愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

和束町 撰原(えりはら)峠子安地蔵

2006年01月31日 | 石仏:京都
地元では子安地蔵として今も信仰の厚いお地蔵さまで、光背の左右に「釈迦如来滅後2千余年 文永二二年丁卯僧実慶」とある。 釈迦なき後の末法時代に弥勒仏への救済を願って作られた地蔵石仏である。 鎌倉時代の石仏の中でも製作ねんだいの確定できる石仏として価値が高い。

和束町 撰原(えりはら)峠子安地蔵

2006年01月31日 | 石仏:京都
国道163号線を東進すると木津川に沿って加茂町に入る。 加茂町の井平尾の交差点を左折するとやがて和束町に入る。 この道路の撰原口のバス停より山手に入る道路を登っていくとやがて撰原の集落が見えてくる。 最初十字路に、子安地蔵の標識を見つけることが出来る。 その辻を左折、左、左と取っていくとやがて民家の途絶えるところで左折、車はここまでで歩くこと5~6分で写真のような森が見えてくる。

大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
それでも、結局莵道稚郎子は、歴史のうらに消えてしまって、オホサザキ命(仁徳天皇)一人がうまくやったという感は否めない。 いつの世も良く似たものだと・・・・・。 しかしこの大山守命こそ悪者扱いされこのような小さな陵墓に葬られ、片やオホサザキ命(仁徳天皇)は、世界最大級の陵墓に眠っている。

大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
どうも大山守命は、オホサザキ命にはめられたのではないか???。

古事記は次の様に言う。

 さて、天皇が亡くなられた後、オホサザキ命は天皇の命令に従って、天下をウヂノワキ郎子(いらつこ)に譲った。しかし、オホヤマモリ命は天皇の命令に背いて、やはり天下を得ようと思って、その弟の皇子(みこ)を殺そうという思いがあって、密かに武器を準備して攻めようとした。
 そこでオホサザキ命は、その兄が武器を準備していることを聞いて、すぐに使者を遣わして、ウヂノワキ郎子に告げた。

 そこで、聞き驚いて、兵士を川のほとりに潜ませ、また、その山の上に絹の幕を張り、陣営を構えて、偽って舎人(とねり)を王(みこ)に仕立て、堂々と椅子に座らせ、部下たちが敬いながら行き来する様子を、すっかり王子(みこ)が座っているのと同じようにして、更にその兄王が川を渡る時のために、船と楫(かぢ)を整えて置き、さな葛の根を搗(つ)いて、その汁の粘液を取って、その船の中のスノコに塗り、踏むと滑るように仕掛けをして、その王子は布の衣褌(きぬはかま)を着て、すっかり賤しい人の姿になって、楫を取って船に立った。

 そこでその兄王は、兵士を隠し潜ませ、衣の中に鎧を着て、川のほとりにやって来て船に乗ろうとする時に、その飾り立てた所を眺めて、弟王がその椅子に座っていると思い込み、楫を取って船に立っていることに全く気づかずに、すぐにその船頭に尋ねて、「この山に凶暴な大猪がいると伝え聞いている。私はその猪を討ち取ろうと思う。その猪を討ち取れるだろうか」と言った。
 そこで船頭は、「できないでしょう」と答えた。また、「どうしてか」と尋ねると、答えて、「何度も所々で討ち取ろうとしてもできませんでした。そういうわけで、できないと申したのです」と言って、川の中ほどに渡って来た時に、その船を傾かせて、水の中に落とし入れた。
 そこですぐに浮かび上がって、水に流されながら流れ下った。そこで流れながら詠んだ歌は――。

 ちはやぶる 宇治うぢの渡わたりに 棹執さをとりに 速はやけむ人ひとし 我わが許もこに来こむ 


そこで、川のほとりに潜んで隠れていた兵士が、あちらこちらから一斉に現れて、弓に矢をつがえ、追い流した。そして、訶和羅の前(かわらのさき)まで流されて沈み溺れた。そこで、鉤(かぎ)でその沈んだ所を探すと、その衣の中の鎧に引っ掛かって、「かわら」と鳴った。そこで、その地を名付けて訶和羅の前と言う。
 そして、その遺骸を引き上げた時、弟王が詠んだ歌は――。

 ちはやひと 宇治うぢの渡わたりに 渡わたり瀬ぜに 立たてる 梓弓檀弓あづさゆみまゆみ い伐きらむと 心こころは思もへど い取とらむと 心こころは思もへど 本方もとへは 君きみを思おもひ出で 末方すゑへは 妹いもを思おもひ出で いらなけく そこに思おもひ出で かなしけく ここに思おもひ出で い伐きらずそ来くる 梓弓檀弓あづさゆみまゆみ 

そして、そのオホヤマモリ命の遺骸は那良山(ならやま)に葬った・・・・と。

それがこの大山守命那羅山墓だと言うことになっている。






大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
応神天皇には十人の姫との間に26人の子供が生まれているとある。

下記の通り

この天皇は
品陀眞若王=ほむたまわかのみこ、の三人の娘を娶った。
一人目の、高木の入日売命=たかぎのいりひめのみこと、との間に誕生した御子は
額田大中日子命=ぬかたのおおなかつひこのみこと
次に
大山守命=おおやまもりのみこと
次に
伊奢之眞若命=いざのまわかのみこと
次に
大原郎女=おおはらのいらつめ
次に
高目郎女=こむくのいらつめ

二人目の、中日売命=なかつひめのみこと、との間に誕生した御子は
木の荒田郎女=きのあらたのいらつめ
次に
大雀命=おおささぎのみこと
次に
根鳥命=ねとりのみこと

三人目の、弟日売命=おとひめのみこと、との間に誕生した御子は
阿倍郎女=あべのいらつめ
次に
阿具知の三腹郎女=あはぢのみはらのいらつめ
次に
木の菟野郎女=きのうののいらつめ
次に
三野郎女=みののいらつめ

また丸邇の比布禮能意富美=わにのひふれのおおみ、の娘
宮主矢河枝比売=みやぬしやかわえひめ、との間に誕生した御子は
宇遲能和紀郎子=うぢのわきいらつこ
次に
八田若郎女=やたのわきいらつめ
次に
女鳥王=めどりのみこ

また宮主矢河枝比売の妹
袁那辨郎女=おなべのいらつめ、との間に誕生した御子は
宇遲之若郎女=うぢのわきのいらつめ

また咋俣長日子王=くいまたながひのひこのみこ、の娘
息長眞若中比売=おきながまわかのなかつひめ、との間に誕生した御子は
若沼毛二俣王=わかぬけふたまたのみこ

また櫻井の田部連の祖、島垂根=しまたりね、の娘
糸井比売=いといひめ、との間に誕生した御子は
速總別命=はやぶさわけのみこと

また日向の泉長比売=いづみのながひめ、との間に誕生した御子は
大羽江王=おおばえのみこ
次に
幡日之若郎女=はたひのわかのいらつめ

また迦具漏比売=かぐろひめ、との間に誕生した御子は
川原田郎女=かわらだのいらつめ
次に
玉郎女=たまのいらつめ
次に
忍坂大中比売=おさかのおおなかつひめ
次に
登富志郎女=とほしのいらつめ
次に
迦多遲王=かたぢのみこ

また葛城の野伊呂売=ののいろめ、との間に誕生した御子は
伊奢能麻和迦王=いざのまわかのみこ

この天皇の御子は合わせて二十六柱である。

これで見る限り第一番の皇位継承者は大山守命のように見えるが、古事記は次の様に言う。

 
さて、天皇は、オホヤマモリ命とオホサザキ命に尋ねて、「お前たちは、年上の子と年下の子とどちらがかわいいか」と言った。
 そこでオホヤマモリ命は、「年上の子がかわいいです」と言った。
 
次にオホサザキ命は、天皇がお尋ねになった心中を察して、天皇が「年上の子はすでに成人して、わずらわされることもないですが、年下の子はまだ成人していないので、これがかわいいでしょう」と言った。

 そこで天皇は、「サザキ、お前の言葉は、私の思っていた通りだ」と言って、すぐに分けて、「オホヤマモリ命は山海の政(やまうみのまつりごと)をせよ。オホサザキ命は食国の政(をすくにのまつりごと)を執政しなさい。ウヂノワキ郎子は天津日継(あまつひつぎ)を継ぎなさい」と言った。
 
そして、オホサザキ命は天皇の命令に背くことはなかった。

いかにもオホサザキ命(仁徳天皇)に都合よく書かれた話のような気がする。

大山守命那羅山墓

2006年01月30日 | 風物:陵墓
あまり聞きなれない名前である。

僕がこの名前を知ったのは、宇治上神社で祭神が、応神天皇、莵道稚郎子、仁徳天皇:大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)だということを知って、莵道稚郎子について調べてみてこの名前を知りました。

奈良市内の一条通りから北方向のなだらかな丘の上の新興住宅に囲まれた奥手にある。

丁度、「不退寺」(ふたいじ)裏に当たる辺り、一条通りから車で5分程度のところ、多分見過ごしてしまいそうな所にあった。





大山守命は、応神天皇の第一王子として生まれた。

莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

2006年01月29日 | 風物:陵墓
何れにしろ莵道稚郎子は天皇の第一候補であったにもかかわらず天皇になれなかった敗者に違いない。

しかし、『播磨国風土記』には「宇治天皇之世」として宇治天皇の治めた時代があったとしているばかりか、『山城国風土記逸文』は「宇治」の由来を、「莵道稚郎子」が宮を構えた場所であるからとしている。

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仁徳の皇后は「磐之媛」であった。しかし彼女は、仁徳と別居し「山城」の筒城宮で亡くなっている。彼女が筒城宮に行った理由とは、仁徳が「八田皇女」を妃に迎えたことによる嫉妬心からだという。

「八田皇女」は「莵道稚郎子」の実妹である。

何かにおう話である。




莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

2006年01月29日 | 風物:陵墓
拝所付近は陵墓とわかるたたずまいを見せている。

莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)にも血なまぐさいにおいがする。

腹違いの兄である大山守と大雀命(仁徳天皇)、ともに政争があったような感じがする。

大山守との話は有名である。

大雀命は父応神天皇の命に従い、末弟の宇治稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命は弟の即位を認めず、宇治稚郎子を殺そうと謀った。宇治稚郎子は大雀命から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに宇治稚郎子が詠んだのが、下の歌であるという。

ちはや人 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓檀(あづさゆみまゆみ) い伐らむと 心は思(も)へど い取らむと 心は思へど 本方(もとべ)は 君を思ひ出 末方(すゑべ)は 妹(いも)を思ひ出 苛(いらな)けく そこに思ひ出 愛(かな)しけく ここに思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀(古事記)

【通釈】宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。





莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

2006年01月29日 | 風物:陵墓
莵道稚郎子の墓の所在地はいろいろな説がありその場所が特定されませんでしたが、明治23年(1890年)当時の宮内省によって「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とされました。

京阪三室戸駅で下車駅前の道を宇治川方面に5分程度歩くと住宅街にはさまれた狭い陵墓への進入路が右手にある。

ほとんど目立たないので車では見逃してしまう。


莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

2006年01月29日 | 風物:陵墓
宇治上神社の祭神の一柱である莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の陵墓は、日本書紀によると莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られたとあり、江戸時代には宇治川東岸の朝日山山頂の経塚が莵道稚郎子の墓とされていました。

この標柱は京阪宇治駅東隣の東屋観音脇に建っている。
ここから歩くもよし、股、京阪電車の三室戸駅で降りるともっと近い。

宇治上神社

2006年01月28日 | 神事:行事:寺社: 仏像
仁徳天皇の神殿。 

神殿としては小規模ながら、つくりは優雅で、装飾のない蛙股にその古さを感じることができる。

 宇治上神社の御祭神は、
 中殿 応神天皇(父君)
 左殿 莵道稚郎子(弟君)
 右殿 「仁徳天皇(兄君)大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」
 です。

◎創建◎
 現在の「宇治上神社」「宇治神社」を合わせて、平安時代には「宇治鎮守明神」「離宮明神」「離宮社」とも称されました。拝殿に収める江戸時代の棟札には、応神天皇を祀る故か「離宮八幡」ともいわれていました。
「離宮」の名を冠されるのは、平安時代初期、天皇の離宮「宇治院」の鎮守社として祀られていたからか、或は、又より古い時代の莵道稚郎子の離宮「桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)」のあったところから由来するのかも知れない、ということです。
「離宮社」として文献上、正確な記録の上に初めて現れるのは、治暦三年(1067)後冷泉天皇、平等院より神社に行幸の後、離宮明神に神位を授けたとあることです。藤原氏が平等院を建立の後、その鎮守社として崇敬の実が大いに加わり、隆盛を極めてゆくのだそうです