愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

宇陀市 大宇陀宮奥の勧請縄

2012年01月31日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

夏場見たときにはすっかり萎び果て見るも無残な姿に成っていたので正月過ぎのこの時期、もう新しく成ってるだろうと行って来た。

いつの頃か7~8年前には未だ開通してなかった談山神社から大宇陀方面に抜ける新道がすっかり出来上がり、長いトンネルを2つ越えるともうそこは大宇陀。

殆ど通行量のない大峠を談山神社方面から長いトンネルで越え、宮奥ダムを眼下に見下ろす辺り、道路脇にポツポツ民家が点在する。

集落は斜面の狭い棚田脇に約10軒ばかり、集落の旧道、山裾斜面の木立から、道路を跨いでこの勧請縄が掛け渡されている。

10m以上にも及ぶ縄に人形と思える縄飾りを12箇所の吊るし、その縄飾りに樒(しきみ)の小枝を四段に分けて付け小勧請として、中心には竹串にさした御幣を上向きに付けている。

これはこの大峠トンネルを抜ける櫻井市側、針道集落の勧請縄と同じ仕様で、昔から隣村同士で繋がりの深かったことを窺わせるに充分。

今でこそ簡単に足を延ばせる山間僻地、息を潜めるように、わずかばかりの棚田と林業を生業にしてきたのだろうか???

1月13日年末寒波の雪がまだ消えないで残っていた。

撮影2012.1.13


伊賀市 千戸(せんど)の勧請縄

2012年01月30日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

伊賀市西部で木津川に合流する服部川の中流域、北側の里山に有る小さな千戸集落。

集落億の丘陵地に新しく新興団地が造成され、集落を掠めるように新道が集落をぶち抜き、小川は三方側溝で固められているが、勧請縄はこうして今年もも健在。

国道163号線で伊賀市街方面から名阪国道の高架を潜り、服部川沿いに約も5分走ると千戸集落への真新しい進入道。

ハンドルを山手側、左に切り暫く進むと集落の入り口辻だったと思われる小さな地蔵堂脇、小川の流れを跨ぐようにコンクリートポールの勧請木の間に、この勧請縄が掛け渡されている。

伊賀地域では富が村から流れ出ないよう・・、また村に災いが入り込まないよう川の瀬に勧請縄の掛け渡される事が多い

藁飾りは伊賀地方で見かける鍋敷き、鍋つかみ風の物と小勧請が三箇所に垂れ下がり、省略化が進んだのかちょっと物足りない気もする。

それでも、こうして正月明けの寒空に揺れる縄飾りはどこか日本人の原点を見る想いがして嬉しい景観です。

撮影2012.1.22


木津川市 鹿背山の勧請縄

2012年01月29日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

鹿背山は我が山城の母なる川が伊賀方面の山間渓谷から平野部に出て流れを穏やかにする辺り、南岸に緩やかな起伏を持つ丘陵地です。 

往古対岸には恭仁京(くにきょう)が造営され、鹿背山丘陵の北東斜面には国分尼寺も造営され、往古より歴史深い土地です。

木津川市街を目と鼻の先に見、最近の住宅開発が目の前まで押し寄せているものの、集落は東西に伸びる緩やかな谷間や丘陵斜面に懐かしい里山風景を残し軒を連ねている。

JR木津駅より府道47号線を道なりに東進、消防本部の建物を越え、次の信号を右折すると直ぐこの勧請縄に出遭う。

この地は木津川南岸より集落への進入口、集落の入り口に当たる場所、拡幅された道路の両脇に鉄製ポールを建て、道路上に約10mほどの勧請縄を掛け渡している。

縄は細く飾り物も単純、半紙の幣と榊の枝を交互に付けている。

山城の集落ではこうして集落の入り口に勧請縄を掛け渡すところは皆無、そういう意味では単純簡略ながら貴重な勧請縄です。

ポールに巻きつき登る縄は蛇の尻尾を思わせる。

撮影2012.1.9


東大阪市 池島地蔵石仏

2012年01月28日 | 石仏:大阪

本当どうにもなりません、立派な地蔵堂の奥にもう一つ祠が在りその奥にこの地蔵石仏が祀られていました。 

此処は東大阪市、その昔は田圃に囲まれた農村だったのでしょうが??古い集落と新興住宅が混在した住宅密集地になっています。

そんな池島浄慶寺門前に立派な地蔵堂があります。

しかし大阪の多くの地蔵さんと同じく、正面の格子扉の間からレンズを差し込、ストロボをたき何とかしました。

花が正面でなく良かったけれど・・・しかし供台や、まだその手前の柵なども邪魔をしてどうにも成りません。

地蔵石仏は方形板状凝灰岩に方形の枠取りの中、像高約50cmの蓮華座上に立つ頭でっかちの定型地蔵。

槍のように長い錫杖を持ち背後に十三仏を月輪内種子で刻み出して居ます。

天文15年(1546)の記銘があり室町中後期の造立、やっぱりタコ入道のような大きな頭が目立つ地蔵さんです。

撮影2011.2.5


藤井寺市 舟橋地蔵

2012年01月27日 | 石仏:大阪

大阪市内や河内では石仏は悉く祠や地蔵堂に祀られ、殆ど厳重な鍵を降ろされ手出し無用といった按配、どうにも成らないので殆ど訪ねないことにしている。

古代王陵墓の集中する大和川流域、南河内方面から流れる石川が合流する南西岸に 一筋ふるい軒並みを残す船橋町が在る。

そんな町並みの中程、大山咋神社と養源寺の並ぶ表に地蔵堂があり、舟橋地蔵が丁寧に祀られている。

金襴の御簾だけは何とか跳ね上げましたが、この可愛い涎掛けは後のことを考えると外せなくこんな姿です。

火災にでも遭ったのかと思うほど風化剥離が進み、目鼻立ちも覚束無い状態です・・・・

舟形光背を背負う像高110cmの厚肉彫り、当時この地が南朝支配の土地だったことが窺われる、興国五年(1344)と言う珍しい年号を刻む通常型の地蔵石仏です。

この地も南北朝争いの戦場となったようです・・・・・。

そんな斜め向かいにはこの地の旧家で生まれ育ち、書道で名を残した松永白洲記念館が有って数々の作品を見せて頂いた。

撮影2010.1.10


奈良市須川町 地蔵菩薩磨崖石仏

2012年01月26日 | 石仏:奈良

石英の白い筋が十字に入った花崗岩に刻まれている地蔵さんです。

国道369号線大柳生交差点で県道47号線に乗り換え興東小学校前で左折するとすぐ左手に須川の公民館と戸隠神社が見え其の奥に集落が見え隠れする。

須川は奈良市と言えど北東部の山間の集落、棚田の広がる京都府境に近い長閑な里山にある。

ここの棚田の景観が好きで季節ごと何度も何度も足を運んで居るうち、すっかりお馴染みになってしまった地蔵さん。

集落の奥にゴルフ場が出来、新道工事で斜面にあったこの岩が落ちそうに成ったから一部を切り取りこの場所まで降ろしたとか・・・・

高さ2m余り山状に破断された花崗岩に舟形を彫り沈め、像高50cmばかりの蓮華座に立つ定型地蔵を刻み出している。

形式化は進んで居るものの穏やかで笑みの洩れる顔容は親しみやすく、室町後期から江戸初期の像立だろうか??

元々一緒にあったものではないようですが?足元には小石仏。

この地域では良く見受けられる小さくて可愛い十九夜講の如意輪観音。

撮影2010.5.5/2012.1.9


伊賀市 霊山寺の石仏群

2012年01月25日 | 石仏:三重

前回紹介の霊山寺奥の院へと続く境内や参道にも石仏が大量に散在していて良く紹介されている。

再興された小さな本堂の傍らには三重県天然記念物にも指定されたオハツキイチョウの巨木が聳えどこか侘しい山寺の景観を良く留めている。

駐車場から本堂へ登る旧参道の両側に所狭しと並べられた石仏群

撮影時期が春と晩秋に分かれていますが・・、随分と印象が違います。

石仏的価値は高くないが、のんびり野の仏を味わうのには持って来いの石仏さん達・・

自然石に彫られた地蔵さん??

三角石に刻まれた観音さん。

こちらは阿弥陀坐像石仏

少し大きな石には弘法大師像かな??・・・これだけ一同に並びたてられると細かく見て廻る気も失せますが、風景の中に溶け込んだ石仏さんもなかなか良いもんです。

本堂横手から奥の院参道へと続く道にも多くの石仏さん達。

最早見捨てられたように苔生しています。

再興された霊山寺は江戸末期に流行った観音霊場を模したミニ霊場となって居たのかも??

撮影2007.5.13


伊賀市 霊山寺奥の院道石仏群

2012年01月24日 | 石仏:三重

三重県伊賀市、市街地の東方約15kmに霊山と呼ばれる山があり、その頂上には往古、伝教大師最澄が嵯峨天皇の勅願により創建されたと言われる霊山寺の遺構があります。

往時大伽藍を誇ったそうですが、織田信長の伊勢侵攻の際に焼失し、その後山懐に消失を逃れた十一面観音を本尊として再興されたようです。

そんな山頂遺構は奥の院として良く整備され、その参道は低山ハイクの場として人気があるようですが、そんな参道のあちこちに石仏や遺構が見られると言うので登って見ることにした。

登り始めて最初に見たのがこの地蔵さん、箱型石仏としては中々立派なもので総高約80cmばかり・・・

上部は御覧のように破損、風化も進み打ち捨てられたようになぎ倒された笹薮に立っていました。

桜地蔵と呼ぶようですが全く曰く因縁は解りません。

これから登りがきつくなり、とろとろ歩いて約30分・・・特徴のある三角頭の磨崖石仏が見えて来ます。

正面から見ると富士山を思わせる様な山形岩片の中央に方形を掘り下げ、その中に六体の地蔵立像を薄く刻み出している。

この岩片は上部から剥離落下したものだろうか??元々こういう形であった物だろうか・・・正面には自然石の供台も設えられ時には御参りも有るのだろう??もはや変色した花や水が供されていた。

像高約50cm、形式化略式化が進んだ江戸期以降の像立だろうか??

こうした一石六体地蔵は大和高原から伊賀、名張地方には多く見られ、野の仏として中々風情があって良いものです。

その先鬱蒼とした見事な馬酔木林の中を進む・・・・、春先にはその甘い匂いに酔いそう。

その先少し進んだ岩肌にも「さいの川」の表示があって三体の磨崖仏。

風化劣化も激しいのか殆ど岩と一体化、良く解りませんがどちらも宝珠を持った地蔵のような・・・

共に稚拙な彫りですがどこかほのぼの・・・。

傍らにももう一体の地蔵さん、こちらは少し時代を感じますが?やっぱり風化劣化が激しく何が何やら状態で像高約80cm。

山麓の境内裏から参道へ入ったのが11時40分、あちこちで撮影、休憩、のんびり頂上に着いたのが13時10分、因みに境内は海抜433m、此処頂上は766m、たった300mばかし登り切るのに約1時間半も掛かってしまった。

寺蹟は芝生公園のように成っていてこれといった遺構は在りませんが、宝篋印塔、宝塔等の残欠が残って居るだけ・・

直立した軒反りには時代を感じますが?どうも寄せ集め感があります。

撮影2011.11.8


佐賀県肥前町 大浦の棚田

2012年01月23日 | 棚田景観

島々が点在し、複雑な地形を見せる伊万里湾の深く入りこんだ大浦、その南面する斜面一杯に広がった雄大な棚田です。

深く入り込んだ波の静かな多島海を背景に湾を取り囲む急斜面の棚田が、美しい波形を見せて何段にも下る様は見事な景観です。

備前町大浦の棚田は、国道204号線から備前町切木小学校脇の道路を道なり、海方向へと下って行くと眼下一面に見えてくる。

集落は棚田の上部道路際に行儀良く軒を並べているが・・・・

一方浜にも集落があり、同地域ながら浜は漁業、山は農業と云う様に住み分けられているのだろうか??それともこれだけ近くだと、どちらの地区も半農半漁なのだろうか??

少し下った位置からの棚田です。

冬、師走とは言え波穏やかな海を背景に南面する棚田は穏やかな陽の光がさしている。

所々に柑橘類に転作した棚田も見えるが、まだまだ波打つ畦が斜面を何十段も下る様は言いようの無い美しさです。

しかし目をちょっと逸らせば荒れた棚田も、そこ此処に見られるのはしょうがない。

撮影2011.12.17


佐賀県東松浦郡玄海町 浜野浦の棚田/他

2012年01月22日 | 棚田景観

このところ何かと物議を醸し、マスコミでも良く取り上げられる佐賀県玄海原発のすぐ近く、玄界灘に沈む夕日と棚田の景観が素晴らしく絶好の被写体として有名な棚田です。

勿論僕が此処を訪れたのは、たいした絵にも成らない真冬の朝日の頃・・・・、国道筋の高みが展望台になり駐車スペースも用意され受け入れ態勢は万全。

しかしその実、規模はそれ程でもなく訪れる時期や時間帯が悪すぎたのかそれ程感動しなかった、やっぱり海と棚田を真っ赤に染める頃に出遭わなきゃ・・

日本の棚田100選に選ばれているが、直ぐ眼下に見える真新しいアスファルト舗装はちょっと邪魔。

浜野浦の棚田

浜野浦の棚田を離れて次の目的地に向かう途中ふと目に留まった棚田です。

玄界灘の海岸線を行く国道204号線を外れ、県道でもない地方道を少し内陸部に入ったなだらかな谷間に広がる座川内棚田です。

「座川内」と書いて「そぞろがわち」なんとも難しい読みの地名です。

棚田の中央を谷川が下り、その上部の山裾に座川内集落の家並みが、三々五々棚田を見下ろすように連なっています。

それにしても、冬場の棚田は何処に行っても人っ子一人見かけない寂しさです。

座川内の棚田

撮影2011.12.17 


福岡県八女(やめ)市星野村 広内の棚田 

2012年01月21日 | 棚田景観

葛篭(つづら)棚田から直線で約10km西部の山村、八女市星野村に有る棚田です。

バカナビで検索すると思い切り遠回り、途上に連なる山々を越える林道らしきものは有るのだろうが、君子危うきには近寄らず、ナビの言い付け通り麓の市街地まで下って、再度の山登りで10kmのところが30kmも走る羽目になってしまった。

星野村は前回紹介のうきは市と境を接する山間高原域に在る長閑な山村、「美しい日本のむら景観コンテスト」で農林大臣賞を受賞したことも有るようです。

うきは市方面より県道25線で星野村に入り峠の下り道で出遭った棚田です。

この斜面の下では大規模な橋梁工事が行われていて、このポイントからしか撮影出来なかった。

それから直ぐに出遭うのが広内の棚田・・・谷川越に南面する斜面に広がる石垣棚田、この辺りも八女茶の産地で有るらしくそれに取って変わられる棚田も多く見られ、この先いつまでこの景観が保たれるかは心もとない。

  

広内の棚田を一息下った谷間に広がる棚田です。

いずれにしてもこの辺りの山村は棚田に包まれた日本の古里を彷彿とさせる。

撮影2011.12.16


福岡県うきは市 葛篭(つづら)棚田

2012年01月20日 | 棚田景観

永らく続けてきた石仏の紹介はちょっと小休止、九州「一人良がり」の気まま旅で訪ねた棚田の紹介・・・。

葛篭(つづら)棚田の有る「うきは市」は平成の大合併で新しく出来た町、中心部は福岡県南東部筑後川中流域に位置し、棚田はその南背後に連なる深い山間部を約30分程南進した谷間一面に広がっています。

山奥から流れ出す細い谷川を挟み北面する斜面の上部に集落は造られ、その下部に約7ヘクタール、300枚に及ぶ棚田が現在も殆ど放棄されること無く良く整備されている。

僕の訪れた師走の中旬には誰一人見かけなかったけど、夏の終わり彼岸花の時期には畦道一杯に50万本にも及ぶと言う彼岸花が咲き乱れ、日曜カメラマンの絶好な被写体となって狭い集落も大賑わいするようです。

集落外れに有る展望台から集落付近の棚田・・・、集落には農家民宿も有りました。

集落まで続く道路際からの撮影、収穫後の生えた青草が師走のこの時期でもまだ早苗を思わせる様に青い。

ジグザグに棚田の淵を駆け上る集落道、古びた石垣とぽつんと建つ民家・・。

上部集落より見下ろす棚田、この時期には誰一人、農作業にも出ていません。

冬枯れの棚田に一人で風に吹かれるのも又おつなもんです。

撮影2011.12.16


鹿児島市五ヶ別府町 川口の「田の神」

2012年01月19日 | 石仏:九州

九州気まま旅の最終日、鹿児島市郊外の山肌を削って新興団地が建ち並ぶ谷間、鹿児島市内より薩摩半島を横断して東シナ海沿岸部へと抜ける県道35号線沿いの田圃脇で見かけた「田の神」です。

谷間に広がる田圃を背にして誇らしげな土地改良工事の大きな石碑と居並ぶように、やっぱり顔を潰され哀れな姿で佇んでいます。

この画像だけを見てると長閑な里山風景、それでももう間際まで都市化の波が押し寄せ、県道はけたたましい車列がひっきりなしに続いています。

県道脇に有る五ヶ別府郵便局の手前の信号を左折、川口公民館と道路を挟んで対峙するかの様な田の神は修行僧の像容を持ち磐に腰掛けている。

何処の田の神でも同じ様に頭には甑簀(こしきす)、右手にメシゲ、多分お碗でも持っていただろう左手は案の定欠損。

正月を真近に控え真新しい注連縄が掛けられて居ますが、顔をなくした「田の神さぁ~」は一体どんな心境なんだろう??

隣に立つ小さい石碑に、安永十年(1781)二月二十四日川口村中の銘が在り、同時期の建立だと言われています。

裏側から見ると甑簀(こしきす)をかぶった姿が男性の陽物の様にも見えるところから、「田の神」は五穀豊穣と共に子孫繁栄も願って信仰されたものだと言われているようです。

撮影2011.12.21


肝付町 (旧高山町) 野崎、塚崎の田の神

2012年01月18日 | 石仏:九州

大隈半島の中央部、肝付町に有る巨木、「塚崎の大楠」の撮影にこの地を訪れたまたま見つけた三体の「田の神」。

志布志湾側から鹿児島湾方面に向かう県道539号線、併存する波野小中学校を通り越して約1km、進行方向の左手、集落道の入り口辺りに「野崎の田の神」への案内板がありました。

集落道に入って直ぐの二股を右、山裾の竹藪斜面にそれと直ぐにわかる二体の「田の神」が祀られています。

大きな説明板の傍らに像高約1m程、向かって右側の像は大きく顔を抉られ、左側の像にも傷痕が残っています。

顔を抉られた向かって右は寛保三(1743)年の造立。

向かって左は明和八(1771)年の造立、共に長袖、長衣の着流しで姿で長い鍬の柄を立て持つ立像。

こんな「田の神さぁ」にも廃仏稀釈のとばっちり?、坊主憎けりゃ今朝まで憎いの類・・・・。

鹿児島県の民俗文化財指定。

こちら「野崎の田の神」より約2kmほど西進、塚崎の大楠近くで探し訪れた「塚崎の田の神」。

溜池の堤防奥に水神の石標や、石祠などと一列に並べ祀られています。

端正で出穏やかな立像・・・米俵の上に立って田圃を見つめているのでしょうか??

頭には甑簀(こしきす)、右手にメシゲ左手には大盛りのお椀、腰には瓢箪。

このような着流しスタイルの「田の神」は、ついぞこの地域で見た二体、いや三体だけでした。 

同じ目的の「田の神」で有りながらどうして、こうも像容に違いがあるのだろう??、それが「田の神」の面白さなのかも知れないけど・・・

撮影2011.12.20

野崎の田の神

塚崎の田の神


南大隅町根占川北  久保の田の神

2012年01月17日 | 石仏:九州

鹿児島県大隅半島最南端部、鹿児島湾沿いに有る鄙びた田舎町。

市街地の有る海岸線から5分ほど山方向に進んだ鬼丸神社へアコウの巨木を撮影に行き、ラッキーにも出遭った「田の神さぁ」

県道562号線川北久保から少し北寄り入った農道脇、神社の杜手前の空き地にこのふっくらまん丸の「田の神さぁ」が祀られて居ました。

風化のためか破壊のためか殆ど顔容も定かでは有りませんが、それでも緩んだ口元は笑顔の表情です。

二重台座基壇には格狭間(ごうはざま)を設け案内板に拠ると「団子と餅」?を意匠化し、僕には、まるで豊作を祝って米俵の上に載る大黒さんの様にも見えたりもしまが・・・。

頭上には決まり物の甑簀(こしきす・シキ)を被り、右手にメシゲ、左手にスリコギを持ち、総高約150cm、像高約80cm、田の神像としては中々立派な出来栄えです。

享保十六年(1731)の銘を持ち、県の文化財に指定されています。

一方鬼丸神社の鳥居前で見かけた仁王さん、腰から下は無く、腕も捥ぎ取られています。

鳥居を潜ると又も二体の打ち捨てられたような仁王さん。

境内石段脇には衣冠束帯、神官風で仁王顔のこんな石像(石神)にも出遭いました。

こちらは神官風のためか?ほぼ原型を留めているように見受けられました。

このような独得な石造物を見るにつけ、薩摩には相当豊かな石造文化が存在していたのだろうが?良ければ良いほどに激しく破壊され地中の瓦礫となっているのだろうと思う・・・・・。

こんな大隅半島の果てまでも廃仏稀釈の波が押し寄せた事にちょっと驚嘆。

今の世の中でも何やら似たようなことが姿を変え、そうすることが恰も正義で有るような顔で進行しているような気がする・・・それは後で気づいても遅いのに。

撮影2011.12.20