愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山添村 助命(ぜみょう)地蔵磨崖石仏

2011年04月30日 | 石仏:奈良

「へいべいさん」??の地蔵さんと呼ばれる、助命集落はずれの林道脇に有る地蔵磨崖石仏です。

<助名集落、西はずれの早春>

付近には石垣積みの屋敷跡だと思しき平地もあってその昔には集落がこの辺りにまで伸びて居たことが窺われる。

いかにも野辺の仏の風情が嬉しい・・・。

大きな木を頭上に戴いた岩に舟形後背を背負った像高50cmばかりの地蔵菩薩立像

この地蔵磨崖は屋敷内に追善供養のためでも造立したのだろうか??、秋月道光信士の戒名が見える。

延享三年(1744)の銘も見え、江戸時代中期 徳川吉宗の時代、いかにも省略され崩れ果てた像容は頂けないが、その分素朴だと言えなくもない。

右手岩面や左手別岩にも板碑状の彫り窪みがあり、真新しい供花も手向けらている。

子孫の方が近くにでもいて、大切にお守されているのだろう・・・。

撮影2011.4.7


山添村 助命(ぜみょう)番屋の辻観音石仏

2011年04月29日 | 石仏:奈良

奈良、大和高原の東部、伊賀盆地と接する鄙びた高原にある山添村。

その中央部には神野山と言う霊山が有って裾野にはその信仰にちなんだ地名が彼方此方についている。

その東側山ふところに助命(ぜみょう)という小さな集落があって、辻の北側山裾に突き出した岩肌にこの小さな磨崖石仏が刻まれている。

集落道をうち破る様に県道が整備され、片田舎の「集落の辻」という雰囲気はすっかり無くなってしまたが・・

高さ約60cmの舟形後背を持つ見慣れない像容の石仏が半肉彫りで刻み出されている。

後背頂部には梵字が刻まれ、胸元で合掌する観音像には違い無いのだが、何観音かは???

地元では「番屋の辻の馬頭観音」と呼ばれているようですが、頭上の化仏は無さそうだし・・・

どうも馬頭観音では無さそうです。

像高約40cm弱、社寺で信仰された石仏さんではなく集落の辻で里人から日々の暮らしを見つめ続けて来た石仏さんのようです。

撮影2011.4.10


奈良市大保町(旧柳生) 磨崖石仏(二基)

2011年04月28日 | 石仏:奈良

前回紹介の斜め 地蔵より更に斜面を登った辺りに二基の磨崖石仏が有って、こちらはまともに直立している。

多分こちら二体の磨崖は江戸期のもので大きな山崩れを起こすほどの地震には遭ってないのだろうか??

墓地へと続く山懐の野道をそのまま進むと右手山肌に突き出した大岩には舟形光背を持つ三体地蔵??。

像高約40cm、像容はいかにも弱く、よく言えば素朴過ぎるほど・・・・

三体共に地蔵と云えば地蔵??阿弥陀と言えば阿弥陀、錫杖を持ってるような持ってないような??

彫りも甘く、この上なく形式化単純化・・・・・。

それでも三体磨崖石仏には違いない・・・ここまで単純化化されると・・・その上大きさ並び共にチグハグ。

その先、新しく林道整備の始まった道を100m程奥に進めばもう一基・・・

ここはその昔大柳生方面からの間道でも通じていたのだろうか??

頂点の丸い舟形光背を持つ像高約50cmの定形地蔵立像。

こちらの方が像の崩れも少なく地蔵としての形は保っている。

どちらにしても、長閑な山里で人知れず忘れ去られたように佇む磨崖石仏さんです。

この先もこれまでと変わることなく時間だけが風のように通り過ぎて行く事だろう・・・

撮影2011.4.10


奈良市大保(旧柳生) 三体磨崖石仏

2011年04月27日 | 石仏:奈良

此の石仏は最近ネットで知り合った「石仏み~つけた」の「たいしんさん」に教えて貰った石仏さんです。

この辺りはしょっちゅう通り慣れた所なのに、こんなところに石仏さんが眠っていたとは全く気づかなかった。

大和高原を横断するように走る国道369号線を柳生方面から名阪国道針IC向けに南進してくる途中、道路が狭くなって山間二集落を抜けるが、大保集落最南端辺りに有る民家上部の急斜面に横たわった巨石に此の石仏が刻まれている。

此の大岩はもっと上部に有ったものが大地震の影響でずり落ち、この地で何とか留まったものであろうか??刻みこまれた三体の石仏は直立せずにちょうど斜め45度ぐらい向かって右に傾いている。

よくもまあ下まで落ちずに、こんな急傾斜地で留まったものだ・・・おまけに都合よく石仏さんが隠れない様に。

三体の石仏は中尊に地蔵立像、向かって右に阿弥陀立像、左には合掌地蔵

中尊地蔵は高さ約55cm、幅約30cmの枠に彫りくぼめた中、蓮華座に立つ像高約50cm弱の定形地蔵を半肉彫りに・・

左右の脇侍はそれぞれ舟形光背を背に、像高約30cmで共に立像。

刻銘から室町時代の天文六年(1537)の造立。

それ以後、この地を揺るがす大地震は4~5回有ったようだが??、いつからこんな風に斜めに立たされているのか??さぞかし辛かろうが・・・・ 

撮影2011.4.10


伊賀市諏訪 六体地蔵磨崖石仏

2011年04月26日 | 石仏:三重

この道も良く通る道なのだけど何の怪しさも無くつい最近、近くの丸柱の人から聞くまで全く気付かなかった石仏さんです。

丸柱から伊賀上野方面に抜ける国道422号線に平行するように丸柱最西端辺りから諏訪の国道422号線までを広く新しいバイパス様農免道路が付けられている。

丸柱から約5分も南進すると右手山肌を切り拓き桜の若木を植樹したオープンガーデンがあって、その北端の山裾に半月形の巨岩が横たわっているのが見える。

新しい農免道路はかさ上げして高くなったのか?大岩はすっかり道路の側溝より一段低くなり車窓からは全く石仏の存在などには気付くわけもない

聞いた人の話によるとこの道路が出来るまではこの大岩の前を野道が通っていてこの石仏さんは見上げていたという事でした。

石仏は大岩の下部に幅約1m、高さ約40cmの隅取りをした四角に彫り窪めた中にそれぞれの六体地蔵を中肉彫りで刻み出す。

六体地蔵は像高約35cm蓮華座に立ち円後背を背負う。

像容はかなり傷みが激しく、雑な補修が施されていて少し可哀そうな気もしないではありません。

上部には庇溝を刻み真新しい庇も付けられ、信仰も続いていて供花や香跡も新しい。

勿論説明板なども無く、この六体石仏にも特別な名前はないそうです。

撮影2011.4.17


伊賀市丸柱 七里峠(桜峠)旧道の磨崖地蔵石仏

2011年04月25日 | 石仏:三重

三重県伊賀焼のふるさと丸柱は滋賀県の信楽と桜峠で接して、そこここに登り窯の煙突が立つ長閑な里山です。

信楽方面から桜峠の下り坂を下り切ると左手に集落最西端の屋並みが見えて、その出会いの辻には石仏が立っている。

総高1m余りの自然石の上部を彫り窪めた中に多分阿弥陀坐像だと思われる石仏が刻まれている。

石仏下部にも短冊状の空スペースがあり何か刻まれているようですが石仏と共に風化磨耗が激しく何がなにやら状態です。

数メートル離れて六字名号を刻んだ道しるべの石柱が建っていて、以前は石仏と隣あわせに有って小さなお堂も有ったようです。

この集落の西はずれから谷川に沿って桜峠(七里峠)を越えて信楽に通じる古道が有って、七里峠には浄土真宗仏光寺派の中祖、了源上人受難の地として立派な敷地の塚も築かれている。

木津川水系源流域の一つである谷川沿いの古道は最早廃道同然、何とか旧道の形跡は残るものの、倒木や笹原になっていて歩きづらい。

集落外れから約10分弱も遡ると、右手山裾からせり出した岩に、磨崖の石仏さんが確認出来る。

岩の表面を滑らかに加工して正面中央に高さ約60cmの舟形後背を彫り沈め、蓮華座を後背下部に線彫りで表し、その上に中肉彫りで定型の地蔵」菩薩立像を刻み出している。

身の丈約40cm、正面から見ると頭を少しかしげて微笑んでいるようにも見える

斜め左手から見ると全く違う印象にも・・

左手後背内部になにやら銘らしきものが見えるが苔生し確認するには至らなかった。

ひょっとして了源上人受難地にも近く、塚も築かれてる事からそのことに因んだ地蔵さんかも??

しかし集落でも特別呼び名は無く、峠の地蔵さんだったのだろうか??。

最早、人が立ち入らなくなって久しく、山仕事以外の人は見る機会も無くなり、地域でも信仰が無く、やがて沢沿いで山野の岩塊に帰る日を待つだけのようです。

撮影2011.4.17


旧信楽町 南新田の地蔵磨崖石仏。

2011年04月24日 | 石仏:三重

遠目からでは殆どそれと解らない磨崖石仏さんです。

甲賀から伊賀に抜ける道は何本も有るが陶器の町信楽から、同じく伊賀焼で知られた陶器の里へ抜ける道が有る。

そんな国道422号線で信楽から県境の桜峠を目指すと山沿いに棚田の広がる南新田辺りの左手山裾、気をつけて見ていると小さな棚田越しに、なにやら祭祀されているような場所が有る。

遠めには苔生し殆ど岩肌と一体化していてつぶさにはそれと解らない

この辺りは昔の街道跡だったのだろう??、山裾にそれらしき痕跡が残っていて、近づくと山裾から張り出した岩に石仏が刻まれている。

写真画像では解りづらいのですが右手に錫杖、左手に宝珠を持つ定型の地蔵菩薩立像です。

岩肌に舟形後背を彫り窪め、蓮華座に立つ像高50cm足らず・・・

銘などは確認できませんが室町後期から江戸初期の造立ではないでしょうか??

手向けられた花も新しく地元では大切に守られているようですが全く無名で資料は有りません。

小さくても、れっきとした磨崖石仏さんです。

撮影2011.4.17


天理市 上山田の「くさ」地蔵

2011年04月23日 | 石仏:奈良

天理市の最東端、旧都祁村と境を接する大和高原の山間部に山田町と言うところがある。

殆ど地元の車以外は通らないような通行量の少ない県道47号線がこの山田町を縫うように福住と旧都祁村を結んでいる。

福住から来ると山田町の集落が見え出して暫く進むと、左手土手に突き出した岩に石仏が刻まれているのが目に留まる。

涎掛けをかける首が無いのでごらんのように頭の紐を結んで写真のようないで立ちの地蔵さんですが・・

小川はコンクリート擁壁に囲まれ野道は県道と成り地蔵さんには無粋なガードレール・・・

説明板に依ると この地蔵磨崖石仏は「くさ地蔵」と呼ばれ、「くさ(瘡、皮膚炎の一種)」が出来ると石仏の同じ箇所に泥をつけて祈ると良く直るという信仰が有って今でも供花が絶えないようです。

大きめの舟形後背を背負った通常型の地蔵立像で穏やかな顔つきですが、惜しいかな地衣類の繁茂が強くて銘が有りそうですが読めません。

像高約60cm・・・・・ほのぼの癒される地蔵さんです。

撮影2009.11.14


奈良市 杣の川(そまのかわ) 阿弥陀磨崖石仏

2011年04月22日 | 石仏:奈良

名阪国道最大のサービスエリアの在る針ICで下りると目の前を走っているのが国道369号線。

左折すると宇陀、室生方面、右折して北上すれば柳生から奈良、笠置方面へと続いている。

針IC から北進すること約10分、トンネルを越えてなだらかな下り坂になる辺り・・・・・。

いつも良く利用する道路でありながら今まで全く気付かなかった・・・、それと言うのもこの道路は大和高原ハイウエーと名づけるほどの軽快道路、この辺りにはそれらしき集落、寺社など妖しさも無く軽快にとばしている。

道路左側に少し余裕野有る左土提下に石仏らしきものが見えて後方を確認の上ストップ。

山裾斜面に横たわる1.5m四方ぐらいの岩に阿弥陀石仏が刻まれている。

この石仏には今でも信仰が続いてるようで花も水も新しく、紅い涎掛けも掛けられている(撮影時にちょっとはずさせて貰ったが・・)

旧街道の辻の阿弥陀さんだったのだろうか??、近くに廃寺跡でも有るのだろうか??

高さ40cmぐらいの二重光背の中に像高約30cmの小阿弥陀。

小さくて可愛い仏さんです。

撮影2011.4.2


嵯峨野 化野(あだしの)念仏寺道の石仏

2011年04月21日 | 石仏:京都

誰でも知ってる京都嵯峨野の念仏寺は、化野念仏寺として境内におびただしい石仏や石塔の在る寺として、また京都の情緒ゆかしい景観としても全国的にその名を知られている。

そんなところに在って一部石仏ファンの間にしか余りその存在を知られてないのが此の石仏さん。

愛宕神社の門前、一之鳥居脇にある嵯峨野を代表するかのような景観の平野屋さんから歴史的街並みの参道を少し下って行くと念仏寺門前に至る。

門前参道脇の土手崖に二体の古びた石仏の有るのが目に付く。

いつも見慣れている大和の素朴な石仏さんとは同じ時代に造立したものであってもどこか趣の違う感がある。

 向かって右に阿弥陀如来、左に釈迦如来、共に舟形光背を背負う蓮華座に座する坐像で総高90cm。

像高は約60cm強、穏やかな顔容、がっしりした体躯で充実感があり鎌倉後期の像立だと考えられている。

鎌倉期の石仏として釈迦如来石仏はいかにも珍しいものだそうです。

<釈迦如来半身>

撮影2008.1.04


旧愛東町 善勝寺(ぜんしょうじ)地蔵石仏

2011年04月20日 | 石仏:滋賀

琵琶湖東岸、穀倉地帯が広がる東近江の鈴鹿山系西側山裾、愛知川沿いに旧愛東町青山の鄙びた集落がある。

県道217号線の青山町バス停前に日吉神社と同境内の善勝寺が旧道を挟んで墓地と接している。

本堂脇、墓地側に民家の、あの懐かしい稲架(はざ)掛け用の竹納屋を背にして石造物が並んでいる。

向かって右手、花崗岩の自然石の上部に円後背を薄く彫りくぼめその中に頭部を薄肉彫りで刻みだし、蓮華座に立つ体躯を線刻していて珍しい。

総高約1.5m 、建武三年(1336)の丙子二月十五日の記銘があり南北朝期の造立、ローカル色豊かで癒される地蔵立像です。

隣に建つのは塔身上部正面に、舟形を彫りくぼめ定印の阿弥陀如来坐像二体を刻む笠塔婆。

笠を付けた総高約1.6m、2尊の下部に文和三年(1354)の紀銘が刻まれていてこれも南北j朝期の像立。

前には鎌倉期の古びた独特な様式を持つ宝篋印塔や役の行者像も有って石仏ファンには嬉しい所です。

撮影2006.1.14


奈良県山添村 伏拝(ふしょうみ)の地蔵菩薩磨崖石仏(きりつけじぞう)

2011年04月19日 | 石仏:奈良

長い間、写真は撮ったもののすっかり記憶の底からも消え果てていたような石仏さん・・・・・ごめん。

山添村の神野山を北から南に越えると助命(助命)その助命の辻を道なりに都祁村の方に進むと旧新道と新々道の間が低く成っていて一見谷川の様に見える壁面岩場に此の磨崖石仏が刻まれて居る。

 

一目みてこれは大した事ことないわと捨て置いたつもりはないけど・・・丸顔で漫画のアンパンマンの様にも見える顔つきには親しみを覚えるが崇高さには欠けない事もない。

殆通り過ぎてしまうほど目立たない此の地蔵立像磨崖石仏は高さ約1m足らずの舟形光背を彫りくぼめた中に像高大凡70cmぐらい、定番の地蔵菩薩を中肉彫りで刻みだしている。

昔はこの地蔵の前を道が通っていたらしいが世の常・・・・・、すっかり道路の名残さえ無くなり水が溜まっていたりする。

地蔵の左右岩面には月輪の中に大日如来の胎蔵界金剛界の種字が刻まれている。

長い紐で真っ赤な涎掛けが掛けられていて、まだ忘れ去られた存在には成ってないようです。

つい最近この前を通ったので寄って見たら益々荒れ果て最早涎掛けも無く、花立も無くなって忘れ去られたように成っていました。

もう何がなにやら状態・・・、この溝の木立の下に有りますが・・・・。

撮影2007.4.8/2011.4.10


木津川市加茂町 鶯瀧寺(おうろうじ)地蔵菩薩石仏

2011年04月18日 | 石仏:京都

国道24号線から伊賀方面」に向かう国道163号線で木津川沿いに遡ると最初に出逢うのが仏性寺と呼ばれる西区。

恭仁京(くにきょう)の一部で有っただろう瓶原(みかのはら)の西端にある集落で、その山裾に古刹鶯瀧寺が鄙びた景観の中に有る。

鶯瀧寺境内脇に質素な地蔵堂があり大きな地蔵石仏祀られ回りには小石仏が集められている。

地蔵堂に祀られた地蔵菩薩立像はほぼ等身大・・・

中々立派だがやっぱり全体に細つくりで、どこか力強さににかける室町期の享禄二年の像立。

しかし穏やかな優しい顔立ちにはどこか癒される。

本堂脇には薬師堂があって・・・

こんな小堂には似つかわしくないような薬師三尊が事も無げに祀られていた。

歴史の深さを感じる土地です。

撮影2011.3.15


旧加茂町橋の本 西念寺地蔵菩薩石仏

2011年04月17日 | 石仏:京都

我が山城盆地を貫いて流れる木津川は伊賀方面から西流して笠置、加茂を過ぎ、木津辺りで大きく蛇行、北流して宇治川や桂川と合流、やがて淀川となって大阪湾に注ぐ。

加茂町の当尾(とうのお)は石仏ファンにとっては垂涎の地で多くの石仏が野辺の傍らに佇む地として名高かく、訪れる人も多い。

そんな加茂町の木津川を挟んで北岸一帯に広がる地域は瓶原(みかのはら)と呼ばれ古代、恭仁京(くにきょう)が造営された土地として良く知られているが、訪れる人とていない長閑な田園地帯が広がっています。

<恭仁京三条大路跡だと云われる集落道・・・橋の本集落の佇まい>

恭仁京 の三条大路の南端、木津川沿いに小さな「橋の本」集落があって、往時ここに恭仁京古橋が架かっていたと云う、いかにも歴史深い土地です。

集落内の出合いの辻には朱雀の井戸と言うなにやら、この地の古い歴史を彷彿とさせる六角井戸が残されている。

この出会いの辻から少し西の方に行くと西念寺と村墓がが同居している。

墓地の中央辺りに質素な地蔵堂が建てられ弘安四年(1281)銘の有る,いかにも立派な等身大の地蔵石仏が立っている。

ちょっと失礼して前の供台を移動、全身像を・・・・。

二重後背を持ち、大きく張りの有る蓮座上に立つ総高188cm像高155cmの通常型地蔵菩薩立像。

すらりと伸びた体躯、流れるような衣文も素晴らしく、・・・・

顔容にも生気がみなぎり力強く、鎌倉期の特徴を良く表している。

この年2度目の蒙古襲来があった。

撮影2011.3.4


たつの市 觜崎(はしさき)地蔵磨崖石仏

2011年04月16日 | 石仏:兵庫

兵庫県たつの市の揖保川東岸にそそり立つ觜崎屏風岩に連なる南側の岩壁に刻まれた磨崖石仏です。

たつの市街から国道179号線で揖保川沿いに北進、約4km先の船渡の交差点で県道724号に入り揖保川を渡りきった觜崎橋東詰の信号で左折して河川敷道路に車を進めると左手の頭上高くで地蔵さんが迎えてくれる。

<磨崖石仏前の流れは「地蔵の瀬」と呼ばれている>

現在ではこのように近くまで車で進入することも出来また磨崖直下まで近づいて拝むこともできるが、昔は揖保川の対岸に遥拝所が有りそこから此の石仏さんを拝んだ様です。

因みに川幅は約200m近くも有り、とても石仏の存在すら解らない。

大岩壁の下から約7m程上方の岩壁に、舟形を彫り窪め蓮台上に立つ地蔵立像を厚肉彫りで刻み出している。

像高約130cm、定型地蔵、花形後背中に円形頭光を刻み、南北朝中期の北朝年号、文和3年(1354)の刻銘がある。

地蔵の三方向には臍穴と深い線刻が残り地蔵を覆う何らかの設備が設けられてたようで、地元では「イボ取り地蔵」と呼ばれ信仰されているようです。

約15m上流の岩面には四体の地蔵磨崖仏が刻まれている。

下方に二体を大きくその上方に小さな一体、後の一体がどうも見当たらない。

右手上方にそれらしき痕跡は有るのだが・・・・・・・地衣類が邪魔をしているのだろうか??

やっぱり臍穴と線刻が有って架け覆いが設けられていたのだろう。

播磨に在って石棺仏ではなくこれほどの磨崖石仏が有ると言う事は別の文化圏だったのだろうか・・・・・??

撮影2009.3.22