愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市虚空蔵町 弘仁寺不動明王石仏

2014年11月30日 | 石仏:奈良

弘仁寺奥之院と呼ばれる参道脇、暗い石窟の中に祀られ、今なお信仰篤い不動明王石仏。

弘仁寺は前回の柳茶屋辻を南へ500m、丘の様な虚空蔵山南斜面に建つ。

弘仁寺(弘仁5年)814年嵯峨天皇の勅願により建立、歴史深い古刹ながら、観光客など殆ど訪れる事もなく、鄙びた山寺風情が嬉しい。

その弘仁寺の東裏参道途中に、奥之院と称する小屋掛けが有り・・・・・

狭い境内の奥、斜面を背に簡素な覆い堂が懸けられ、堂内奥壁に正面を切石柱で組んだ石窟が、暗くてぼんやり見える。

御詣りがあったばかりか?まだ燈明が暗い窟内を仄かに浮き上がらせていた。

高さ1m程の山形花崗岩自然石の表面を火焔光背状に整え、像高約70cmの不動明王立像を半肉彫りで刻み出す。

像容は比較的整っているが迫力には欠け・・・更に哀しいことに腰から下部が埋められて居て見ることが出来ない。

像容や、付近の在銘作例から室町後期の造立だと考えられる。

撮影2012.7.28


奈良市高樋町 柳茶屋墓地の石仏

2014年11月29日 | 石仏:奈良

昨日紹介した延命地蔵尊の奥に有る柳茶屋墓地の石仏さん達。

入口の延命地蔵尊を右手に竹やぶ参道を奥へ進むと右手石垣上に・・・多分江戸期の六体地蔵。

周りは木立で昼尚暗く、古い墓地など知らない人は、あまり気持ちの良い景色ではないかも・・・・

墓地へ進むと早速お出迎えの中型阿弥陀石仏・・・高さ約1mの舟形光背を負い、蓮華座に立つ像高75cm。

室町後期の亨祿二年(1529)の銘を持ち、来迎印姿で彼岸へと・・・

傍らの無縁集積の夏草に埋もれるように目を惹く地蔵石仏・・・・

全体像は確認できませんが腰あたりで襷掛けに断裂。

若々しく精悍な尊顔で見るものを惹きつけます。

造立はやっぱり室町だろうか??

参道脇、竹やぶ下で見た阿弥陀と地蔵の二尊仏。

撮影2012.7.8


奈良市高樋町柳茶屋墓地 延命地蔵尊

2014年11月28日 | 石仏:奈良

この時期、紅葉の隠れ寺として知られる正暦寺道入口近くの旧柳茶屋の延命地蔵尊。

ちょうど地蔵堂の少し先でに辻があり、まっすぐ進むと道なりに正暦寺へ・・・・右手に取ると弘仁寺を経て名阪五ケ谷方面へと進むが、ちょうどここのバス停の名が「柳茶屋」・・・この古い呼び名は、もうこのバス停と古い墓地に残るのみ。

柳茶屋墓地への参道入口にピカピカ新築の地蔵堂が建って居ます。

実は二週間程前にも訪れた事が有ったのですが、ちょうどその時は新築なったばかりのお堂に、晒し布でぐるぐる巻きにされた石仏と思しきものが見えるだけでした。

近所のオバチャンに聞いてみると開眼供養が済まないと晒しは外さないと言う・・・・まあ当たり前の事だろうが・・・・

それならばと二週間程間を置き、満を持して訪ね撮影しました。

総高約180cm、蓮座に載り、頭上に蓮華紋を持つ円頭光を負い像高111cm

右手に錫杖を持たず、腰に垂らして与願印、左手は胸前で宝珠を抱く。

しっかり嵌め殺しの格子戸で何とかレンズだけを差し入れての撮影になりましたが・・・何かと非常に難儀な撮影でした。

余り見かけない像容ですが・・・これが延命地蔵尊の名で呼ばれる所以でしょうか・・・・・そんな事とは全く無関係な気もしますが??

蓮華座から円頭光まで一石で刻み出し江戸初期の造立・・・・・古くはないが中々良い地蔵さんです。

撮影2012.7.28


奈良市 北の庄墓地地蔵石仏

2014年11月27日 | 石仏:奈良

これは亦一体どうした事なのだろう・・・・子供のいたずら書きの様な大きな地蔵さん。

奈良市内南端部、大和郡山市内と境界を接するあたり、奈良盆地平野部に多い農業溜池「五徳池」から道路を挟んで直ぐ東、大きな北の庄墓地への南入口に簡素ながら大きな地蔵堂が建ち、中央に大きな地蔵石仏が祀られている。

名だたる石仏が数多く残されたこの奈良盆地地域の有って、わざわざ紹介するのは憚る様な石仏ですが・・・・、この地域では見た事もないアクの強い像容にすっかり惹かれてしまいました。

総高150cm程、自然石に返り花の蓮弁を刻んだ台座の上に立つ。

舟形後輩も妙に幅広に仕立てられ、天正二年(1574)十月二四日銘がしっかり読み取れます。

天正2年と言えば室町幕府が崩壊した翌年、戦国時代の幕開け期・・・・

そんな混乱期に突入した奈良でも庶民の暮らしは大きく変わったのだろうか・・・・

少なくともこの石仏は今までの奈良のものとは全く違う石仏に成って居る。

撮影20142.7.8


京都市右京区嵯峨越畑北ノ町 河原家住宅

2014年11月26日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

今日は上書きUPです。

つい先日、ちょうどこのあたりから京北、美山に掛けての茅葺き民家の撮影に近くを通り掛かったのでついパチリ。

刈り取りの終わった棚田越し、公孫樹の巨木が色付き茅葺き長屋門がまるで映画の1シーンの様に収まっていた

撮影2014.11.20

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以前「越畑棚田」で少し紹介したことのある茅葺き民家。

棚田のに軒を連ねる集落を縦断する府道50号線を道成に北に進めば、集落外れの棚田中段に素晴らしい萱葺き屋根の長屋門を持つ、京都市登録有形文化財「河原家住宅」が有って其の威容に誰もがふと足を止めてみたくなる。

棚田と白壁土蔵の脇に立つ大公孫樹、棚田の縁を縫うように行く屋敷道・・・・・。

なんとも懐かしい姿をとどめていて、それはそのまま時代劇映画の一コマ、江戸時代から時間の止まった様な景観を見せてくれている。

棚田越しに真正面から見る茅葺き屋根の長屋門からは、今にも羽織袴に帯刀のちょんまげ侍がが飛び出して来そう・・・・。

現在は空き家らしく門より中に入る事は出来ませんが、高みより覗いた主屋や土蔵屋根は相当傷んでいます。

これだけの建物を維持管理するのはもう個人の力では難しいのかも知れませんが、なんとかこの素晴らしい景観を留めて欲しいものです。

詳しくはこの説明板で・・・・・

撮影2010.5.8


奈良市中畑町 辻の地藏石仏

2014年11月25日 | 石仏:奈良

 

棚田上部斜面に30軒ばかりが軒を並べる中畑集落。

集落を細かく縫って走る在所道の中段、中畑会所前の「出会い辻」の一画に古い石塔や墓石の集積が有る。

特別に目を惹くような石造物がある訳でもないが・・・・・鄙びた山里棚田集落の在所辻に集められた古い石造物の佇む景観が、それだけでも絵になる。

その傍ら、そrてほど大きくもない木立に隠れる様に佇んでいた地蔵石仏。

高さ1m余り、幅の広い舟形光背を負い大きい錫杖を持つ定形地蔵だが無銘・・・・、像容からは室町中期頃の造立かと思われる。

人知れず木陰に蹲る様に佇んで居る。

撮影2012.7.8


奈良市中畑町 中畑墓地の阿弥陀石仏

2014年11月24日 | 石仏:奈良

 

奈良市中畑町、中畑共同墓地の覆い掛け屋に大きな阿弥陀石仏。

 

中畑は天理市の東、山間部に拓けた棚田をハチマキでも巻くように、名阪国道がループ状に包み込むように大和高原へと登っていく。

棚田頂部の斜面に設えれたら昔ながらの共同墓地、入口に近い簡素な阿弥陀像、

周りに小石仏を一杯従え、中央に立つ阿弥陀石仏。

阿弥陀石仏は総高約2m、背の高い舟形光背を作り、蓮台の上に立つ

高さ155cmの等身大阿弥陀立像

端正な顔立ちで、来迎印を結び墓地阿弥陀に違いないがこんな山深い地に有って凄い事・・・・・ 

端正な尊顔の割には白良が感じられず・・・・全体に形式化が進み室町初期の造立。

 堂外の石仏集積の中にも、室町後期だと思われる阿弥陀と地蔵の双体仏。

今では鄙びた棚田の村もかっては山越え古道が通り、この村はそれなりに栄えて居たのかも・・・

何か石仏の良さがそれを知っている様な・・・・・

撮影2012.7.8


奈良市大安寺町 融福寺の阿弥陀石仏:他

2014年11月23日 | 石仏:奈良

奈良市大安寺の融通念仏宗「融福寺」に安置されて居る阿弥陀石仏。

融福寺は昨日紹介の大安寺墓地の墓守寺、当然墓地の直ぐ脇にでも在るのだろうと思ったけど・・・・500m程も離れて居てちょっとビックリ。

街中の檀家寺の多くがそうである様にこの「融福寺」も山門は柵で通せんぼ自由に境内には入れない。

それと用向きを伝え境内に入れて貰う・・・。

手入れの行き届いた境内の片隅に阿弥陀石仏と三角頭の六字名号板碑。

阿弥陀石仏は高さ約80cm弱、花崗岩の自然石の正面に鑿痕の残る浅い舟形を彫り・・・

中に薄く線彫りの蓮台に坐す定印の阿弥陀如来坐像を刻み出している。

像容は略式化が進行、しかし未だ様式化が見られない室町中期頃の造立になるものだろうか??

鏨痕が残り小さい割には中々味わいのある石仏です。

撮影2012.7.8


奈良市 大安寺墓地の石仏

2014年11月22日 | 石仏:奈良

大安寺墓地に残された三躰の地蔵石仏。

 

奈良市街南端部、嘗て南都七大寺のひとつに数えられた大安寺近く、古墳跡に造られた多分郷墓であっただろう、古い大きな大安寺墓が有る。

 その入口近くに切石基台を設け、三体の地蔵石仏が並べられて居る。

向かって右の二体は薫香に燻され続けたのか?表面が黒く変色・・・・高さ約1mの定形地蔵立像。

天文18年の銘が有り、室町後期の造立・・・・。

右端の地蔵はほぼ同高、同じく黒く変色、共にさぞかし信仰深い石仏だったのだろうか??

像容少し新しく江戸初期の造立だろうか??、何度か転倒・・・ともに顔面、鼻先がなくなって居る。

左端の地蔵石仏は総高140cm、像高120cm、錫杖宝珠の定形地蔵。

天和2年の銘があり、江戸時代中期の造立・・・。

撮影2012.7.8


民家集落博物館 南部曲り家「旧藤原家住宅」

2014年11月21日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府
 
 大阪、民家集落博物館内に移築保存されている 旧南部藩、旧藤原家住宅の茅葺き曲家。
 
 
南部地方とは江戸時代に南部氏の所領だった地域で、現代では、青森県南東部と岩手県中部ならび北部を指すが、かつての馬の産地として栄え、大きな厩(うまや)と母屋(おもや)をカギ型に接続させた「曲家(まがりや)」と呼ばれる建築様式が多かった。


昭和38年(1963)、民家博物館に移築されたこの曲がり家は盛岡市の南西山裾の岩手県紫波郡矢巾町煙山の地から移された。
 
東北地方の農家は、広い平野にそれぞれの位置を占めた散村を形作り、敷地背面に防風林をもつ永い独立した生活を送った姿をとどめており、「旧藤原家住宅」も、かつては一つ家(ひとつや)と呼ばれ、この家がぽつりと一軒建っていたという名残りを伝えています。
 
多分東北自動車道矢巾インター付近のような???
 
 
馬と人間が同じ屋根の下で同居、いつでも家族の顔を見るように馬の顔色も窺っていた南部風俗を伺い知ることが出来ます。
 
 
 
大きな曲り家の脇に小さな、多分風呂場と憚りを一棟にしたような建物・・・・・。
 
 
馬も一緒にここで洗ったりしたのだろうか??

撮影2014.1.11


名張市 滝之原墓地参道の石仏

2014年11月20日 | 石仏:三重

この地域では良く見かけるローカル色豊かな石仏さん。

名張市東部、桔梗が丘団地と鈴蘭台団地に挟まれ、すっかり取り残されたように昔日の景観をよく残す滝の原・・・

そんな地区の中央部、龍性院裏山にある墓地参道に地域の特徴豊かな石仏二体がたって居る。

二体共に良く似た大きさの舟形自然石表面を平に整え方形を彫り沈め中に石仏を彫りだしている。

向かって右側には阿弥陀と地蔵の双体仏・・・・簡略化、変形化がが可能な限り進んで極端にデフォルメされて居るのが面白い。

傍らの五輪塔と合掌地蔵のコラボ石仏??

まるで素人彫り、幼児が描いた絵のような印象が残ります。

名張地域では良く見かける像容ですが・・・一時期のただ一人の仕事なのだろうか??

あまりに強すぎる個性です。

撮影2012.6.24


旧美杉村 三多気蔵王堂の石仏

2014年11月19日 | 石仏:三重
 
 旧美杉村 三多気蔵王堂の境内に残された石仏さん達。
 
 
美杉の霊山とされ親しみ深い「大洞山」中腹に残された嘗ての常庵寺の蔵王堂で、西蔵王とも呼ばれる。



常庵寺は看た気真福院の末寺として栄えたが明治初期に廃寺となり、蔵王堂のみが残された。
 
太郎生(たろう)から三多気へ抜ける旧道沿いに有り、現在その旧道は東海自然歩道と成っている。
 
 
堂脇の石垣土壇には江戸中期造立の観音石仏が並び立っている。
 
往時寺は地方の観音霊場の一つにでも成って居たのだろうか??・・・二体共に聖観音菩薩で江戸中期の元禄五年銘が有る。
 
 
向かって右端の小さな笠石仏は双体観音だろうか・・・どうも誰かが道祖神と間違えそうな・・・。
 
三体共に同じ顔つきで同一石工のものだろう。
 
撮影2012.6.24

旧美杉村  日神(ひかわ)の今不動石仏

2014年11月18日 | 石仏:三重

 

先日と同じ、旧美杉村日神(ひかわ)に有る磨崖仏で「今不動石仏」と呼ばれている様です。

前回UPの不動院参道脇の斜面を登った杉林に鎮座する大岩に刻まれた磨崖仏・・・・。

磨崖仏には違い無いのですがどうも良く判りません・・・・・日輪と月輪、その中間に鳥居・・・・向かって右手には猿回しのような姿にに刻まれた像。

高さ1.5m、幅2.5mの凝灰岩・・・・これを磨崖仏、石仏の範疇に入れて良いものなのか??。

今不動と言うからにはそれ婦だけの根拠が有るとは思うのですが??色々資料を調べて見ても何も出てこない。

僕が猿回しのようなと言ったのが「不動明王と信者」らしいのですが・・・全くそうは見えず猿回しの親方と紐で繋がれた猿の様にしか見えません。

何ゆえ「今不動石仏」と呼ばれるのかは知りませんが・・・・、僕にとっては「判じ絵」のパズルのような印象でした。

撮影2012.6.24


旧美杉村 日神不動院不動明王石仏 

2014年11月17日 | 石仏:三重

旧美杉村太郎生日神、不動院に焼け残された不動石仏が有る。

ここは何度来てもその地名の読みを忘れてしまっていつも戸惑う・・・・太郎生と書いて「たろう」、日神と書いて「ひかわ」と読ませる。

曰く因縁の有りそうな地名だが・・・2~3年間を於いて訪ねるとすっかりその読みを忘れてしまっていたりする。

日神の集落は麓を走る国道368号線、飯垣内(はがいと)より約1.5林道を登った山間集落、・・・・もの好きはこの奥にある日神墓地の石仏群を訪ねここまでやって来る。

墓地から一谷挟んで対面する山肌に不動院なる小堂が建ち、この地域独特の鎌倉期の種子板碑や、珍しい「オハツキイチョウ」の巨木が残って居たりする。

この山上中に有る磨崖仏を訪ね、序でに立ち寄った不動院が珍しく開いていて珍しく人の気配もする・・・・・、もしやと撮影を乞うと二つ返事でどうぞどうぞとOK.

ちょうどこの日は不動明王の縁日だということで信者さんが集まって居たようです。

記録によると平安中期の保安3年(1122)頃の造営、天正9年(1581年)天正伊賀の乱で戦火に遭い、さしもの不動明王石仏も焼けただれ哀れな姿と化してしまったようです。

石仏は坐像で結跏趺坐、右手宝剣、左手には索条なのでしょうが手首で欠損、躰部と頭部も首筋で断裂、継目の跡が痛々しい。

焼け崩れた火焔光背を背に約等身大・・・尊顔は酷く灼け削げ、何の手がかりも残っていない

 童子の一体が不動石仏に隠れるように見えるが・・・もうこれは「木偶の棒」。

平家六代墓と言われる日神墓地石仏と言い、この不動院の焼けただれた不動石仏と言い、強烈な印象が残る。

撮影2012.6.24


名張川左岸域 地蔵五輪磨崖仏

2014年11月16日 | 石仏:三重

個人宅裏庭の斜面に突き出した半山状石に刻まれた双体地蔵と背光五輪塔。

名張地域ではよく見かけるスタイル、単純ながらローカル色豊かな合掌地蔵の双体仏と・・

横並びに大きめの背光五輪塔を岩いっぱいの大きさに彫りだしている。

単純化、デフォルメされた双体地蔵は、目元、口元も線一本程に簡略化されているが

時代の浅さはさておき味わい深いものと成っている。

撮影2012.6.24