愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

台風18号木津川大増水(2013.9.16)

2013年09月30日 | 風物:陵墓

9月16日、18号台風に依る大雨のため大増水した、我が木津川流域の記録です。

16日朝、TVで京都の淀川水系三河川が大増水、桂川では氾濫したとのニュースを聴き、雨の小降りになった9時半頃、いつもの様にチャリで出掛けた。

まだ吹き返しの風が強い中、山城大橋まで来るとこのざまです・・・・・これは下流方面ですが、濁流が音を立て、この500m強の川幅一杯に流れて居ました。

なんと言う水量なのか・・・・、僕の記憶では小さい頃に見た山城水害以来の光景でした。

これは大増水の2日前、9月14日、同じ付近からの撮影です。

水が随分引いた9月17日朝、同じ位置からの撮影、緑の草叢ジャングルはすっかり褐色化。

こちら、同じく山城大橋から上流域を望む。

山城大橋左岸、京田辺市の運動公園もすっかり冠水・・・・・進入路の途中まで浸水しています。

グランドが何処やら本流が何処やら・・・・、向こう岸は国道24号線。

少し上流から・・・茶畑も水没。

これは8月末の撮影・・・通常はこんな景色なのですが。

18日朝・・・水は引きましたが、これではしばらく使えそうに有りません。

左岸サイクリングロードを下流へ・・・・直ぐ下流の茶畑も姿は見えず、上を濁流が流れています。

少し下流から上流側、山城大橋を望む・・・春に綺麗な花を咲かす桜の大木が頭を出しています。

9月14日、同じ付近からの景観は緑一杯。

近鉄京都線、木津川鉄橋付近ではサイクリングロードも水没、何とか大廻りして下流へ・・・・・・

付近では堤防外の水田も水没。

新名神木津川架橋工事現場では橋脚も見えず重機も水没、手前は茶畑。

気に成っていた流れ橋も全く姿が見えません、手前の茶畑もすっかり水没。

良く見ると橋板だけが流に漂い浮かんで居ますが、橋脚は全く見えず。

去年9月、やっぱり台風の大雨で流失、今年4月26日に開通したばかりだった・・・・・。

17日右岸から行った時には橋桁が覗いていたけど・・・、この橋はここしばらく毎年の様に流失、通れる時より不通の期間の方が遥に永い。

次回開通はいつで、どんな橋になってる事やら・・・・とにかく工事費3500万円成だとか??

流れ橋付近の茶園は見るも無残、濁流と流れてきたゴミの下。

17日、濁流が引いた後の茶園の状況・・・・後始末が大変そうです。

大急ぎで引き返し、山城大橋より上流の状況です。

いつもの散歩道、飯岡浜河川敷内サイクリングロードは全く影も形も見えません。

18日濁流が引いた後、遠目には一見何事も無かった様です。

飯岡久保田樋門付近よりの木津川・・・・向こうの橋は玉水大橋。

この時水位は6m、堤防の頂部は10mだから氾濫まで4mの余裕で何とかセーフ。

しかし反対側、飯岡南部の水田地帯はすっかりこの有様・・・

まるで一夜にして湖にでも変わったように濁流が波打って居る。

此方の水田は水位6mよりも低い土地で木津川本流がオーバーフローしたのかも??

しかし18日に見た時にはすっかり元通り、稲は倒れる事なく穂を実らせていた。

これは冠水時間が約1日と短かったのが不幸中の幸い。

17日、木津川右岸富野荘浜河川敷内耕作地、未だ滞留水が残って水浸し。

同じく水主浜の河川敷内墓地は濁流が引いたものの墓石の頭だけが濁流から覗いて居た様です。

植え込みの頂部だけが泥水を被って居ないのが良くわかる。

まあ、これから毎年こう言う事に成らなければ良いけど・・・・・

ここ1~2年、気象条件や自然状況が激変して居る事を強く感じる。

人間は神の手を持ってる訳じゃないのに・・・・・、飽くなき科学開発の追求は、自然破壊の裏返しにしか過ぎない。

撮影2013.9.16/前後


奈良市 旧田原茗荷町 阿弥陀寺跡の石仏

2013年09月29日 | 石仏:奈良

奈良公園の背に覆う春日原生林、その背後の高原域、田原の里の石仏さん達。

奈良市内、白毫寺脇を山手に向かって走る県道80号線で10分程も駆け上がると、そこは鄙びた別世界・・・・、棚田や茶畑の広がる里山、「田原の里」

県道をしばらく進むと右手に小さな駐在所の見える集落が茗荷の在所、駐在所脇から旧道に入り直ぐの辻を左手奥に行けば旧阿弥陀寺境内を利用したゲートボール場があり、その奥、潅木林を背にして石造物が一列に並べられて居る。

興味の持ち方なのか?ここでは何と言っても、中央辺りに並べられた二基の一石六体地蔵が目を惹く。

向かって右側には、三角頭の駒形一石六体地蔵、左手には横長自然石に刻まれた一石六体地蔵・・・・・同じ場所に一石六体地蔵が並立する景色も珍しく、ひょっとしたら此処だけかも??

高さ約80Cm、幅73Cmの駒形石の中央に横長の切通し彫り下げ横一列の六体地蔵を半肉彫りで刻み出す。

一体々々、個々の蓮座の上に立ち、像高28cm、風化摩耗のせいか像容も定かでは無いが・・・、室町中期の造立だとか??

もう一基の六体地蔵・・・・

高さ約50cm足らず、幅約80cm、像高27cm・・・・・安土桃山期の天正銘が確認されて居る。

ちょっと妙な、頂部に出べその様な無法塔?を持つ六字名号碑、総高1.2m、室町中期の大永二年(1522)の銘を持つ。

撮影2012.2.12


桜井市 粟殿(おうどの)墓地の石仏

2013年09月28日 | 石仏:奈良

桜井市粟殿(おうどの)墓地に立つ石仏さん達。

山之辺の道始点、大和川(初瀬川)の畔りに建つ「仏教伝来の地」からほど近い、「極楽寺」脇の粟殿(おうどの)墓地入口左側に三体の石仏が並び立って居る。

反花座基台の上に立つ中型の来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像・・・、人間臭い顔つきで桃山時代の天正年代銘を持つ。

こちら特徴のある切れ長、キツネ目を持つ阿弥陀如来立像。

光背上部は大きく欠落、やっぱり人差し指を大きく曲げての来迎印、天正二年の銘が見え此方も桃山期の造立。

ちょっと頭でっかち、駄々っ子の様な顔つきの定形地蔵菩薩立像・・・・、永禄銘が見え室町後期の造立。

他に色々有る様ですが、撮り忘れ、近くを通った時にでも、再度訪れたいと思って居ます。

撮影2012.1.13


奈良市大和田町 榁木(むろのき)峠の地蔵石仏

2013年09月27日 | 石仏:奈良

矢田丘陵北端をかすめて通る旧伊勢本街道、榁木峠に立つ五尺地蔵とも称される峠の地蔵さん。

<榁木峠への登り口から生駒山を振り返る>

東大阪、平岡神社脇から生駒山を暗峠の難所で越え、再び登る矢田丘陵・・・・・・

その榁木峠で待っててくれるのがこのお地蔵さん。

現在峠下に切り通しを造り、酷道(国道)308号線が通じて居るが、その昔、この地蔵の前を石畳の伊勢街道がかすめて通じていた。

旅人達はこの石仏の前に立ち、眼下に広がる奈良の家並を目にして安堵の感を強くしただろう・・・・

そしてこの地蔵にこれから先の旅の無事を祈ったに違い無い・・・・、浪速へと急ぐ人はこれまでの旅の無事を報告したのだろう。

地蔵石仏は舟形後輩を背負い、円頭光を頂く凡そ等身大の定形地蔵立像。

その像容や前に置かれた花立てや供台に刻まれた銘などから、多分江戸中期の造立・・・。

一説に拠ると、暗峠下り道の応願寺の地蔵石仏は元、この地に在った物で、現在のこの石仏はそれに似せて造られた二代目だとか??

そう言われればそんな気もしないでは無いような・・・・・

撮影2012.2.28


生駒市 応願寺(おうがんじ)の地蔵石仏

2013年09月26日 | 石仏:奈良

旧伊勢街道、暗峠を奈良側に越えた、萩原「応願寺」の地蔵石仏。

大阪側から険しい暗峠を越え、ちょうど平地に入って、竜田川の流れを目の前に古い家並を連ねる萩原の旧在所。

現在、周りは新興住宅が波の様に押し寄せ、懷かしい風情は旧道沿いだけに成ってしまったが。

集落の中程を山手側に入り込んだ高台に建つ応願寺は、真新しい本堂と良く整備された境内で訪れる者を、嬉しく迎え入れて呉れる。

本堂に向かって右手、境内の片隅に地蔵堂が有り、普段は格子戸が閉じられているが、それと頼めば扉を開け、丁寧に対応してくれる。

こんな寺も珍しく、石仏ファンには実に有難い。

石仏は供台床に下部は隠れて居るものの、床下戸まで外して頂いて撮影できました。

永仁石仏と呼ばれるこの石仏は、上部が厨子に隠れて見えませんが・・・、高さ約2m、幅約80Cmの舟形光背を持ち、薄く浮き彫りにした頭光背を戴く。

像高150Cm弱の等身大定形地蔵立像を厚肉彫りで刻み出して居る。

足元は挌狭間台座の上に円形蓮座を載せ、地蔵石仏を立たせている。

衣文や錫杖頭など表現に優れ、その作風から伊一派、伊行氏(いのゆきうじ)の作だと考えられている。

光背の向かって右側には鎌倉時代後期 の永仁二年(1294年)の銘が確認されて居る。

しかし、どうした事か、鼻がしらは子供の粘土細工をくっつけた様な補修でちょっと情けない。

どうして鼻が欠けてしまったのだろう??

撮影2012.2.28


奈良市中町  腰抜け地蔵(縄掛け地蔵)

2013年09月25日 | 石仏:奈良

腰抜け地蔵や縄掛け地蔵の呼び名で呼ばれる等身大程の大きい地蔵石仏です・・・・・・2年ほど前にも撮影したのですが、どうも写真が気に入らないので再度チャリで走って来ました・・・・、しかしやっぱり旨くは撮影出来ません。

奈良市の西端、矢田丘陵の北東裾に、天平六年(734)聖武天皇が行基上人に勅命、建立されたという霊山寺(りょうせんじ)脇の高台に有る。

この高台も霊山寺の境内地らしいが多角経営の一環か?ゴルフ練習場が有り、住宅地を登りきった入口右手の簡素な覆い堂にこの石仏が安置されて居る。

石仏は総高約1.8m、幅90Cmの分厚い板石状の赤みの強い花崗岩に、地蔵立像を厚肉彫りで刻み出して居る。

地蔵石仏は右手錫杖、左手宝珠の定形地蔵で凡そ等身大の像高145Cm。

腰の下部で大きく断裂、素人補修の痕が醜く目立つ・・・・、その継ぎ目を隠すかの様な荒縄が何筋にも巻かれて居る。

このように荒縄を巻いて祈願をすれば腰痛や下の病気にあらたかな御利益が有ると言われている。

石仏は像容も定かではない程風化摩耗が進み、目鼻立ちも覚束無く、足許の蓮座部分もコンクリート床に埋め込まれて居る。

個性の強い像容全体から南北朝期の造立だと考えられて居る様です。

南都、奈良にはこの様な大型石仏が数多く残っている。

撮影2013.9.22


東大阪市四条町 出合(であい)地蔵石仏/空川(からかわ)地蔵石仏

2013年09月24日 | 石仏:大阪

東大阪市の東方、生駒山系山裾高台に有る旧四条村、混入った家並の中に建つ地蔵堂に安置されて居る石仏さん。

旧四条村は東高野街道から分岐、生駒山系を超え鳴川千光寺へと向かう旧道沿いの村、石仏は旧村在所道の辻に建つ立派な地蔵堂に安置されて居る。

御堂の正面には木製格子戸、戸は開けられますが・・・、供台や飾り御簾の奥に安置され、全容を確認することは出来ません。

元は峠道の出合いと呼ばれる場所の岩壁に刻まれていた磨崖仏、砕石の際に切り取り現在の場所に移設したものらしい。

高さ幅共に約60cmの方形を彫り沈めた中、蓮台に立つ像高約50Cm強の双尊仏。

共に尊顔は目鼻立ちも不明なほど風化摩耗が進んでいますが、向かって右に来迎印弥陀立像、左には定形地蔵立像。

この手の石仏としては、なかなか大きくて立派なものです・・・・・・蓮座やその像容から南北朝末期の造立と考えられています。

 一方、直ぐ南側に有る安養寺を過ぎ、右折して100mも進むと右手にも立派な地蔵堂、ここは鍵締、おまけに板張り花頭窓、更に布御簾や真っ赤な涎掛け・・・・おかげでこんな写真しか撮れません。

しょうが無いので詳しくはこちらから・・・・・、大阪の場合は殆どの石仏が、こんな風に厳重に管理されています。

それは都会の世知辛さ故なのかも・・・・・。

撮影2012.2.21


四條畷市 新池の阿弥陀三体笠塔婆/他

2013年09月23日 | 石仏:大阪

今までに見たことも無いような珍らしい笠塔婆が四條畷、新池そばの辻に置かれて居る。

新池は、寝屋川市との境界に近い新興住宅街に囲まれた農業溜池、その脇に有る工場のブロック塀にもたれる様にして祀られて居る。

この石仏は近くの小川改修工事の際、川底から見つかり、この場所に置かれた様です。

ちょっと上から覗けばキノコお化けか?寸足らずのペンシルロケット・・・・。

総高約70cm、幅約30cm、角柱部の三面に蓮座に座する定印の阿弥陀如来。

殆ど同形、同寸法、風化摩耗もかなり進んで居ますが室町期の造立か??

塀側の一面は隙間が狭くて覗く事さえ出来ません。

隣には阿弥陀と地蔵の双仏石。

少し離れた新池堤下には「讃良(さら)石仏」と呼ばれる阿弥陀坐像石仏。

昭和40年代後半、讃良川、新池改修の際に出土、工事の際に上部が欠損した様です。 

因に左手の石仏は最近造られた現代石仏。

撮影2012.2.12


旧島ヶ原村 西念寺の石仏

2013年09月22日 | 石仏:三重

 

旧島ヶ原村の名古刹「正月堂」の直ぐ近く、天台真盛宗「島王山西念寺」境内に立つ阿弥陀石仏。

西念寺は簡素な山門奥に大きく聳える三重県最大のカヤの木が有る事でもよく知られて居る。 

カヤの巨木越しに見える本堂、その向かって左手、鐘楼脇に一人独立して立って居る。

総高124Cm、舟形光背を背に蓮台に立つ、右手Okサインの来迎印阿弥陀如来立像を中肉彫りで刻み出して居る。

顔や体躯に朱い地衣類が纏わり着き見づらくなって居ますが、中々ふくよかで穏やかな面相です。

一見すると頭上の肉髻( にっけい)が目に入らない程低いため、地蔵かと見紛う。

大和系石工の手に依るものか?切れ長でキツネ目を持ち、左には室町後期の永禄7年(1564)の銘が確認出来る。

また、本堂に向かって左手、寺墓入口には六体地蔵と、中央に一回り大きい迎え地蔵??。

青竹で作った六本蝋燭台と和紙で行灯の様にした御供台・・・・、この様な形のものは初めてです。

撮影2012.2.16


旧島ヶ原村 大瀬の地蔵磨崖石仏

2013年09月21日 | 石仏:三重

三重県「旧島ヶ原村」、木津川上流部の大瀬を見守る様・・・、巨岩に刻まれた地蔵磨崖仏。

国道163号線が京都府最東端の南山城村を越え、三重県最西端の旧島ヶ原村に入って直ぐ、木津川に掛かる橋を越した左手、笹薮を掻き分け木津川本流河岸に出ると、流れの中央辺りに岩を噛む大瀬が音を立て流れて居る。

飛び石伝いに中洲に渡り、石友さんの教え通り大瀬に向かった巨岩を覗き込むと小さな地蔵磨崖仏。

こんなところに、こんな磨崖仏が隠れて居たとは・・・・・・。

目の前は岩を噛む大瀬の激流・・・・、橋の無い頃、旅人や近在の人たちは危険を承知でこの瀬を石伝いに渡ったのだろうか??

おっかなびっくり、磨崖の前にしがみつく猫柳の根元に片足を掛け真正面から・・・・

総高50~60Cm、舟形光背を深く彫沈めた中に像高40Cm足らずの合掌地蔵立像を厚く刻み出して居る。

地蔵の載る蓮華座は極端にデフォルメされ、近世以降の造立を窺わせる。

殆ど紹介されること無く、忘れ去られた様に・・・・、静かに大瀬に目をやり佇む地蔵さん。

僕はこの石仏を見るなり、これはこの瀬で亡骸となった人達を弔う石仏だろうと確信した。

それは、この合掌印が何よりの証なのでは・・・

撮影2012.2.16


旧室生村 大野の大黒天磨崖仏  

2013年09月20日 | 石仏:奈良

室生「大野寺」の、あの大弥勒磨崖仏に隠れるように有る大黒天の磨崖仏。

大野寺より見ると大磨崖の前を流れる宇陀川が大きくヘアピンカーブに蛇行、大磨崖の裏に隠れる辺り、川岸斜面に突き上げる様に立つ柱状節理岩に刻まれて居る。

屹立する柱状節理の中央岩の高さ5mぐらい、見上げるほどの位置に高さ2mばかり、上部に隅取りの有る角型を彫り下げ、中に蓮の葉に立つ大黒天を刻み出して居る。

一目見るなり・・・・あっ現代仏かと分かる代物。

下部には何やら銘の様な物が見えますが、刻み込んだものではなく、金泥などで書かれたらしく、すっかり剥げ落ち解読不能。

左下部に二行、「長慶寺普門発願  助工定吉」と、これはしっかり刻まれて居ます。

調べたところ、奈良市法蓮町に「長慶寺」を61歳にして建立したという、財産家の変わり者「吉村長慶さん」の発願した大黒天磨崖石仏だという事・・・・・・、この長慶さんは石仏好きで、この磨崖には「長慶寺普門発願」と刻まれ、長慶寺開基の大正12年以降に造立された様です。

因に以前紹介した「三郎岳の磨崖仏」も、この長慶さんの発願に依るものらしい。

しかしまあ、いくら金持ちとは言え、大正時代に磨崖仏を数多く造立するとは・・・・・。

撮影2012.2.22


旧室生村大野 海老坂の北向地蔵

2013年09月19日 | 石仏:奈良

室生大野から三本松に向かう旧道の峠道に手厚く祀られて居る地蔵石仏さんです。

近鉄「室生口大野駅」を出てガードを潜り、線路に沿いトンネルと同じ東向きの急な峠道を約200mも進むと、右手に北向の簡素な覆屋が有り、中にこの地蔵石仏が祀られて居る。

高さ約1.3mの舟形光背を持ち、南北朝期の特徴を持つ蓮台に載る像高約1mの地蔵菩薩立像。

線彫りの円頭光を戴き右手錫杖、左手宝珠の定形地蔵。

落ち着き、整った顔容、流れるように流麗な体躯には鎌倉期の様な力強さは有りませんが、中々の秀作。

銘は有りませんが南北朝期の造立、海老坂の北向地蔵と呼ばれ、今でも薫香絶えること無く信仰篤い。

背面には如来坐像と思われる彫りかけの石仏が有る・・・・・、どんな理由で完成を見なかったのかも少し気に成ります。

堂脇から振り返れば近鉄線や大野の家並みが直ぐ眼下に望めて美しい。

登りきると、そこは三本松集落の入口。

撮影2012.2.21


旧室生村大野 善正寺の石仏

2013年09月18日 | 石仏:奈良

旧室生村大野、融通念仏宗「法林山善正寺」境内に立つ石仏さん達。

近鉄大阪線を挟んで室生中学校に面する善正寺は開けた小さな境内の寺、本堂脇には多くの石造物が並んで居た。

その中央には自然石に刻まれた三種の石仏群・・・・・

中でも目を惹くのが中央にある尖った三角石に刻まれた三体地蔵石仏・・・・脇にも妙な形の双体地蔵石仏。

自然石の表面に深い角型を彫り沈め、中に柔かにに微笑む三体の地蔵菩薩を厚く彫りだしている。

何とも素朴でで人間臭い表情が堪りません。

向かって左側の三体仏・・・・上部の駒形に二体の双体仏・・・下方にも、もう一体。

余にもデフォルメされて何様のつもりやら・・・・しかしこれはこれで何となく微笑ましい。

石仏としての価値は兎も角、たまにはこんな石仏さんに出会うのもまた嬉しい・・・・。

撮影2012.2.22


旧室生村 下笠間阿弥陀磨崖石仏(再訪)

2013年09月17日 | 石仏:奈良

序でにと、昨日の上笠間磨崖仏から笠間川沿いに下ること約10分足らず、下笠間の磨崖仏にも再びお目に掛かって来た。

やっぱり、三脚なしの横着もんでは、何度撮っても碌な写真は撮れないけれど・・・

昨日の上笠間より笠間川沿いに県道を車で南下すること5~6分、右手に新しく出来た橋が見える。

前回来た時には確か建設中だった磨崖仏専用の参道橋、この奥の鬱蒼とした緑の中、苔生した大岩壁に刻まれて居る。

木陰は深く、おまけに風化が進んでいるのと岩盤を這う地衣類のため、像容もあまり定かではない。 

笠間川に面した切り立つ断崖に高さ2m足らずの二重円光背を彫り沈め、二重蓮華坐に立つ像高163Cmの阿弥陀如来を中肉彫りで刻み出す。

阿弥陀如来は来迎印を持つ立像で頭光には放射光を線彫り、穏やかな面相を一際引き立たせて居る。

光背脇には永仁二年(1294)の銘が確認され鎌倉後期の造立。

往古、この石仏の前には古刹が建って居たと言う・・・・。

撮影2012.1.7


旧室生村 上笠間阿弥陀如来磨崖石仏(再訪)

2013年09月16日 | 石仏:奈良

以前にもこのページで紹介した事の有る旧室生村、「上笠間阿弥陀如来磨崖石仏」、小原墓地まで行ったのだからと再訪して来た。

昨日紹介の小原墓地から笠間川沿いに車で下ること4~5分、最近出来た新道の橋を渡らず旧道を進むとすぐ看板が目に入り見逃す事は無い。

笠間川左岸こんもり茂った木立の根元、笠間川に面して大きく張り出した花崗岩崖に磨崖石仏が刻まれて居る。

石仏までは簡単に降りられるように階段がしつらえて有り、今も信仰篤い石仏だと云う事が頷ける。

岩面中央には高さ約2mの丸みを帯びた舟形光背を彫り沈め、下部には室町後期の特徴ある九弁の蓮華座を設け、中に阿弥陀如来立像を中肉彫りで刻み出して居る。

左右の壁面には蓮台に載る月輪内にそれぞれ「観音、勢至」梵字でが刻まれ、阿弥陀三尊を表す。

中尊阿弥陀立像は来迎印を結ぶ像高約1.6m、室町後期の天文三年(1534)の銘が確認出来る。

古くから伊勢に通じる街道筋にあって旅路の人々に西方浄土への導きをした石仏だといわれている。

撮影2012.1.7