愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

柳生大保町 一体山地蔵石仏

2011年07月31日 | 石仏:奈良

大柳生の東に続くなだらかな一体山を東福寺脇の林道で越えると柳生大保町。

その山中林道脇にこの石仏が立っている。

その昔、近くの稲田の畦で仰向きに倒れていたらしい・・・、林道拡張工事で邪魔になったのか??はたまた重機を入れたついでに引き上げ、この地に移設したのだろうか??

大柳生、大保の集落からもかなり離れた山中・・・、往時、此処を古道が通っていたのだろう??大保集落近くにも磨崖石仏が2~3残っている。

 

永らく稲田の畦道に仰向けになってた割には風化磨耗も少なく像容もはっきりしている。

高さ約2.5m 、幅1.2mの花崗岩自然石に、約80cmの頂点の丸い舟形光背・・・・

像高70cmの定形地蔵は、いかにも穏やかな童顔・・・

像容から室町後期の像立だと考えられているようです。

手向けられるのは、野の花や鳥の声・・・・、いかにも野の仏です。

撮影2011.4.29


大柳生 阿弥陀磨崖石仏

2011年07月30日 | 石仏:奈良

奈良春日原生林を抜け柳生に至る旧柳生街道筋には石仏が数多く存在して石仏ファンの目を楽しませてくれる。

この石仏もそんな一つだったのだろうか??、今は民家の裏庭にひっそり佇んでいる。

高さ約3mも有ろうかと云う大岩が民家裏の斜面に突き出ていて、その表面に隅取りを施した長方形を彫沈め・・・・

その内に像高約60cmばかしの蓮台に立つ阿弥陀如来立像を中肉彫で刻み出している。

丸顔ずんぐりの形式化が進んだ室町後期の造立だろうか??、快く拝観させていただいた「お婆ちゃん」に色々訪ねてみたが、「おじいちゃん」に聞かないと良く解らないとか??(生憎お留守でしたが・・・・)

もちろん個人宅に在り何の説明板も有りません。

大柳生の里は過去に何が有ったのかは知らなさげ・・・・・とても長閑な里山風景が広がってます。

撮影2011.6.27


大柳生 大西垣内(おおにしがいと)阿弥陀磨崖石仏

2011年07月29日 | 石仏:奈良

大柳生から坂原へ向かう白砂川に沿って旧道が走っているが、殆ど車も歩く人もなく静まりかえっている。

大柳生側から白砂川たもと、大西垣内勧請場のすぐ近く、道路脇にでんと座る岩の表面にこの磨崖石仏が彫られている。

阿弥陀石仏は高さ約2mばかり、中央上部に舟形光背を彫り沈め、中に50cm足らずの阿弥陀如来坐像を厚く彫りだしている。

蓮座は光背下部の岩に線彫りで刻み込み、弥陀定印を組む。

大きな蓮弁に大きな下半身、どっしりした構えに見えますが、殆ど形式化、略式化の進んだ江戸期のものだろうか??

まん丸顔をちょっと上げめの阿弥陀さん。

もう忘れ去られているのか??殆ど花を手向ける人もいないようです。

撮影2011.5.2


柳生坂原 一石六体地蔵石仏(旧北出橋六体地蔵)

2011年07月28日 | 石仏:奈良

苦い盗難の過去を持つため地元でもその有り場所を聞き出すことが難しい石仏さん。

盗難に遭うまでは坂原集落白砂川に沿う旧道、北出橋たもとに今も残る小石仏と一緒に佇んでいた。

直ぐ近くには白砂川越しに阿弥陀磨崖石仏などが有り石仏ファンにはたまらないロケーションでしたが・・・・。

盗難にあったこの石仏はひょんなことでまたこの集落に戻って来たようですが、元の位置には戻されないで隠されるように、集落の山道にひっそりと置かれている。

もう元のような素晴らしい景観の中では遭うことが出来ないが・・・・。

高さ幅共に約120cmばかりの山形花崗岩に長方形の彫窪みを作り、像高約30cmばかりの六体地蔵をを刻み出している。

大和高原域には数多く見られるこの形式の一石六体地蔵としては最古・・・

枠の左右には明応五年(1496)二月十五日刻銘がある。

地域の信仰も厚く真新しい花、山の神としても祀られているのか??藁苞(わらづと)状の呪具も・・・・。

もう二度と過去のあの苦い経験はしてもらいたくないので場所の特定はしません。

撮影2011.3.13


御所市楢原 九品寺(くほんじ)の石仏群

2011年07月27日 | 石仏:奈良

奈良国中(くんなか)平野の南西部、金剛葛城山系の山裾、御所市楢原の九品寺は、あの名僧「行基」開基の名古刹・・・・時の流れに身を委ねるように静かにたたずんでいる。

殆ど観光客も訪れる事の無い境内には、おびただしい数の石仏が在って知る人ぞ知る石仏好きにはたまらない穴場となっている。

石段から狭い境内へ入ると正面本堂前、向かって右手に二体の石仏。

右手は三角オニギリ状自然花崗岩の表面に変形の光背を彫沈め蓮華座に坐する像高約70cmの地蔵菩薩坐像を中肉彫で刻み出している。

涎掛けは外せなかったが、大きい錫杖と落ち着いた像容で、室町後期の造立。

傍らには珍しい智拳印を持つ金剛界大日如来坐像石仏…、さすが大日さんには涎掛けが無かった。

舟形光背を背負い像高45cmばかり、脇に記銘が有り永禄12年(1569)、同じく室町後期。

本堂左手奥に続く墓地傍らには阿弥陀石仏

しっかり涎掛けを駆けているので良く判らないが蓮華座上に座す像高約40cmと云ったところ・・・

角型板石に二重光背を持つ珍しい阿弥陀三体石仏。

共に立像ながら印相までは確認しなかった。

本堂脇から裏手斜面への参道脇にはびっしり石仏が立ち並び壮観・・・。

こんな見事な石仏達も・・・・、向かって右から舟形光背の中に阿弥陀三体、その傍らは二体の阿弥陀立像石仏。

いずれも室町後期か??

こちら二体の坐像石仏、共に阿弥陀のような??

こちら一体なにさんなのか??、三角状自然石に如来石仏・・・。

とにかくこの参道は石仏パラダイス。

山盛り一杯でもう何がなにやら・・・、ちょっと食い過ぎ・・。

参道の奥突には千躰地蔵と呼ばれる正石仏群。

ここに在る多くの石仏達は、南北朝時代この地域を支配して居た楢原氏が北朝側と戦った際、地元の方たちが「城兵の身代わり」に奉納したもので、「身代わり地蔵」とも呼ばれている。

山門手前、駐車場脇にはこんな珍しい石窟に入った石仏さん。

何と無く良い風情なのでバシャ・・。

片側にはこんな六体地蔵さん。

 同じ場所に何ゆえ二組の六体地蔵??これじゃ、まるで石仏さんのバーゲンセール??

やっぱりちょっと食い過ぎ、ゲップが出そう・・・・。

撮影2007.1.4


旧加茂町森 ずんど坊笠塔婆

2011年07月26日 | 石仏:京都

山城の南端、石仏の里として良く知られている当尾(とうの)近くの谷沿いに点在する森集落。

集落の奥突きには森八幡宮が在り、その裏手高台にこの珍しい笠塔婆がある。

ずんど坊 笠塔婆と呼ばれる石仏は高さ約1.2、m、幅30cm足らずの石柱に後補の宝珠と笠を載せたもので正面に二段に舟形の彫り込みを作り上段に阿弥陀如来、下段に地蔵菩薩を薄肉彫りにしている。

石仏は各30cmばかし、彫りこみ外部に刻み出された蓮弁に立つ立像で、鎌倉時代後期の造立と考えられています。

傍らには地蔵や小石仏の残欠などが並び森八幡の神宮寺であった神福寺の跡地だと考えられ、この笠塔婆もその名残だと考えられています。

石仏好きにはたまらない景観と風情を併せ持つ石仏に違いありません。

撮影2011.3.4


奈良市月ヶ瀬 モロの木地蔵

2011年07月25日 | 石仏:奈良

掘り出し地蔵横で訊ねた人に「この近くにもう一体石仏さんが居るよ・・・・」と教えられたのがこの「モロの木地蔵」

この辺りでは杜松(ネズ)の木を「モロの木」と呼び慣わしている・・・・、勿論モロは杜松の古称「榁(むろ)」から転訛したものだろう・・・・。

「モロの木地蔵」は前回紹介の「掘り出し地蔵」からすぐ近くの「ロマントピア月ヶ瀬」入り口脇、旧道を少し入った最早枯れ果てた大きな「モロの木」の根元に横たわる岩肌に刻まれている。

枯れ果て最早オブジェと化した根元に佇む石仏は、舟形光背を持つ像高約45cmの定形地蔵菩薩立像です。

殆ど一日中光の射さない日裏に有って地衣類の繁殖もひどく層を成し、像容も詳しくは判らないほど・・・

いずれにしても形式化略式化の進んだ近世仏・・・・。

それほど良いものだとは思われませんが、野仏の持つ素朴さとその景観、風情の素晴らしさには、忘れ難いものがある。

やっぱり地域の信仰が厚いのか手向けられた花は真新しかった。

撮影2011.4.10


奈良市月ヶ瀬 掘り出し地蔵

2011年07月24日 | 石仏:奈良

月ヶ瀬道、長引集落の東外れに「掘出地蔵」と大きく看板のある小さな地蔵堂があり、掘り出し地蔵と呼ばれる磨崖地蔵石仏が祀られて居る。

ちょうど地蔵堂脇で野良仕事をしている人に訊ねてみると、新道の工事の折、付近から掘り出されたので「掘り出し地蔵」と呼ぶんだとか??

長い間土の中にあったのだろう?風化磨耗は少ないように見えるが、それ以上にどう見ても奇異なる顔つき、まるで地蔵の持つ穏やかさや温もりには欠ける様な??

稚拙といえば稚拙、まるで素人彫か??完成せぬまま諦めたのか??

永らく土中に在って花崗岩ながら赤っぽい色をしているので余計にそう見えるのか??どうも親しみにくい顔つきです(ゴメン)。

その上、頭部と体部のバランスも悪く今にも頭部がずっこけそう??

それでも像高約70cm、儀軌にかなった定形地蔵です。

どういう理由で埋まったのかちょっと興味があります。

堂外傍らには殆ど何がなにやら判らない、こんな磨崖石仏も・・・。

撮影2011.4.10


奈良市月ヶ瀬石打 田中の磨崖石仏

2011年07月23日 | 石仏:奈良

奈良市月ヶ瀬から伊賀上野へと抜ける県道沿い、三重県境に接するようにに鄙びた里山の石打集落がある。

集落西はずれ、旧道脇の田圃の中に身を半ば埋めるように大きな石が横たわり、その正面に磨崖石仏が刻み込まれています。

田圃はその一画だけは休耕田のように見えるのですが??水の多い時期には水浸しになってしまうようです。

高さ約75cm、幅2m程の三日月状花崗岩の表面に短冊状横長の彫窪みを造り合掌する四体の地蔵立像を刻み出しています。

極端に単純化デフォルメが進み、これじゃまるで頭と胴だけのこけしのようです。

像高約30cmばかり、近所の人に聴いても名無しの権兵衛・・・花立にも手向けられる花も無く・・・。

青田の時期には半身水に浸かって、少し遠くからだとこの大石も見えなくなってしまいそうです。

鄙びた里山、忘れ去られたように佇む石仏さん・・・・・・昔この畦道が古道だたようです。

撮影2011.4.10


奈良市 狭川墓地阿弥陀石仏/他

2011年07月22日 | 石仏:奈良

笠置街道を大柳生に向け南進すると、西狭川と両町のちょうど中間点辺り左手高台に光明寺と云う寺が有り、その南側に狭川墓地が有る。

墓地は県道が引き裂く形で道路の右手と左手に解れて有るが、この石仏の有る墓地への入り口は左手側。

背の低い植え込みに囲まれた一角に道路工事の際にでも整理されたのだろう小石仏や五輪塔残欠などが集められている。

阿弥陀石仏はこの墓地入り口中央部に独立して立つ。

高さ約1.3mの舟形光背を持ち、蓮華座に立つ像高約90cmの来迎印阿弥陀如来立像を半肉彫で刻み出している。

いかにも室町後期の特徴そのままの享録二年(1529)四月の銘がしっかり読みとれます。

顔もどこか庶民的で親しみが湧きそう。

そばには一列に並ぶ梵字石仏板碑??・・・

ここのものは三体共に上部月輪内に「ア」を刻み中央部には小さな石仏を舟形光背を彫沈めた中に刻み出している。

像高僅か20cmにも満たない阿弥陀坐像がなんとも可愛い・・・

撮影2011.5.14


旧加茂当尾 岩船寺不動磨崖石仏(一願不動)/画像更新

2011年07月21日 | 石仏:京都

岩船寺の山門のちょっと手前の左手、大きな道をしばらく行くと石仏散策ルートへと入っていく掲示板が右手の方に立っている。

里山の小さな集落を越えて、山道に差し掛かって直ぐこの不動明王への案内板が有るので間違う事は無い。

案内板から手すりのつけられた石段を下っていくと、竹と杉木立が生い茂る薄暗い藪のすこしの隙間に背丈の何倍も有る巨岩が突き出していて、その正面下方にこの不動明王が彫られている。

岩は苔生し、竹林にさえぎられた光は乏しく、ここには何度来ても満足な画像を撮ることが出来ない。

所詮横着物の僕ゆえ三脚なしの手持ち撮影だから仕方がないけど、この不動さんには申し訳なく思っています。

像高1.2m、頭上に開花蓮を載せ、両足を開いてふんばり、右手には剣を持ち、ちょっとひょうきんな顔立ちにみえる不動明王立像である。

集落からも近く、このお不動さんは一つだけ、一心にお願いすれば、その願いを叶えて下さるので、「一願不動」とも呼ばれ、何時行ってもお花

は絶えることなく手向けられている。

弘安10年(1287)の銘があり、鎌倉中期の像立

撮影2011.6.22


奈良市 東狭川地蔵磨崖石仏

2011年07月21日 | 石仏:奈良

中墓寺より県道33号線で5分ほど南進すると狭川東町。

左手山手、棚田の広がる山裾に集落の家並みがまばらに建ち、狭川東公民館近くの今はすっかり廃道に近い間道脇へ突き出した岩肌に、小さな可愛い磨崖石仏さんが刻まれている。

昔は笠置から観音峠を越えてきた古道が此処を通っていたのかも??、ちょうど民家の斜面下に在って、傍らには椿の木が植えられ、その向こうに磨崖の石仏さん。

石仏は形式化単純化の進んだ近世仏??舟形光背を深く彫り沈めた中に立つ地蔵菩薩立像。

左手に宝珠を抱いているように見えるが、右手に持つ錫杖は見当たらず・・

顔容も最初からそうなのか?剥落磨耗したのか?殆ど目と口元の線が見えるだけ・・。

それでも磨崖と言うだけでも嬉しい。

撮影2011.4.24


奈良市下狭川(しもさがわ)町 中墓寺の石仏

2011年07月20日 | 石仏:奈良

奈良大柳生から、京都南山城の笠置に抜ける、所謂笠置街道筋、奈良県側の最北端にあるのが下狭川。

<中墓寺辺りから眺めると、この時期一面の青田>

笠置側から木津川支流の谷筋を抜け視界の開けたところが下狭川、小さな小川越しの東方斜面に民家が建ち並び、その一段と奥の高みに小さいながらも多くの石仏がある中墓寺がある。

境内脇、白壁土塀を背にして三々五々間あいを空けて石造品が並んでいる。

この石仏たちは、往時この地を治めていた狭川氏に関連した石仏たちで、藤尾城跡横の薬師堂や寺院統合で行き場のなくなったものを此処に集めたものようです。

中でも中央の桜の木の下に立つ石仏は、高さ140cm、来迎印を持つ阿弥陀如来立像、半肉彫りで室町時代後期の大永四年(1524)の記銘。

もとは狭川氏菩提寺の金剛院にあった石仏と言われているようです。

向かって右手三兄弟ならぬ三石仏さん、一体は梵字石仏ですけどね・・・。

中央には幅広な舟形光背の定形地蔵さん、凡そ像高80cm、少し埋もれてるからもう少し高いかも??

この顔つきこの衣裳はやっぱり室町期のものでしょうか??かなり厚肉彫りで丸顔ですが・・・・。

その傍らにはちょっと変わった石仏さん。

何さんでしょうか左手宝瓶、右手に錫杖の長谷寺型十一面観音でしょうか??顔の摩滅激しくなにやら状態・・・。

しかし横から良く見ると・・・・・

こちらはどうも阿弥陀さん??

対面には三体(四体かも)??の地蔵さん。

これはいったいどうしたことなんだろう??、裏面には何も無いようですが??。

十一面が主尊で阿弥陀と地蔵は脇侍なのだろうか??。

撮影2011.5.14/2011.6.22


桜井市 金屋二尊石仏

2011年07月19日 | 石仏:奈良

いくら足を運んでみても満足するよな写真は撮れない。

石仏さんは素晴らしく良いのだけれど・・・・・もういい加減に諦めてこの辺りでUPしておきます。

又近くに行ったら挑戦して再UPするかも・・・・・、せめて堂内に照明でもあればなあ・・・。

正面はこれだもん・・・・、開けゴマの呪文は通用しません、これが重文の悲しさかな??

あの鉄の格子にレンズだけを潜り込ませて超ワイドでバシャ・・・、イマイチです。

それならとコンデジでバシャ・・・・・、こっちの方がいくらかマシかなあ??

元は三輪山腹、平等寺の末寺あったもののようですが?ドサクサ紛れの明治政府の愚策の犠牲になりこの地に移されたという。

何か何処かの国の今の政府に似てませんか??

奈良を代表するような素晴らしい石仏さんも時の政府の愚策のおかげでこのざまですら・・・・。

金屋二尊石仏、向かって右側に立つのが釈迦如来と呼ばれているこちらの石仏さん。

凝灰岩の石棺の一部だと思われる高さ約220cm幅約80cm板状石材に二重光背を持つ像高164cmの如来石仏をレリーフ調に刻み出していて圧巻。

静寂の中に湛える笑みがなんとも魅力的で美しく、中世石仏には見れない特殊な説法印を結んでいて、平安後期から鎌倉初期の像立だと考えられています。

これをアルカイックスマイルと呼ぶのだろうか???

あの撮影条件ではこれが限界・・・。

かたや向かって左側に立つ弥勒だと呼ばれる石仏。

隣と並立して殆ど同様・・・、しかしこちらは、どうもカビか地衣類の繁殖が多く少々崩れ気味

同じ撮英条件でもこれだけ違う・・・、昔の写真を見るとこれ程でもないのに・・、より湿っぽい北側に立つ弥勒、どうも堂内の風通しがよくないのでは??

大事にこんなコンクリート収蔵庫に閉じ込めることが返って良くないんじゃない??

元は石龕仏として祀られていたようです。

撮影2005.12/2011.6.


龍王山の不動明王

2011年07月18日 | 石仏:奈良

ずっともう何年も前から気に成っていた不動さん、・・・・、しかし存在を知るだけで全く何処にどうして居るのやら???。

それがひょんな事からネット友さんで、石仏好きの「たいしん」さんの案内で出遭うことが出来ました。

とにかくこの近くから萱生集落への廃道をめざして・・・

<道無き山中をさまようが如く・・・・>

もう一度一人で行けと言われても全く自信なし、凡その見当は付くけど・・・、なにせ山中の獣道を約20~30分・・・

しかし出遭えた時の喜びは長年思い続けたいただけに感激一入。

そんなに力まなくても良いのに・・

滅多に人に出会わないからといってそんなに睨みつけなくても・・・

火焔光背を負う総高は約130cm、像高約90cmと、そう大きくはない・・・

厚肉彫りで刻みだした不動明王は今にも動き出しそうな程。

全身に力を込めて口元はへの字、眉毛は吊り上げ団子鼻・・・・

憤怒相には違いないけど、どこか親しみを感じる面相・・・・・

南北朝末期の像立

竜王城跡付近から見た桜井橿原あたり

龍王山と不動明王・・・・龍は瀧に通じ滝には不動明王が付き物、この山中には不動明王石仏が多い。

撮影2011.3.27