愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

北国街道・板取宿、木の芽峠、二つ屋宿

2009年11月29日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

北国街道板取宿は近江・木之本から栃ノ木峠を越え南越前今庄へ至る越前側最初の宿場で江戸時代には番所も設けられていたようです。

往古平安時代から、畿内と北陸を結んでいたのは西近江経由の北陸道、それに対して北国街道は天正六年北の庄に封じられた柴田勝家が安土に赴く最短路として、栃の木峠の大改修を行ない東近江経由の北国街道として拓かれ、江戸の参勤交代や、お伊勢参りの最短ルートとして北国街道は大いににぎわったようです。

ここは福井県の嶺北と嶺南を隔てる南条山地の嶺北側にあり、板取宿と木の芽峠は日本の秘境100選にも選定されているように現在でも豪雪地帯として道路の冬季閉鎖が行れる処です。

しかし雪が無ければ国道365号線がこの旧宿場の真横をかすめて通過しており、この地がどうして秘境100選なのかといぶかしく思うほどです。それは勿論、この奥の山中にある木の芽峠を含めての事なのだから納得しないわけでもないのだけれど・・・。

R365号線脇に用意された駐車場に車を置き関所門の立つ石畳の上り坂を上ると左手に2軒の兜造りの萱葺き屋根住宅が見え、登り坂右手にもう2軒の萱葺き屋根民家が軒を連ねている。

現在往時をを偲ぶ建物はこの4軒のみと成っているが、しみじみ懐かしい郷愁を感じさせる風情はやがて滅び行くものの美しさと哀しさを充分にかもし出している。

この地はすでに昭和50年廃村になっているが新しく二家族がこの建物に住み維持管理などに当たっているという。

別に土産物屋さんがあるでもなく、案内人が居るでもなく、観光客も殆ど訪れないようでただただ静かなたたずまいに時間だけが過ぎてゆく。

この地の直ぐ脇を通る国道365号線をそのまま南進するとやがて栃の木峠、ここを越えるとそこはもう近江の地。

又板取宿の直ぐ南方にある今庄365スキー場の中を貫く道路(県道だが何号線かは解らず)をどんどん登れば旧北陸道が通じていた分岐点に差し掛かり左手にとれば言う奈地蔵を越えて木の芽峠に差し掛かる。

木の芽峠には1466年からここで峠の茶屋兼番人であった前川家が残っており、今もたった1人でこの家を守っておられる。

この道はそのまま道なりに進むとやがて栃の木峠でR365に合流する。

因みに木の芽峠は車での進入は出来ません。

一方、旧北陸道の越前側最終の宿場は二つ屋の宿。

ここは今庄365スキー場から旧北陸道を右に進むのだがここから車で旧二つ屋の宿場に下る事は出来ない。

旧二つ屋宿は今庄から旧国鉄北陸本線の軌道上に造られた県道207を走ること約10分弱、南今庄駅の直ぐ西、新道の交差を左折して山手に進む。

やがて見える集落が二つ屋の集落、集落を抜けるとやがて林道になるがそのまま1.5kmほど遡っていくと旧宿場跡の入り口と思しき名号碑と自然石に刻まれた地蔵に出逢う。

この地は戦後直ぐに豪雪の為今の二つ屋へ集落ごと離村し、現在全く建物は存在しない、ただ朽ち果てた日吉神社が残るのみでいかんとも哀しすぎる。

撮影2009.11.7(木の芽峠、言う奈地蔵は2008.7.5)

MAP(板取宿) MAP(木の芽峠) MAP(二つ屋宿)


天理市苣原、勧請場の地蔵磨崖石仏

2009年11月17日 | 石仏:奈良

あの天理市街から旧国道25号線を大和高原に進めると天理ダムの堰堤を真正面に見て一気に急坂を上りきると其処はもう別天地。

両側のなだらかな山の連なる谷間を進むと最初に出逢う集落が苣原。

集落の入り口辺りの勧請場へ登る旧道脇に2体の磨崖石仏が冬枯れの中に忘れ去られたように佇んでいるのが見える。

2体の石仏はいづれも斜面から突き出た石の表面に船形光背を彫り窪め、中に地蔵立像を半肉彫りにしている。

ここは周囲の村々から長谷や伊勢へと続く旧街道の峠道、旅の安全を願う地蔵さんだったのだろうか??

共に像高、約cm50cm、同じ場所に全く彫り違う地蔵が並んでいるのということは、この場所が何か特別な意味を持つ場所であったのかもしれない。

すぐ隣に村の入り口を守る神聖な勧請場が有ることでもそれを伺うことが出来る。

撮影2008.1.6

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天理市佐保庄 旭寺跡観音石仏

2009年11月13日 | 石仏:奈良

単体として聖観音石仏を見るのはこれが初めてかもしれない。

如意輪観音や、馬頭観音などはは民間信仰のそれとして、良く村々の辻堂で見かけたりはするものの、三尊形式の一体や西国33箇所などの石仏以外で聖観音石仏というのは記憶が無いのだが???。

いにしえの奈良を訪ね歩く山之辺の道に平行して走るR169号線、天理市街を橿原方面に抜けて暫く行くと三昧田、佐保庄という信号に出逢うがその左手に連なる集落が佐保庄でこの石仏のある旭寺跡はその北端にある。

民家と民家の間の奥まったところに墓地だけがあって中央の奥の小さな覆い屋にこの石仏が一体だけ安置されている。

端正な顔立ちで、頭上に化仏を頂く聖観音で高さ約130cm、像高は95cm、天文二十三年( 1554年)、室町後期の像立。

各夜覚円の名が刻まれており、奈良と初瀬を隔夜に修業した僧が発願したものとして知られています。

又この集落の中ほどの辻には優しい顔立ちが印象的な「関の地蔵」と呼ばれる地蔵石仏があって、六字名号板碑や上部を欠損した阿弥陀石仏が覆い堂のなかに安置されている。

撮影2008.11.9

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伯備国分寺石仏

2009年11月05日 | 石仏:その他

いつごろ誰が何のために刻んだのか??石仏といえるかどうかさえちょっと疑問な程の異形ぶりです・・・、ここは鳥取県倉吉市の社小学校。

石仏だと聞かなければとても石仏だとは信じがたい顔つき、こんな自由奔放な表現の石仏が?信仰の対象とされていたとは思えない。

この石仏は明治末ごろ近くの伯耆国分寺跡から出土したといわれていていて、校門を入った前庭にさも子供の卒業記念作品よろしく置かれているのが微笑ましくもある。

石仏は5体で、高さ最大で85cm、幅は約30cmで、一体以外は方形の輝石安山岩前面に半肉彫りで刻まれている。

像が刻まれている石材は、伯耆国分寺の塔基壇に使用されていた石材が転用されたものだといわれていますが、制作年代や作者は全く不明。

写真でも見ても解るように一種独特、異様な顔つきで、薬師三尊や羅漢像ではないかという説もあるようですが、最大の像など不埒な僕には、まるで男根を抱えているようにも見えたりする(そんな事はないか??)。

一説には寛政十年(1798年)5月から7月に伯耆を訪れていた木喰上人が造ったものだと言う説も有るらしいが確証はないという。

この伯耆国分寺石仏にしろ、北条五百羅漢石仏にしろ、石仏の域を超え、かの岡本太郎流に言えば「芸術は爆発だ」の感を強くする。

撮影2008.9.21

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大岩山日石寺・不動明王磨崖石仏

2009年11月03日 | 石仏:その他

富山方面に行ったら石仏ファンにはどうしてもここは逃せない処。

以前からどうしても行きたかったかったのですが、今回立山の巨杉を訪ねると同時にこの地も訪問することにした。

富山市内で宿を取って朝一番の訪問となったここはあの立山町の隣、上市町大岩日石寺。

JR富山駅近くのホテルから約30分、立山連峰の裾野にあって「大岩のお不動さん」と呼んで親しまれている余り聞きなれない真言蜜宗の総本山だそうです。

長閑な里山、大岩集落のドン突き、山裾の斜面を拓いて境内があって、一気に車で境内の駐車場にと車を登らせる。

総本山にしてはさほど広くない境内から一段上に上ると左手正面に鉄筋コンクリート製の大きな本堂?(不動堂)があって、その内陣の奥壁にこの磨崖石仏が刻まれている。

現在もしっかり信仰の中に有って、どこかの観光寺院のように拝観料を取るでもなく又写真撮影お断りでもなく実に嬉しいが磨崖仏の前には大きな護摩壇があってその分室内は薄暗く、とてもストロボなしでの撮影は無理、勿論このような信仰の場で三脚を据え付けるほど無粋でもないので写真の出来は期待できない。

寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうぎ)が北陸伝道の折、一大巨岩を発見、不動明王ほか四体の尊像を刻みつけたのがこの寺の開基と伝えている。

薄暗い上に、まさに信仰の対象としての石仏ゆえそれほど真近に近づく事も出来かねるが、その迫力は並ならぬものが有る。

凝灰岩の岩山に突き出た大岩に、高さ6m幅11m奥行き2.2mの龕を穿ち、上前方に約20度傾斜した面に五体の仏たちが彫られている。

中尊不動明王坐像は特に見事で、半肉彫り、像高3.13m、大きさもさることながら、ずば抜けた迫力で見る者を圧倒させる力強さがあって今でも脈々と息づいているようにさえ感じられる。

脇侍の制多迦童子、矜羯羅童子は共に像高2.14m、あって、この不動三尊が平安後期当初のものであるといわれ、間にある阿弥陀如来座像と行基菩薩坐像は後の追刻だと言われています。

磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されていて風化磨耗も少なく、石仏としての不動明王では規模といい、その出来栄えの見事さといい、最高のものだと言えます。

ただ惜しい事に室町時代に上杉勢の兵火に遭い、また昭和42年(1967年)に本堂が火事に遭ったためか?、向かって左の2体、制多迦童子像、行基菩薩坐像は共に損傷が激しく判然としない。

昭和49年には大岩日石寺磨崖仏として国の重要文化財に指定されている。 

撮影2009.11.1

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