愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

明日香の人頭石

2007年06月12日 | 石塔:石造物

しゃくれた顎に、高い鷲鼻、ひと目見てこれは日本人の顔じゃないとわかる面相。


この石があるのは明日香の隣町、高取町の光栄寺、庫裏前の庭園の隅にひっそりと置かれている。



ここを訪れたのはもう随分時間がたつ、昨年の春浅き頃。


 光栄寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、このような石造物が元々あるような寺院ではありません。



背後からの画像です。


小さな山門を入って境内を見渡してみてもそれらしき物などありません、ちょうど子供を遊ばせていた人に訊ねたところ、運良くこの寺の人で、人頭石のある庫裏の庭へと案内していただきました。


寺ではこの石に関する表示板などはまったく無くよほど詳しく下調べしていかないと、お目にかかることはありえません。



飛鳥資料館にあるレプリカ


昭和50年代の調査の結果7世紀中頃に作られたものだということは解っているそうですが、寺側には何の資料も言い伝えモ無く何処から来た物かもまったく不明だそうですが、飛鳥石神遺跡から出土した石人像や、あの猿石などにも共通点があるようです。



かの松本清張はペルシャのゾロアスター教文化と飛鳥との関係を取り上げていますが、どう見てもアジア人では無い顔つき、西域のペルシャ系、はたまたイースター島のモアイの横顔を思い起こさせたりして、明日香には間違いなく西域の文化も息づいていたのだと認識させられる。


頭上には、彫りくぼみが作られ、江戸時代には手水鉢として使われていたそうです。


撮影2006.2..25


MAP
 


明日香の亀石

2007年06月11日 | 石塔:石造物

 


明日香を訪れた人は多分誰でもがこの亀石のことは行かずとも知っているだろう????。


明日香に在っての亀石は、数ある謎の石造物のうちでも猿石と同様にその代表的なもののひとつです。



県道から少しはいった、田んぼ道わきの小さな空き地に、まるで軽自動車でも止まっているかのようにすえられている。


多分何年かまえまでは、田んぼの真ん中にでも在ったかのような佇まいだが、今は背後に民家を控え窮屈そうです。



亀石は、長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8m。重さ約40tの花崗岩の巨石で、亀に似ていることから亀石と呼ばれている。しかし、亀石とはいえ、誰に見せてもこれは亀じゃなくカエルに似ていると言われますが・・・。


多分いずれもが、まったくあてはずれのような気もします。



背後からの画像


具体的な、動物や事象を表したものではなく、抽象的なパターンの一部のような気もしています。


しかしいずれにしても誰かが、この巨石にこのような彫刻を刻み込んだのは確かで、どんな必要があってこのようなものを作ったのかは、まったくわかって無いようです。


いずれにしてもこれを作った当時は、重要な意味を持つものだったに違いないと思います。


撮影2006.12.23


MAP


 


猿石(さるいし)

2007年06月07日 | 石塔:石造物

飛鳥には妙な石造物が数多く残されていて,非情に興味深いところです。

現在流に考えるから謎なのであって、当時、この石造物が作られた頃にはどうしても必要な物で、其処には無くてはならなかったものだと考えるのが極自然なことだと思う。

この猿石にしても一見猿に似ていることから「猿石」と呼ばれていますが、背中にまで曰くありそうな面相を彫りつけていたりしていてどうも、これが何なのかは良くわかりませんが、何かの呪物のようにも思えてきます。

江戸時代・元禄15年に欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の南の田んぼから掘り出され、うち4体は現在の吉備姫王墓に、もう1体は高取城(たかとりじょう)へ運ばれ、今でも高取城跡に置かれています。

  『今昔物語』に「軽寺南方の天皇陵の堤にあった石の鬼形」として載っており、猿石はもともと欽明天皇陵の堤に置かれていて、この陵墓の守りの役目をになわされていたのかもしれません???

 吉備姫王墓(きびつひめのおほきみのはか)は、欽明天皇稜直ぐ脇の小高い森で奥に回りこむと鉄柵のはまった鳥居越しに、この四体の奇妙な姿に出逢うことが出来る。

鉄柵にレンズを入れての撮影、まずいところはお許しあれ。

正面左の二体、左端はまるでオオトカゲのような顔をした「女」と呼ばれている石像、これが女だったら、蝶蝶トンボも鳥のうち??

しかしこの「女」、男のイチモツがついて、 高さ100cm、幅65cm、奥行き100cmの大きさです。

後ろ姿は稜内に入ることが出来ないので、飛鳥資料館のレプリカですが何がなにやらさっぱり解りません。

 

「女」の右側は、ここの主人公のようにも見える「山王権現」戸呼ばれる石像。

サルだと言えばサルのような、僕は昔絵本で見た河童のイメージがダブるけど???、絵本のカラス天狗にも似ているような??

しかし立派な一物に手を添えているようにも見え、 高さ128cm、幅101cm、奥行き84cm。

こちらの後ろ姿は、よくわかる具体的な顔です。

なぜ後ろにも顔があるのか、こちらが前だと言えばそのまま,そうなんだと思ってしまうかもです??。

しかしここ飛鳥ではどうしてこれほどおおらかに、男のシンボルが目立って多いのだろうか。

正面右側には「僧」と「男」の二体が並んでいる。

手前側が「僧」と呼ばれる石像でもっとも人間らしい顔をしているように思えます。

高さ106cm、幅79cm、奥行き74cm、やっぱりちゃんとシンボルつけてます。

最後は「男」と呼ばれている石像。

これが男なら、最初の女もあんなものかと妙に納得、高さ99cm、幅90cm、奥行き58cm。

しかし妙な、笑顔で揉み手までして、まるで関西の商売人。

それでもしっかりシンボルつけてます。

高取城跡の、登城道にある猿石も吉備媛王の墓前の4体と同じもので、どうしたことかこの1体だけが、この高取城跡におかれている。

これはまさしく猿の顔、高さ85cm、幅73cm、奥行き68cm、ここでもしっかり男のシンボルはつけています。

当時このシンボルはどうしても、こうしてしっかり誇示させておかなければならなかった理由は何だろう??。

撮影2006.12.13 :2007.2.3

MAP


石峰寺のキリシタン地蔵

2007年06月05日 | 石仏:京都

前回紹介した若冲羅漢石仏のある、京都伏見の石峰寺の境内にこんな石仏??が祀られている。

本堂横から羅漢石仏への参道入り口右手にひっそりと佇んでいる。

石柱状の平石に下部に逆Uの彫りくぼみを作りその中にマリア像だと思われる像を半肉彫りにしている。

上部にはクルスを彫りくぼめ、まったく石仏とは趣を異にしている。

このキリシタン地蔵は本堂南側にあるお地蔵堂を解体修理したとき、祠の下の方から出てきたようです。

いつの時代か、まだキリスト教が、認められていなかった頃、ひそかにこの像を作りこの寺の地蔵堂の下に隠し拝んでいた物なのだろうか・・・・??

寺の境内にキリスト教の石仏??を置くなどとは、あまりにも冒険だと思えるのだが??。

何か曰く因縁のありそうな、このキリシタン地蔵(この名称も真に変だが)今は黙して語らず、記録などあるわけもなく想像が膨らむばかしです。

撮影2006.9.15


石峰寺の石仏

2007年06月03日 | 石仏:京都

京都伏見の稲荷大社は「お稲荷さん」の総本社としてその名を全国にとどろかせているが、そのすぐ近くに百丈山(ひゃくじょうざん)石峰寺という黄檗宗の寺院があって、江戸時代の画家伊藤若冲が下絵を描いた羅漢石仏があることで名高い。

最近、その石仏が1部倒され、損壊したと言うニュースがTVで流され、いっきに観光客が押し寄せているかもしれない。

僕がここを訪れたのは去年の初秋、9月15日、当然そのころはまだ石仏は無事安泰に、この本堂背後の竹やぶにひっそりとたたずんでいた。

石仏への拝観をお願いすると、薮蚊がひどいのでと虫除けスプレーと蚊を追い払うための団扇を貸してくれた。

いかにも黄檗宗だと言わんばかりの中国式門をくぐって、竹やぶにたたずむ石仏とご対面と言うことになるがやっぱり9月中ごろの哀れ蚊の総攻撃はすごい。

石峰寺羅漢石仏群は安永(1772~1781)の半ば頃より天明元(1781)年まで、6~7年でつくられたもので、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっている。

したがって、石峰寺五百羅漢と呼ばれて有名であるが、主役は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る劇の脇役だといえる。

竹やぶの斜面や小さな台場のいたるところに石仏ならべられていると言う風情だが、やっぱり若冲、、芸術家の遊び心のようなものを感じるのは間違いだろうか??。

石仏群は、「天上天下唯我独尊」と姿を示す釈迦誕生仏から始まり、賽の河原〔賽の河原地蔵〕で終結するが、その数は約500体(寺説)で、大きさは2m~数十?となっていますが、何か信仰一辺倒の石仏とはどこか違う趣を感じる。

ここを訪れるのはできれば蚊の居ない時期を選ぶのがいい。

とても団扇や、蚊除けスプレー程度で落ち着いて石仏を観賞できたものではないから。

撮影2006.9.15

MAP