愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

熊本市植木町  滴水(たるみず)東屋敷の板碑

2012年11月11日 | 石仏:九州

今日からまた暫く撮り貯めた石仏をUPしていきます。

去年の暮れ九州を回った時にUPするのを躊躇していて、このままお蔵入りさせるのも忍びないと思ったので僕の防備録のつもりでのUPです。

巨木のページにUPすべく大公孫樹の撮影に行き何の予備知識もも無く石仏の出遭った板碑石仏。

石仏と巨樹、どちらも民俗信仰の対象とされ、同時に信仰されている事が多いのですが、大公孫樹は「滴水のイチョウ」として熊本県指定天然記念物、またこの板碑石仏は「滴水東屋敷の板碑」として旧植木町指定文化財となっているようです。

JR鹿児島本線植木駅より北へ約2km地点、植木バイパス鹿南中学校近くの滴水集落公民館前の一段高くなった台地にそびえています。

ここは竜雲庵というお寺があった場所といわれ、小さな阿弥陀堂も残って居ます。

板碑石仏は大公孫樹根元に小さな五輪の残欠と共に祀られ、高さ約1.7m、幅90Cm足らずの自然安山岩を板石状に整へ、肉眼では解りづらい程細い線で緻密に三像と銘文が刻まれている。

 

写真が良くないですが、上部中央には、殆ど像容も定かでない蓮台に載り、二重光背の阿弥陀坐像。

右に逆修繕根、左に以奉建立阿弥陀堂竜雲菴願主藤原永家公当住持比丘・・・・・・・・享禄三年庚など刻まれる。

阿弥陀下方左右には武士姿と姫姿の男女像が線彫りされている。

向かって右手男子像、羽織袴に侍烏帽子の正装・・・・、

向かって右も十二単で正装の女子像、供養者夫婦であろう、鬼宿小佐井掃部助藤原永家敬白と刻まれ、天文二白癸巳の文字が見える。

天文2年(1533)室町後期戦国期真っ只中・・・・、やっぱり支配階級の武士たちはこんな格好をしてたんだ・・・。

いずれ大公孫樹は巨樹のページにてUPしますが・・・・。

撮影2011.12.18


佐賀市 無量寺の六地蔵石幢

2012年03月30日 | 石仏:九州

こちらは偶々佐賀県庁近くの国道264号線を走っていて見かけたものです。

県庁から東へ約1km、国道264号線沿い北側に有る白壁土塀に囲まれた無量寺山門、両側に建つ六地蔵石幢です。

石竿は角柱ですが地中まで単体で埋まっています。

向かって左側に建つ六地蔵石幢・・・・銘は刻まれていますが紀年は確認できません。

こちらは右側の六地蔵石幢、円形台座に円形笠石、その上に宝珠 、総高約2m強。

向かって左の六地蔵・・、像高約35cmばかり、ここでも深く刻み出し丸顔。

こちら向かって右側・・・、全く同時期、同作者の物だと思われる像容。

撮影2011.12.17


佐賀県吉野ヶ里(よしのがり)町 妙雲寺六地蔵石幢

2012年03月29日 | 石仏:九州

先日紹介した伊賀鍛冶屋墓地の六地蔵石幢のスタンダードなものは、九州佐賀方面に数多く見られ、佐賀型とか肥前形六地蔵石幢と呼ばれている。

九州方面に出かけたとき偶々2~3見かけ、撮影してきたものです。

吉野ヶ里遺跡の発見で一躍有名に成った吉野ヶ里町、遺跡からは2~3km南方、吉野ヶ里幼稚園傍の妙雲寺門前で見かけた六地蔵石幢です。

<向かって左側の六地蔵石幢>

門前には左右両側に一基づつ建ち、畿内で良く見掛ける灯籠形の六地蔵石幢とは少し趣を異にしている。

<向かって右側の六地蔵石幢>

竿石は角柱の二本継ぎ、その上に丸い台座、円筒形の龕部に六地蔵、笠石は六角で上には宝珠を冠せてある。

現地説明板に拠ると向かって右側 の石幢は明応10年(1501)室町中期の造立。

それ程古くも無いが、深く彫りだされて居るにも係わらず、顔部は溶け出したかの様に爛れています。

柔らかい阿蘇凝灰岩の石質のせいなのでしょうか??

向かって左の石幢は文亀三年(1503)、右側のものの2年後に造立。

こちら見事に六地蔵が残っています。

像高40cmばかり、丸彫り程に深く彫られた素朴な地蔵が見事です。

この感じは畿内で見る事は出来ないものです・・・。

撮影2011.12.17


鹿児島市五ヶ別府町 川口の「田の神」

2012年01月19日 | 石仏:九州

九州気まま旅の最終日、鹿児島市郊外の山肌を削って新興団地が建ち並ぶ谷間、鹿児島市内より薩摩半島を横断して東シナ海沿岸部へと抜ける県道35号線沿いの田圃脇で見かけた「田の神」です。

谷間に広がる田圃を背にして誇らしげな土地改良工事の大きな石碑と居並ぶように、やっぱり顔を潰され哀れな姿で佇んでいます。

この画像だけを見てると長閑な里山風景、それでももう間際まで都市化の波が押し寄せ、県道はけたたましい車列がひっきりなしに続いています。

県道脇に有る五ヶ別府郵便局の手前の信号を左折、川口公民館と道路を挟んで対峙するかの様な田の神は修行僧の像容を持ち磐に腰掛けている。

何処の田の神でも同じ様に頭には甑簀(こしきす)、右手にメシゲ、多分お碗でも持っていただろう左手は案の定欠損。

正月を真近に控え真新しい注連縄が掛けられて居ますが、顔をなくした「田の神さぁ~」は一体どんな心境なんだろう??

隣に立つ小さい石碑に、安永十年(1781)二月二十四日川口村中の銘が在り、同時期の建立だと言われています。

裏側から見ると甑簀(こしきす)をかぶった姿が男性の陽物の様にも見えるところから、「田の神」は五穀豊穣と共に子孫繁栄も願って信仰されたものだと言われているようです。

撮影2011.12.21


肝付町 (旧高山町) 野崎、塚崎の田の神

2012年01月18日 | 石仏:九州

大隈半島の中央部、肝付町に有る巨木、「塚崎の大楠」の撮影にこの地を訪れたまたま見つけた三体の「田の神」。

志布志湾側から鹿児島湾方面に向かう県道539号線、併存する波野小中学校を通り越して約1km、進行方向の左手、集落道の入り口辺りに「野崎の田の神」への案内板がありました。

集落道に入って直ぐの二股を右、山裾の竹藪斜面にそれと直ぐにわかる二体の「田の神」が祀られています。

大きな説明板の傍らに像高約1m程、向かって右側の像は大きく顔を抉られ、左側の像にも傷痕が残っています。

顔を抉られた向かって右は寛保三(1743)年の造立。

向かって左は明和八(1771)年の造立、共に長袖、長衣の着流しで姿で長い鍬の柄を立て持つ立像。

こんな「田の神さぁ」にも廃仏稀釈のとばっちり?、坊主憎けりゃ今朝まで憎いの類・・・・。

鹿児島県の民俗文化財指定。

こちら「野崎の田の神」より約2kmほど西進、塚崎の大楠近くで探し訪れた「塚崎の田の神」。

溜池の堤防奥に水神の石標や、石祠などと一列に並べ祀られています。

端正で出穏やかな立像・・・米俵の上に立って田圃を見つめているのでしょうか??

頭には甑簀(こしきす)、右手にメシゲ左手には大盛りのお椀、腰には瓢箪。

このような着流しスタイルの「田の神」は、ついぞこの地域で見た二体、いや三体だけでした。 

同じ目的の「田の神」で有りながらどうして、こうも像容に違いがあるのだろう??、それが「田の神」の面白さなのかも知れないけど・・・

撮影2011.12.20

野崎の田の神

塚崎の田の神


南大隅町根占川北  久保の田の神

2012年01月17日 | 石仏:九州

鹿児島県大隅半島最南端部、鹿児島湾沿いに有る鄙びた田舎町。

市街地の有る海岸線から5分ほど山方向に進んだ鬼丸神社へアコウの巨木を撮影に行き、ラッキーにも出遭った「田の神さぁ」

県道562号線川北久保から少し北寄り入った農道脇、神社の杜手前の空き地にこのふっくらまん丸の「田の神さぁ」が祀られて居ました。

風化のためか破壊のためか殆ど顔容も定かでは有りませんが、それでも緩んだ口元は笑顔の表情です。

二重台座基壇には格狭間(ごうはざま)を設け案内板に拠ると「団子と餅」?を意匠化し、僕には、まるで豊作を祝って米俵の上に載る大黒さんの様にも見えたりもしまが・・・。

頭上には決まり物の甑簀(こしきす・シキ)を被り、右手にメシゲ、左手にスリコギを持ち、総高約150cm、像高約80cm、田の神像としては中々立派な出来栄えです。

享保十六年(1731)の銘を持ち、県の文化財に指定されています。

一方鬼丸神社の鳥居前で見かけた仁王さん、腰から下は無く、腕も捥ぎ取られています。

鳥居を潜ると又も二体の打ち捨てられたような仁王さん。

境内石段脇には衣冠束帯、神官風で仁王顔のこんな石像(石神)にも出遭いました。

こちらは神官風のためか?ほぼ原型を留めているように見受けられました。

このような独得な石造物を見るにつけ、薩摩には相当豊かな石造文化が存在していたのだろうが?良ければ良いほどに激しく破壊され地中の瓦礫となっているのだろうと思う・・・・・。

こんな大隅半島の果てまでも廃仏稀釈の波が押し寄せた事にちょっと驚嘆。

今の世の中でも何やら似たようなことが姿を変え、そうすることが恰も正義で有るような顔で進行しているような気がする・・・それは後で気づいても遅いのに。

撮影2011.12.20


霧島市隼人町 宮内の田の神

2012年01月16日 | 石仏:九州

鹿児島神宮、神田脇佇む躍動感のある田の神さぁ・・。

鹿児島県は大きく鹿児島湾(錦江湾)を挟んで大隈半島と薩摩半島に分かれるが、その深く抉れた湾の最奥部に現在霧島市と成った隼人町がある。

日豊本線隼人駅北方約2kmの山裾に鎮座する鹿児島神宮は創始を神武天皇の御世とする古社、大隈国一宮として知られ大隅正八幡宮とも称される。

宮内の田の神はそんな鹿児島神宮、裏参道脇に在る神田を見守るように置かれ、台座共に凝灰岩の一石丸彫り、像高約85cm、今にも動き出しそう・・・。

飯げ(めしげ)とお椀をそれぞれの手に持ち、今にも「田の神舞」を舞おうとしているかのように作られています。

まん丸で大きい膝、大きく突き出した丸い腹、翁面に似せたユーモラスなまん丸顔・・・おまけに顎鬚まで付け・・

背面には大きく銘が刻まれ、「奉寄進 天明元辛丑天九月吉日 正八幡宮 田神 沢五納右衛門」と読める。

今から約200年前の1781年建立。

鹿児島県の民俗文化財に指定され「田の神」石像を代表する一つなのだろう。

撮影2011.12.19


姶良市下名 西田の田の神

2012年01月15日 | 石仏:九州

前回と同じ姶良市に在る「田の神さぁ」・・・・木津志の山中から駆け下ること約約10km強、山中からちょうど平野部に出てきた辺り、山田小中学校が建ち並ぶ少し南寄り・・・・・

西田公民館脇の道路沿いにこの「田の神」は石祠や良く解らない石像と共に立っています。

田の神舞いの姿を模したと云われるこの像は、自然石を背負う形の半肉彫りでベンガラ彩色を施され、文化二年(1805年)の銘を持ち、姶良市の民俗文化財に指定されています。

右手にメシゲ(杓子)を持ち左手は肩脇にかざし襷を掛け、コミカルな顔立で踊っているようにも見受けられます。

いかにも土俗臭が強く、農民の大らかさをそこはかと感じることが出来るような気がする。

傍らの石像は神像のようにも仏像の様にも見えますが・・・、でも蓮座に座ってる様だけど・・・・これも「田の神」、違うよなあ。

もう一基、石祠の中には・・・・

阿弥陀を思わせるこんな石仏、両腕共に二の腕から先はなく、石仏脇には恵比寿面??

撮影2011.12.20


姶良(あいら)市 木津志(きづし)の田の神

2012年01月14日 | 石仏:九州

畿内に住む僕達には聴き慣れない鹿児島県姶良市は薩摩半島の付け根辺り、鹿児島湾の北端西部寄りに有る街、背後は豊かな山並みに囲まれ、鹿児島市と霧島に隣接しています。

市街を外れ約30分、山深い寒村感の強い木津志地域に入るが、この地域の何処に「田の神」が有るのか全く解らない。

周りは山襞、谷間を利用した水田が在り、三々五々民家が軒を並べる里山風情、そんなこんなで、いつものように人を探す。

たまたま通りかかったお年寄り、「近くに田のかんさぁは居ませんか??」と聴くなり家の庭に居るから良かったら見て行ってと・・・。

家の裏庭に案内して貰い出遭った「田の神」がこれ・・・、像高50~60cmばかり、頭上には甑簀(こしきす)、これは何の姿を模したものだろう??

腰に帯刀?、手には別製の飯げなどを持たせるつもりか??何もない・・・。

衣装や右腕下に見える宝珠は?、いったい何・・・・。

決して良い出来とはいえない無骨な面相ですがどこか親しみの有るお年寄りって感じです。

田の神は集落共同体で信仰するものも有れば此処のお宅の様に個人で建立信仰するのも多いとか・・・。

でえ~、本題の木津志の田の神はこちら、城野神社(じょうのじんじゃ)手前、山田を見下ろす農道脇の石積み上に祀られて居ます。

しゃがんで顎を突き出し豊作を願うように天を仰ぐ独特な姿、頭上には大きな甑簀(こしきす・シキ)。

正月を目の前にして首には真新しい大きな注連縄・・・・、台座共に凝灰岩の一石丸彫り、総高約1.3m、像高約1.0m。

日照りに雨を待ちわび、空を仰ぐ農民の姿を模したものでしょうか??

その顔付はいかにも素朴なお百姓さんって感じです。

いつものように一寸失礼、左手は二の腕から下部が欠損、右手にも不自然な傷痕が残り持ち物は不明・・・。

銘文はなく、いつ頃の造立であるかわかりませんが、不自然な傷痕がもしも廃仏毀釈の所為だったとしたら、それは余りに哀しい。

姶良市の民俗文化財に指定されています。

撮影2011.12.20


薩摩川内市入来(いりき)町 田の神様(たのかんさぁ)

2012年01月13日 | 石仏:九州

薩摩川内市入来(いりき)町は川内川上流域の支流、樋脇川に沿って拓けた里山地域ですが、入来院氏の清色城(きよしきじょう)本拠地としても栄え、中世からの古い街並みが残る地域は国の史跡に指定されているようです。

そんなことも知らずにこの入来は「田の神」の密集地域だと聞いて居たので探したのだが道成りに見かけたのはたったの二体。

別に急ぐ旅ではないはずなのに、慣れない土地では妙に落ち着かず、そわそわ先を急いでしまって・・・・。

国道328号線と県道42号線が交差する「日の丸交差点」を右折して直ぐの42号線山手側、道路左脇の田圃を背にし、田の畦と同じ高さまで石積をした上に、この「田の神」が祀られて居る。

自然石を深く彫り込み厚肉の童子様「田の神」を彫り出している。

右手にメシゲ、左手の持ち物は良く解りませんが摺小木(すりこぎ)かも?、短いモンペ?を履き、赤い彩色が見られます。

明治二年三月吉日の銘が有りますが??顔が潰されたような痕も見えたり??

明治2年と云えばまだ廃仏毀釈中、そんなときに建立して即座に顔を潰されたのだろうか??、石仏でも有るまい「たのかんさぁ」、一寸思いのたけを聴いてみたい。

42号線を道なりに暫く走るとこんな「田の神さぁ」・・・看板には天貴美(あまきび)の「田の神」の文字。

前のと殆ど同じ形状のようですが??

殆ど泥の塊のように崩れていて、さっぱり解りません。

撮影2011.12.19

中須の田の神

天貴美(あまきび)田の神

薩摩川内市東郷町  田の神様(たのかんさあ)

2012年01月12日 | 石仏:九州

九州南部、薩摩半島や大隈半島には以前から「田の神さま(たのかんさぁ)」と呼ばれる土俗臭豊かな石像がたくさん有ると言う事は以前から良く知っていて、これらを訪ねることも今回の気まま旅の目的のひとつにしていた。

巨樹や磨崖仏を巡りその途中途中にあるだろう「たのかんさぁ」に巡り遭えたら良いなあと言うほどの軽い気持ちで、余り下調べもしないままに出かけ帰ってから大後悔、近場まで行って居たのに殆ど出遭わないで帰ってきたことに気付いた。

後悔先に立たず、どうやらまたまた薩摩地方までの長距離を走るはめに成りそうです。

「田の神」は幕藩時代島津氏領内であった九州地方南部の薩摩、大隅、日向にだけ見られ、その像容もバラエティーに富み、コミカルなものや大らかな物も多く、五穀豊穣、子孫繁栄などを願う気持ちが良く伝わって来る。

明治の廃仏毀釈ではまさかこんな石像までは餌食には成らなかっただろうと思って居たが・・、そうでも無かったようで顔の潰された「たのかんさぁ」にも何体か出遭った。

むしろ僕は野面の地蔵などが廃仏の標的になり農民はその代償として「田の神」信仰に心を傾け、造立も急激に増えたのではないかと思っていたのだが??。

薩摩地域での初日は薩摩川内市内のホテルから・・・。

市内郊外の東郷町で磨崖仏の撮影を済ませ、市役所支所にイラストマップでも有るかと問い合わせるが余り要領を得ず、2~3口頭でありかを聴き取り、敢えず現地までと走る。

地理不案内、初めての地域では右も東も解らなく、この道の先が何処に続いて居るのかさえ解らない手探り状態・・・、これが非常にまどろこしく、つい近場に居るのに大事なものを見逃し勝ち。

東郷町石堂集落センター近くで出遭った親切な叔母さんに同乗して貰い出逢った、僕にとって最初の「田の神」はこれ、なにやら真新しく、まるで子供の玩具の様で意には染まないけど・・・

説明板に拠ると平成10年10月、地域のシンボルとして10体の「田の神」を建立したそうです。

真新しく、一寸有難味には欠ける気もします。

陽物?を掲げ持ち、なにやら嬉しそうな・・・、五穀豊穣と共に子孫繁栄も祈る明日香の勧請縄にもどこか似通うような・・・胸に掛けられた真新しい藁苞( わらづと)は収穫の感謝の印。

ほんの直ぐ近くに昔ながらの「田の神」が在ったのを帰ってから知ったが後の祭り。

宍野の「田の神」より約5分、石堂集落辻奥にあった石堂の「田の神」、あいにく道路工事中で如何も撮影し難い状態でした。

これは所謂「旅僧型」?と呼ばれる田の神さぁ・・・左手に飯椀・・・

甑簀(こしきす・シキ)を頭に被り、多分左手には飯げ(めしげ)と呼ばれる杓子をもっていたのだろうが??断裂して欠損、鼻柱も欠けています。

撮影2011.12.19

宍野の「田の神」

石の堂田の神


南九州市川辺町 宝光院跡の仁王像

2012年01月11日 | 石仏:九州

前回紹介した「清水磨崖仏群」より次の目的地に向かう道筋、集落道入り口に立つ曰く有り気な仁王像を見かけた。

傍らに立つ説明板を見ると例に洩れず廃仏毀釈で廃寺となった宝光院という寺の遺物で有るという。

このまっすぐに伸びる道はかって宝光院の参道だったのだろう・・・・、現在田畑の中を行く田舎道にすぎないけれど。

像高共に2m余り、顔は潰され両腕を署・ャ取られ、「道切り」宜しく佇んでいる。

向かって左、顔を潰され阿形だか吽形かも解らないけど・・・通例に従えばこちらは吽形仁王像・・、両腕もかたから先を破壊されている。

片やこちらは向かって右手阿形の仁王像・・・・各の如くの痛々しさ。

白く見える地衣類がまとわり付いていて、いかんとも見るに忍びない。

宝光院はこの地を治めた川辺氏の菩提寺とされ、西暦1200年頃の平安末期に創建された真言宗の大寺だったと伝える。

明治二年廃仏廃毀釈で廃寺となり姿を消した。

これより少し先、県道脇にはローカル色豊かな石塔群。

直ぐ目の先に見える清水小学校付近から発掘されここに並べられたようです。

破壊された仁王像の大きさや、その丁寧な造りから宝光院の歴史や規模が窺われる。

ちなみに三日間走りまわった薩摩では、何処でも見かける地蔵や小石仏の類には一切お目に掛からなかった。

見かけたのは薩摩地域独特だと言う、あの「野の神さぁ」ばかり・・・・。

撮影2011.12.21


南九州市川辺町 清水(きよみず)磨崖仏群

2012年01月10日 | 石仏:九州

此処には当初から川渕の岩壁に彫り刻まれた磨崖仏だけで、付帯寺院やお堂の類は無かったのだろうか??

この磨崖に隣接する市の公園やキャンプ場施設には「岩屋」の文字が・・・、しかし何処を調べてもそれらし記述は見つからない。

何かそれらしき宗教施設が在っても良さそうだけど・・・此処もまた廃仏毀釈の波に飲まれたのだろうか??

薩摩半島南部、南九州市川辺町はなだらかな山裾に囲まれ、師走の中旬と言うのにここ、万之瀬川沿いの遊歩道には未だ遅い紅葉が残っていた。

此処はマイナーな磨崖仏群と言う仏教遺跡にも係わらず、余りにも環境整備が行き届き過ぎ、いつもは山中をほっつき回って野晒しの磨崖石仏と対面している僕にとっては拍子抜け?明らかに感激は少なくどうもしっくり来なかったが・・・・。

万之瀬川が大きく迂回する右岸に屏風のように屹立する溶結凝灰岩の岩壁に五輪塔や宝篋印塔、梵字、仏像など約200基ばかりが刻み出されている。

平安時代から明治までの永きに亘り、刻まれ続けたと言う梵字仏や五輪塔群はなぜ、この地のこの場所に刻まれ続けて来たのか??納得させられるその説明がどこにも見出せない。

此処がそれらを刻み続ける特別な場所であったに違いない筈だが???

そそり立つ岩壁は高さ約20m、幅400mにも及び、向かって最右翼には十一面観音立像。

廃仏毀釈後の明治28年、旅僧であった吉田知山が刻んだと言う・・・・、像高2mにも及ぶ舟形光背を持つ半肉彫り磨崖石仏、しかしどこと無くアンバランス。

当時もう廃仏の波も収まっていたのだろうか・・・。

続く左壁面はこんな感じ・・・下部jから五輪塔、板碑群が処狭しと刻まれ、その上部に一際大きな四体の梵字仏。

遥か仰ぎ見る岩壁上部には直径約1.7mの月輪内に大きく薬研彫りされた梵字仏。

弘長四年(1264)、鎌倉中期の造顕、向かって左から「カン(不動明王)」、「ケー(計都星)」、「バイ(薬師如来)」と並ぶが、当初は薬師を中尊にしてもう二体がが刻まれていたようですが、現在あと形も無く剥落しています。

因みにこの「月輪梵字仏」は大きさ、字の美しさで日本を代表するとか??。

次いでは「三大宝篋印塔」と呼ばれ、定規でも当てたかの様な直線で岩壁に大きく線彫りされています。

岩肌を三面の方形に整え、各方形内に塔高2mばかりの宝篋印塔を刻みだす。

中央右手に墨書の刻銘があり、鎌倉後期の永仁四年(1296)、領主の関連女性供養のため刻まれたものと考えられています。

いたるところの岩壁には陽刻五輪塔や塔婆の類・・・、これらは殆ど室町期の像立。

少し間を置いた単立岩面に刻まれた巨大な線彫り五輪塔。

この磨崖群内最古最大のものだとされ平安後期~鎌倉初期の造立、塔高約11m、幅5mと、その規模は日本最大と云われています。

空輪の上部には月輪に大日種子の「バン」を刻み、五輪それぞれにはキャ・カ・ラ・バ・ア(空・風・火・水・地)と梵字刻んでいる。

現在肉眼では確認出来ませんが周りにはお経だと思われる墨書梵字が5000文字以上も書かれていたようです。

この磨崖仏群は万之瀬川を挟んだ西岸、東面する岩壁に刻まれており、西方浄土の地理的条件を満たす場所だったのだろう・・・。

それにしても何か物足りず、すっきりしないのは、これだけの仏蹟にも係わらず、確固たる説明が全くなされていないからかも・・

撮影2011.12.21


鹿児島市 清泉寺跡磨崖石仏群-2

2012年01月09日 | 石仏:九州

清泉寺跡磨崖石仏群は小高い斜面を挟んで大きく二ヶ所に分かれる。

あの重い空気の林から逃れ細い道成りにだらだら歩くと、新しく整備された川沿いにだだ広い空間と言うか空き地・・・・・。

此処も廃清泉寺境内の一部だったのだろう。

空き地はなだらかな斜面の緑を背、谷川の流れを前にして在り、僕がこの地に着いた時、それらしき5~6人が何やら真言らしき文言を脇目も振らずに唱えているのに出遭った。

その目の先、流れの向こうの川岸岩壁には一対の金剛力士(仁王)像、中央には短冊形の彫り込。

向こう岸に行くのには又車を移動して廻り込まなければ成らないようなので・・・・、ちょっと無理して谷川の流れを渡り向こう岸に辿りついた。

こちら向かって左手、吽形仁王・・・

直立する崖壁に深い舟形光背を彫り込み、目一杯大きく仁王像を刻み出している。

力強く刻み出したその像高は2.5m・・・・。

向かって右側には阿形仁王像・・・

吽形仁王にやや向き合うように立つ岩壁に同様同高で刻まれ、阿形は左手、 吽形は右手に金剛杵(こんごうしょ)を持つ。

両像共に力漲る顔容に比べ体躯は貧弱でなんとなくアンバランス。

貞享元年(1684)江戸時代前期の造立。

こちら広場背後?斜面崖に刻まれた磨崖石仏、遥か頭上高く、とても近づくには危険すぎてどうしようも有りません。

この右手側にも、もう一体刻まれているはずですが?木陰に隠れてしまっているのか確認出来ません。

写真の像は像高約2m、「妙有大姉像」と呼ばれる、髪を逆立てた甲冑姿の天部像。

少し奥の斜面には宝剣磨崖と呼ばれるこんな物も・・

この清泉寺もまた廃仏毀釈の波に飲まれて廃絶、薩摩地域の寺は悉く跡形も無く消え果てたのだろうか??

どこか近い隣国でも同じような光景に出会ったような・・・・、新しい時代は過去の否定からしか始まらないのだろう??

哀しい現実です。

撮影2011.12.21


鹿児島市 清泉寺跡磨崖石仏群-1

2012年01月08日 | 石仏:九州

馬鹿ナビにピンポイントで目的地の清泉寺を打ち込んで行ったつもりなのだが・・・、途中国道でこの磨崖への案内板を見かけ急遽案内板通りにハンドルを切った。

国道225号、旧谷山市街を抜けJR指宿枕崎線と平行南進、向原の信号を越えると右手脇道角に案内板、なだらかな斜面の住宅街を抜け、谷を下り切るとそれと解る表示板が有り、何台か停められる空き地・・・・・。

駐車場前の道を挟んで、水場に突き出した大岩にはこんな磨崖石仏・・・・、月輪内にもう殆ど崩れ果て、像容も定かでない坐像石仏。

清泉寺廃寺の石垣だと思われる石積脇を少し進むと鉄柵の扉があって「清泉寺跡見学道路入り口」の文字・・・・・、鍵は掛けられて居らず自由に入れますが奥はどうにも怪しい雰囲気です。

一歩中に進むと冬場とは言え、夏草がそのまま立ち枯れ、どうにも空気が淀んで長居を拒むような空間です。

案内板の説明によると、この地にあった清泉寺は飛鳥時代に来日した百済の僧「日羅上人」が開祖、時代は下って島津家の庇護を受け大いに栄えたそうですが、明治の廃仏毀釈により、廃寺となり現在の姿になったようです。

片や、領民から「大和さあ」と呼び慕われた「島津大和守久章」が正保二年(1645)三十歳の若さで無念の自害をし果てた処としても知られているようです。

谷川の細い流れに沿って進むと崖壁には、こんな小さな磨崖仏・・・、屋根庇状の切り込みの下、深い舟形の龕に彫り込み、中に如来型坐像を刻みだす。

風化のためか毀釈ためか?最早像容も定かでは有りませんが「小阿弥陀仏」だと記されています。

「建長三年」(1251)の銘が確認された鎌倉時代の像立。

 

傍ら、流れの石上には空を睨み続ける哀れを誘うような首だけの仁王・・・・

その隣、羊歯類の絡まる崖壁には大きな磨崖仏。

像高2.7m、定印を組む阿弥陀如来だと云われていますがこの始末、顔は潰されおまけに羊歯がまとわり付いています。

清泉寺の本尊とされ、開祖「日羅上人」の作と伝えていますが鎌倉前期の像立、やっぱり哀し過ぎる姿です。

これでも僕は羊歯類を大分取り除いた後撮影した。

奥に有る「島津大和守久章墓」へと進む通路。

傍らの崖に刻まれた墓石・・

やっぱり顔を潰され苔生した磨崖双石仏。

荒れ果てたままに任せた「島津大和守久章墓」

それでも手向けられた花は枯れ果てるでもなく真新しかった。

いくら墓地慣れしてるとは云え、この地の空気には馴染めなかった。

撮影2011.12.21