愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

南山城村 大河原の十一面観音磨崖石仏/小阿弥陀磨崖(再UP更新)

2012年02月04日 | 石仏:京都

殆ど何も変わり有りませんが最近又訪れてきたので新しい画像での再UPです。

国道163号線を木津川沿いに東進すると、笠置のトンネルを抜け木津川に架かる2つ目の沈下橋を渡ると、南大河原の集落が木津川沿いの道路の両側に軒を連ねている。

橋を渡った正面が恋志谷神社で、恋の成就を願う女性が訪れる所と知られている。

 

神社前で右折し、道なりに5~6分、左側斜面に突き出した岩肌の、この磨崖石仏に出遭う。

巨岩は高さ10mに及ぶ大岩が上部で層を成し、崩れ落ちそうな気配も・・・

右側木津川提の竹藪や雑木が空を塞いでおり、昼なお暗い佇まいで石仏自身もかなり苔むしており、おまけに道路脇にあって車の泥はねなどがかかるのか、かなり土塵にまみれている。

 

それでも手向けられている花は新しく、注連縄なども張られていて信仰篤い石仏であることが解る。

山から突き出た花崗岩の表面に、高さ110cmの舟形光背を彫り窪め、像高95cmの長谷寺形十一面観音を半肉彫りしている。

天文3年(1534)の銘があり、室町後期の造立。

10年ほど前に訪れた時よりうんと見やすくなっていると思ったら、道路がアスファルト舗装に変わり、泥はねがなくなったようです。

一方、向かって右下部のちいさな岩には後刻だと思われる小さな阿弥陀如来立像が刻まれている。

小さな賽銭箱に半身が隠れてしまう程の像高凡そ30cm。

十一面観音が刻まれ、その後補刻されたようです。

撮影2012.1.31


木津川市 東山墓地の石仏

2012年02月04日 | 石仏:京都

JR木津駅南東約500m、住宅開発ですっかりむき出しになった鹿背山丘陵西斜面、新興住宅の頭越しにこの東山墓地が在る。

墓地は昭和初期、旧木津町街中に在った古い惣墓を区画整理のためこの地に移転したものです。

墓地中段、右側外れ斜面脇の棺台前には、四体も一列に並んだ受け取り地蔵??

こじんまりまとまって見えますが右端の地蔵は総高約2mと中々の大きさです。

左端、少しいかつい感じの地蔵さん・・・以前惣墓では「楊谷(やなぎだに)地蔵」と呼ばれて居たようです。

「楊谷(やなぎだに)」と云えば、この山城では眼病にご利益の在る寺と相場が決まっています。

そう云えばちょっと見慣れない特徴的な目をしています・・・・。

舟形光背の頭上に阿弥陀如来の種子「キリーク」を刻み、向かって右下に室町後期の永正14年(1517年)紀年銘がある。

隣には室町中期、明応三年(1494)の刻銘が鮮やかに残る葬堂の本尊であった地蔵石仏。

頭上、光背左右上部に二字づつの六地蔵種子を刻み込んで珍しく、軽く微笑むようにも見えます。

像高約1.2m、風化磨耗が進んでいますが室町後期、天文14年(1545年)の銘が確認できます。

光背頂部にやっぱり種字を刻んでいる。

最後に残った最大像高を持つ地蔵石仏は江戸後期の文化11年の造立。

一方墓地入り口に立つ六体地蔵と、その中央に立つ宝珠形円光背共々、一石で丸彫りされた長頭身地蔵石仏。

室町中期、文明六年(1474)の紀年銘があるようです。

脇に三体づつ並ぶ六体地蔵も室町期の造立。

洪水被害の多い地だったからこそこれだけ多くの石仏が作られたのだろうか・・、それでもまだまだその災禍に失われたのだろうけど。

撮影2012.1.24