愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

新潟県妙高市関山 関山神社石仏群

2012年09月30日 | 石仏:その他

昨日紹介した福島南相馬小高の磨崖は別として今回の旅で最初に出会った石仏さん。

新潟県と長野県の県境近く、妙高山の麓、関燕スキーゲレンデへの進入路近くに位置する関山神社境内に安置された石仏群です。

上信越道妙高ICを出て南に約2km、関山集落の奥に鎮座する関山神社は今でこそ神社の形態を取るが、かって関山大権現とも呼ばれた仏教色の強い山岳修行道場として栄えた。

勿論佛の山「妙高山」の里宮としての性格が強く今でも聖観世音菩薩、十一面観世音菩薩、文珠菩薩の三体を祀っている。

そんな境内の片隅に妙高堂と呼ばれる阿弥陀如来を祀るお堂が有り、その脇に覆屋を設けて一種独特な素朴さを持つ石仏が25体並べられ新潟県の文化財に指定されている。

石仏はこの地域独特な姿の丸掘り仏でそれぞれに赤い涎掛けを付けられ腰から下は無く、地中から生え抜いたような形で、その像容も飾りけを極端に廃した単純素朴な感じを強く受ける。

その石仏達は殆どが像高70~80cm、ずっくりむっくりの体躯に頭でっかち、どちらかと言うとあのアニメ漫画の天才バカボン似が多い。

この地はかって佛の山「妙高山」への参拝道入口、参拝道の傍ら、丁石代わりに置かれて居た石仏がここに集められたようです。

頭部に大きな肉髻(にくけい)を戴き右手は胸元で施無畏印、左手は腰元に下げ一般的には弥勒仏だと言われている。

素朴で朴訥に見え、その下部のない像容から「いけ込み式」石仏と呼ばれているが、後々足が生えて世の中は平和になるというような願いを込め、わざと膝までしか彫らなかったということのようです。

平安時代後期から鎌倉期にかけて庶民信者に依って彫られたものだと言われています。

地方色豊かな石仏達です。

撮影2012.9.13


福島県南相馬市小高 泉沢大悲山薬師堂磨崖仏

2012年09月29日 | 石仏:東北

新潟から東北六県の石仏と巨樹を巡る旅から帰って初めてのUPはこの「泉沢大悲山薬師堂磨崖仏」から・・・・・。 

立ち入り禁止区域外であっても、あの忌まわしい東北大震災の福島原発から直線距離にして約15km、目と鼻の先にあるこの磨崖石仏に会って来ました。

前日郡山に宿を取り、朝一番バカナビに入力、出掛けましたがとんでもない事態・・・・福島県中通りから浜通りへの阿武隈越えは殆どが未だに進入禁止、不案内の土地を随分遠回り・・・3時間あまりも費やしてなんとか到着。

周りには民家や福祉施設なども有るのですが人影は勿論、物音一つなく、荒れ果て静まり還っただだ広い駐車場から石段を上り境内につくが、ご覧の有り様・・・・・。

堂前の石灯籠は崩壊、磨崖石仏を覆うこの覆屋も、中に入るのをしばし躊躇するようなかなり怪しい状態でした。

もう一年半もなんの手入れもなく見放された薄暗い堂内、恐ろしい程、静寂の中で目にする磨崖石仏は身震いするほどに鬼気迫るものを感じました。

 薬師堂石仏と呼ばれるこの磨崖石仏は砂岩壁を、間口約15m、奥行き・高さ5~6mにくり抜いた岩窟の奥壁から側壁に掛けて、八体の大きな石仏が厚肉彫りにされています。

<中尊の釈迦如来>

現在正面奥壁に釈迦を中尊にして左右に弥勒仏を配した三尊・・・・顔面は悉く風化摩耗が激しく顔容は定かでは有りません。

因に中尊釈迦如来は約1.4m基壇上、約90cmの蓮華台の上に、二重円光背を背負い結跏趺坐する像高2.8mの量感あふれる坐像で光背の微細な表現も素晴らしい。

<向かって右手の弥勒仏>

こちら像高約2m、体躯に鮮やかな彩色痕が残るものの顔容と下部は風化剥離が激しい。

向かって左手、三尊脇侍もうひとつの弥勒佛と観音菩薩立像・・・・、更に左手には阿弥陀如来坐像が有ったと言うが元存しません。

向かって右手側壁には観音菩薩立像、次に地蔵菩薩立像、かろうじて足許と頭部の一部が確認出来ます。

右端は薬師如来と云う事ですが薬壺の確認も出来かねるほどに傷んでいます。

しかしこれほどに傷んでいてもその気迫と作者の力量はは十二分に伝わって来ます。

大同二年(807) 徳一大師の作だと伝えている。

あの大震災でも崩れ去ることなく残った磨崖石仏、すっかり見放され、手付かず状態が続いて現況状態より悪化しないか少し心配な状況でした。

因に付近の阿弥陀磨崖は見る影もなく岩壁と同化、観音堂の千手観音は、あいにく進入禁止で近づけず。

帰りがけに駆け抜けた小高の中心街は人影もなくすっかり静まり返っていました。 

撮影2012.9.25


滋賀県竜王町鏡 西光寺跡宝筐印塔

2012年09月14日 | 石塔:石造物

前回紹介の西光寺跡に国の重要文化財に指定された石造物、我が国を代表するような見事で珍しい意匠を持った宝篋印塔が立っている。

僅か10mばかり離れて国の重要文化財である石造物が並立しているのは何とも石造物ファンにはたまらない場所です。

広く間合いを取った柵の中、高さ2.1mにも及ぶ宝篋印塔が立ち尽くし、軸部四隅の風変わりな意匠に釘付けさせられる。

ほかの部材に比べてこの塔身部だけが妙に苔錆びず美しく見えるのだが・・・・・、何か処理でもしているのだろうか??

その際立った塔身四方の隅飾りには直立する梟が刻み出され、極めて類希な意匠のようです。

笠石上部の相輪は七輪を残し上部を欠損するも、他の部材に大きな傷みは無い。

梟と言われれば梟の様な気もするが擬人化されて居る様な・・・・、その梟に囲まれた塔身四面にはそれぞれ蓮華座上に月輪を置き、その中に金剛界四仏の種子を刻み込んでいる。

塔身のこの梟は宝篋印塔の原形とされる中国の銭弘俶(せんこうしゅく)塔に由来するもので

西面、真正面から見た梟と阿弥陀種子のキリーク。

右手、北面の不空成就如来のアクを刻み複弁反花座の上に載る。

反花座下部の基礎部は枠を残して少し彫り沈めた中、格狭間を造り出し、中に相対する孔雀紋を刻み込んでいる。

鎌倉後期の造立だとされ、伝教大師開基の名刹だった「西光寺」の数少ない遺物として残されたものです。

石塔の事を余り良く知らない僕にでも、その見事さは充分伝わって来ます。 

撮影2011.8.20 


滋賀県竜王町鏡 西光寺跡燈籠型八面石幢(せきどう)・石造仁王像

2012年09月13日 | 石仏:滋賀

滋賀県竜王町、鏡山麓の西光寺跡に建つ重要文化財の石燈籠。

滋賀県湖東をを縦断するように走る国道8号線、竜王町の道の駅「かがみの里」があり、すぐ近くに中世にはその権勢を誇り300坊も擁したという西光寺跡が「強者どもが夢の跡」とでも言えそうな夏草に埋もれるようにして在る。

道の駅西側に建つ民家外れの小径を50m程も登って行くと、正面には新しい会所のような建物が有りその奥、右手脇に小さな古ぼけた堂が有る。

ここに関西では珍しい石造仁王像が祀られて居て、今でも信仰厚い様子が窺われる。

例に依って古めかしい格子戸は厳重な閂で閉じられ、小さな格子戸よりレンズを差し入れての撮影です。

格子戸と石仏の間に引きがなく、どうにも撮影のしようが有りません。

おまけに厚く何重にも涎掛けが巻きつけられ、どうにも全容は掴めませんが・・・、およそ等身大で目をカッと見開き、大きい団子鼻で阿形の仁王像です。

おそらくは西光寺山門に阿吽として並び立って居たのでしょうが吽形の方は未だに見つかっていません。

更にその奥へと少し登ると正面に覆屋が有り、大きな石燈籠が見える。

火袋が設けられて居るので燈籠だろうが石仏好きの僕は、敢えて燈籠型八面石幢(せきどう)と呼びたい。

元、更に奥地に有った西光寺の鎮守社「八王子社」に有ったものですが、廃絶と共に荒れ果てここに移されたようです。

高さ2.8m、基礎から笠まで正八角形、ただ火袋部下の請花部は円盤で連弁を刻み付けて居る。

竿石は細く高く、西側の一面に「応永廿八(1421年)辛丑八月八日願主敬白」と刻んだ銘があるが肉眼では読みづらい。

竿石は複弁反花を施した八角形の竿受座上に建つが基礎石の八角台は移設時の候補だと思われる。

火袋部の八面体には四箇所の火袋と蓮弁に載る小さな石仏を交互に配して居て珍しい。

石仏は地蔵のようでも有り、阿弥陀のようでも・・・・、また錫杖を持たない地蔵と来迎印の阿弥陀を交互に配しているようにも見える。

いずれにしても国が認めた重要な石造物であることには間違いがない。

撮影2011.8.20


奈良市川上町 奈良坂墓地?阿弥陀石仏

2012年09月12日 | 石仏:奈良

般若寺の南側、奈良坂の南面する斜面に在る古い墓地で見かけた阿弥陀石仏さん。

写真は撮ったものの何処にもそのデーターが無く、このまま忘れてしまいそうなので取り敢えずのUPです。

<遠く向うに大仏殿の大屋根が見える墓地入口>

奈良市街、東大寺転害門(てんがいもん)の脇をすり抜け奈良県境を越え、京都山城へと入る旧国道24号線の般若寺信号の少し手前、なだらかな登りの左手に見える墓地。

一帯は中世には墓地が広がり庶民の葬送の地であったと言う。

阿弥陀石仏は墓地中央部に有り、特別な様子もなく墓石変わりの様に立って居ます。

舟形光背を持ち、高さ約1.5m、像高120cm程・・・・中肉彫りで来迎印の阿弥陀立像を刻み出して居る。

少し難かる様な泣きっ面ですが頭部には丁寧な螺髪が施され、阿弥陀三尊の種子を光背頂部に刻み込んでいる。

全体的に覇気がなく納衣の衣文にも形式化が見られ、光背には室町末期の永禄三年庚申(1560)銘が刻まれている。

墓石仏としては保存も良く、風化摩耗も少ないが唯一鼻先が欠損、泣きっ面に拍車をかけている。

京都市内の阿弥陀石仏は殆ど坐像であるのに対して奈良の阿弥陀石仏は殆どこうした立像で有るのは中世奈良文化と京都文化の一つの違いでしょうか??

撮影2011.9.10


奈良市雑司町 まんなおし地蔵

2012年09月11日 | 石仏:奈良

関西弁で「まんが悪い」と云うのは運が悪いとか、めぐり合わせが悪いと云う意味で使われて居る。

その「まんの悪さ」を直して呉れるのがこの石仏さん・・・、と言う事で今も信仰厚く燻煙に煤ボケ真黒け。

僕が奈良公園付近へ行くのにいつものように散歩する大仏殿裏通り、鏡池から二月堂への裏参道は隠れた東大寺の観光スポットになって居る。

二月堂参道とその裏山へ続く岐道に目立たない「左 まんなおし地蔵尊 一丁半」と彫られた小さな石の道標が立ち、普段気にも止めないのだけれどそこから見る二月堂への警官もまた風情の塊りの様に素晴らしい。

小さな谷川沿いに200m程も歩くと左手山裾にそれと解る境内地の石柵に囲まれ黒く煤ぼけた石仏が立って居る。

石仏は石柵の中、おまけに低い金網に下半身を隠されるように立ち、詳細は不明ながら高さ約1.2m、幅1.5m程の自然石の表面に像高約70cmの円頭光を持つ地蔵立像を線彫りで刻み出して居る。

信仰厚く燻煙が染み込み像容も覚束無いが、なんとなく錫杖を持つ定形地蔵の様に見える。

粗いタッチながら動きが感じられ、像容も整い鎌倉後期の造立だと考えられて居る。

地蔵の左右には閻魔と、その従者の線彫り像も有る。

「まんの悪さ」を直してくれるのは良いけど、これだけ煤だらけではちょっと気の毒。 

撮影2011.11.10


奈良市清水町 弘法大師爪書き地蔵石仏

2012年09月10日 | 石仏:奈良

奈良公園の南側を福智院北の信号から春日原生林に向かって延びる道路際に、地蔵堂が有り大きな線彫り地蔵石仏が祀られて居る。

この辺はちょうど奈良町の東、奈良公園飛火野の裏にも当たり、志賀直哉の旧居からもそう遠くない閑静な住宅街。

地蔵尊は同じ町内から道路拡張されたこの地に移されて来たようで、歩道のアスファルトの上にコンクリート基台を造り、一間四方ばかりの簡素なお堂を設けて居る。

例に依って格子戸が固く施錠され、暗いお堂の中にレンズを差し込んでの撮影です。

この石仏は「中清水地蔵尊」と呼ばれ「弘法大師爪書き地蔵」として地域住民から信仰が篤い。

 高さ約1.5m舟形状自然石を別石の蓮台に載せ、表面を整形、雲座に載る運行地蔵立像を大きく線彫りにしていて珍しい。

像高約80cm、大きな錫杖を持ち、舟形一杯の線彫り円頭光を持つ。

光背面には「法界衆生天文12年(1543)・・・・・・」と刻み出して室町後期の造立。

どことなく線も弱々しく、もとから天文12年では弘法大師作では無いけど・・・・、関西ではどこに行っても「お大師さん」がつ付いて廻る。

撮影2011.9.23


奈良市奈良阪町 奈良豆比古(ならづひこ)神社 多聞天石仏

2012年09月09日 | 石仏:奈良

山城と大和の國境、奈良坂に在る古社「奈良豆比古神社」境内の小さな祠に祀られて居る石仏です。

奈良坂の般若寺から旧奈良街道を北へ約500m、旧国道24号線との合流少し手前の左手に鎮座しています。

ここには市街地に珍しい楠の巨木を擁する鎮守の杜も有って何度となく訪れて居る。

祠の前の石鳥居には毘沙門天王と書かれ、首を断裂し拙い補修で繋がれた風変わりな石仏が祀られて居る。

高さ約70cm、山形自然石に像高50cm足らずの毘沙門天(多聞天とも言う)中肉彫りで刻み出して居る。

ここより1km程南に行ったなだらかな丘の上に多聞山城と呼ばれる松永久秀の城跡が有り、毘沙門堂も有って信仰されていた。

この石仏はその多聞山毘沙門堂への町石だと考えられて居る。

以前紹介の新薬師寺にある毘沙門天石仏と同じく町石で、こちらは十一丁の刻銘が彫られて居る。

新薬師寺のものとは少し意匠が違いますが・・・

やっぱり野ざらしの町石、風化摩耗が激しく像容もままなりませんが・・・、室町初期の造立だと考えられて居る。

撮影2011.8.25


奈良市菖蒲池町 称名寺墓地入口の石仏

2012年09月08日 | 石仏:奈良

昨日の続き、称名寺本堂東側、寺墓通路脇に立ち並ぶ石仏群からのこれはと思う石仏さん達。

通路脇東側には、近くの多聞城の城壁として用いられて居た石像をその落城後、貞享年間(1684~1688)にこの寺に移し合祀され、夥しい数の石仏が並んで居ます。

京都市内では良く見かける阿弥陀や大日石仏などは殆ど無く、高さ50cmばかりの地蔵箱石仏が大半を占める。

厄除千体地蔵と呼ばれ地域の信仰厚く、その数は約千九百体に及び、これもこの時代の奈良と京都の石造文化の大きな違いです。

その中央にやや大きな箱石仏を従えて立つ地蔵菩薩立像。

室町末期、弘治二年(1556)の銘を持ち、高さ約150cm、像高90cm、光背頂部にはキリークを戴く。

通路西側には小さなお堂が有り舟形光背を持つ善光寺型阿弥陀三尊が中央に立つ。

高さ約80cm程、二段円頭光を刻むが像容は略式化が進んだ近世仏だろうか・・・。

ほかの堂にはこんな石仏・・・焼け出されたのか??ひどく傷んでいるが、地蔵半跏像の様に見えて珍しい。

これも小さなお堂にあった箱石仏さん。

ひどく傷み、大きく断裂しているが、向かって右は蓮華を掲げ持つ観音像、左には来迎印の阿弥陀さん。

もしそうだとしたら・・・・・、僕が今までに出逢った事がない。

撮影2011.9.18


奈良市菖蒲池町 称名寺地蔵堂三体石仏

2012年09月07日 | 石仏:奈良

奈良市街地のど真ん中、奈良町に対して奈良北町として最近売り出している奈良女子大近くの日輪山称名寺には石仏が多く集められて居る。

<綺麗に掃除の行き届いた境内と本堂>

称名寺は浄土宗西山派に属し、茶祖・村田珠光に縁深い寺として有名ですが、その境内墓地へと続く参道脇に覆屋が有り、数体の大型石仏が並び立って居る。

石仏は全部で四体、向かって右から阿弥陀立像、続いて地蔵立像が三体・・・。

 

中でも目を引くのは右端の大きな阿弥陀如来立像。

高さ2.2mの舟形光背を持ち、反花坐を持つ二重蓮華座を共石で造り出した上に像高165cm、等身大で長身な阿弥陀如来を厚く刻み出して居る。

頭光には丁寧な蓮華紋を刻み来迎印を結ぶ。

納衣の襞等には少し形式化も見られるが、二重蓮台の丁寧な様式などから室町後期説を覆し、も少し遡る時代の造立ではないだろうか??。

因に刻銘は見当たりません。

ここでの中尊はこの定形地蔵。

頭部辺りで少し広がる高さ約2mの光背を持ち、蓮華座に立つ像高150cm、室町後期の大永七年(1527)三月五日の銘を持つ。

光背頂部には阿弥陀の種子「キリーク」を刻み、大きな錫杖には小さな五輪塔を刻み付けて居る。

額には白毫も有り丁寧な造り・・・・保存状態も良好で古さを感じさせない程です。

向かって左、三体のうちでは最も古いと言われて居る地蔵石仏・・・、約180cmの舟形こ光背、像高145cmの定形地蔵立像。

しかし写真の通り火災にでも遭ったのか??傷まし過ぎる姿です。

尊顔は人工的にでも削がれた様になくなり、補修も雑で哀れを倍化させて居る。

光背面には線彫りの十一面観音が刻まれていて珍しく、室町初期の造立だと考えられて居る。

撮影2011.9.18


奈良市青野町 西大寺共同墓地の石仏

2012年09月06日 | 石仏:奈良

名刹西大寺近くに青野墓地とも呼ばれる西大寺共同墓地が有り、その墓地内と近くに二体の中世石仏が立って居る。

此処は最近まで在所外れの葬連道の辻だったと思われ、道端の土手に寄せ集められた数体の小石仏と共に立って居る。

付近は墓地の周りまですっかり宅地開発が進み、野辺の送りも無くなって久しいが、この道を哀しみの葬列が何百年も続いた事が窺われる。

舟形光背は高さ約160cm、共石でせり出す様に造った半円形の古式な蓮台に立つ像高120cmの定形地蔵立像を厚肉彫りで刻み出す。

凛として立つという言葉が相応しいような丁寧で力強い像容・・・。

写実的で凛とした願容、その全容から鎌倉後期の造立だと考えられる。

野良で仕事中の老人に聴いたところ特別な呼名はなく、野の仏としての風情を残す地蔵さん・・・・、どれだけ多くの葬列を送ってきたのだろう。

一方墓地内の東側入口に近い処にもう一体のこれはと思う石仏さん。

こちらはちょっと小型で高さ115cmの舟形光背を持ち蓮華坐に立つ像高90cmの地蔵立像。

少しきめの粗い花崗岩に中肉彫りで刻み出した定形地蔵・・・

少し略式化が進み始めた衣文にちょっと微笑むような顔容で狐目。

光背左右には刻銘が有り、室町時代後期の天文二十二年(1553)、願主 澄円により造立された事が解る。

撮影2012.9.2


奈良市宝来町 佛願寺阿弥陀石仏

2012年09月05日 | 石仏:奈良

奈良市街の西外れ、阪奈道路の入口近くに在る佛願寺山門脇のお堂に祀られて居る石仏さん。

奈良市街もここまで来ると周りに田圃が有ったり溜池が有ったりと・・・、里山の旧在所と云う景観が残している。

正式には浄土真宗本願寺派蓬莱山「佛願寺」、蓬莱の旧在所、民家の中にこじんまりとした佇まいを見せる。

小さなお堂の中央に大きな阿弥陀石仏がまるで「おいでおいで」をしてるように・・・、右手を胸に掲げて立って居る。

総高約175cm、蓮華座に立つ像高125cm、やや細い舟形光背を背負う、少年の様にあどけない阿弥陀如来立像を厚く刻み出して居る。

「おいでおいで」の来迎印は丸めた指が欠損、全体的には摩耗風化も少ないが・・・・、尊顔中心の鼻先が欠けていてなんとも気の毒。

頭部の螺髪や衲衣、衣紋も丁寧で写実的、その像容や連弁の様式から鎌倉後期の造立だとだと考えられて居る。

近くには尼ヶ辻阿弥陀石仏尼ヶ辻地蔵石仏なども有り、大きく素晴らしい石仏が集中して居ます。

撮影2011.9.18


奈良市法華寺町 極楽寺地蔵石仏

2012年09月04日 | 石仏:奈良

法華寺の直ぐ南側、旧在所道沿いに融通念仏宗の 唯心山「極楽寺」と云う尼寺があり、その山門脇にひどく傷んでいるものの大きく古式な地蔵石仏が祀られて居る。

極楽寺の創建などは不明ですが、江戸中期には今の寺観が整えられ、山門脇には大きな成就延命地蔵の扁額が架かる地蔵堂が建って居る。

元、法華寺の表通り、一条大路の辻堂に有ったようですが、現在でも地元の人達に依って大切に祀られ信仰厚いことが一目で解る。

そんな中央に祀られたこの石仏は高さ242cm、像高170cmの大物ですが、戦禍にでも遭ったのだろうか??石材は赤っぽく、首で断裂、上部光背も今にも落ちそうなほどに大破して居ます。

おそるおそる涎掛けをまくり上げましたがどうも首吊りの縄状態・・・・断裂した首が素人補修であまりにも気の毒。

二重蓮華座に立つ厚肉彫りの定形地蔵ですが、錫杖を持つ右手や納衣の衣紋が二条辻地蔵石仏(歓喜寺地蔵尊)とそっくり・・・、もしもこれ程風化摩耗が進んでいなければ、アノ石仏以上に素晴らしい地蔵石仏だったに違いない。

厚肉彫りで刻み出されているが・・、全体にのっぺらぼうに近く、元の姿を想像するしか有りませんが、円頭光には放射光が刻まれ、丁寧な造りを見せて居る。

向かって右、光背面には弘安二年(1279)の刻銘が有り、鎌倉時代中期の造立。

返す々々もこの大破した名作は哀れを極める。

撮影2011.9.18


奈良市東笹鉾町 浄国院の石仏

2012年09月03日 | 石仏:奈良

前回紹介の念聲寺より一筋北の通りに建つ浄国院(じょうこくいん)にも古風な石仏が建ち並んでいる。

浄国院は南北朝時代の創建、正式名称を浄土宗無衰山浄国院安養寺と称し、宝永元年(1704)の大火で焼失、その後復興され現在の寺観を整えたようです。 

本堂脇、寺墓への入口横に一列に並べ立てられた6~7体の石仏が目を引く。

中でも目を引くのは中央寄りに立つこの二体・・・・、向かって左の阿弥陀石仏は建治三年(1277)の銘が右側面に見え、鎌倉時代中期の造立。

板石状花崗岩に二重光背を深く彫り沈め、中に来迎印の阿弥陀立像を厚肉彫で刻みだしている。

裾から下部は欠損、現高約80cm、風化、傷みが進み元の姿は想像するしかないが・・・・、大きく背の高い笠塔婆であろうとされて居る。

右手の石仏も板石状石材に刻まれた定形地蔵立像・・・下部は土中に有り良く確認できませんが高さ約1m強。

風化摩耗激しくつんつるてん・・・・、錫杖を持つ手を腰下でひねっているようにも見える。

阿弥陀立像の左手に立つ阿弥陀・地蔵双石仏。

大和地域では無数に見られる箱石仏で高さ約80cm、蓮華座に立つ来迎印の阿弥陀と定形地蔵を中肉彫りで刻み出す。

その像容から南北朝期の造立。

この中で一番気の毒な石仏さん、激しい火災に遭ったのだろう??焼け爛れ剥がれ落ち、もうこれではただの石塊・・・・・・

善光寺型三尊石仏と云うが素人目には一体何が何やら・・・光背面に何体かの化仏が確認でき、鎌倉末期の造立だとされますが哀れを極める姿です。

一方墓地脇にい列に居並ぶ地蔵石仏。

室町後期から江戸期の地蔵立像・・・・・右手に錫杖を持たず、左手に宝珠を持つ古式な地蔵立像も見られる。 

撮影2011.9.10


奈良市川久保町 念聲寺地蔵石仏

2012年09月02日 | 石仏:奈良

ここもまた奈良市街地、県庁裏手に当る、浄土宗「念聲寺」の境内地蔵堂に祀られて居る石仏です。

国道369号線、旧奈良街道の国道369号線、東大寺焼門信号を西へ約200m、脇道と合流する角地に狭い境内の「念聲寺」がある。

山門は交差する脇道に少し入り込んだ先、街中の小寺院では多くの場合がそうであ有る様に、ここでもまた山門は柵で通行止め、インターフォンで用事向きを伝えて境内にいれて貰う。

境内は民家の庭ほどの植え込みだけ、本堂に向かって左手、寺墓入口脇に一間四方の地蔵堂が有りこの地蔵石仏が祀られている。

ちょうど去年の今頃、東日本大震災殉難者追善供養の板塔婆がたくさん立っていた。

去年はどこに行っても良く見かけたもんです。

地蔵石仏は(前の供台が邪魔で見えませんが)別石の六角形基台の上、大きな円形蓮台に坐す地蔵坐像石仏です。

総高約160cm、光背高110cm、結跏趺坐する座高は約70cm、光背蓮華座と共に一石で刻み出す。

舟形光背の表面には二重円光を刻み、突き出したお腹に福徳円満な笑顔を湛え、右手錫杖、左手宝珠、丸掘りに近いほどの厚肉彫りで木彫仏にも近い程の丁寧な仕上がりです。

この石仏も堂内に祀られて居たものか風化摩耗も少なく、保存状態も良好。

地元では安産延命の地蔵として信仰を集めて居る様ですが、その像容から鎌倉末期の造立だと言われて居ます。

地蔵堂脇には無縁仏の集積と地蔵石仏。

撮影2011.9.10