前日に引き続き旧島ヶ原村の廃寺跡に残された地蔵さん。
ここは島ヶ原大道区外れ、なだらかな棚田に囲まれた小山の峯伝い道・・・・六字名号の板碑などと共に時を失い立ち尽くしている。
地蔵石仏は総高約1mばかし、穏やかに微笑む童顔の定形地蔵立像。
今や廃寺が有った事など誰も知る由もなく、この石仏さんだけが生き証人なのかも??
撮影2012.5.1
前日に引き続き旧島ヶ原村の廃寺跡に残された地蔵さん。
ここは島ヶ原大道区外れ、なだらかな棚田に囲まれた小山の峯伝い道・・・・六字名号の板碑などと共に時を失い立ち尽くしている。
地蔵石仏は総高約1mばかし、穏やかに微笑む童顔の定形地蔵立像。
今や廃寺が有った事など誰も知る由もなく、この石仏さんだけが生き証人なのかも??
撮影2012.5.1
ずっと以前から気に成っていた石仏さん・・・・、名前は聞くもののどうも実態が判らなかった。
島ヶ原「やぶっちゃランド」の直ぐ東、木津川と関西線に挟まれた農道脇の潅木林に隠れるように佇んでいる。
「相田地蔵前地蔵」・・名称通りに推察すると・・・・相田地蔵と言う地蔵堂か?もしくは地蔵さんが有り、その前にもう一体の別の地蔵さんが居ると思っていた。
しかし、あに図らんや・・・どこをどう探して見ても林の中に見出したのはこの石仏さんだけ、それも写真のように地蔵ではなく阿弥陀さん。
左上方部を欠除した幅広の舟形光背を持ち、中に像高70~80cmの定印を組み、結跏趺坐した阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出している。
おそらく鎌倉期から南北朝期にかけての造立だろうが尊顔は殆ど判らないほど風化が進んでいる。
しかし肩の張りや、膝張りには古式な力強さが見受けられる。
何故「相田地蔵前地蔵」なのかは、分からず終い。
撮影2012.5.1
とても一人では行きつけ無い様な場所、今ではすっかり忘れ去られたかの様な不動明王。
名張川を堰止め出来た高山ダム湖はすっかり周りの姿を変え、この磨崖の不動明王もすっかり近づくのが難しく成った様です。
前回までの田山地区からダム湖に架かる高山大橋を渡り対岸の高尾地区へ、府道82号線を道成に南下、脇道をダム湖側に入って2~3軒の民家脇をすり抜けダム湖が見える場所まで・・・。
直下にダム湖の見える道無き道を湖岸まで下り、細い谷川口から見上げると、切り立つ岩盤に一筋の滝・・・。
ここが高尾の仏谷、滝の左壁面に彫られた不動磨崖仏が在る。
かってここは修験道行者の修行場だったのだろう・・・例え湖水の水嵩が増えたとしてもここまで湖面が上昇する事もなさそうで、火焔の赤い彩色も色褪せることもなく、そのまま残っている。
急な崖上に有り、真近まで近づくことはちょっと躊躇う・・・。
岩面に高さ約70cm程の丸みの有る舟形を彫り沈め、中に手馴れた線彫りの不動明王立像を刻み込んでいる。
その左手の枡形には「泰忍」と読める作者名か??
少し甘ピンですが・・・・線彫り不動明王は像高約55cm、火焔光背の朱が頭にこびり付く程印象に残る磨崖仏です。
まあ、しかしダム湖に沈む事だけは免れて良かった。
撮影2012.4.30
オドロオドロしい程に荒れ果て、最早雑木混じりの竹林と化し、薄暗く近付く人さえ希な磨崖石仏。
<磨崖仏は右手ブッシュの奥に在る>
旧田山小学校の程近く、華将寺跡に有り、往時大阪城の石垣用材として持ち出されない様にこれらの石仏や碑を彫り刻んだと言い伝えられている。
入口側から正面を見るとこんな感じ、大岩は高さ約3.5m、幅約4.5m、奥行3.8mのなだらかな山形花崗岩。
南面する正面岩肌には地蔵石仏や五輪塔・碑型など約20基・・・・その異様さと数の多さに度肝を抜かされる。
続く東面には約40基が刻まれると言うが最早、苔むし過ぎて朧げながらそれと解る程度・・・・。
岩の上にも枯葉が積り、最早花を手向ける人も居ない事を悟らずにはいられない。
しかし正面側の石仏には見るべきものが有り・・・・
特に上部の最大石仏は像高約80cm足らず、そのスラっとした像容、蓮台形式から室町後期降らぬ造立だと考えられ、その後順次追刻を繰り返し、幕末安永頃までの銘が確認されて居る。
しかし哀しいかな、ここまで苔むすと、何が何やら・・・お手上げです
撮影2012.4.30
引き続き南山城村田山の石仏から、ちょっと風変わりな地蔵石仏。
ツルギ道と呼ばれる旧森山神社の入口に立ち、裳裾を広げ、総高の割には像高の小ささが気になるローカル色豊かな地蔵さん。
高さ140cmの舟形自然石の中央に巾一杯の大きな蓮台造り、その上に立つ像高43cmばかりの地蔵立像を中肉彫りで刻み出す。
大きな錫杖と広がった裳裾は伊賀名張地域や、その辺境でよく見かける石仏の特徴・・・大和文化圏とは言え独特なものが有ります。
しかし、ここまで来ると、とても京都府内とはとても思えない。
肉眼ではとても確認できませんが、応仁3年(1469年)、の銘が有り室町中期の造立。
撮影2012.4.30
先日紹介の南山城村、田山地区に残された磨崖の二尊石仏。
田山地区は南山城村にあって古い歴史を有する処、木津川上流の名張川を堰止めた高山ダム右岸の高原域に在り、山を伐り拓いて造られた茶畑とわずかばかりの水田に囲まれた桃源郷を思わせる様な土地。
集落の中心部、諏訪神社から程近い集落外れ、昔は渡船場へと続く旧道脇の大岩に枡型を彫り窪め、中に阿弥陀と地蔵の二尊を刻み出している。
向かって右に来迎印の阿弥陀、左手は定形の地蔵、共に像高約35cmの蓮台に立つ。
既に花を手向ける人もなく苔生し・・・その上地蔵の頭部などは削られた様にも見えるが・・・。
もう地元で聞いても知らない人の方が多いかも??
撮影2012.4.30
いつか青空の下に立ちたいと乞い願っている磨崖の六体地蔵と阿弥陀さん。
南山城村は京都府に唯一残された村、京都府最南東端部に在り、南は奈良市に、東は伊賀市に境を接する長閑な高原里山地域です。
そんな村役場から程近い、木津川に注ぐ「渋久川」河口近くの河川敷に大きな岩が重なるように有り、その下面に石仏が刻まれて居ます。
大岩は地上高2.3m幅約3m、奥行2.4m・・・・この奥行が石仏面の高さに成る。
石仏の刻まれた面は、ちょうど下にある「支え石」に寄り添い、その僅かな空間からなんとかその存在が確認できます。
こちら・・・隙間からなんとか見える阿弥陀如来立像。
舟形光背を彫り沈めた中、像高約30cmばかりの来迎印の阿弥陀立像 。
岩の間に溜まった土をスコップで掘り出し、なんとか上半身を潜り込ませ10mm超ワイドレンズで捉えた全容。
幅約1m、高さ約40cmの長方形彫り沈め、蓮台に立つ像高34cmの六体地蔵を中肉彫りで刻み出している。
この三体は奥手の三体・・ピントは甘いですが・・
これが一番手前、向かって再右端の地蔵さん・・・なかなかの童顔
この地蔵さんはみぎから二番目の矢田寺型地蔵さん
ちょっとピンボケが酷い右から3番目、金剛幡を持っている。
この磨崖石仏は所謂六体地蔵と、その左右両枠外に阿弥陀を刻んだ珍しい石仏。
いつの頃からか斜面の磨崖がずり落ち、昭和28年(1958)の南山城水害で巨石下の土砂が流されこの石仏が発見された。
現在では確認できないが天文14年(1545)の銘が確認されて居て室町後期の造立。
隠れ地蔵の名で呼ばれて居るようですが・・いつの日か、ちゃんと青空を拝める石仏さんになって欲しいものです。
撮影2012.4.30
先日の洞が峠からの帰り道、たまたま通りかかった旧在所、「内里」で見かけた大きい茅葺き民家。
集落を貫通する在所道に面して木立の多い大きな屋敷を白壁腰板塀で囲い、門を潜って中庭の奥に入母屋造りの大きい茅葺き母屋が建つ。
母屋の向かって左側には式台を備え、茅葺き屋根から棧瓦棟が突き出ている。
往時この屋敷は大庄屋屋敷だったのだろうか・・・格調高い造りで遠い昔を偲ばせる。
妻側から見ると明らかに一般農家とは違って重厚な茅葺き屋根。
破風飾りも奥深くまで凹んで居て、棟には棧瓦の箱棟を載せている。
撮影2014.2.24
もうずっ~と昔、僕が長距離トラックに乗っていた若い頃、この前を通るたび見ていた茅葺き屋根の店。
まだ健在だと言う事を確認したのでチャリを駆って出掛けて来た。
我が家から西方向へ約10kmばかり、国道一号線洞が峠のなだらかな頂上付近。
小さな入母屋屋根と、切妻の茅葺き屋根が小さいながら並び建っている。
ここは洞が峠の峠茶屋、ぼた餅の幟と「にしん蕎」の看板が所在無さそうに見える。
近頃では有名チェーンのファミレスが幅を利かせ、こう言う店はちょっと時代遅れ、そのせいか茅葺き屋根もそろそろ葺き替え時だが、どうなる事やら・・・
撮影2014.2.24
昨日紹介の茅葺き民家より谷を西へ一つ隔てた棚田越しに見え隠れする茅葺き民家。
谷川を流れ下る吉峰川の流れに沿うように連なる小さな集落・・・この地では軽四トラックで買い物を代行するようなシステムがあるようで各家庭に買い物を届けている人に出くわした。
老人の多い鄙びた田舎で、車に乗れないお年寄りには必要不可欠なのだろう・・・。
周りの景観は四季それぞれに飛切良いのだが・・・若者はやっぱり居着かず、街中へ都心へと出て行って帰って来ない。
ここもまた目と鼻の先が街中なのに・・・
昔ながらの蛇行した棚田の影に隠れるように、大きい入母屋造りの茅葺き屋根が見え、素晴らしい景観を醸し出す。
ここは集落から少し離れて独居、おおきい屋敷だが・・誰か名だたる金持ちの別荘か?宗教施設の一部なのかも??。
屋根は茅葺き、遠目には棚田に見え隠れする素晴らしい景観の茅葺民家・・・しかし下屋はコンクリート造りでちょっと艷消し。
寄って見なければわからないものを・・・、多分昭和か平成の建築だろう??。
撮影2014.3.17
京都西山西国33番札所で知られた善峰寺麓に有った茅葺き民家。
麓、洛西ニュータウン方面からチャリにしてはきついヘアピン上りを駆け上がり、集落の一番奥手にこの茅葺き民家が建っていた。
僕がここを訪れた時、ちょうど屋根職人が棟まで登って補修中・・。
見た感じ、どうも全面葺き替えでなく、部分補修の様な感じ。
この先にもう民家はなく、来た道はこの奥濃い緑の山へと消えていた・・・この日は暖かかったが山の遅い梅がようやく綻びだしていた。
四方に棧瓦庇を突き出し、入母屋造りの大きい屋根を載せている。
見たところ、この家は昔ながらの農家のようで、現在もそのままを引き継いでの佇まい・・・。
しかし、屋根へ登っている人もかなりの老人・・・・街からそれほど遠くないのに子供の声は聞こえて来ない。
撮影2014.3.17
今年三月中旬、春本番を思わせる暖かい日にチャリで嵐山を訪れ、それだけでは勿体無いと足を伸ばした苔寺(西方寺)近く、山口家住宅の茅葺き長屋門。
山田家住宅は西山の東面山裾、周りを新興住宅の家並に囲まれ、この敷地一画だけが昔日の景観を今に良く伝えて居る。
この茅葺き長屋門は入母屋造茅葺屋根の大型の長屋門で東面して建ち、背面北半部と北側面に桟瓦葺の庇が張り出している。
国の登録有形文化財(建造物)に指定されているが、 現在長屋門の南隣に建つ土蔵の改修工事が行われちょっと艷消し・・・。
しかし、入口に両開きの板扉と脇戸を設け、右手外壁面に横連子窓を構える、旧家の表門としての豪壮で風格のある構えを良く伝えて居る。
この長屋門を有する 山口家は戦国時代より葉室家、徳大寺家に仕えた大庄屋、因みにこの屋敷、「苔香居」は限定公開されて居る様です。
それでもこの開発盛んな土地にあって、良くも保存されて来たものだと我が目を疑う様な素晴らしい景観。
撮影2014.3.17
グーグルマップのストリートビューでバッチリ確認、そのまま姿で茅葺き屋根の畳屋さんが建っていた。
嵐電終着駅、嵐山の一つ手前嵐電嵯峨駅直ぐ南、通りに面して妻入り入母屋造りの茅葺き屋根。
付近は殆ど近代的な建物に建て替えられているが、この一画にだけ昔ながらの茅葺き屋根と、虫籠窓を持つ棧瓦葺きの二階家。
しかし残念ながら通りに面して民家が建て混んでいて他の方向からの撮影は出来なかった。
撮影2014.3.17
前日に同じく、嵯峨野広沢の池、南へすぐの新旧混在した住宅街に建って居た。
嵯峨野は名だたる京都の観光地、新興住宅もそれなりに進出、昔の農家も裕福になり、残された茅葺き民家も良く手入れされている家が多い。
この民家もつい最近葺き替えを終えたばかり、秋が始まったばかりの眩い日の光に、端正な茅葺き屋根が眩いくらい。
この家もやっぱり大きい入母屋造り、下屋の壁なども綺麗に化粧直しされて居た。
嵯峨野は市街地とは言えないまでもそう田舎ではない・・・そんな準市街地にしては思ってた以上に茅葺き民家が残されて居る。
撮影2013.9.9
ちょっと奇妙な下屋を持つ茅葺き屋根の家。
奥嵯峨への入口、嵯峨釈迦堂から少し西へ歩いた旧街道筋に面して建っていた。
白壁中二階の下屋に入母屋造り茅葺き屋根を乗せている。
茅葺き屋根は最近葺き替えられたのか?、小気味良く整い美しく仕上げられている。
破風板には丸に四菱の家紋がくり抜かれ・・・この家は現在「総合建設請負業」を営む本社らしい。
撮影2013.9.9