先日にも紹介したこの稲八間は「山城国一揆(くにいっき)」の拠点となったところ、又国人(こくじん)が集落裏手丘陵上に在った稲屋妻城に立てこもり徹底抗戦、二百人が討ち死にしたという哀しみの歴史を秘めた地でも在る。
そんな歴史を秘めた北稲八間墓地には地元で「逆修の碑」と呼ばれる十基の五輪塔と地蔵石仏が佇み今も尚、香華の絶えることはない。
墓地斜面中段の左手脇、木立の下、左右に五基づつの五輪塔を置き中央に約1mばかりの地蔵石仏が配されている。
地蔵石仏は定型地蔵、良く整った像容に室町後期の天文六年(1537)の銘を持つ。
地盤がゆりの課少し傾いていますが北大和、南山城方面でよく見かける切れ長の狐目を持っています。
頭上、月輪内に地蔵種子のカを刻み込み、光背上部に僅かながら朱が残っています。
一方こちらは墓地入り口右側小石仏集積に置かれた地蔵石仏・・・・、像高1m足らずと前者同様
天正銘が見えることから「逆修の碑」より少し後の造立、同じく定型地蔵ですがやっぱり略式化が進んでいる様に見受けられます。
撮影2012.1.31