見(するみ)集落。

集落の奥まった小高い山裾に浄土宗清岸寺があり、素朴で小さなお堂の狭い境内脇の一画に斜面を背にして珍しい石龕仏がある。

高さ120cm足らずの切石で奥壁と側壁を組み、その上に大きな宝形の笠石と見事な宝珠飾りを載せている。

両脇にはそれぞれ小石仏が置かれて・・・

奥壁には線彫り二重光背を持つ中肉彫り定印の阿弥陀如来坐像、左側壁には観音菩薩坐像

右側壁には勢至菩薩坐像が彫り窪めた二重光背の中に浮き彫りされている。

中尊野阿弥陀如来は微笑むが如くの穏やかな顔容で優れた体躯を持ち鎌倉後期の像立だと云われています。

像高は凡そ50cm、それほど大きい物では無いが形式、技法、像容共に優れていて珍しい。

余り紹介される事の無い石仏さんです。

撮影2008.11.30


伊賀市青山町 別府(べふ)十王石仏

2011年02月23日 | 石仏:三重

三重県の中央部、あの伊賀市の南端部に青山と呼ばれる地域が在って、古くから伊勢と初瀬を結ぶ初瀬街道の街道筋にあたり、重要な交通の要所だったらしい。

ここには伊勢路と呼ばれる宿場町も在って江戸中期から明治に掛けては相当な賑わいを見せたようです。

大阪から伊勢に向かう近鉄本線はこの街道に並行するように走り、隣町の名張は大阪へのちょっと遠いベッドタウンとして開発が進み地域の様相も一変したようです。

そんな開発の波から少し外れた青山地域は比較的鄙びた街道筋の景観を良く残していて良くおとずれる処です。

近鉄青山町駅前ロータリー手前で東に向かう道路を200mも進むと別府(べふ)集落の入口と思しき辺り、野面道の左手、家並とは反対側の角地に粗末なトタン屋根の覆い堂があり、その中央にこの石仏が祀られている。

「足止め地蔵」さんと呼ばれるこの石仏は横長自然石の中央に閻魔大王、脇には五体ずつの十王を彫り刻み、その上にも自然石の笠石を載せたもので非常に珍しく又その姿も良い。

中央の閻魔大王は茎上蓮座に坐す坐像で歯を食いしばり口元は真一文字にむすび睨みを効かせているものの何処かおどけたような丸顔が何処か人懐っこい。

十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で地獄において亡者の審判を行う十尊で、いわゆる裁判官的な役割を果たすことから生前より信仰し、その罪を逃れようとしたという・・・・。

石仏は風化摩耗も殆なく良く保存されて居て、人懐こい閻魔と共に十王も丸顔の親しみやすい面相・・・。

これなら近所の子供達からも親しまれているのではないだろうか???

元禄二年(1689)の銘があり、野面の覆い堂で長閑な石仏さんです。

撮影2008.11.30


大津市 上仰木(かみおうぎ)の地蔵石仏

2011年02月21日 | 石仏:滋賀

滋賀県大津市の仰木地区はあの比叡山東斜面に有る古くから開けた地域ですが琵琶湖を借景に斜面一帯に、棚田の広がる長閑な里山集落が点在しています。

奥比叡ドライブウエーの基点でも有る上仰木の墓地に珍しい六地像が有ると言うので訪ねてみた。

まるで要塞のように小高い丘に民家が建ち並ぶ上仰木集落?内の道路を道なりに比叡方向(西進)に進んでいくと集落を抜けてまもなくドライブウエーに出遭う。

此処で道路は二又に分かれるがドライブウエーと並行して左手に進むとやがて林間に開けた墓地に行きつく。

墓地の一角に小さいながらしっかりした地蔵堂が建っていて、傍らに恵心僧都御自作六体地蔵と彫られた石柱が立っている。

恵心僧都は源信の名でも知られ比叡山で修行、『往生要集』を顕したことでも知られた高僧、比叡の裾野のこの地に在っては何の不思議も無いだろうが、この石仏を刻んだと言うのは有り得ない。

堂内に祀られた石仏は念仏地蔵の名でも呼ばれ、高さ約1m、幅1.4m、山形自然石の中央に阿弥陀立像、像高約30cm強、両脇に三体ずつの六体地蔵を枠を彫り窪めた二重光背の中に浮き彫りで刻んでいる。

小像ながらその趣有る姿は決して稚拙では無く、野の仏としての魅力を称えているように思え、室町中期の様式を良く伝えていると言われています。

他の覆い堂の中にも小石仏が集められていて一際目立つ地蔵石仏が有る。

高さ1.2mほどの自然石に像高約60cmばかりの地蔵立像が半肉彫りで刻まれている。

 寛正五年の銘が有るようで六体地蔵と同時代、同石工のものだと考えられてるようです。

撮影2008.8.24


山添村 法楽(ほうらく)地蔵

2011年02月19日 | 石仏:奈良

永らく探し倦ねていたが良く通る道筋じにも辺り何度かぶりの訪問でやっと見つけた地蔵さんです。

奈良、国中盆地の東に続く大和高原中央部に在る山添村、木津川水系のダム湖の一つである布目ダムの南端にある県道80号線と、同じく25号線の交差点を80号線で鄙びた里山やを眺めながら東進すること約10分足らず。

少し拓けた北野の集落を過ぎると右手斜面に茶畑が広がり、左手に通行止めの柵の有る道路が現れる。

その道路は直ぐに本線と合流するが何のための道路か解らず,づっと今でも通行止め。

そんな道路の出口合流部分に左手に入る農道が有って奥へ進むと左手の茶畑脇を進む踏み分け道が西方に伸びている。

暫く進むと左手斜面の大岩が有り,廻り込むと地蔵石仏の刻まれているのが見える・・・・・やっと探し当てた地蔵さんです。

この道は昔、奈良から伊賀へそして伊勢へと向かう街道だった様で、この地蔵さんに道中の安全を祈り、時には人々が列を成して通ったのであろう・・・・・

法楽地蔵と呼ばれるこの磨崖石仏は高さ約175cm、幅3mの花崗岩の表面に舟形光背を彫りくぼめ、像高約80cmの地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻んでいて右の光背外に建武五年の銘を刻み鎌倉後期、南北朝時代の造立。

 

整った像姿顔容で磨耗劣化も少なく優れた地蔵さんです。

この山添辺り大和高原にはこうした磨崖石仏が数多く残されており、奈良に近い地理的条件と山岳宗教に根ざした信仰が重なったものだろう??

撮影2008.6.28


桜井市 慶運寺の石棺仏

2011年02月18日 | 石仏:奈良

奈良県桜井市は「国のまほろば」、大阪と奈良を隔てる生駒山系と奈良と伊賀を隔てる大和高原の山々に挟まれた奈良盆地は国中(くんなか)と呼び親しまれ奈良県の中心をなす地域ですが、そんな国中の南端域に有って古代日本の歴史の凝縮した土地でも有る。

桜井市の大神神社は本殿を持たない原始信仰の神社として有名ですが、その神奈備山である三輪山の北西山裾には卑弥呼の古墳かとも騒がれる箸中古墳が有りその北側一帯は邪馬台国論争の渦中に在る纒向遺跡の広がるところです。

<箸墓墳丘部の一部と三輪山>

奈良市内方面から国道169号線を南下すること20分もするとJR桜井線を跨ぐ跨道橋に成り、その真正面にそれと解る池に囲まれた前方後円墳が見える、所謂箸墓と呼ばれ「倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)」とも呼ばれ、卑弥呼の墓では無いかとも言われている。

箸墓を遣り過ごすと国道は二股に分かれるがその直前左手脇道を古墳沿いに直進すると国津神社の前を通って慶運寺の門前に着く。

境内に上がり本堂左手、墓地の入り口と思しき辺りにこの石棺仏が立っている。

写真でも解る様に凝灰岩製の刳抜き石棺底部を利用した阿弥陀とも弥勒とも呼ばれている石仏が中肉彫りで刻まれている。

刳抜き石棺の則部を庇の様に使い全高158cmの石材に像高1m足らずのこの地域では多い建治形弥勒立像石仏(掲示板では弥勒なので)、風化摩耗劣化が激しく顔容は定かでは有りませんがその特徴から鎌倉時代の造立だと言われています。

寺の裏山一帯は古墳の群集域でこの石材もこの一体から出土した石材では無いかと言われて居るようです。

撮影2007.12.16


大東市  龍間の一石六体地蔵

2011年02月17日 | 石仏:大阪

龍間の集落は生駒山麓の真っ只中に有り、古来よりを生駒山を越えて奈良と大阪を結ぶ街道として栄えた道筋に広がる山間集落。

明治になって古堤街道と呼ばれた街道は、交通量の増大に伴い1958年拡張され阪奈有料道路として開通、長閑であっただろう街道筋の山間集落は拡張された有料道路に南北に分断されたような姿となり、南北の横断は一箇所のみの交差点と成って喧騒の中にある。

現在は第二阪奈道路が生駒山系をトンネルで突き抜け交通量は減少したもののすっかり忘れ去られた様な佇まいに成っている。

この旧阪奈道を大阪方面から登って行くとクネクネとヘアピンカーブを繰り返し、登り車線と下り車線が合流そのまま暫く進むとこの道路唯一の交差点である竜間の信号に差し掛かる。

目的地には次の脇道を右折すれば直ぐなのだが道路には中央分離帯が有りそれも出来ず、ひどく大廻りに成って厄介だけどこの交差点で右折、直ぐに理容所の前に在る細道を左折、山の頂上付近のT字路を左折、山を下ってちょうど目的地の辻に出る・・・・・・、こんな不便な行き方しか出来ないのかと??道路は狭く運転にはそれなりの技術が必要。

しかし待って居てくれた石仏さんは周りの景色とも相俟って僕の好きな景観を醸しだしてくれていた。

旧古堤街道、出会いの辻、背後のなだらかな山の斜面、それも小高い丘の様な起伏を背景に六体地蔵を中心に三体?の石龕が並んで建っている。

卍庇の大きな屋根を戴いた石龕の中、中央の一石六体地蔵は幅86cm高さ148cm、花崗岩の舟型石に像高約50cm弱の六体地蔵立像が上下二段に彫り刻まれている。

大和地域で は良く見かける一石六体地蔵もここ河内方面では珍しく、優しく穏やかな顔つきでほっとさせて呉れると共に、手向けられた華が真新しく今も尚、信仰の生き続けていることを強く感じる

脇にはそれぞれ銘が刻まれ永禄十年(1567)丁卯二月廿三日  奉造六地蔵六斎念佛之供養一結衆五十五人敬白と有り室町末期の乱世の時代の造立。

両脇にもそれぞれ屋根付き石龕の中に地蔵石仏が有って三味一体で旧街道、辻の地蔵さんとして懐かしい景観を醸しだしている。

100mも離れずすぐそこを喧騒の道路が通ることなど想像も出来ないほど長閑かな景観です。

撮影2011.2.5


甲賀市水口 新城(しんじょう)の磨崖石仏

2011年02月16日 | 石仏:滋賀

山城から山をいくつも越えて滋賀県の彦根に通じる国道307は滋賀県各地を訪れるのに一番良く利用する道路。

陶器の町、信楽を越え新名神に沿い暫く走るとなだらかな峠を過ぎ、下り道になると目の前がパッと開けて眼下に甲賀の忍者里が大きく広がっている。

国道は野洲川の流れを渡り、野洲川の堤防を東進、東海道五十三次50番目、水口宿場跡の標柱が建つ山川橋交差点でR307と別れ県道549へと右折。

野洲川と並行して進むと直ぐ右手河原の中に頂部に青い葉を一杯に乗せた大きな岩が見える。

これが新城の磨崖石仏と呼ばれる磨崖で西面壁に像高約60cmの地蔵菩薩立像が舟形光背を彫り窪めた中に中肉彫りで刻まれている。

緑濃い藤の葉を日傘宜しく一杯に戴き、野の仏としての景観が素晴らしい。

今でも信仰があるのか涎掛けが幾つも藤蔓に掛けられている。

また同じく東西南北面には搭高約70cmの宝篋印塔各一基が刻まれているが劣化が激しい。

至徳元年(1384)の銘があって、川沿いに会った村の墓地跡か、筏流しの安全祈願のものとも考えられてるようです。

撮影2008.6.1


甲賀市信楽町 仙禅寺磨崖石仏(岩谷観音)

2011年02月14日 | 石仏:滋賀

我が山城からR307を東進すること約30分、信楽町上朝宮の集落内を抜ける旧街道から岩屋観音の石碑が建つ県道を522号線へ左折 、県道とは名ばかりの林道を岩谷川に沿って進むこと約2~3分。

谷川に架かる橋を渡って右手斜面の小高い台地に古びた懸崖造り岩屋観音のこじんまりしたお堂が見える。

懸崖造りの床下に卍をあしらった妻軒があって奥の岩肌に磨崖仏らしきものが見える。

床下は暗く、岩肌は風化も激しく、肉眼でも判然とはしない。

目がなれてくると何と無くおぼろげながらわかる程度で写真撮影は非常に困難・・・

岩肌の上部に三体の坐像のような仏さん。

良く見ると中央は何と無く地蔵菩薩坐像の様に見えるが薬師如来だといわれており、そういえばそうかなあ??という感じにしか判らない。

しかし上部の小さな像に付いては全くといって良いほど判然としない。

色々角度も変え方向も変えて見るがパッとしない。

頭上の本堂岩谷山仙禅寺は、養老7年(723)開基、山城鷲峰山金胎寺の別院として僧坊五宇があったというが 中世の戦乱で焼失したという。

本尊は秘仏の十一面観音だと言われており、勿論見られない。

脇の石段を登ると本堂への渡り廊、その隙間から覗けば真近かに頭上からの磨崖仏

上から覗くと中尊の薬師仏がなにやら蓮弁の上に座しているようにも見える・・・・、それにしても判然としない。

右上に不動明王立像を、左上に毘沙門天立像を彫出するとある・・・・・・・そうかなあ???

左上に毘沙門天立像の下に銘があり「建長元年(1249)巳酉11月8日・・・」と有るそうですが全く存在すら確認できなかった。

仙禅寺を後にして橋の手前左斜面の岩にもなにやら石仏らしき彫りこみを発見。

ちゃんと花立には真新しい樒(しきみ)の小枝も供され信仰の対象になっているようです。

これも殆ど判然とはしないが地蔵菩薩立像のような??

帰りの道筋の樹の根元には小石仏や五輪搭の残欠が集められここも信仰対象になっているようです。

傍らの岩にはなにやら梵字が刻まれているのがかすかにみえます。

も少し里に近い茶畑には軒反りの無い古式な宝篋印塔が・・・

上部相輪部は欠落したのか真新しいが本体部分は鎌倉期の特徴を良く表し・・・・、

搭身の四仏にもそれぞれに赤い涎掛け・・・・、まあそれも良いかな???

確かに一帯には往古、仙禅寺の関連施設が林立していただろう事が伺われる。 

撮影2011.1.29他


田上不動寺 泣き不動石仏他

2011年02月12日 | 石仏:滋賀

滋賀県大津市の南方に連なる湖南アルプスの西端辺りは田上(たなかみ)と呼ばれる風光明媚で鄙びた里山が広がる地域で歴史的伝統習俗も良く残り魅力的な地域です。

<本堂外部と内部>

そんな太神山頂近くに有る不動寺は巨大な磐座(いわくら)に寄り沿うように建てられた懸崖造りの本堂をもつ原始山岳信仰の対象として崇められ、その歴史は古く貞観元年(859)智証大師円珍が山中で不動明王を感得し開基、本堂は国指定重要文化財とされている。

我が山城からは国道307号線で信楽の朝宮まで、その後林道を越えミホミュージアムの横を通る県道12号に出てそのまま北進、甲賀市から大津市の市境に入った辺りで田代川を渡って延びる林道に入ると一気に不動寺の車止めまで走りぬく。

勿論殆ど車の通らない山道、離合も困難なので山岳走行に不慣れな人は麓から歩く以外にこの地には到達できない。

車止めはちょうど田上里町から登る不動寺参道との三叉路から少し手前にあり、この三叉路から少し登ると不動寺の二尊門に出る。

脇にはちょっとユーモラスで、なんとも艶かしい不動明王の脇侍として良く知られた・・・向かって左に制多迦童子、右手には矜羯羅童子の両石仏が迎えてくれる。

石仏の歴史的美術的価値は見出せないが、なんとも不思議な雰囲気の石仏です。

近年の六体地蔵が有る出合いの三叉路から参道を暫く下ると「泣き不動」と呼ばれる不動明王磨崖石仏が現れる。

高さ約2.5m、幅約2mの大きな花崗岩の表面に供台を削りだしその上部に高さ1mほどの短冊形に深く彫りくぼめ、その中にか燃え盛る火炎光背の不動明王坐像を厚肉彫りで刻み出している。

いかめしい不動にしては何処とく人懐っこくて優しそう・・・やっぱり「泣き不動」と呼ばれるように泣きっ面かな??

岩座に座す不動明王は像高約60cm程、花立も一石から掘り出し、江戸期の造立では無いだろうか??

車で田上里町の集落まで下り、今度は天神川の谷沿いに登って行く。

車道を暫く登ると左手に粗末な覆い堂が有って此処にも不動明王石仏が祀られて居て「迎え不動」と呼ばれている。

右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王立像石仏で自然石に半肉彫りで刻まれている。

造高約1m、ローカル色豊かな像容です。

撮影2008.9.6


小野市 浄土寺地蔵石棺仏

2011年02月11日 | 石仏:兵庫

加古川からの帰り道隣町の小野市にも石棺仏が有ると居うのでここ浄土寺にも寄っって見た。

石仏だけの予備知識のままに現地を訪れこの古式豊かな建物に出会いただただ呆然、それもそのはずこの寺院は行基の建立した前身寺院の跡に東大寺大仏殿の鎌倉復興に尽力した俊乗坊重源が実質開山したという名刹だそうです。

僕が素晴らしい建築物だと思ったのは、浄土堂(阿弥陀堂)、で快慶の代表作である阿弥陀三尊立像が収められていて共に国宝に指定されている。

その浄土堂の前に心字池が配されその畔に石棺仏が三体並べたって居るが元々は近くの墓地に在った物を 移設したもののようです。

説明板では板碑というように説明されているようですが・・・、向かって右側には首が断裂して補修された地蔵菩薩立像。

石棺の底石だと思われる石材に、ちょっとにんまり微笑んだ像高約1mの地蔵立像を半肉彫にしていて、写真のようにちょっとユニークな姿の地蔵さんです。

 残りの二体は中央には阿弥陀三尊来迎図、向かって左手の物は曼荼羅が彫られてるようですが何がなにやらさっぱり状態です。

撮影2008.9.14


加古川市 上西条成福寺墓地の石棺仏

2011年02月10日 | 石仏:兵庫

加古川の南岸域、県道65号線の上荘橋東詰からJR加古川線の線路を越えて直ぐ、右手田圃の中に木立が見え、宮山農業公園の南の丘に臨済宗成福寺と言う寺が有る。

本堂左手に墓地が広がっていて二体の地蔵石棺仏が並んで立っている。

向かって左側には石棺材だと思われる地蔵菩薩立像を薄肉彫り、他方右手には石棺の蓋石を利用して彫られた同じく地蔵菩薩立像を薄肉彫りにしているがいずれも苔むして、左側の石仏は胴の辺りで断裂している。

この地域の石棺仏としてはさほど特徴もなく彫りも稚拙で室町時代後期の作だと思われている。

撮影2008.9.14