愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

佐田の京石

2010年02月21日 | 石塔:石造物

 


この京石の存在は実のところ現地に来るまでは良く知らなかった。


若いころに秋田の鹿角、大湯のストーンサークルは訪れたことが有ったがすっかり忘れ果てていた。


近くのイチイガシの巨木を訪れ、京石の看板に誘われ寄ってみたというのが本音の話で、思いもかけず出会えて嬉しい。



 安心院の高速インターから直ぐ近くの佐田交差点を左折、県道を走ると間もなく広い駐車エリアが有って京石の看板や案内、解説版などが建っている。


県道を挟んで山手に写真のような建石が並んでいていかにも古代遺跡を思わせるような佇まい。



 小さな林道を挟んで向かって右側には、山裾の台地には九本の石柱、その中心と思われる奥まった石には太いしめ縄が巻かれていていかにも神々しい、また林道を挟んだ雑木林の中には、平成3年に水田の整備作業中、地中から19本の棒状石が見つかり、平成4年に「平成の京石」として石を立ててある状態に復元し、今有るような姿になっているようです。



しめ縄の巻かれた巨石には古代文字も確認できるということですが僕には確認出来なかった。


この地は米神山の山裾に当り、ここから頂上に向けてはいくつもの柱状列石が有って「米神山」の名称と共に古代の祭祀場跡を彷彿とさせる。


しかし、これが一体何だったのか定説はなく、太古の祭祀場、鳥居の原形、埋納経の標石などの説があって謎のようです。




平成の京石


また、神々がこの地に都を作ろうとし、米神山から100本の石を麓に落そうとしたが、99本まで終わったところで大騒ぎが有って中断され、麓に残る京石はその名残であるという伝説もあるようです。



 この地から、ほんの少し県道を奥に進んだ田んぼの中に、「こしき石」と呼ばれている、石柱が建っている。


この石柱は暴風石の名で呼ばれることも有り、立石の上に扁平な蓋石が乗っていてそれを動かすと暴風や祟りが起こるといわれていて、根元にはしめ縄が巻かれていました。



明日香にも良く似た石が有ってそれは「マラ石」と呼ばれているのですが良く似た性格のものではないのだろうか??



暴風の祈願と共に五穀豊穣、命の再生産も願って神奈備、米神山に向いているようにも思える。



 


撮影2009.12.26


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鍋山磨崖仏

2010年02月17日 | 石仏:九州

軟らかそうで脆そうな砂岩質の凝灰岩だろうか?長らく風雨に曝され今にもさらさらと音を立てて崩れ去ってしまいそうな気さえする。

元宮八幡宮の有る交差点から県道34号線で約5分ほど南下、川沿いに大きく道路が湾曲した左側に小さな鍋山磨崖仏の看板を見つける。

急斜面に沿って山道を少し登ると後は一気の急角石段 、その頂に覆堂のような屋根だけが見える。

この地方では、何故こんなにも急斜面を一気に登る急な石段を付けるのだろうとちょっと気になる。

まだ新しい間口二間程の覆い屋 の壇上中央の岩肌に像高2m強の中肉彫の不動明王立像、脇侍には向かって右手、半高程の矜羯羅童子と、左手、制咤迦童子を従えた不動三尊。

残念なことに左手、制咤迦童子は、ただの岩塊にしか見えず確認不可能、全てが今に消え去っても何の不思議もないほど風化が進んでいる。

中央の不動明王が比較的良く残るとは言え、頭部のも剥落欠損がが有り顔容も定かではない不動明王にしては比較的穏やかな面相に見える。

国東の不動はどこでも穏やか、あの猛々しさはない。

鎌倉期の造立、国の史跡に指定されている。

撮影2009.12.27

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国東、元宮磨崖石仏

2010年02月15日 | 石仏:九州

前回紹介の大門坊から前の県道を北進して直ぐ、最初の信号、田染郵便局の交差点先、元宮八幡の境内北側の岩壁にある五体の磨崖仏です

ちょうど道路わきにあって対面にはそれなりの駐車場も用意されているので問題なしにゆっくり参拝できるのですが・・。

つい最近新築されたばかりの覆屋が余りにも立派、、地元の磨崖石仏さんを守ろうとする気持ちは痛いほど解るのですが、なんとなく期待を削がれる気分は否めない。

真新しい覆屋内は採光も悪く、その上この地独特の粗く脆い凝灰岩に刻まれた石仏は岩壁一面を覆う地衣類の繁殖激しく、風化も進み像容を危うくさせ、撮影にも一苦労するが,まともな画像にはならない(ちょっと言訳)

六郷満山文化は山岳信仰を根底に持つ宇佐神宮を母体として天台密教と神仏習合した華麗な仏教文化へと発展し独特な文化圏を形成したと言われています。

大日如来の化身だと言われる不動明王を本尊とし、護摩修法を盛んに行う天台密教の影響が色濃く残された国東の磨崖石仏の多くは、不動明王を主尊とすることが多いのも納得できる。

ここ元宮磨崖石仏も例に漏れず主尊に不動明王右脇に矜羯羅(こんがら)童子と毘沙門天(びしゃもんてん)左脇に制咤迦(せいたか)童子と持国天(じこくてん)更にその左脇に追刻されたであろう地蔵(声聞形尊像?)と一列に並ぶ。

主尊の不動明王は像高約2m、毘沙門天、持国天、共に同高、矜羯羅童子、制咤迦童子は約二分の一高、しかし左脇の制咤迦童子は写真でも見る通り欠落現存していません。

毘沙門天

持国天

国東の磨崖石仏は臼杵や豊後大川流域の磨崖石仏の様の深い窟も無ければ厚肉彫りでも無いので風化、欠落の多いのも致し方ない。

それがあるがままの野の仏、磨崖石仏の姿なのだろうと納得する。

因みに、室町初期の造立、国指定史跡となっている。

撮影2009.12.27

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大門坊磨崖石仏

2010年02月10日 | 石仏:九州

国東半島、田染郷(たしぶごう)はこの地独自の古代仏教文化を咲かせた六郷満山の一つの中心地として多くの石造文化の遺物を現在に伝えている。

田染郷、六郷満山の中心、真木大堂から少し道なりに北進した左手に大門坊磨崖仏の表示板があり、その通り細い道を入っていくとこの大門坊の境内??につく。

大門坊と言っても小屋のように粗末なお堂があるばかり、磨崖石仏は向かって左手、山裾に屹立する凝灰岩の岩壁に彫られている。

ここの磨崖石仏は、それが良いのか悪いのか、整備修復などは手付かず、苔生し風化欠落激しく、哀れな姿に見えなくも無いがこれが磨崖石仏のあるべき姿なのかもと思ったり。

薬師如来

 苔や粗い凝灰岩の岩肌と同化、良く見ないと判別も難しい程だが、中央に二体の如来像、その下部にほぼ円形の彫り窪みを造り何対かの小石仏を刻んでいる。

中央の2体は大きく薬師、右側に少し小さく大日如来で共に坐像、薬師の脇には多聞天がおどけた顔の邪気を踏みしめて立っていて、大日の上脇には小さな如来形立像まだその脇に殆ど不明な程崩れてしまった不動明王??。

不動明王??

鎌倉期の像立ということですが余りに痛みが激しく、その良さは味わうべくも無いのが少し残念。

この地は六郷満山天台修験の地のはずなのに境内脇の小高い所に何故だか?ちょっとコミカルで真新しい弘法大師(だと思うんですが??)の石像が古びた五輪や国東塔を見下ろすように立っていたのが何故か記憶に残る。

撮影2009.12.27

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安心院栗の木磨崖石仏

2010年02月07日 | 石仏:九州

安心院郊外(この辺り全て郊外かもですが??)のをブラブラ車で流していてたまたま目に付いた磨崖石仏。

宇佐別府道路安心院IC で降り、市街地に向け200mほど走った左手に小さな空地があってその奥の段丘状斜面の岩肌に見つけた。

岩面に1m角程の龕を彫り出し像高80cmばかりの中肉彫り阿弥陀如来を刻み出して居る。

直ぐ隣には民家が有るものの、冬枯れの奥で全く見捨てられてでも居るのか?龕共々、石仏も胸辺りで大きく断裂、今にも岩塊になってしまいそうです。

豊後大川、菅生磨崖石仏にも有るような赤や黄の彩色痕も残り、路傍の石仏としては傑出、どんな由緒があるのか何処をどう調べてみても全く何も出てこなかった。

この辺りではこの程度の石仏は珍重されないのか??宇佐市の文化財として登録されてはいるものの何の説明板はありません。

有るのはただの表示だけ。

撮影2009.12.26

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宇佐市安心院町 下市磨崖仏  

2010年02月05日 | 石仏:九州

北東壁薬師如来立像

安心院と書いて「あじむ」別段大きな寺院が有ったわけでは無いらしいが、どうしてこう読むのかは解らない。

安心院は宇佐市の市街から約15kmほど山手に入った長閑な山里、鏝絵が多く残る町として良く知られている。

その街並みを流れる深見川の北岸、不動明王の懸額のかかる石鳥居をくぐると左手節理状岩壁に下市磨崖石仏が刻まれている。

不動明王の懸額が架かるのは、昔乳の出ない人がお粥を供えて祈願の後、持ち帰って食べると出るようになったという伝説がもとになっているようで、この石仏の不動明王は乳不動の名で呼ばれているようですがこの少し優しい顔立ちの不動明王と母乳がどう云う繋がりなのか興味深い。

前方からからは見えない天部形立像

磨崖仏は川岸、北東壁に不動明王を主尊?にして左脇から薬師如来、阿弥陀如来、聖観音菩薩、天部形立像と並ぶが天部形立像は痛みもひどく木立に隠れてしまって確認も難しい程、右脇下には勢高童子の小像、説明板に有る阿弥陀如来座像は確認出来なかった。

南東面左端の阿弥陀

南東右端の阿弥陀

南東壁面は崩落欠損がひどく向かって左端の阿弥陀坐像、右端の阿弥陀坐像は確認できる、崩落して地上に一体、今にも頭部が転げ落ちそうな面容の優れた如来像がある。

中心をなす北東面の四体の磨崖石仏は南北朝期の造顕、鑿痕の残る半肉彫り、あどけなさの残る童顔で特に不動左脇の薬師如来だけが何故だか立像、顔立ちなどは優しさに満ち溢れ、鑿痕が残る粗い仕上げながら愛しささえ憶えるほどです。

主尊だといわれる不動明王坐像は像高約160cm、鑿使いは粗いものの柔和な顔立ちに親しみが湧く。

南東壁の、一見仏頭だけに見える阿弥陀坐像は厚肉彫り、顔だちは良く整いどこか平安仏を彷彿とさせる。

阿弥陀如来が四体並ぶのは妙だが作風がバラバラなのを見ると時代もバラバラなのだろうか??

北東面阿弥陀坐像

北東面観音菩薩坐像

撮影2009.12.26

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安心院(あじむ)楢本磨崖石仏

2010年02月03日 | 石仏:九州

遠目には崩れた石垣、おもちゃ箱の積み木をひっくり返したような状態の磨崖石仏群に「なんじゃこりゃ・・・・」と思わずつぶやく。

柱状摂理の岩壁に彫ったものなのか、はたまた激しい地殻変動でも有ってこのような形になってしまったものなのか?まるでジグソーパズルの磨崖石仏、縦横に走る断裂で首と言わず足と言わずバラバラ状態のものが多く近づくのも危険なほどの惨状です.

安心院の中心から国道500号線で山手、別府方面に約5分も走ると左手に「安心院里の駅」のある「小の岩の庄」信号、これを過ぎ次のT字を左手に入って直ぐ、山手斜面の一段高くなったところに崩れた石垣状に見える楢本磨崖石仏群があり、道路は石仏前で少し広くなっており何の問題も無く駐車出来る。

道路から5mばかり石段を上った鉄柵の向こうにある磨崖石仏群は間口約20m、覆い屋などもなく露天で撮影にも問題なしだが、その分痛みも激しいのだろうか??

上段左端の金剛力士.多聞天

石仏群は上下二段、その数 45体だと云うことですが、写真でも解るようにその一体一体を確認できるような状態では有りません。

誰の目にも最初に目につくのは上段の不動明王で、他よりも一段と大きく顔は誇張され、全体に赤い彩色の跡が残っています。

この不動坐像の向って右の壁面に応永三十五年(1428)戊申三月と墨書銘があって、室町時代の作であるようですが???。

右側第一龕 地蔵、不動明王、多聞天

上段 薬師と日光月光菩薩 下段に十二神将が三体見える

上段には薬師三尊・釈迦三尊・多聞天・仁王などの像が彫られているようですが中肉薄肉彫入り混じり、その上苔むし風化欠損が多く完璧な状態のものは皆無に等しいが、そこここに彩色の跡が見受けられて妙にほっとしたり。

地蔵を中央に十王、比丘??

下段には十二神将、十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天などが刻まれているが、実際ここに立って眺めてみると崩れた石塊のそこここに石仏の部分部分が刻まれていると云ったジグソー状態で、どれが、どれの、どの部分なのかといった塩梅です。

像高もまちまちなのですが約1m前後のものが多く 45体もの石仏がもう少し良い状態で一同に会していたら壮観だったろうと想像するしかないのは惜しい。

大日かなあ?十王の首が無い

十王の首かも??

撮影2009.12.26

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岩屋洞飛天像.迦陵頻伽(かりょうびんが)

2010年02月02日 | 石仏:九州

福岡県と県境を接する大分県豊前市の山中に修験道の修行の場として知られた求菩提山が有ってその麓、県道32号線の岩屋集落の山手斜面に「狗(いぬ)ケ岩屋」と呼ばれる岩洞窟が有り その天井部に彩色された飛天像が有るというので訪ねてみました。

周囲は耶馬渓につながる豊前独特の山容に囲まれた長閑な里山、岩屋集落の入り口あたりにそれとわかる小さな看板が有って集落内への道を進むとすぐにこの岩屋洞へ続く進入路入り口に着く。

通行量の少ない田舎道、特別な駐車場はないが適当に路肩に車を寄せれば問題なく駐車は可能。

田んぼの畦道のような進入路を山裾伝いに進むと直ぐに掲示板と鉄網の柵が有る岩屋洞の入り口、柵には開ければ必ず閉めて帰るようにとの表示が有りイノシシでも進入して洞内を荒らすのだろうかと思ったり????。

入り口から急な石段を少しばかり登ると岩壁に大きな口をあけた岩屋洞が有りその奥突きには小さな古びた薬師堂、右手岩肌には近年のものと思われる石仏が一列に10体程、国東塔が一塔、一番手前には妙見菩薩?の石仏。

 飛天像は石仏と言えるかどうか?窟内薬師堂前の天井壁に半肉彫、彩色の飛天が優雅に舞っています。

しかし窟内は暗く、おまけにかなり高い天井壁の飛天は肉眼では容易に半肉彫りなのかも確認できず、ただ明治時代に補彩されたという彩色だけは目に鮮やかに写る。

平安時代の末期の作造だと云われる飛天は体長約1m、迦陵頻伽(かりょうびんが:極楽浄土に住むとされる鳥)だとされ、通常は雌雄2羽が対になるのですが、壁画では1羽が欠落しており、向かって左の天井落岩部に描かれていたと考えられているようです。

堂内には平安後期の薬師如来が祀られているようですが正面は鍵で閉ざされ薄暗くて確認は出来ません。

宇佐の影響化で有ったと思われる求菩提山修験修行の一端を垣間見せてくれるもので、貴重な仏教美術を伝えるものとして県指定の文化財となっています。

撮影2009.12.26

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