愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

能勢町山田 日野谷の青面金剛石仏

2015年10月30日 | 石仏:大阪

 

能勢町山間集落の日野谷道端に建っていた庚申さんの青面金剛像

こんな山深い集落になど滅多に余所者など来ないだろうが・・・僕はたまたまgoogleアースで見つけた茅葺き民家を確認に行って見つけた。

しかし肝心の探し物の茅葺き屋根は、棟が落ちてしまって半倒壊状態でした。

代わりにこんなおまけを見つけた訳ですが・・・説明板には、「この集落では庚申講が現在でも引き継がれて居る」とか??

それはこの集落に全く新居住者が居ないという証でもありますが・・・・・

石仏自身は大和文化圏で見かける像容とは随分違ってローカル色が濃く、江戸時代末期の造立らしい。

 

撮影2015.9.22


茨木市忍頂寺 一願成就大日如来石仏

2015年10月28日 | 石仏:大阪

 

 名神茨木ICより豊能への道すがら、府道1号線沿い忍頂寺交差点脇で見かけた石仏さん。

斜面を凹ませ、小さなお堂を造り、片脇「一願成就大日如来」と刻まれた石柱が建てられている。

しかしどこにも由処書き説明板などは無く、詳細の程はよく判らない

石仏は高さ1m、幅40cm程の頂部を舟形状に整形した板石上部に舟形を彫り沈め、中に蓮台に結跏趺坐する石仏を中肉彫りで刻み出している。

一見するに、弥陀定印の阿弥陀如来か?法界定印の胎蔵界大日如来の見分けが付かない。

像高約50cm足らず風化摩耗によりツンツルテンながら江戸期以前の造立だと思われる。

撮影2015.9.22


太子町 竹之内街道の地蔵石仏

2015年02月25日 | 石仏:大阪

竹之内街道を急ぐ人達を優しく見守る様にと建てられたで有ろう地蔵石仏。

ちょうど古道竹之内街道を太子町方面から登って来ると・・・・・・

「二上山万葉の森脇」を通って新竹之内街道(国道166)に出会う付近に建っている。

石仏は大きく等身大、花崗岩自然石に補足尖った舟形光背を深く彫り沈め、中に蓮華座に立つ定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出して居る。

穏やかで優しい顔ですが・・・どうもイマイチ気迫が足りないのは時代のせいでしょうか??その造立は江戸初期の慶安四年(1651)の名が確認されて居ます。

舟形枠の左右には道しるべが彫り刻まれ、道行く人達に行く手を指し示していた地蔵さんの様です。

撮影2006.10.14


太子町 大道の阿弥陀石仏

2015年02月24日 | 石仏:大阪

竹之内街道、大道集落の斜面に残された阿弥陀石仏。

古代、官道として整備され、聖徳太子も飛鳥への道を急いだろう・・・・竹之内街道。

古道の歴史に想いを募らせ、景観を愛で歩く人は多いが・・・・・・・

頭上高くにあるこんな石仏に目を留める人など皆無・・・・・まぁー知っていなきゃ見えません

石仏は概ね1m足らずの花崗岩自然石に舟形光背を彫り沈め中に弥陀定印の阿弥陀如来坐像を薄肉彫りで刻み出す。

急傾斜地の断崖上に有り、なかなか人も近寄り難く、すっかり苔生し、ちょっと可哀想なな状態に成って居ます。

因みに室町期の造立だと言う事です。

撮影2012.10.10


太子町 泥掛け地蔵/隔夜堂阿弥陀石仏

2015年02月23日 | 石仏:大阪

太子町、叡福寺近くの石仏を二体ほど・・・

叡福寺前の府道を西へ約1km、道成りに進むと大井川橋を越え、次の点滅信号の左手に立派な地蔵堂が建っている。

堂内はコンクリートの打ち放しで開放感のある造り、供台を設け飾り窓越しに拝む様に成っている。

しかし板1枚挟んで奥もオープンスペースに成っており、自由に石仏と真近に対面できる。

高さ1.4m、頭の丸い舟形光背を背負い、蓮華座の上に立つ定形地蔵立像・・

皮膚病祈願の泥掛け地蔵として名高いようだが・・近年は泥を掛けるようなことは無くなったが・・・

顔を撫で摩る様になったのか??顔がピカピカ・・・形式化された連弁、像容から室町末期の造立とされて居る。

一方叡福寺前まで戻ると南大門に道路を挟んで対峙にこちらも立派な隔夜堂と呼ぶ御堂があり、中に立派な阿弥陀石仏が祀られている。

しかし大阪の石仏は得てしてこんなもん、正面は格子扉にしっかり錠前・・・その上丁寧にも隙間程度の御簾をかけおまけに地蔵のお前立ちを置いている。

どうしてもこれ以上の画像は望むべくもない。

隔夜堂 阿弥陀石仏(府指定文化財、鎌倉時代初期)は高さ1.1mの舟形光背を負い、蓮華座に座す像高72cmの定印を持つ阿弥陀如来坐像を、厚肉彫りで刻み出している

撮影2012.10.10


太子町 叡福寺結界石/地蔵石仏

2015年02月21日 | 石仏:大阪

 

結界石と呼ばれる太子廟を取り巻く様に立ち尽くす板碑列

 

 太子町「叡福寺」は言わずと知れた聖徳太子ゆかりの地・・・・

聖徳太子一族(生母穴穂部間人皇后、太子夫人膳部大郎女と本人)が眠る三骨一廟の太子廟があることで広く知られて居る。

聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定され・・・

江戸時代までは参拝のために石室内に入れたらしいのですが、明治に入り入場が規制され、明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋められてしまったようです。

しかし墳丘の周りを埋め尽くすように二列の結界石と呼ばれる板碑が並び建っている。

板碑は何れも観音の種子を刻み、頂部山形板碑ですが内部二列目と一列目とでは造立期が明らかに異なるよです。

全体で490本あると言われていますが圧巻です。

一方、叡福寺の墓地に立つ二体の地蔵石仏は

共に等身大で頭上に蓮華紋の刻まれた舟形光背を背負い蓮座の上に立つ。

向かって左側の地蔵石仏も・・・

 向かって左側に地蔵石仏も、共に室町末期の弘地(1555~)年号を持つ。

「永福寺」は中世に於いても衰退することなく、特別な「太子信仰」を持ち続けて居たのだろうか???

撮影2012.10.10


交野市獅子窟寺 坂口墓の石仏

2014年11月12日 | 石仏:大阪

先日紹介の獅子窟寺「王の墓」の更に奥、今はもう使われない「坂口の墓地」の佇む石仏さん。

まるでもう永らく人っ子一人訪ねてきたことの無い様な佇まい、枯れ笹がうず高く石仏の足元を埋め尽くし・・ここは一瞬たじろぐほど、別の空気が流れて居る。

いつからこうしてここに佇んで居るのだろうか??

付近には10躰足らずの石仏が並んでいるが、特に目を惹く二体の中世仏が際立って居る。

「椿地蔵」の名で呼ばれる地蔵石仏は、総高110cm、像高75cm、やや痩身の定形地蔵立像。

笹の葉が足元を埋め尽くしているがボリュームの在る二重蓮座の上に立っている。

竹やぶに囲まれ年中陽が射さない環境にあるため、石仏はいつも湿って苔生している。

記銘は無いものの全体の像容から南北朝、室町初期頃の造立だと考えられている。

このちで良く目にする像容の阿弥陀石仏。

肉付きよく刻まれているが、彫りは簡略化が進んだ室町後期の造立。

この墓地は遥か昔に忘れられた墓地なのだろう・・・今は重い空気が包んでる・

撮影2012.6.17


交野市 獅子窟寺王の墓/他

2014年11月11日 | 石仏:大阪

交野、 「獅子窟寺」に残されて居る、「亀山上皇と皇后」の供養塔・王の墓が重厚なたたずまいを見せている。

京都、大阪、奈良を分ける生駒山塊北端域の山間部・・・ここを車で訪れる術はなく、急な山道を20分程度登らなければ行き着けない。

「役の行者」が開闢、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる「獅子窟寺」の古刹が在る。

普段は静まり返り、幽遠な中に森閑とした2~3のお堂が建っている。

亀山上皇はこの寺の薬師仏に病気平癒を祈られ、全快した喜びに荒廃した寺を立派に再建された。

嘉元3年(1305年)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられた。

王の墓と呼ばれる二基の宝塔は亀山上皇及び皇后供養塔とと伝えられるが、共に塔身、相輪を欠損・・・写真の様な哀れな状態に成って居ます。

向かって左、正面笠部軒先部に剥落部の在る西側塔は鎌倉後期の造立。

共に同様の大きさ同様の造りだが笠部の反りが急なことから南北朝期の造立だろうと考えられている。

五輪塔が一列に並び建つ寺僧墓・・・

隣には首を失った六体地蔵・・・六体の内四体までが明治の廃物棄却際して首をはねられたとか??

元和元年(1615年)大阪夏の陣の戦火せ全山消失、参道の仁王門跡付近にも首なし地蔵が一躰。

この首は戦火にまみえて亡くしたものなのか??はたまた明治の廃仏騒ぎで亡くしたものなのか??

現高薬80cm、、細身の体躯で蓮台に立つつ地蔵菩薩立像・・・現在「子安地蔵」と呼ばれ信仰篤い。

全体の像容から室町初期の造立だと考えられている。

撮影2012.6.17


八尾市大竹 薬師石仏

2014年11月10日 | 石仏:大阪

 八尾市北端、生駒山塊西側斜面台地の薬音寺集落に残された薬師石仏。

この台地には、嘗て東高野街道がとおり往古の街道筋を彷彿とさせる景観も見ることが出来る。

集落の中央部、東高野街道と出会う在所道の小さな空き地に簡素な地蔵堂が建ち中に石仏が安置されて居る。

元は此処より少し上へあがった熊野神社境内に有り、いつの日にかこの場所に移された様です。

石仏は凝灰岩の石棺材を利用した薬師如来石棺仏で総高130cm、幅60cm。



舟形光背を造り力の弱い蓮座に立っているが・・・・とても切子格子越しではとても全身を捉えられなかった。

因みに像高70cm余り、後輩の頂部には薬師種子の「バイ」を刻み、左右に七こづつの梵字を刻んでいる。



右手は胸脇で施無畏印、左手は薬壺を掲げたローカル色豊かな薬師如来石仏。

熊野神社境内は前方後円墳跡であり、この石仏もここから出土した石棺材を利用したものだろう・・・・。

因みに像容からは室町後期の造立。

撮影2012.6.18

交野市倉地 源氏の滝石仏群

2014年11月09日 | 石仏:大阪

交野市倉地、源氏の滝への参道脇に打ち捨てられる様に浮かれた石仏さん達。

源氏の滝は交野市北端、岩倉開元寺と言う古代寺院が流星を極め、交野頂上付近からこの山裾あたりにまで伽藍を連ねていたと言う。

そんな岩蔵開元寺は織田信長に依る二度目の焼失に遭い再建されることはなく、その時焼きだされた黒焦げの不動明王は、滝の対岸を登った宣春院・本堂(不動堂)に残されて居る。

源氏の滝と呼ばれるこの滝は、古代寺院「岩蔵開元寺」にちなみ「元寺滝(げんじの滝)」と呼ばれる。

滝は修験道の修行の場として使われ、滝左手の岩座には不動明王の種子が刻まれて居る。

滝からはほんの100m程下流、落ち葉に埋もれるように石仏・石塔が70体程も集められています。

因みに内訳は阿弥陀如来石仏が51体、地蔵菩薩石仏4体、二尊石仏3体、石塔類11体と、圧倒的に阿弥陀如来さんが多いようです。

例により目に留まった石仏を数点・・・・。

斜面近く後列左、舟形加工石に縁を残した舟形を彫り窪め、中に中肉彫りの定印阿弥陀坐像を刻み出す。

しっかりした像容で室町期前期の造立。

 その右手、上部に断裂痕を残し、苔むす石仏・・・。

上部を舟形に加工した下部の長い板石状加工石の上部を舟形に彫り沈め中に結跏趺坐する定印阿弥陀坐像を中肉で刻み出し、室町好奇の像立か?

同様の阿弥陀石仏だが、より大まかな簡略化が進み桃山期の造立・・・

総高約70cm、定印の指先もしっかり表現され、肉付きは良いが迫力には欠ける室町中期頃の造立だろうか??

自然石を荒削りに整え、定印阿弥陀を目一杯に刻みだしたこんな石仏も・・・・

かって織田軍の軍勢に踏みにじられたのかも?

撮影2012.6.17


交野市私部 光通寺の石仏

2014年11月08日 | 石仏:大阪

先日紹介の交野市私部「光通寺」境内に残された石仏さん達。

本堂脇、不動堂へ続くブロック塀を背に、付近から集められた室町期からの雑多な石仏が50躰以上も並べられている。

ここでは僕の目に留まった三体のの紹介です。

並び立つ石仏の向かって左端の方、モミジの小株に隠れるように立つ阿弥陀如来立像。

隙間なく、下部もコンクリート漬けにされ詳しくは不明ですが・・・舟形後輩の頂部を欠損、現高90cm足らず、像高75cm、右手は胸に左手を下げ来迎印を示す。

肉付きの取れたスマートな像容で室町中期の造立だろうか・・・

モミジの小株を挟んで右手、前の現代地蔵に隠れるようにして立つ阿弥陀如来坐像。

舟形状自然石に深く舟形光背を彫り沈め、中に力強い定印阿弥陀如来を中肉で刻み出している。

力強いが簡略化が進行した室町紀像立だろう・・・しかし尊顔は鋭く見える。

最後に可愛く見える阿弥陀如来坐像。

舟形光背を持ち蓮座に結跏趺坐、定印を組むが、やっぱり簡略化が進んだ室町後期の造立。

此処、交野ではどこに行っても、こんな石仏に出合う事が出来る。

撮影2012.6.17


交野市私部 光通寺石垣の石仏

2014年11月07日 | 石仏:大阪

交野市、光通寺の石垣に刻まれた二体の石仏。

交野市は枚方市と並び、大阪府最東端に位置する歴史深い土地、我が山城とは山一つで府境を接する。

そんな中心、市役所に程近く、三寺が並び建つ懐かしい景観の寺町筋の石垣に「石垣地蔵」と呼ばれる石仏が刻まれて居る。

光通寺は想善寺、無量光寺と三寺が並び建つ中に有り、車も通らぬ細い路地を挟んで接している。

そんな東西に抜ける道筋に積み上げた石垣の東側最上段にはこんな石仏さん。

石垣に積み上げられた切石花崗岩の正面に舟形を彫り沈め、中に如来型坐像を刻み出している。

少なくとも「石垣地蔵」では無く「石垣如来」なのだが・・・・、どうも分かり辛いが、右手を胸に、左手は膝の上で薬壺を持っているように見え、薬師如来か??

他方こちらは西側上から二段目、舟形光背の中に定印阿弥陀坐像の様な容相・・・しかしこちらは東側にも増して地衣類の繁殖が酷く何が何やら状態。

雑用からは室町期の造立でしょうが誰がなんの為にこんな場所に彫り刻んだのだろうか??

撮影2012.6.17


東大阪市四条町 出合(であい)地蔵石仏/空川(からかわ)地蔵石仏

2013年09月24日 | 石仏:大阪

東大阪市の東方、生駒山系山裾高台に有る旧四条村、混入った家並の中に建つ地蔵堂に安置されて居る石仏さん。

旧四条村は東高野街道から分岐、生駒山系を超え鳴川千光寺へと向かう旧道沿いの村、石仏は旧村在所道の辻に建つ立派な地蔵堂に安置されて居る。

御堂の正面には木製格子戸、戸は開けられますが・・・、供台や飾り御簾の奥に安置され、全容を確認することは出来ません。

元は峠道の出合いと呼ばれる場所の岩壁に刻まれていた磨崖仏、砕石の際に切り取り現在の場所に移設したものらしい。

高さ幅共に約60cmの方形を彫り沈めた中、蓮台に立つ像高約50Cm強の双尊仏。

共に尊顔は目鼻立ちも不明なほど風化摩耗が進んでいますが、向かって右に来迎印弥陀立像、左には定形地蔵立像。

この手の石仏としては、なかなか大きくて立派なものです・・・・・・蓮座やその像容から南北朝末期の造立と考えられています。

 一方、直ぐ南側に有る安養寺を過ぎ、右折して100mも進むと右手にも立派な地蔵堂、ここは鍵締、おまけに板張り花頭窓、更に布御簾や真っ赤な涎掛け・・・・おかげでこんな写真しか撮れません。

しょうが無いので詳しくはこちらから・・・・・、大阪の場合は殆どの石仏が、こんな風に厳重に管理されています。

それは都会の世知辛さ故なのかも・・・・・。

撮影2012.2.21


四條畷市 新池の阿弥陀三体笠塔婆/他

2013年09月23日 | 石仏:大阪

今までに見たことも無いような珍らしい笠塔婆が四條畷、新池そばの辻に置かれて居る。

新池は、寝屋川市との境界に近い新興住宅街に囲まれた農業溜池、その脇に有る工場のブロック塀にもたれる様にして祀られて居る。

この石仏は近くの小川改修工事の際、川底から見つかり、この場所に置かれた様です。

ちょっと上から覗けばキノコお化けか?寸足らずのペンシルロケット・・・・。

総高約70cm、幅約30cm、角柱部の三面に蓮座に座する定印の阿弥陀如来。

殆ど同形、同寸法、風化摩耗もかなり進んで居ますが室町期の造立か??

塀側の一面は隙間が狭くて覗く事さえ出来ません。

隣には阿弥陀と地蔵の双仏石。

少し離れた新池堤下には「讃良(さら)石仏」と呼ばれる阿弥陀坐像石仏。

昭和40年代後半、讃良川、新池改修の際に出土、工事の際に上部が欠損した様です。 

因に左手の石仏は最近造られた現代石仏。

撮影2012.2.12


東大阪市上石切町  地蔵磨崖石仏(爪切り地蔵尊)

2013年04月10日 | 石仏:大阪

弘法大師が一夜にして爪で刻み付けたと云う伝説の残る磨崖石仏。

関西人なら誰でも親しく「石切さん」と呼び慣わす石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)を中心にした庶民信仰の町。

その参道はゴチャ混ぜ大阪文化一杯、いつ訪れても参拝客、買物客、暇人やらと・・、活気に溢れ一種異様な雰囲気を醸し出している。

そんな参道を上ノ宮まで登る途中、近鉄線を越え、暫く登ると右手に「一番太師堂」、道を挟んで向かいにこの地蔵堂が建っている。

この道は辻子越(ずしごえ)とも呼ばれ、河内から「生駒山宝山寺」にも通じる重要な参詣道でもあった。

ここは信仰の道、道筋には弘法大師と小さな観音石仏の祠が点在する。

石仏は格子戸の堂内にある、幅、高さ共に約1.6mも有る丸い山形石に刻まれて居るが・・・・・、道路側からは裏に成って居ます。

中央に拙い線彫りの地蔵菩薩立像、左右に半身程の閻魔王と泰山王。

地蔵は像高90cm足らず、円頭光を負い右手錫杖、左手宝珠のの定形地蔵。

たらこ唇でにこやかに笑って居ます・・・、素人っぽい雑な彫りですが、良く云えば野趣豊かな素朴さが・・・・。

爪切地蔵尊と呼ばれ室町初期頃の造立だと考えられて居ます。

地蔵の背面、道路側からはこちらが正面に成りますが・・・、「四光地蔵尊」と呼ばれる線彫りのこんな阿弥陀坐像。

ちょっと手抜きのような簡略な彫りですが・・・・、蓮弁などは中々しっかりしています。

嘗て、この像は地蔵の背後に在って隠れ石仏だったのでは???

撮影2011.11.27