愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

交野市 廃岩倉開元寺参道の石仏

2006年10月30日 | 石仏:大阪

この、ページで以前(2006.9.3)紹介した、「弥勒坐像石仏」の有る石仏の道を約10分ほど登って行くと右手に大きな岩が露出していて、その対面左手にも一体の石仏が大きな樹の元に立っているのが見えて来る。

右手の岩の谷側、道路を背にして阿弥陀三尊石仏が彫られている。

高さ約45cm、幅35cmの上部を丸めた舟形光背の彫りくぼみの中に蓮華座に座す中尊、阿弥陀如来と脇侍の観音、勢至菩薩の立像を半肉彫りにしていて、小さいながらも魅力的な磨崖石仏です。

弥陀の左右には文明11年(1479・室町)の銘があり、枠外の左にはキリークの弥陀種子が刻まれている。

元の参詣道は、この石仏の下を通っていたものらしくこの石仏を仰ぎ見る形であったと言う。

左手に立つ、約像高76cmの阿弥陀石仏も室町時代の造立、おしいことに頭部右半分や光背上部が欠損しており、もと、この上部斜面にあった廃墓地の供養仏だと考えられている。

整備されているとは言え、木立に囲まれた谷沿いの両側に居る石仏は、見る者を癒さずにはいない。

ここより、まっすぐ道なりに約100mほど登って行くと道路脇に少し左寄りに傾いた大きな岩に石仏が刻まれているのが見える。

高さ3mばかりの岩に深い光背型を彫りくぼめ、阿弥陀三尊を、半肉彫りにしている。

中尊阿弥陀は坐像で像高60cm、両側の勢至、観音はともに立像で像高50cm、室町期の造立。

石肌全面が赤味を帯びているのは、兵火にかかつたためだと言われていて、この石仏は付近にあった岩倉開元寺参道の石仏だと考えられています。

撮影2006・9.2 / 10.29

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御所市 櫛羅(くじら)「六地蔵石仏」

2006年10月27日 | 石仏:奈良

もう、何年も前、ネットサーフを始めたころ、紀行ページで、この石仏の写真を見かけて、その周りの野趣、風情、にすっかり魅せられ、いつか必ず行こうと決めていた。

また、この櫛羅(くじら)という奇妙な住所にも興味があった。

櫛羅は中世には、倶尸羅と言う字を用い、葛城山を急激に下る土砂崩れが度々発生したため、「崩れ」が語源となっているようです。

六地蔵が彫られた大きな石も、室町時代に土石流が発生し、現在の場所に流れ着いたと言われ、その大災害に対し、村人は極楽浄土を願い、その頃に彫ったものといわれています。

この地蔵の前は駐車場になっていて六体地蔵ぎりぎりまで車が停められていて、限定された方向でしかこの石仏に近づく事が出来ない。

六地蔵は三叉路の少し広くなった南東角にデンと腰を降ろした高さ1.5m幅2.5mの巨石に長方形の彫りくぼめを造り、半肉彫りの野趣味の強い六体地蔵を刻んでいる。

撮影2006.5.3

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太子町 岩屋石窟寺院跡

2006年10月24日 | 石仏:大阪

前回、紹介の鹿谷寺(ろくたんじ)跡と同じく、二上山中腹にある古代の石窟寺院跡。

二上山登山口から登山道を鹿谷寺跡とは別の方、東へ500mほど登った雌岳中腹に、奈良時代の石窟寺院跡があります。

今も凝灰岩の岩盤を掘り穿って造られた間口7m、奥行5m、高さ6mほどの石窟があり、岩屋と呼ばれています。

中央には、3層の凝灰岩製多層塔(高さ3m)、石窟北壁に浮き彫りされた三体の仏像が残っており、その前には、最近の物と思われる石仏や板碑などが何体か並べられていました。

しかし風化が激しく、像容はまったく解らず、よく見ると岩面にそうかなあ??と思う程度で、石仏としての表示板もありません。

また、石窟上部に円形の穴が開いており、覆屋があった可能性が強く、一説では中将姫が當痲曼陀羅をここで織ったと云伝えられています。

この寺院跡の手前には倒木した巨杉の残骸が横たわっており、無残な姿を晒しています。

平成10年この地を襲った台風7号の強風による倒木だそうで、高さ28m、根周り5.8m、樹齢約700年、岩屋の1000年杉と呼ばれて親しまれていたそうです。

ここから少し登ると岩谷峠で、ここを東側に下っていくと、当麻寺へと通じている。

撮影、2006.10.14


太子町 鹿谷寺(ろくたんじ)の磨崖仏/十三重石塔

2006年10月20日 | 石仏:大阪

大阪府と奈良県の境、標高515mの雄岳と474mの雌岳がラクダの背のように並ぶ二上山は古代史ファンにとっては一度は訪れてみたいところです。

国道166号線を当麻(奈良県葛城市)から、太子町(大阪府)に向け竹之内峠を越え、しばらく下っていくと二上山登山口の駐車場がある。

ここから、徒歩でしばらく奈良方面の戻ると、散策登山口に出会う。

右手正面に等身大ほどの江戸時代建立と思しき地蔵石仏と六字銘号碑が建っている、たぶん旧竹之内街道沿いの旅の安全を願うために建てられたものでは無いのだろうか??

ここで、鹿谷寺の標識のある道を約10分程登って行くと周囲が開けて、史跡・鹿谷寺の石柱が建っている。

先ず目に入ったのは、単純な形の十三重石塔、風化は著しいが、古色蒼然としたこの塔こそが、わが国最古の十三重石塔で、凝灰岩の地山を堀り残して造ったものです。

塔自体が地面から芽を出した植物のように地続きになっているのはそのためで、だからこそ今まで、現存し続けたのだろう???、高さ約5.2m、八世紀奈良時代の造立は下らないと言われています。

東側には中国敦煌の石窟寺院のように岩壁を削ってつくったと思われる石窟があって、三尊石仏仏が奥の、高さ1.5m、幅3.02m岩壁に線彫りされている。

風化が激しく像容は定かでない高さ1.5mの如来像を三体並べていて、中尊は釈迦如来坐像、右に弥勒、左に弥陀を配置したものだろうと言われています。

この時代の仏教の力は、人をして地山の岩盤をうがち石窟を造らしめるほどの魅力あるものだったのかも知れない

撮影2006.7.8

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三郷町 一針薬師笠石仏

2006年10月18日 | 石仏:奈良

奈良盆地の南西、信貴山の麓にある三郷町は大阪にに近いことも在って、新興住宅地としての開発が盛んな地域です。

三郷町と隣町の王子町を分ける大和川沿いの辺りを勢野と呼ぶが、その一角に以前は総持寺と言う集落が在ったが、現在では街の名前もすっかり変わってしまっている。

その昔この地には総持寺という寺があって、法隆寺と深い関係であったと伝承されていて、今はその跡地に、持聖院という寺と鎮守の春日社が残っている。

春日社は小高い岡の深い森の奥にあって、一目では神社だとは解りづらい。

1度目は、持聖院までは行っていたのだけどついに見つからず、二度目にここを訪ねてやっと見つけた。

周囲の住宅開発が進み、すっかり周りの環境もかわってしまって、まったく神社とは気付かないような環境になってしまっている。

新しく木立ちの中に出来ている参道らしきものを進んでいくとやがて、小さな仮屋があって、その中に笠石仏と思しき大きな石が小石仏と共に並んでいる。

正面には何かが彫ってあった痕跡が残るのみで、まったく像容が解らないほどに、風化がすすんでいる。

ここを越えて、小さな社まで行くと、笠石仏の案内表示板が出ていて、その通りに少し奥まった小高いところにこの笠石仏がある。

しかし周囲は人丈ほどの塀がたっており直ぐそばに近づくのは困難です。

おまけに木立ちは深く、木漏れ日がさす程度で、まったく光量もたりません、蚊のいる季節に訪れて、やっとの思いで、撮影は済ませましたが、さんざんな目にあいました。

高さ、幅共に2m、厚さ40cmほどの自然花崗岩の正面に薬師三尊と十二神将を線彫りにしてるというが、見極めるのはかなり困難なです。

真正面の薬師像は何とか確認できたのですが、他はおぼろげにそれと解る程度にしか見えません。

笠石仏としては、日本最大最古のもので鎌倉初期の像立、東大寺復興のために来日した宋人石工が深くかかわった石仏だといわれています。

又尊像の顔部分が特に磨耗が激しいのは、それだけ信仰が篤く、信者が撫で擦った証拠であるらしい。

撮影2006.7.8

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生駒市 暗峠(くらがりとうげ)の石仏ー2

2006年10月13日 | 石仏:奈良

峠を横切る、生駒スカイラインの下ををくぐると、眼下にに生駒の町並み其の向こうに矢田丘陵、ずーと、奥には大和高原の山並みがかすんでいて絶好のビューポイントになっている。

ここから先は暫く、2車線の走りやすい道路になっています。

ダラダラ坂を下がっていくと、西畑の左手に万葉句碑(故犬養孝揮毫)や芭蕉の名の刻まれた案内石がある小さな広場があり、奥のほうに室町時代の地蔵石仏・六字名号碑がある。

右手の崖上には文化五年(1808)の役行者・前鬼・後鬼像が、のけぞったように、斜面にたおれかけていました。

この辺りは役行者が拓いたという、宝山寺や、千光寺にも近い。

この辺りの生駒谷は、棚田が斜面いっぱいに里山を満喫できるすばらしい景色広がっている。

ここから少し下った、左手上方の大きな石には、像高50cm足らずの阿弥陀磨崖石仏がある。

像容は殆ど崩れてはいるが鎌倉後期のものとされています。

ここを過ぎて、藤尾集落の道端の小さなお堂の中には、線彫りに近い薄肉彫りの阿弥陀石仏がある。

写真のように見慣れない像容で、像高、136cmで上部が欠損し、表面はしっかりみがいていないようで、でこぼこが見られます。

石の右側面に文永7年(1270)广午六月月日為西仏過去也」の刻銘があり、鎌倉期の像立、地元の方がしっかりお守りされているようで、信仰の篤さが伺われる石仏です。

撮影2006.6.24


東大阪市 暗峠(くらがりとうげ)の石仏ー1

2006年10月08日 | 石仏:大阪

今回は、この怪しい名前と石仏と言う言葉に吊られていってきました・・・・,暗がり峠道。

地図で見るとここはれっきとした国道308号線、国道を車が走れない事はないと言っては見たものの、元10トントラックのプロドライバーだった僕でも、少し手ごわかった。

この道は、奈良と大阪を結ぶ最短の道だったそうで、古代からある道だそうです。

江戸時代にはお伊勢さんへの道だったようで、現在でも一車線のところがほとんどなのですが一方通行にはなってなく、この日も僕の前の軽自動車が脱輪して何人かで手助けして車を持ち上げたほどです。

ここはハイキングコースとして人気があるところで歩くにはもってこいの所です。

今回大阪側から、この道に乗り入れましたが最初から大変な上り坂で、急勾配の住宅地の中を一気に駆け上がって行ききます。

住宅が途切れた頃には眼下に大阪の町が小さく見えて、最初の石仏さんのお出迎え。

道路の右側に小さな行場があって面白い顔の不動明王が立っている。

まるでアニメにでも出てきそうな烏天狗のような顔立ちがユニークで面白い。

それから少し登ると、今度は右手に仮道のような建物が建っていて弘法の井戸と言う表示板がある。

その弘法の水のあるところに弘法さんが祀られていて、のですが、其の横手に笠をいただいた笠塔婆があります。

高さ181cm、鎌倉中期弘安7年(1284)に建てられたもので阿弥陀如来座像の下に「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています。

笠は、最近乗せられたもののようで古い資料には笠はなくなっていると記されている。

この先少しで暗がり峠、ここが奈良と大阪の県境、今は少しの区間だけ古風な石畳道になっていて、お茶店などもあり懐かしい風景を醸し出している。

しかし正面には生駒信貴スカイラインのガードレールが横切り少し艶消しになっている。

この峠の左手奥に小さな地蔵堂があり、「峠の地蔵」が祀られている。

高さ1.6m花崗岩の厚肉彫り、文永年号が刻まれており鎌倉中期の作、惜しくも首辺りで折れてしまっているが、おおらかな面相で錫杖もすこぶる大きく、充実感の有る地蔵石仏です。

また堂の横手には、平石で組んだ石ガンの中に丸彫りの石仏が三体在って、野趣にとんだ姿がとても良い。

撮影2006.6.4

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東近江市 石塔寺(いしどうじ)阿育王(あしょかおう)塔

2006年10月01日 | 石塔:石造物

ずっと以前から見てみたかった石塔でした。

この独特な形状から、日本のものでは無いというのは、おぼろげながら誰にでも解るだろう。

この塔のある寺は、滋賀県東近江市石塔町にある、山号を、阿育王(あしょかおう)山,寺号を石塔寺(いしどうじ)と言う。

阿育王(あしょかおう)とは、昔、高校の歴史で習ったインドの王様の名前で、インドの王様とここがどう関係するのか?。

石塔寺縁起によると、阿育王が世界に仏舎利塔をばら撒いたが、そのうち二基が日本に飛来したと当時の一条天皇が聞き、探索を命じたところ、この寺の裏山の土中から塔が出現したとのことである。

この塔が冒頭写真の三重石塔であり、従って阿育王塔と呼ばれる。

もとは、飛鳥時代、聖徳太子が近江に48ヶ寺の寺院を建てた満願の寺で名を本願成就寺と言った。

しかし、このような経緯から、1006年に寺号が阿育王山石塔寺と改められ、七堂伽藍が建立され隆盛を極めたが、織田信長の焼討ちにあって一切が焼失し寺は荒廃し、その後江戸時代初期になって復興がはかられ、現在の姿は昭和初期に整備されたものとのことである。

山門をくぐり、急で長い石段を登り終えると、見た事の無いような形の、見た事も無いような大きさの石塔が、おびただしい数の小五輪石塔を従えて屹立している。

塔は花崗岩製で、塔身は初重が2石、二・三重を1石でつくり、相輪は後補のものであるのが素人眼にもはっきりとわかる。

京都の寺にある侘びさびのようなものは感じられず、まさか言い伝えのように飛来して日本にきたわけではあるまい。

史家の推定によれば、石塔の様式から奈良時代前期の建立とされ、百済の三重塔との相似・相関性から、ここに移住させられた百済系渡来人が、祖国の石塔を真似て立てたのであろうとされている。

 付近には最も関係が深いと考えられている「鬼室集斯(きしつしゅうし)」を祀った鬼室神社があり、また百済寺もそう遠くなく、7世紀中頃に、百済の滅亡に伴って渡来した王家の一族集団が、深くかかわっている石塔であることは間違いがない。

撮影2006.7.22

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