愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

平群町 鳴川地蔵堂十三仏板碑

2012年11月30日 | 石仏:奈良

生駒平群谷、千光寺参詣道の鳴川集落、「揺るぎ地蔵尊」の傍らに立つ十三仏板碑です。

この前は何度も通るのですが、今回たまたま涎掛けも少く、ちょっと失礼して撮影してきました。

近鉄生駒線「元山上口」より北西へ約4km、谷深い鳴川渓谷沿いに軒を連ねる鳴川集落、細い道路が集落の屋根をかすめるように千光寺へと続きます。

ちょうど集落の中程、旧道との辻に立派な地蔵堂が在り、 揺るぎ地蔵尊と共に祀られて居ます。

高さ約1.5m、幅50cm、舟形石に三列四段の蓮座に載る十二尊坐像と上部中央の虚空蔵菩薩を中薄肉彫りで刻み出す。

風化摩耗も進んでいるのか?決して丁寧な彫りだとは見えません。

最上部には浮き彫りの瓔珞付きの天蓋刻み、最下部に室町後期の天文二十年(1551)辛亥十月吉日、「六斎人数十五人 逆修」と刻む。

撮影2012.11.21


平群町 信貴山千手院十三仏板碑

2012年11月29日 | 石仏:奈良

もう何年も前、このページでもサワリだけ紹介したことのある「信貴山千手院」、参道脇に立つ十三仏板碑。

何年かぶりに訪れ、その様変わりにビックリ、僕の記憶もいい加減ですが思わず何処に在ったのか?寺の人に訪ねたぐらい。

赤門から千手院へ下る石段参道の左石垣の下、以前は無かった、林立する石柱燈籠に隠れる様に立っている。

高さ約1.5m、幅約70cm、長方形板状石に四列三段の十二尊像、、上部中央に虚空蔵菩薩を配す。

一段目右手下部より二段目左手下部にかけて痛々しく断裂、補修されているものの尊像も処々拙い補修が目を剥いている。

丁寧な彫りで時代もありそうですが紀年銘はなくはっきりしません。

以前は尊像それぞれの頭に賽銭が乗せられていましたが、賽銭箱が別に設けられその姿は見られません。

撮影2012.5.26


三郷町 勢野墓地十三仏板碑/阿弥陀石仏

2012年11月28日 | 石仏:奈良

新興住宅に飲み込まれそうな勢野墓地にも十三仏板碑。

信貴山南東山裾、大和川挟まれた三郷町は、斜面に宅地造成されたマッチ箱の様な家並がびっしり建ち並び、見様に因ってはちょっと異常・・・。

進行団地の中を切り裂く様に走る県道脇、高台にある墓地は古墓ながら喧騒のなかに有り、故人にとってはさぞかし煩かろう・・・・。

墓地入口には江戸時代中期の六体地蔵と共に右端に並び立っている。

総高165cm、幅50cmと見るからにちょっと華奢。

三列四段と上部に独尊の虚空蔵・・・・

頂部には最早見落としそうな天蓋を刻み、やっぱり江戸期元禄の銘を持つ。

各尊像は略式化が進んでちょっと粗製。

墓地前、県道脇には土中から掘り出されたという阿弥陀石仏が金網にガードされ、立っている。

何故の金網ガードかは解らない程の簡素な金網、これでは只の邪魔物、全くガードの役目など果たせないように思うが??もう何年もこの状態。

おかげでこんな金網越しの写真しか撮れません。

高さ130cmの花崗岩自然石表面に高さ約1m強の二重光背形を写真の様に深く彫り、蓮華座に立つ独特な印相を持つ阿弥陀立像を詳細に線彫りしている。

顔と体部を左に向け単独尊ではなく、近く春日社にある「一針薬師」の脇侍であったのかも??と考えられて居る。

もしそうだとしたら、これほど深い光背形を彫り沈めることも無いように思われるが・・・。

県道を挟んで対峙する勢野霊苑入口にはちょっと珍しい七観音石仏。

整い過ぎて面白味の失せた像容、 江戸中期、正徳四年甲午の銘が見える。

このあたりは大和文化圏とは一線を画する様な気もしないではない。

撮影2012.6.10:2006.6.18


生駒市 谷田地蔵堂十三仏種子板碑/他 

2012年11月27日 | 石仏:奈良

前回の西一分より北へ約2km、谷田地蔵堂にも二基の十三仏種子板碑や、多くの石造物が安置されている。

近鉄奈良線生駒駅と東生駒駅の中間辺り、すぐ西側に観音寺の立つ小高い丘があり、その西裾、民家が密集する旧道脇、観音寺参道下に大きな覆屋を懸けた地蔵堂がある。

中央に立つ十三仏種子板碑は舟形整形の花崗岩に枠を取り、三段四列の蓮座上月輪に十二仏の種子を陰刻、上部中央に一周り大きな虚空蔵種子仏を置く。

高さ125cm、下部空間には室町後期 天文十九年(1550)銘と25人の法名を刻む。

向かって右側の十三仏種子板碑は同じく舟形枠取り内に同様に種子仏を刻み込むがこちらは三列四段上に虚空蔵菩薩の種子を刻む。

下部の銘は永禄十年(1567)と少し新しい。

堂内左脇手に立つ阿弥陀三尊石仏と五輪塔板碑。

阿弥陀三尊は高さ85cmの舟形石に、来迎印阿弥陀立像を中尊に左右に観音勢至の脇侍を刻むが・・・勢至の頭部などは剥離するほどに風化が進んでいる。

三尊共に中肉彫りで室町後期の造立だとか・・・。

隣の五輪塔板碑は水輪より上部を欠損するも、現高95cm、幅32cm、荒削りな彫法が時代を偲ばせる。

下部に鎌倉中期の文永五年(1268)の銘が在り貴重ですが、肉眼では判別難い。 

撮影2012.6.10


生駒市 西一分地蔵堂十三仏種子板碑/地蔵石仏

2012年11月26日 | 石仏:奈良

生駒山系だけではなく、大和高原や南山城でも見かけることの出来る十三仏種子板碑。

生駒山の東山裾、住馬大社(生駒代謝)より南へすぐ、集落内を行く旧道脇に西一分の地蔵堂が建ち、十三仏板碑と地蔵石仏が安置されている。

向かって左側 、高さ115cmの山形二重切り込み板碑に枠を残した長方形を造り、中に十三仏の種子を三列四段と上部に一尊。

十三仏は薄い彫り出しで蓮華座上の月輪内にそれぞれの種子を陰刻している。

室町後期、天文24年(1553)の銘をもつ。

中央には舟形光背の定型地蔵、総高110cm、光背下部の造り出し蓮座上に立ち、像高75cm。

よく整った像容ながら風化摩耗が激しく殆どのっぺらぼう。

室町中期の造立だと言われています。

こちら右側の地蔵石仏・・・・、何が何やら状態ですが横の地蔵よりは新しいかも??

生駒ではこうした地蔵堂がそこかしこに見受けられる。

撮影2012.6.10


生駒市 興融寺十三仏板碑

2012年11月25日 | 石仏:奈良

前回紹介の大福寺近く、棚田を下り切った有里(ありさと)町、融通念仏宗「興融寺」にある十三仏板碑。

ほんそこまで都市化の進んだ有里(ありさと)町、旧在所中にあってもまるで時間の止まったような興融寺はまた格別な雰囲気のある境内です。

十三仏板碑は真新しい切石で囲まれ、六字名号板や小石仏と共に立ちならんで居ます。

山形頂部を持ち図案化された天蓋瓔珞を持つ。

三列四段、上部中央に虚空蔵を置く定型野十三仏板碑、石材の幅が狭いためか細身な体躯になって居ます。

下部三尊頭部で断裂して居ます。

向かって左側に室町後期の天文18年(1549)の銘が確認できます。

一方境内入口には在銘五輪として奈良で最古の紀年銘を持つ興融寺五輪塔が有り、鎌倉時代中期の文永10年(1273)の造立。

周りの真新しい玉垣は邪魔ですが、拙く荒削りな五輪塔ながら高さ約160cmと堂々としている。

撮影2012.6.10


生駒市 大福寺十三仏板碑/他

2012年11月24日 | 石仏:奈良

生駒山系東斜面、落差の大きい棚田の広がる中段、大門集落上部に建つ大福寺境内に十三仏板碑と六字名号板碑がある。

生駒、暗峠(くらがりとうげ)を越え、奈良から大阪に抜ける国道308号線、家並を越え最初の辻を右折すると斜面に広がる棚田の真ん中・・・・・、目の前には棚田景観に似つかわしい、小さなお寺。

大福寺付近より見た東方向、矢田丘陵。

瀟洒な山門の小さな境内、民家と変わらない小さな本堂傍らに六字名号板に挟まれる様に十三仏板碑が立っている。

上部を欠損した舟形石に定型四段三列、上部虚空蔵の中肉彫り。

高さ約1m強、蓮座まで丁寧に刻まれ、室町時代末期の元亀四年(1573)の造立。

一尊々々の像容まで丁寧な彫りで表情豊かに刻まれて居ますが、虚空蔵の天蓋は頂部欠損のため確認出来ません。

六字名号板碑は向かって右側大きい方は室町時代後期の天文十三年、他方は慶長十一年の造立。

撮影2012.2.28


生駒市 石福寺の十三仏板碑三基/他

2012年11月23日 | 石仏:奈良

生駒山系西側北河内の十三仏はひとまず、今日から東側、主に生駒市周辺の十三仏を何体か・・・・・。

<石福寺近く、矢田丘陵側から見た生駒山方面>

生駒市の南部、生駒山系と矢田丘陵の山裾を縦断する国道168号線、悪名高き酷道(国道)308線交差を少し過ぎた東側。

矢田丘陵斜面に開発された萩の台団地西端に押しやられた旧村内の狭い道筋に、高く石垣を積み上げた融通念仏宗の「石福寺」がある。

本堂を左背にして真新しい基壇の上に十三仏三基、六字名号二基、三界万霊一基の都合六板碑が並び立てられて居る。

三基の十三仏板碑は共に桃山時代の造立、二基の名号板碑も天正と慶應の銘を持つ。

向かって右端の山形頂部を持つ十三仏板碑。

高さ約1m、ちょっと幅広で四列三段の配列、最上部に虚空蔵菩薩、最下部には安土桃山時代、天正二年(1574)の紀年銘と造立者を刻む。

中央の十三仏は一番小さく高さ94cm、十三仏定型の三列四段、頂部に天蓋下の虚空蔵菩薩。

安土桃山時代の慶長五年(1600)の銘を持つ。

左手の十三仏は安土桃山時代、高さ101cm、 慶長七年(1602)の造立。

四段三列、頂部の虚空蔵の定型、どうしたのか?最頂部の天蓋が歪んでいます。

左側、十三仏板碑に囲まれた六字名号板碑。

頭部山形、二段の切込を造り、安土桃山時代の天正四年(1576)高さ約140cmと、ここでは群を抜いて背が高い。

撮影2012.2.28


寝屋川市 明光寺(みょうこうじ)十三仏板碑/他

2012年11月22日 | 石仏:大阪

寝屋川では最古の紀年名を持つ十三仏板碑が明光寺にある。

寝屋川市最南東部、四條畷市と交野市に囲まれた山裾斜面、新旧混在の住宅街最上部に建つ。

住宅街は余所者を拒むように細い道が入り組み、解りづらいが車でも到達出来る。

本堂に向かって右手、境内境内片隅に基壇を設え、植え込みに隠れる様に十三仏板碑と両側に方形石の双体仏が置かれて居る。

上部を膨らませた舟形に整形した花崗岩表面に枠を取り、蓮華座に坐す三列四段の十二尊と上部中央にお決まりの虚空蔵菩薩。

天蓋は肉付きで刻み出され立派ですが、コケやカビが付着して変色が有り、見辛く成って居ます。

高さ120cm、最大幅65cm、枠外最下部に「三界万霊」と多数の法名、室町後期、弘治三年(1557)の紀年名を刻む。

向かって左隣に置かれて居た高さ約50cm、方形板石の双体地蔵?。

向かって右側は、植え込みが邪魔で写真は有りませんが同じく阿弥陀?の双体仏の様に見えました。

撮影2012.11.21


寝屋川市 大念寺十三仏板碑

2012年11月21日 | 石仏:大阪

街中の小さな寺院に大小二基の十三仏板碑が並び建って居ます。

四條畷市役所より国道163号線を西へ約2km足らず、寝屋川市との境、堀溝交差点を左折、すぐ次の辻の向うに「一心山大念寺」の瀟洒な山門が見える。

三文の前の道路上が市境を分けており大念寺は寝屋川市に成っているが、道向かいの駐車場は四條畷市に入っているかも??

山門を潜って狭い境内の左手、白壁土塀を背に色石混じりの玉砂利を敷き詰めて二基の十三仏板碑と得体の知れない残欠を組み合わせた石造物が建っている。

向かって右端の十三仏板碑は高さ120cm足らず、花崗岩を舟形に整形、枠を残して舟形を彫り沈め、下部を刻銘部として広めに取り、その上部に三列四段と上部に虚空蔵菩薩を置く定形の十三仏を中肉彫りで刻みだしている。

大きな天涯を上手く舟形頂部に合わせた洒落た意匠に成っており、保存も良好ながら殆ど像容は定かではない。

下部には安土桃山時代の慶長十六年(1611)の紀年と、九行にわたって法名が刻まれています。

他方一基はこんな状態、舟形の花崗岩ですが、粗質な石材のため風化摩耗が激しく、頂部は欠損、中央部には大きなひび割れも見られます。

個々の尊像もはっきりせず最早十三個のダルマさん状態で天蓋の有無も確認出来ません。

高さ90cm、安土桃山時代の慶長十四年(1609)と右側の十三仏より2年早い造立が確認されて居ます。  

撮影2011.11.27


寝屋川市 正縁寺十三仏板碑/石仏

2012年11月20日 | 石仏:大阪

写真の様に数多くの石造物が集められこの正縁寺の境内に安置されて居ます。 

此処は前回紹介「秋玄寺」より南東へ約1.5km、多分一昔前は静かな丘陵地であっただろう?新旧建ち並ぶ住宅地の真ん中に有ります。

JR学研都市線「忍ヶ丘駅」北へ約500m、創建は不明ながら元融通念仏宗、現在は浄土宗恩院末の小さな寺院です。

境内片隅の一画に、近くの造成開発や道路拡張などで行き場を失った石造物が数多く集められ、大切に祀られて居る。

先ずは、ちょっとずんぐり横広の舟形を持つ定形の十三仏板碑。

例に違わず三列四段と中央上部に天蓋下の虚空蔵菩薩を置く。

総高84cmと小さいながら、中肉の像容もはっきりしていて安土桃山時代の天正十四年(1586)も確認出来る。

こんな処にも・・・・と思わず唸った板石に厚肉で刻まれた阿弥陀、地蔵の双体石仏。

隣町、交野市星田地域に多い、僕が勝手に名付けた「星田型石仏」に瓜二つ。

ここから星田は約3kmばかり当然この地に在ってもなんの不思議もないが、他の地域では見ることの無いローカル色の強い石仏です。

像高共に約70cm強、向かって左に来迎印阿弥陀立像、右には定形の地蔵菩薩立像、その傍らには少しオーバーハングの舟形光背を持つ地蔵石仏。

単独としては珍しい合掌印の地蔵立像です。

他に、山形頂部に庇を造り、その下部に舟形を彫り窪め阿弥陀坐像を刻んだ六字名号板碑。

ちょっと変わった先の尖った山状自然石に刻まれた地蔵立像・・・、小洒落た意匠が現在アートとしても、そのまま通用しそうです。

寄せ集めでバラバラですが、なかなか見応えの有る石仏さん達です。

撮影2012.2.12


寝屋川市 秋玄寺十三仏板碑/地蔵石仏他

2012年11月19日 | 石仏:大阪

ちょっとくびれのある舟形を持つ十三仏板碑。

前回までの四條畷市の西隣町、寝屋川市と言えども市境より1km程しか離れていない秋玄寺境内に他の小石仏と共に安置されて居る。

北河内生駒山系西側斜面沿い、正しく十三仏密集地域です。

浄土宗「一印山秋玄寺」は北河内生駒西側斜面沿いを縦断する旧国道170号線沿い、高宮公民館脇を東にすぐの高みに在って、天正十一年(1582)創建だとしている。

しかしこの境内に安置された石仏は室町時代のものが多く、この地は元なんだったのだろうか??はたまた何処から持って来たものだろうか??

高さ114Cm、枠を残した舟形を薄く彫り沈目、なかに定形十三仏を薄肉で刻み出す。

室町末期の永禄十三年(1570)の銘が確認されるも、風化摩耗が強く肉眼では判断しかねます。

十三仏後列に並べられたちょっと見慣れない地蔵石仏。

舟形状自然花崗岩正面に大きな錫杖と大きな蓮華紋頭光持つ地蔵立像。

中肉彫りですが良く見ると、どうも頭が違うような、おまけに顔まで地蔵らしくない・・・・ちょっと不思議な地蔵さん。

十三仏左手には妙な筒状の六体地蔵さん。

これはどう見ても六地蔵石幢の残欠。

これもまた室町後期のものだとか??

撮影2012.2.12


四條畷市上田原 住吉神社十三仏板碑/他

2012年11月18日 | 石仏:大阪

奈良県境と道路一本隔て接して居る大阪四條畷市上田原、住吉神社境内に有る十三仏板碑です。

住吉神社は明治の神仏分離までは、元神宮寺の住職が神官を兼務する神社であり、境内には仏教文化の臭が強く残されている。

ここを訪れた去年の11月末、正しく村の鎮守らしく、そう広くない境内は秋色に染まっていた。

本殿に向かって左、境内の片隅に、自然石碑や小石仏と並んで十三仏板碑が建っている。

十三仏板碑は高さ約1.3m、頂部が尖った自然花崗岩の表面を整え、舟形を薄く彫り沈め中に定形の十三仏を薄く刻み出している。

江戸時代初期の元和八年(1622)造立・・・・・・、略化された天蓋が光背外に薄く彫られて居るのが奇異な気もする。

神宮寺が在ったと思われる境内裏参道脇にはこんな石造物。

大きな阿弥陀と小さな地蔵の並んだ双体箱石仏。

江戸初期かな?と思われる整った地蔵石仏。

神社境内で仏教の名残を見るたび、明治維新はいったい何を産み出し、何を無くしたのかと・・・・・、 現代もよく似たような事を繰り返している。

撮影2011.11.27


四條畷市  照湧墓地一石十三仏板碑/一石六地蔵

2012年11月17日 | 石仏:大阪

今はすっかり墓地整備が終わり、なんとも殺風景な墓地の片隅に立つ十三仏板碑。

<墓地から見た景観>

奈良や山城側から見れば大阪は生駒山系を越えた西側、しかし四條畷市だけはどう言うわけか?国道163号線の清滝峠を越した東側まで越境している様にも見える。

昔は同じ田原郷だったと思われる奈良県生駒市南田原と大阪府四條畷市田原が有って面食らってしまう。

歴史的に何があったのか調べれば面白いのだろうが・・・・。

現在では大きな地続きの墓地となっている田原台霊園の一番奥、照湧墓地と呼ばれる一画が有り、この十三仏板碑が立っている。

新しく整備された近代的な墓地にはどうしても似合わないような??

三画頭の花崗岩板石に舟形を掘り沈め,十二仏の坐像を四列三段と上部中央に虚空蔵の、合わせて十三仏を刻み出して居る。

通常十三仏板碑は三列四段が殆どなので非常に、珍しいものの様です。

高さ約120Cm、右脇に室町後期の永禄二年の銘が確認されています。

田原台霊園として整備されるまではどうなていたのかは知りませんが、すっかり新興住宅が幅を利かした霊園一角に有った一石六地蔵。

一石六体地蔵は伊賀地域や大和高原域では見慣れて居ますが、この生駒山系域では珍しく、龍間の一石六体地蔵の二基だけが確認されて居ます。

この近くそれも以前はここが墓地入口だったのだろうか??はたまたこの場所に移動してきたものかちょっと不似合いな場所ですが・・・・。

高さ155Cmの舟形に整形した花崗岩、蓮台に立つ三列二段の六体地蔵は像高約40Cm、厚肉彫りで元禄九年(1696)の銘が有りまが、上段三地蔵の首のあたりで断裂、補修されている。

一石六体地蔵としては大きく、なかなか見応えの有る地蔵さんです。

撮影2012.2.21


四條畷市  正法寺十三仏板碑石仏/他

2012年11月16日 | 石仏:大阪

大きく姿の良い十三仏板碑と、肩を並べるように建つ六字名号板碑です。

四条畷市役所裏、北西へ200~300m、新興住宅が押し寄せ、そこだけ田んぼの残った一画に浄土宗「小野山正法寺」が有る

大きいのでブロック塀の外からでも二基の背が見える。

正法寺は、古く、これより東の清滝山中にあり、観海上人が桃山時代の天正年間、この地に再興したと言われています。

古い写真を見ると名号板と十三仏の並びが左右が逆になっていますが・・・・向かって右側に建つ六字名号板日碑は室町時代後期、天文五年(1536) の銘を持ち、高さ 1約160cm 幅約90Cm、大きく中央に「南無阿弥陀仏」と蓮華座上に刻み、銘文も読みやすく刻み付けている。

上部には笠が載っていたと思われる 枘(ほぞ)が残って居るのが確認できる。

左側には高さ約190Cm近くもある十三仏板碑。

背が高いせいか?少し華奢に見る全体像ですが、風化摩耗も少く、十三仏の一尊一尊が詳らかに確認できる。 

十三仏板碑は正法寺再興の観海上人が本願となり、逆修念仏講の八十一人が結束、天正十八年(1590)に造立された。

三列四段と上部中央に、天蓋下の虚空蔵菩薩を置く定形十三仏板碑。

これほど一尊々々が様になっている十三仏板碑石仏も珍しい。 

撮影2012.2.21