愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

和束町原山鷲峯山(じゅうぶざん) 金胎寺宝篋印塔

2015年09月21日 | 石塔:石造物

 

(ア:宝幢)

急に思いついて一山向こうの鷲峯山(じゅうぶざん)金胎寺の宝篋印塔に会いに行ってきた。

ネット記事などを読むと非常に行きづらく人にも出会わず一人は危険などと書いてあるが・・・どうなんだろう僕は山一つ越えるとは言え地元民、子供の頃から親しみを持っていた。

前置きはさておき子供の頃には宇治田原町だと思って居た「鷲峯山金胎寺」は町境ギリギリにあるとは言え和束町・・・我が家から車で約30分程、その約7割は林道ですが。

金胎寺は 白鳳四年(675)役行者の開創と伝え、養老六年(722)に泰澄が堂塔を造営・・・・以後、良弁・行基・鑑真・弘法大師 等が修行し真言密教の大道場だったと言うが、最早その面影は重文指定の多宝塔と宝篋印塔のみに偲ばれるだけ・・・・哀しいかな本堂の屋根はトタン葺きが赤錆、嘗ての大寺院も普段は無住状態と成っている。

肝心の宝篋印塔は多宝塔の脇を通って約10分程山道を登った「鷲峯山」山頂に建つ・・・・ここは我が南山城最高峰、海抜686m・・・

以前はここから琵琶湖が見渡せたが、現在周りの木立が邪魔に成って見晴らしが利きません。

山道を登っていくと正面にアク:(天鼓雷音)の文字

(アー:開敷華王)

宝篋印塔は高さ 231Cmの花崗岩製で相輪を含め完存している。

(ア:宝幢)

塔身にはそれぞれ月輪内に胎蔵界四仏の種子を深く薬研彫りにしている

左 (アン:無量寿)右(アー:開敷華王)

「アン」の基礎石には刻銘が有り、「釈迦□仏滅後二千余歳 正安二年 願主仁尊」と刻まれており・・・鎌倉後期 正安二年(1300)の造立。

国の重要文化財指定。

撮影2015.9.19

 


岩手県平泉中尊寺 願成就院の石造宝塔

2015年09月07日 | 石塔:石造物

 岩手県平泉、中尊寺境内に立つ古式な石造宝塔。

この石造宝塔は中尊寺の子院の一つ、願成就院(がんじょうじゅいん)の峯薬師堂脇に目立つことなく建っていて、観光客の殆どは眼を向けることもない。

<正面>

石造宝塔はまるで五輪塔を思わせるような簡潔素朴な造り、安山岩製の高さ125cm。

まるで素人の僕の眼にも、その古式さや、単純明快で洗練された美しさが伝わって来る。

頂部の相輪部は請花・宝珠とし、分厚く端正な笠石と一石で造り出され、優雅で力強い

塔身は低い壺型、四方に大きく月輪を陰刻した中に金剛界四仏の種子を薬研彫にしている。

笠石の一角が欠損しているのは悔やまれる。

洗練された美を持つこの宝塔は平安時代後期の造立として学術的価値も高く国の重要文化財に指定されている。

撮影2012.9.22

 


和束町湯舟 熊野神社跡宝篋印塔

2015年09月05日 | 石塔:石造物

 

我が山城、和束町湯船五ノ瀬の熊野神社跡に残された宝篋印塔。

和束町湯船五ノ瀬は山城と甲賀の国境、往古、恭仁京から信楽への街道筋に当たる古い集落・・・

その地に残された今は亡き熊野神社跡地に残る鎌倉期の紀年銘を持つ宝篋印塔が残されて居る。

スッカリ荒れ果てた境内跡地に残された宝篋印塔は高さ184cm・・・

上部の双輪は後補ながら鎌倉時代の様式を良く表した優品です。

<不空成就のアク>

塔身には月輪内に力強く金剛界四仏の種子を薬研彫りしている

反対側の阿閦如来のウーン・・・笠石は、上六段、下二段

基礎石は、上端二段・・・・側面に弘安十年(1287)の紀年銘が有り鎌倉後期の造立

脇にも「正応四年(1283)四月四日、大工行長」の銘がある宝篋印塔残欠が残されて居る。

この熊野神社はどうなってしまったのだろうか??近くには白山神社が鎮座しているが・・・

撮影2015.7.28/2011.5.21

 

 


旧加茂町 千日墓地の十三重石塔

2015年07月25日 | 石塔:石造物

 

 

旧加茂町千日墓地の十三重石塔

何度か目の千日墓地・・・・この景観は入口に石鳥居、その背後に十三重石塔が建ち、ちょっと独特でしっかり頭にこびり付いてる。

十三重石塔は、高さ 約400Cmの花崗岩製・・基礎石西面に銘文が有り、鎌倉時代後期 永仁六年 (1298年)造立。

屋根石は小さいながらよく纏まり、軒は厚く力強い反りを持って居る。

基礎石北面には方形孔を穿ち、 初層軸部には舟形を彫りくぼめ顕教四仏を半肉彫りで刻み出している。

北面:釈迦如来坐像・・東面:薬師如来坐像

 西面には阿弥陀如来坐像

南面には弥勒如来坐像を配し、重要文化財に指定されて居る。 

撮影2013.5.25


木津川市 和泉式部の墓

2015年05月22日 | 石塔:石造物

 

我が山城木津川市に和泉式部の墓だと伝える五輪塔が建っている。

山城を流れる大河、木津川左岸、市役所より北へ約300m、木津川堤とJR線に挟まれて独特な堂が建ち、その境内に古風な五輪塔が建って居る。

説明板には「伝承によれば、式部は木津の生まれであり、宮仕えの後、再び木津に戻り余生を過ごしたといわれている」と有り、この五輪塔が墓石だという。

五輪塔は現代の切石基壇の上、石柵に囲まれ、ひっそりと建って居る。

奈良、宇陀市に有る「山辺赤人墓」に良く似て、凝灰岩製の簡素な造りの五輪塔。

高さ約130cmと小振りながら鎌倉前期の造立だとされる。

和泉式部の墓は京都「誠心院」のものが良く知られていますが他にもたくさんあるようです。

まあいずれ木津川の古名「泉川」から、土地の人が和泉式部と結びつけたものらしいのですが・・・

撮影2013.2.3


八幡市 石田神社(いしだじんじゃ・いわたじんじゃ)の十三重石塔

2015年05月19日 | 石塔:石造物
 
八幡市、浜上津屋の石田神社境内に建つ十三重石塔
 
 
石田神社は木津川に架かるお馴染みの流れ橋畔に有り、古くは「牛頭天王社」と呼ばれ、境内には「福泉寺」という真言宗の神宮寺が有ったらしい・・・・

当然この十三重石塔はその寺の遺物に違いない・・・・

石塔は石田神社石鳥居の前道路を挟んで対面するように建ち高さ3.6mの花崗岩製。

比較的小さく低い基礎石は四面ともに素地で全く刻銘等は見つからない。

初層軸部には舟形の中、蓮華座の四方物を刻む・・・・これは正面西側

こちら南面・・・これが本来の西側阿弥陀如来

こちら、北面の薬師如来、本来は東面のはず・・・

こちらは東面・・・・多分何かの折東海下のだろうか??90度左に振れて建てられており、屋根上の相輪は肝心の九輪等を欠落している。

因みに南北朝期造立とされて居る。

撮影2013.1.11

 


橿原市 久米寺の七重石塔

2015年04月20日 | 石塔:石造物

橿原神宮近くの久米寺に残る古びた七重石塔。

久米寺と言っても明日香に残る奥山久米寺の事ではないので要注意・・・ちょうど橿原神宮森の南側近鉄大阪線が橿原神宮と久米寺境内を引き裂くように通過している。

聖徳太子の皇弟である来目王子創建説と、久米仙人創建説があり、真言宗御室派の別格本山。

 

古びた七重石塔は、奈良から西へ二上山を越えた太子町、聖徳太子の霊廟のある「叡福寺」に残されたものと同じく、見慣れた花崗岩じゃなく赤っぽい凝灰岩製で異彩を放つ。

石塔は境内参道脇、木造多宝塔前の植え込みの中、正面を西向きに建っている。

高さ2.4m、塔身、月輪内に雄渾な書体で金剛界四仏の種子を刻み、基礎石は土中に埋められ、五・六層目の屋根は大きく欠損する。

一目見ても解るように七層目の屋根石と相輪は全く石質の違う後補の物が載せられて居る。

 屋根石の軒反りは直線に近い真反(しんぞり)を示し、 平安時代後期の蔵立だと言われて居ます。

 

撮影2012.11.14


栗東市伊勢落 徳生寺五重石塔  

2015年04月15日 | 石塔:石造物

昨日の続き、栗東市伊勢落 徳生寺五重石塔と寄せ集め宝筐印塔・・・・

境内右脇、鐘楼に向かって左側に建つ徳生寺五重石塔はすっかり剛健さの抜けた華奢な造り・・・

基礎石の格狭間にせよ、初層塔身の四方仏にせよ力なく・・・・勿論当初の物が全て残って居るのかも疑わしいような??

同じく鐘楼右手脇の寄せ集め宝筐印塔・・・・・傍らに層塔三層分の笠石と相輪部の残欠が見える。

笠石と基礎石は宝筐印塔のものですが、はてさて軸部塔身は一体何を転用したものなのか??

 

笠石の上に乗ってるのも五輪塔のもの・・・塔身は小さな宝塔の塔身のような感じで四方物が刻まれている様な・・・

この寺には様々な石像物が寄せ集められている

撮影2012.11.9


栗東市伊勢落 徳生寺の・宝筐印塔

2015年04月14日 | 石塔:石造物

栗東市伊勢落「徳生寺」の宝篋印塔です。

徳生寺は草津宿から石部に向かう旧東海道が通過する古い街道筋、その昔は伊勢へと向かう斎宮の禊場があった処として「伊勢落」の地名が残る。

江戸時代には東海道石部宿に隣接する立地から、薬や酒などを扱う店ができ賑わった。

そんな集落の東端部に現在浄土真宗本願寺派の徳生寺」が建ち、その奥、地続きの杜には「壽泉神社」が鎮座しており、無関係だとは思えない。

徳生寺宝篋印塔は高さ223Cm、切り石基礎の上に反花座を設け、更に四面とも輪郭を巻き、内に格狭間をつくる基礎石を・・・

 

 基礎石上端二段の上に金剛界四仏それぞれの種子を刻んだ塔身、

更にその、下二段、上六段、隅飾は二弧輪郭付の笠石を載せている。

相輪も当初の物が載り完品・・・・鎌倉後期の造立とされるが、全体に力強さが見られず華奢にまとまっている。

何故こんな風に成っているのだろうか??

撮影2012.11.9


東近江市 湧泉寺の宝塔??

2015年04月13日 | 石塔:石造物

先日の続き、湧泉寺山門脇の小さな堂内に地蔵石仏と共に安置された宝塔??

ん~・・・・しかし、よく見ると何かおかしく、何処となく妙なバランス・・・

屋根は宝筐印塔の物・・・その上に載るのは五輪塔の空風輪??。

塔身軸部は扉形を配し、首部も丁寧な仕様となっている・・・・しかしよく見ると基礎石もしっくり来てない。

基礎石は上部に反花座を設け、縁を巻いた中、大きく格狭間を設けている。

各部別々に見れば良くできた石造物の寄せ集めですが・・・やっぱりどこか変ですね。

寄せ集めなければ為らない哀しい過去が見える様です。

撮影2012.11.9


東近江市 湧泉寺の九重石塔

2015年04月12日 | 石塔:石造物

東近江市 湧泉寺境内に残された九重石塔。 

湧泉寺の建つ鋳物師町は先日来の麻生とは道路と田圃を挟んだ隣り村・・・・田圃の真ん中に独立するような境内がある。

古石塔を有する古刹にしては、いかにも田圃の中の境内は不自然・・・・近江の古刹の例に漏れず、この寺も戦国時代に餌食になったのだろうか??

九重石塔は三文を潜って右側、新しく造られた基壇の自然石基台に正面を西向けに建って居る。

塔高445Cm、 初層塔身に顕教四仏を舟形の中刻み出す。

屋根石は力強い反りを持ち如何にも剛健なのだがスマートに纏まり、少し物足りなさを覚える。

正面軸石塔身には定印の阿弥陀如来、南面釈迦如来の塔身には鎌倉後期「永仁三年(1295)」の銘が刻まれ、国の重要文化財指定。

蒲生野は如何にも優れた石造物が多く残されて居る。

撮影2012.11.9


東近江市 赤人寺(しゃくにんじ)の七重石塔

2015年04月11日 | 石塔:石造物

 先日のとなり在所、下麻生町「赤人寺(しゃくにんじ)」の七重石塔です。

先日の上麻生町とは地続きで何処からが下麻生町かも見分けが付かない。

集落の中心地に大きな境内を持ち赤人寺(しゃくにんじ)」と「山辺神社」が同一境内に共存している。

この地は万葉歌人「山部赤人」ゆかりの土地、「赤人寺」を創建し、「山辺神社」は「廟」とも伝える。

 そんな「赤人寺」本堂裏手に「赤人塔」と呼ばれる七重石塔が建って居る。

この七重石塔は高さ235cm、豪快な反りを持つ7層の笠石に相輪だけは後補の物を載せて居る。

基礎石に格狭間を造り出し、初層軸部には金剛界四方仏の種子を薬研彫り、初層軸部には鎌倉後期の「文保弐年、戊午歳九月日」の銘が有り、国の重要文化財に指定されて居る。

しかし、なぜ「あかひとでら」とは呼ばずに「しゃくにんじ」と呼ぶのだろうか?? 

撮影2012.11.9


東近江市 旭野神社七重石塔

2015年04月10日 | 石塔:石造物

湖東、東近江市西端、蒲生野、上麻生、「旭野神社」に建つ七重石塔です。

日野川右岸、蒲生野の古い歴史の農村地帯・・・・以前にも勧請縄を訊ね、訪れたことがある。

明治の廃仏稀釈までは十禅師権現と言い、明治9年に旭野神社と改称されたがどう境内には今でも法雲寺と称する寺院が残されて居る。

十禅師は日吉大社上七社の一つだと言う・・・・。

また古くは半島からの渡来人が石作りの技術を持ち込んだとされる古い土地柄、古い優れた石造品が残されているのは納得出来る。

七重石塔は寺と神社を分ける石鳥居の右脇に何の飾り気も無く健ち尽くしてる。

多分正面は北向きになって居るが、据付移動の間違いか?初層軸部、金剛界四仏の種子の「キリーク:阿弥陀」を薬研彫りしている・

屋根石は力強い反りを持ち鎌倉期の特徴を遺憾なく伝え、上端に反り花を持つ基礎石には正面「孔雀紋」の格狭間がある。

背面、南面初層軸部には「ウーン:阿閦如来」と右脇には元徳元年(1329)の紀年銘があり、基礎格狭間内には端正な三茎蓮が刻まれて居る。

本来南面の「タラーク:宝生如来」を薬研彫りする西面初層部・・・・格狭間内の模様がそれぞれ違って、丁寧な仕事ぶり。

端正で力強く、高さ279cm、鎌倉時代後期の造立で、市の文化財に指定されて居る。

撮影2012.11.9


米原市三吉(みつよし) 八坂神社の九重石塔 

2015年04月07日 | 石塔:石造物

 

米原市三吉の八坂神社に残された湖北唯一、完品の九重石塔。

 

八坂神社のある米原市三吉は北陸道米原IC脇の一画にある古い大きな集落・・・集落には別途八幡神社も有るからややこしい。

八坂神社は集落の東端、息郷(おきさと)小学校の東山裾に鎮座する小さな社。

境内片隅には社務所と書かれた象鼻を持つ寺院風の建物が有り、神仏混淆時代の名残を今に伝えて居るのだろう??

それ故、これほど立派な九重石塔が境内にあっても何の不思議もない・・・多分この八坂神社はその寺の鎮守社として機能していたのだろう??

九重石塔は高さ394cm、鎌倉時代後期の元亨三年(1323 )の銘を持ち、現在も完品として残っている。

九重石塔は、境内の向かって右手奥、林の中腹に立ち、初層軸部には舟形を彫りくぼめ蓮華座に坐す四方仏を半肉彫り、屋根石は力強く安定感がある。

基礎は正面のみ、輪郭内に格狭間を造り、内に近江形式の宝瓶三茎蓮を刻んでいる。

元々は近くの山上にあったのを移動したというから、付近に鎮守社を有する古刹があったのだろう・・・。

撮影2012.11.7 


五個荘町 河曲神社(かまがりじんじゃ)の宝塔

2015年04月03日 | 石塔:石造物

旧五個荘町、河曲神社(かまがりじんじゃ)の境内に建つ石造宝塔。

五個荘河曲町は、先日の長勝寺の東となり村、在所のほぼ中心部、在所道沿いに河曲神社(かまがりじんじゃ)があり、石鳥居脇にこぢんまりとした形の良い石造宝塔が建っている。

境内入口左手脇、竹垣に守られた宝塔は高さ約1.5m足らず、見るからにバランスの良い宝塔です。

相輪の上部が欠損、笠は力強い反りを持ち、基礎背面の束に「元徳三年(1331)」の紀年銘が確認され鎌倉後期の造立。

 塔身軸部は四面に扉型を刻み出し、基礎石四側面には太い輪郭の中、格狭間をを造るが中は無地に成っている。

全体的に細工は整っているが、格狭間内に「近江文様」の無いのは少し物足りなさを感じる。

撮影2012.11.2