愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

談山神社摩尼輪(まにりん)塔

2006年09月27日 | 石塔:石造物

 


わが国に残る唯一の木造十三重の当が現存する談山神社の東門から参道を登っていくと、摩尼輪塔と呼ばれる石造笠塔婆が建っているのが見える。



花崗岩製の八角形石柱で、上に笠石をいただき、その下の塔身上部に月輪を造り、密教の胎蔵界「大日如来」の種子アークが刻まれている。



八角石柱の塔身に薬研彫で、『妙覚究竟摩尼輪』と彫られ、乾元二年(1303)の銘がある。


このような特殊な形の笠塔婆は今までに見た事も無く、大きさも笠塔婆としてはかなり大きなもので、国の重要文化財に指定されています。



摩尼輪塔の「摩尼(まに)」とは宝球(ほうしゅ、又はほうじゅ)のことで、月輪内の梵字、胎蔵界大日如来をす種子「アク」の薬研彫りは力強い筆致であり、鎌倉中~後期の特徴がよくあらわれていて美しい。 


撮影2006.6.24.


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桜井市 談山神社弥勒石仏

2006年09月25日 | 石仏:奈良

奈良県桜井市の多武峰談山神社(とうのみねたんざん神社)は、かの藤原鎌足を祀った神社として知られているが、裏参道西門の石垣上にある弥勒石仏は、石仏ファンには見逃すことの出来ない石仏です。

ここから飛鳥に抜ける道が続いていて、ハイカーには垂涎のコースになっています。

鎌倉中期の文永三年(1266)の像立、高さ1.5mの穏やかな顔の弥勒像が自然石に厚肉彫りされている。

蓮弁上に座す弥勒で、石大工藤井延清の銘がある。

かたわらの草むら中には青面金剛石仏が苔むして立っていました。

撮影2006.6.24

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笠置町 弥勒磨崖石仏

2006年09月21日 | 石仏:京都

前回、紹介した笠置寺の本尊、弥勒磨崖石仏。

笠置寺の本堂は正月堂と呼ばれる本尊弥勒磨崖石仏の礼拝堂で、かの東大寺二月堂で行われるお水取りは、ここで「渡来僧実忠」が行ったのが始まりだといわれている。

高さ、約16m幅15mの巨大な花崗岩に身の丈、五丈(15m)の弥勒像が聳えていたと言う。

現在、写真で見るように、巨大な石塊に光背のみを残し、元弘の乱の兵火によって見る影もなく焼け爛れた姿を残すのみと成っている。

1300年程前に、線彫りによって刻まれ、彩色が施された時代もあったようで、『笠置寺絵縁起』によると、弥勒磨崖仏の創建には、天智天皇の皇子(大友皇子か?)が笠置山に狩猟にこられ災難に遭い、弥勒仏の彫刻を発願されたと言われています。

物語では、「天人によって一夜にして刻まれた」とされていますが、大陸より南山城地方に移住された高麗系の狛氏族の技術がかかわっていたと考えられています。

近く、山城町には高麗寺廃寺跡や、現在でも狛(こま)の付く地名が残っていたりして、納得のいく話です。

奈良県 大野寺の弥勒磨崖仏・京都府加茂町 当尾の辻の弥勒はこの弥勒石仏を模写されたものだと言われており、京都仁和寺に残る絵画資料によってその姿を推し量るしかありません。

また、この弥勒石仏へ行くまでにもいくつもの巨石があり、それに「薬師石仏」「文殊石仏」の名があり,よく見ると何か彫られているように見えますが彫り物の跡なのか、自然にそうなった物なのかは判然としません。

この二つの巨石の前には、鎌倉時代期(室町期の説もあり)の十三重の塔(国・重文)があって薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の四方仏はすばらしい。

撮影2006.9.18

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笠置町 笠置寺虚空蔵菩薩磨崖石仏

2006年09月18日 | 石仏:京都

笠置山は南山城の東南、木津川が奇岩の峡谷をなす南岸にその山裾を落としている。

霊峰として知られる、笠置山は古代巨岩信仰の地として開け、1300年前東大寺の実忠上人、其の師,良弁僧正により、大岩石に仏像が彫刻され、一大修験行場として栄えた。

しかし、元弘元年(1331)後醍醐天皇がこの地に留まった事により、元弘の役の兵火により全山炎上した。

現在、笠置寺として真言宗智山に属し、車でも登れるのだが道険しく訪れる人は少ない。

今回紹介するのは唯一兵火の何を逃れて現存している、日本最大、最古、最優美だとされている大磨崖石仏。

寺の奥まった所に行者道があって、巨石が眼上に聳えているが、正月堂の建物を過ぎるとすぐにこの大磨崖石が眼に飛び込んでくる。

寺伝では弘法大師の刻んだ虚空蔵菩薩だと伝えられているが、其の容姿から弥勒菩薩ではないかと考えられている。

巨岩の前は1mほど残して直ぐに絶壁となっており、正面からの写真、引きがぜんぜん足りません。

しかし全山消失中、この磨崖だけが焼け爛れることも無く現存するのは、この立地条件が幸いしたのかもしれない。

高さ10m、幅6mの花崗岩に2重光背を彫りくぼめ、中に座高3,8mの菩薩像を線彫りにしている。

像立年代は奈良後期~平安初期と言われており、渡来人の作だと考えられている。

しかし、千年以上も経たとは思えないほど像容は傷みも少なく、圧倒的な大きさです。

撮影2006.9.18

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桜井市 破れ不動石仏

2006年09月12日 | 石仏:奈良

桜井市の南に高く聳える御破裂山(ごはれつやま)の多武峰(とうのみね)には藤原鎌足を祀った談山神社があることで有名なところです。

御破裂山は、国家の非常時の時には、山が鳴動すると言う事からのネーミングで、醍醐天皇の時代 昌泰元年(898年)2月7日 最初の現象があり、慶長13年(1608年)までの間に、約40回ほどそんな現象が起こったと云われています。

この談山神社に続く百市の街道筋に大きな杉木立が在り、山から落ちてくる谷川、不動の滝横手に「破れ不動」と呼ばれる不動磨崖石仏がある。

杉の巨木の下の巨岩に、滝にはこれが付物といわんばかりの不動石仏が刻まれている。

今でもしっかり信仰厚く、周りはきれいに清掃され、新しい花が手向けられていた。

彫りは稚拙ながらも、室町期の像立。

この、石仏の彫られた岩は、石仏の背後で二つに割れており、慶長13年(1608年)4月、御破裂山が鳴動したときに破裂したものだと伝えられている。

ここから、約50m程上手の道筋には、南無阿弥陀仏岩と言われる地蔵磨崖石仏、天文二十三年(1554)もある。

撮影 2006.6.24

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大和郡山市 みそなめ地蔵

2006年09月10日 | 石仏:奈良

矢田山は、大和郡山市の西方の小高い山で生駒山系が、その更に西方に控えており、その間は生駒谷と呼ばれる谷あいで、滝田川が北方から南流している。

「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、矢田丘陵の矢田山の中腹にあり、日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。

弘仁年間に、地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきました。

通常の地蔵が右手に錫杖、左手に宝珠を持つのに対して、ここの地蔵は、一般的に矢田寺型地蔵とよばれるように、右手を、肩まで上げて来迎の印を結び、左手の宝珠も持たない。

この、味噌なめ地蔵は、本堂石段下の参道右脇に小石仏と並んで立てられており、約畳一畳分ほどの大きさのある平板にした花崗岩に厚肉彫りされた等身大の地蔵石仏で、その口元が少し朱くそまっているように見える。

味噌なめ地蔵の由来としては下記のように伝えられているそうです。

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その昔、近在の農婦が自家製の味噌の味が悪くなり、困っていました。

ある夜のこと、夢の中に石のお地蔵様があらわれて、「我にその味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」とお告げになりました。

翌朝、矢田寺へ参って参道を見ると、夢に立たれたお地蔵様がおられたので、早速くだんの味噌をその口許にぬったところ、家の味噌は味が直っていたそうです。

これを伝え聞いた里人たちは、新しい味噌を作ると味が良くなるようにと、こぞってお地蔵様の口許へぬるので、誰言うとなく「みそなめ地蔵」と呼ばれるようになったのです。

撮影2006.5.21

場所はここ。


東明寺八坂神社の勧請縄

2006年09月05日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 

矢田丘陵の裾野,矢田の在所から急坂を登りつめたところに、山寺の雰囲気に包まれた舎人親王創健と伝えられる東明寺と言う古刹があり,境内に同寺の鎮守として創建された八坂神社があります。

その八坂神社の勧請縄が東明寺の急坂の上り口に渡されていました。

東明寺から集落への深くえぐられた谷間の上空に見上げんばかしに渡されています。

たぶんここが集落と、東明寺の結界であったのだろうか??

地域の厄除けと豊作祈願を込めて渡されています。

撮影2006.6.17

場所はここ

 

 

 


交野市 弥勒坐像石仏

2006年09月03日 | 石仏:大阪

大阪府の東端、京都府の京田辺市と奈良県の生駒市と境を接して大阪府交野市(かたのし)がある。

この交野市に古石仏が数多くあると言うので出かけてみた。

家からは大阪側に一山越えるだけの近場、奈良や山城と密接な関係のあった地に違いない・・・。

と言うより多分山城の一部、奈良の一部と一体となった生駒文化圏と言ったものだったのかもしれない。

<神宮寺集落の小道>

交野市の名前の由来だと思われる神奈備山である交野山(こうのさん)の麓の集落、神宮寺から石仏の道と言うハイキングコースを辿ると最初に出会うのがこの石仏です。

集落をぬけ、蜜柑畑と竹薮の小径をたどると間もなく道端に先のとがった大きな石が見える。

この石が石仏ですが進入方向とは逆向きに立っていて行き過ぎるまではその姿を見ることは出来ません。

どうもここまでは車の乗り入れが出来るようで石仏の前には何台かの車が置ける駐車スペースが用意されていますが、神宮寺集落で訪ねたときには教えてもらえなかった。

表面に二重円光背をもつなで肩の柔かい体つきの弥勒坐像が薄肉彫りされており、鎌倉前期の作だと考えられています。

奈良興福寺の末寺として交野群開元寺と言う名前が記録されており、この石仏はその開元寺の遺仏だと考えれているようです。

彫りは稚拙なように見えるが古様式なおおらかさが魅力的な石仏です。

岩高180cm、像高100cm

撮影2006.9 .2

場所はここ