愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京田辺市松井向山 天神社(アマツカミノヤシロ)

2016年11月28日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

 京田辺市西北端、八幡市と市境を接する松井地区の最西端、小高い山に天神社が鎮座する。

在所道の端に石鳥居があり、その先に境内まで上る石段参道がある。

ここの神社は天神社で有りながら、あの「菅原道真」を祭神とする天満宮では無く、その昔、天津彦根命(アマツヒコネ)を祭神とし「アマツカミノヤシロ」と呼ばれていた。

「社伝によれば、もとは松井交野ヶ原(カタノガハラ)に創祀されたものを、現在地に移したという。

長岡京遷都の翌年・延暦4年785、桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが続日本紀にみえ、これは枚方市樟葉の交野天神社とされるが、この地松井にも交野ヶ原・柏原の地名がある

江戸中期の古文書・山城志1734「明応2年14939月造営の社殿棟木に、『延暦248052月2日草創』と記してあり、延歴年間の創建が推測できる。

現在の本殿は、江戸中期・享保2年1717 の建築、平成4~5年に屋根をもとの檜皮葺きに戻し、彩色の修理をおこない、鮮やかなかつての姿がよみがえっている。

撮影2015.8.5

 

 


山城の神社・・・城陽市・久世神社

2016年11月20日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

最近すっかり化粧直しがされ、以前の様な厳かさに欠けてまるで塗り絵の様な浅ぺらな本殿になってしまいちょっとウンザリ・・・

そこでで古い写真を探し出してUPしておきます。

一の鳥居の少し先でJR奈良線の踏切があり、参道を断ち切って通勤電車が走り抜けていくチグハグサさあ否めない。

旧久世村の産土神とされ、かつて若王社(にゃくおうしゃ)、白鳥の宮(しらとりのみや)とも呼ばれたようで祭神には日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭祀する。

創建伝承として、祭神の日本武尊はその死後、一羽の白鳥としてこの地に飛来、この地に祀られたのが当社の始まりという。

 

 日本武尊妃の山代之玖玖麻毛理比売(やましろくくまもりひめ)は、この地の古代豪族、栗隈県主(くりくまあかだぬし)の出自とされ、栗隈氏が当社を勧請したともいう。

『万葉集』巻7-1286にある飛鳥時代の柿本人麻呂(660-720?)は「山背の久世の社の 草な手折りそ わが時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ」と詠み、その創建は神代に始まる。

尚、室町時代中期に建てられた本殿は国の重要文化財にも指定されています。

 撮影2006:2015

  

 


山城の神社・・・城陽市・水度神社(みとじんじゃ)

2016年11月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

JR奈良線、城陽駅下車、東へ約1km鴻巣山麓に鎮座する式内・旧府社

我が中学校の頃には1kmにも及ぶ長い参道は、まるで誰も通りはしないのでスポーツクラブの練習場に成っていたり・・・

一の鳥居はJR奈良線より少し西側、急なら街道に面して建ち・・・その昔は鬱蒼とした松や椎並木が奥が見えないほど続いていた。

参道の突き当たり、山裾には二の鳥居・・・その奥に続く石段参道を登りきれば厳かな境内となる。

由緒板には「創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれば、清和天皇の貞観元年859正月、従五位下の神階を授かり、延喜の制には小社に列せられる」とあるが、一説には奈良時代初期(8世紀初頭)には存在していたと思われている。

深い森に囲まれた境内中央に拝殿(入母屋造・方二間・檜皮葺)・・・

その奥、唐破風の拝所と神域内に、千鳥破風の向拝をもつ檜皮葺本殿が南面して鎮座する。

 本殿は文安5年1448・室町後期)造営で、市内に現存する最古の建物・・・ちなみに国の重要文化財に指定されている

撮影2015/2016

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奈良市 大平尾の茅葺き民家(追加撮影更新/11:09)

2016年11月09日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

 

 まさかこんな所に茅葺き民家が隠れて居るとは全く知らなかった・・・屋並の背後、深い木立の間を縫うように走る県道は良く通るが、屋並の有る事さえ全く気づかない程。

たまたま通った、山裾の田圃道から遠くに見えた茅葺き民家・・・このあたりなら大和棟が順当の筈なのに?周りの家を見ても大和棟は見当たらず、この茅葺き民家は寄せ棟の、どこか伊賀の匂いのする屋根でした。     

つい最近になって再度この付近を通る機会が有ったので、集落内から撮影してきました。

集落に接続する県道47号線からは深い山に隠れて集落の有る事さえ見落としてしまう山間部。

前方は斜面が急傾斜で小川の流れる稲田まで落ち込み、大きく視界が開けて居る。

屋敷は斜面に石垣kを高く積み上げ、平地を確保、その中、一番奥に茅葺き母屋、他に2棟の建物が建てられている。

 まだ暖は焚き火を使うのか冬に向かって薪が山盛り軒下に積まれていた。

撮影2015.9.24/2016.11.02