愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

福井県 旧名田庄村の茅葺民家ー3

2016年07月26日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

 

名田庄、国道162号線、南川上流域で見つけた茅葺き民家。

山あい里山の小さな集落、その奥にひっそり佇んでいた茅葺き母屋とトタン懸け納屋

 

 屋根はすっかり葺き替え時期を逃して最早ちょっと痛々しすぎる状況となっている。

しかし何ともこんな景色が、僕の育った子供の頃を想い出し、胸をうつ。

撮影2016.3.8


福井県 旧名田庄村の茅葺民家ー2

2016年07月24日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

「安倍晴明」子孫「土御門家」ゆかりの名田庄納田終(のたおい)集落にたった一軒だけ残されて居た茅葺き民家。

少し前までは、すぐ近くに有る「天社土御門神道本庁」とされる民家が茅葺き屋根だったようですが??現在屋根の形はそのままで棧瓦葺きに変えられている。

たった一軒残された此の茅葺き民家もそうそうたる謂れの在る民家だろうか?大きな屋敷構えに豪壮な茅葺き屋根を誇っている

屋根の葺き替えも終えたばかりなのだろう・・・威風堂々たる佇まいを見せている。

茅葺き大屋根は入母屋造りの葺き下ろしなのだが、北山型茅葺き屋根に見られるような、仰々しいウマギの棟飾りはなく簡素そのもの・・・

ちょうど隣は土御門神社の境内に成っており、何がしかの関係が有るものと考えてしまうのは僕だけだろうか??

撮影2016.3.8


旧名田庄村の賀茂神社の茅葺き舞殿

2016年07月21日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

前回に引き続き名田庄納田終(のたおい)にある賀茂神社の」茅葺き舞殿

当然この神社も、「安倍晴明」ゆかりの神社で子孫「土御門家」により京都より勧請され祀り伝えられて来たと言う。

当然、舞殿なので、四本柱の舞台の上に端正で瀟洒な茅葺き入母屋屋根を載せている。

棟飾りには北山型の大きな千木を載せ、山向うの美山地域の影響が色濃く見られる

神社の厳かさの雰囲気の中で簡潔な美しさを見せている。

撮影2016.3.8


福井県 旧名田庄村の茅葺薬師堂

2016年07月19日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

 

名田庄道の駅からすぐ近く、納田終 (のたおい)白矢(しらや)集落最奥に建つ茅葺きの薬師堂。

この地名田庄納田終は平安時代の有名な陰陽家・「安倍晴明」 を始祖とする土御門家 (つ ち み か ど け) ゆかりの地として知られ・・・

薬師堂の裏を奥に詰めた谷川沿いには、応仁の乱の戦火を避けて京都より移住した陰陽道宗家安倍家3代の墓所がある。

そんな薬師堂は文治3年(1187)に開創されたと伝わる増福寺の薬師堂であった。

弘安2年(1281)不審火を出し全焼、現在の薬師堂は元和3年(1617)の棟札写しがあったといわれ江戸初期の建築だと考えられている。

最近茅葺き屋根が葺き替えられたのか端正な屋根は一重入母屋造・ 桁行5間・梁間4間・平入の建築で四周に緑が設けられている。

  

若狭とは言え、京都北山に近くその建築意匠も京都・北山型と呼ばれるものを踏襲していて、江戸時代の雰囲気を留める茅葺きの寺院建築として貴重です。

撮影2016.3.8


福井県 旧名田庄村の茅葺民家 

2016年07月16日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

 

名田庄と言えば僕らフォーク世代の人間には、名田庄をもじって命名したと言う、あのナターシャセブンの高石ともやを思い出さない訳が無い。

まあそれはさて置き、南丹美山から西の鯖街道と言われる国道162号線で堀越峠のトンネルを抜ければ福井県おおい町名田庄。

162号線沿いにある道の駅「名田庄」の複合施設として、この茅葺き民家が移設され研修宿泊として利用されている。

深く急傾斜の葺き下ろし茅葺き屋根は最近き替えられたのか?まだ凛とした美しさを保っている。

峠一つ越えたからと云って南丹美山とは隣同士、茅葺き屋根の造作には大きな差は見いだせない。

撮影2016.3.8


岩手県八幡平市  南部曲がり屋茅葺き民家

2013年05月25日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

岩手県八幡平市の内陸部、岩手町との境近くの町道を走っていて見かけた茅葺き民家。

付近は長閑な里山地域、水田の傍らに民家がポツポツ建って居る。

茅葺き民家は直ぐ道路脇に有り、現在も住まわれて居る様ですが相当傷みも激しく・・・・、ちょっと辛い状況。

軒先には「挿し屋根」用の茅?が置いて有ったり・・・・・。

母屋の正面カラートタンもやっぱり気になってしまいます。

場所は確認できていますが次回ここを通っても、もうこの茅葺き屋根を見ることは出来ないかも???

撮影2012.9.21


青森県つがる市 旧増田家住宅母屋

2013年05月24日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

去年の秋の初め、東北の旅でたまたま出遭った文化財指定の茅葺き民家です。

津軽半島の首根っこの「つがる市」、津軽平野のど真ん中、国道101号線沿い「道の駅もりたアーストップ」敷地内に移設され、古民家そば処として活用されている。

この建物、「旧増田家住宅母屋」は旧森田村小中野地区より平成9年にこの地に解体移転されたもの、明治中期の建築とされ津軽平野を代表する民家としてつがる市の文化財に指定されている。

関西では見れない様式の寄せ棟造り、大きな箱棟の中央にまた舘、これは煙り出しなのだろうか??

ただただ移設保存展示するだけでなくこうして建物を活かして保存するのも生きた文化財の活用法だと思う。

詳しくは「そば処案山子」より・・。

撮影2012.9.20


愛媛県東温(とうおん)市  井内の茅葺き民家

2013年05月23日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

愛媛県東温市の井内の棚田の撮影に行き、その途中で出遭った茅葺き屋根の民家 

棚田のあちこちにはトタン懸け茅葺き民家が見られ、素晴らしいロケーションの棚田です。

そんな棚田への登り口、谷を挟んで対面斜面にも棚田が見え、茅葺き古民家の背景としてはこの上ないロケーション。

僕の近くでは全く見られない様式です。

撮影2010.9.23


高知県大川村 小麦畝(こむぎうね)の茅葺き民家

2013年05月22日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

もう五年ほど前、この家の裏山にある桂の巨木に会いに出かけた。

その時たまたまであった民家がこの家で、茅葺き民家でした。

ここは高知県大川村(土佐郡)小麦畝、はるか人里離れた山の中。

民家は二軒有るものの人が住んでいるのはこの家だけ・・・・、それも気丈なおばさんが一人住まい。

もうあれから5年・・・、あのおばさんは今も元気にしてるだろうか?この茅葺き民家はまだ健在だろうか??

詳しくはこのページで・・・。

撮影2008.12.20


岐阜県多度大社 社家長屋門

2013年05月09日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

もう随分以前に撮った写真ですが、永らく忘れて居ました。

この神社で行われる「上げ馬神事」はこのGWのTVニュース画面を飾ります。

多度神社参道脇に建ち、三重県の文化財に指定された素晴らしい景観の茅葺き屋根の長屋門。

社家の長屋門らしく「しめ縄」が懸けられて居た。

撮影2008.6.14


徳島県旧東祖谷村(ひがしいやそん) 旧喜多家住宅

2013年02月06日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

兎に角僻地も僻地、日本三大秘境の四国阿波、祖谷峡谷の奥、その谷底より斜面を駆け上がった山岳集落に建つ重文民家。

三好市の中心阿波池田の街より南へ約42km、1時間半、吉野川、祖谷川沿いに遡り、観光名所の「かずら橋」より渓谷を更に10km奥へ、ここから急峻な山肌をクネクネ5kmも登ると目的地、東祖谷「平家落人伝説」を持つ大枝集落。

集落への登り道は兎に角絶景、こんな急峻な山肌に集落が在ろうなどとは全く想像だにできなかった。

山の中腹に集落が形成される天界の村、四国山地東部のこの辺りはその数と規模においてわが国随一、谷底は殆ど霞んで確認することも出来ない程・・・・。

この集落の鉾神社へ「鉾立の杉」を撮影に来、思いもせずに出遭った茅葺き民家・・・・こんな山間僻地で茅葺き武家屋敷(民家)に出逢うとは・・・。

標高約850m、集落に家は10軒足らず、鉾神社脇の高台に建つ旧喜多家住宅は集落東外れから此処に移築復元した様です。

豪壮な寄棟茅葺き屋根を持ち、桁行は10間、梁行5間半、式台をもち、八畳二部屋続きの書院風の座敷があり、正面と西側に1間幅の中廊下を巡らし堅固に建てられた祖谷地方の数少ない武家屋敷だと言う事です。

旧喜多家の祖先 「北六郎三郎」の祖は、阿波国朽田主城「小野寺八郎蔵人」で小野寺氏は平家末裔ともいわれ南北朝時代宮方として奥州より阿波に入国正平年中南朝に忠節を尽くし、その功により多数の御綸旨感状を授与された家柄。

この屋敷は天正年間、ときの阿波国領主蜂須賀家政公の命により祖谷山鎮圧のため入山し大功のあった子孫、大枝名主喜多家の武家屋敷で建築年代は宝暦13(1763)年とされています。

しかしまあ、昔の人は偉かったじゃないけど、こんな辺鄙な急峻な山岳斜面、重機も車もない時代に良くもこれだけのものを建て、維持して来たものだと・・・・。

現代人には想像も絶する。

撮影2008.11.2


福井県勝山市 旧木下家住宅

2013年01月30日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

この写真を撮った2008年当時は未だ個人(木下家)の所有物だったらしいが、その後維持しきれないと町(勝山市)に寄贈され現在では勝山市が維持管理しているようです。

この奥、岩屋川を3km程遡った岩谷観音へ巨杉の撮影に行き、たまたま見つけた茅葺き屋根の民家です。

代々この地域の庄屋を務めるなどした上層農家さんの民家、天保7年(1836)に上棟され、その建設には永平寺大 工が関わった事が解っています。

建物は南北に棟を上げ、北側に両袖を設け、四方に破風を持ち独特な屋根型となっている。

<北側門口方向>

僕がここを訪れた5年前には相当荒れていて、最早人は住めない戸締状態で別途傍らに簡素な住まいが在った。

<東面方向>

個人の力ではこれ以上の維持管理は無理だろう・・・・。

平成22年には国の重要文化財にも指定され、解体修理されることだろう・・・・。

この状態のまま朽ち果てる事が避けられたのは嬉しいが、血の通わない展示場と成ってしまうのに、一種の哀れを感じない訳はない。

撮影2008.4.27


福井県坂井市丸岡町  坪川家千古の家

2013年01月29日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

福井県永平寺近辺から山中温泉近くへの移動中、やっぱり看板を見かけて寄り道してきた重文民家です。

優雅で豪放な曲線を持つこの茅葺き屋根をもつ武家民家は中世末期の建築と云われ、全国的にも貴重な古民家として国の重要文化財にも登録されて居る。

国道364号線、福井県最北端、石川県境に近い山懐に囲まれた旧丸岡町山竹田地区の坪川家住宅。

坪川家の先祖坪川但馬丞貞純は北面の武士で、源三位頼政の後裔と云われ、故有って700年前、この地に定住した。

おいえ(主室)側から見る屋根にも被さるような曲線の入母屋破風があり、中世武家住宅を彷彿とさせてくれる。

屋根は重量感のある一連した茅葺き屋根、正面の破風と二つの角屋の破風を入母屋破風とするのに対し、主屋背面を寄棟とするなど変化に富んでいる。

それでもやっぱり正面のこのむっくり窺うような曲線破風の屋根厚とも相まって独特な美しさを持って居る。

このような民家が現存することに目を見張りました。 

撮影2008.4.28


福島県南会津郡下郷町 大内宿

2013年01月24日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

今から30年余り前、まだ長距離トラックに乗って間もない頃、友達を助手席に載せ仕事ついでに寄り道、この大内宿を訪ねた事がある。

当時はまだ観光地として売り出し始めたばかりだったのだろう・・・・、2~3軒の食事処だけがあって、タイムスリップした様に鄙びた茅葺き屋根建ち並ぶ宿場の雰囲気がそのまま残っていた。

去年の秋、東北の旅の最終日、福島郡山からの帰り道、この大内宿に寄り道して北陸廻りで帰って来た。

しかし30年前のあの鄙びた感は完全に消え去り、大駐車場を完備した一大「茅葺き宿場テーマパーク」へと変身していて、拍子抜け・・・.

この地は、会津若松より南へ約25km、現在では主要道から取り残され山に囲まれた山間僻地、江戸時代には会津藩が参勤交代に使った重要な宿場町として本陣や脇本陣が設置されていた。

所謂「会津西街道(下野街道)」、この街道が日光、江戸へと続いて居た。

中央を貫く通りの両側はすべての軒先で土産物やら食事やらと、何らかの店に成っている。

観光バスで乗り付ける団体客やらなにやらと・・・・・、土日でもないのにこの人出です。

ちなみに30年前は誰にも合わなかったけど、食堂に入って店のおばちゃんと話した記憶がある。

 

通りを歩いて居ると、建物は殆ど変わりなく、いやむしろ、整備が行き届き茅葺き屋根などは見やすくなって居る。

しかし、生活感は無くなり・・・・・

地に足のつかないハリボテのような・・・・・、美しいけど絵に書いた餅のような・・・・。

しかし、これだけ多くの茅葺き屋根が通りに面し、妻を向け建ち並ぶ景観は、他では見ることが出来ない程貴重です。

美しい、素晴らしい景観には違い有りません。

いかにも洗練された単純な美を感じます・・・・しかし洗練され過ぎ、観光客の目を意識した集落に成り過ぎて居るかのようです。

ちょっと外れて、裏側から見れば、オープンセットの書割のように見えてしまいます。

良く保存されてるけど何かが違う、時代が変化するのに過去をそのまま保存する事など出来ないのですよね。

国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定、現在年間100万人以上が訪れる一大観光地と成って居る。

撮影2012.9.27


岩手県花巻市東和町 旧小原家住宅

2013年01月23日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

遠野から北上市の宿への帰り道、県道284号線で「重文旧小原家住宅」の看板を見かけて立ち寄った南部曲り屋。

ここは花巻市東和町、北上川支流の猿ヶ石川、その上流域の静かな里山、赤松林の台地にある旧谷内村の小学校跡地。

昭和50年、所有者から東和町が寄贈を受け、現在地に移築されたようです。

因に、あの『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの童話や「雨ニモマケズ・・・・・」で有名な農民作家「宮沢賢治」記念館からは12km程、東寄り。

前回紹介の千葉家曲り屋などとは比ぶべくも無いが、あれは特別、この旧小原家住宅が曲がり屋としては標準サイズなのだろうか・・・・。

正面L字の開口部が玄関口土間、左手突き出し部が厩で、右側主屋根部が居住区域。

葺き下ろしの主体部茅葺き屋根と、突き出し部の妻屋の調和が美しい。

旧小原家については明確な資料がなく、由緒及び住宅の建築年代とも明らかではない様ですが、この地方の一般的な農家で厩(馬屋)の突出部が非常に小さく、曲家として古い形態とされ、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1764)頃の建築だと推測されています。

古い時期に直家から曲家に改造されたもので、曲家の発生過程を窺うことのできる貴重な遺構であるとされ、国の重要文化財に指定されている。

現在地元の人々の管理のもと誰でも自由に見学出来ます・・・、因に冬季(12/1~4/30)は閉鎖されて居ます

撮影2012.9.21