鯖街道、葛川と朽木の境界近く、葛川で見られた茅葺き屋根の建物。
この建物は貸別荘らしいが、どうも人が居る気配も感じられなかった。
どこからか移設したのか、はたまた最初からこう言う古民家風にと設計された茅葺き屋根なのだろうか??
入母屋造りに平入葺き下ろし屋根なのだが、大屋根中央に明かり取りの小さな突き出し屋根が設けられている。
元々この地域の民家はこんな風じゃ無い。
撮影2015.11.19
鯖街道、葛川と朽木の境界近く、葛川で見られた茅葺き屋根の建物。
この建物は貸別荘らしいが、どうも人が居る気配も感じられなかった。
どこからか移設したのか、はたまた最初からこう言う古民家風にと設計された茅葺き屋根なのだろうか??
入母屋造りに平入葺き下ろし屋根なのだが、大屋根中央に明かり取りの小さな突き出し屋根が設けられている。
元々この地域の民家はこんな風じゃ無い。
撮影2015.11.19
鯖街道の滋賀県側中間辺り、安曇川上流左岸に建つ茅葺き屋根の家。
比叡山延暦寺、天台修行の中でも最も過酷だと言われる千日回峰行の結願を迎える明王院の有る葛川坊村。
この地は正確には大津市葛川坊村町・・・しかし大津市街は遥かに遠く約30km程も彼方。
そんな葛川地域の市民センター脇に、この地域にから移設されたであろう茅葺き民家が建って居る
勿論現在民家としては使用されておらず資料館のようなものだろうが・・・前の鯖街道を走るたびに気になって居た。
少し調べてみると、これから少し先「葛川貫井町」に残されていた茅葺き民家を移設したもので・・・・築200年、江戸末期に建てられたのではないかといわれている。
入母屋造り茅葺き葺き下ろし屋根の純農家でこじんまりと纏まった建物です。
撮影2015.11.19
若狭から京都への鯖街道として知られた国道367号線、京都と滋賀を分ける途中トンネルを越えると途中集落・・・集落を越え、しばらく走ると川越に茅葺き屋根が見え隠れする。
集落へ入ってUターン気味に在所道を戻ると集落の一番奥に茅葺き民家・・・
集落はすっかり過疎化が進み、集落内を歩いてみても全く人を見かけない・・・多分朝早くから勤めに出ているのだろうか??
とにかく街からは遠く離れアクセスが悪い分しぜんがいっぱい・・・おまけにこうして茅葺き民家も残ってる。
大きな入り母屋平入の茅葺き屋根だが北山型とは一線を画してこの地は湖北型の茅葺き屋根の様・・・
未だ葺き替えてそれほど間もないのか美しい姿を保って居た。
撮影2015.11.19
湖北八木浜の最後の一棟に成ってしまった葦葺き民家。
この家も建ち並ぶ集落の中程に有って撮影ポイントも見いだせない程のせせこましさの中に建っている。
片側入母屋、片側切り妻の急傾斜の大屋根に湖北独特の棟瓦で棟終いをし、妻には異馴染み前垂れ・・
やっぱりこの家もアライグマを警戒してか?ブルーの網を要所要所に張り巡らしている
撮影2015.6.27
引き続き湖北八木浜の葦葺き民家。
昨日紹介の葦葺き屋根の棟先がちょろっと覗いて見える程のご近所さん。
田舎にしては建て込んだ家並の中に隠れる様な佇まい。
屋根もそれ程大きくなく、屋敷も農家のそれにしては広くなさそう・・農家にしては手狭に感じる屋敷なのだが??
棧瓦の下屋に深い入り母屋の葦葺き屋根を乗せている。
もうそろそろ大屋根の葦も随分痩せこけ傷んでるように見えるが・・・次はあるのだろうか??
撮影2015.6.27
引き続き八木浜集落の葦葺き民家。
今時の時代に一つの集落に7~8軒の葛屋の民家が残るのは、集落毎の景観指定でもない限り有り得ない事だろうに???
何故だかこの集落ではそれが当たり前のように残って居る。
余程特別に裕福な集落かと言えば決してそんな事では無い・・
この集落にあっても、もうすっかり人が住まなくなって抜け殻になった民家も有った・・・
撮影2015.6.27
前回と同じく八木浜の葦葺き民家。
前々回紹介の文化財民家「中村家住宅」より、道路を挟んでお向かいさん。
葦葺き屋根の主屋は敷地の一番奥、前には鉄筋3階建てと通路を挟んで和風の離れ家・・・
葦葺き屋根の主屋にしても中二階屋の上に切り妻葦葺き屋根を乗せ、建築自身もまだまだ新しい現代建築のように見えます。
撮影2015.6.27
先日紹介の八木浜町で見掛けた葦葺き民家・・・・
しかしこれがオドロキ、今時一集落に葦葺き屋根民家がポツポツ五軒以上も残っていた。
集落の中央を東西に横切る道路沿いに二棟並んで建っていたよく似た葦葺き民家・・・・このあたりちょうど見通しが悪く、二棟並んだ写真が撮りづらい
向かって右側の民家は片入母屋片切り妻の葦葺き民家で急傾斜を持ち、大屋根に湖北型の光取り館を持っている。
湖北の前垂れ妻飾りをを付け独特な瓦で棟を抑えて居る。
妻側にも明り取りと煙り出しを兼ねた館が見える。
向かって左の一棟も殆どよく似た葦葺き屋根だが明り取りの館が全く見えない。
二棟ともに要所要所にブルーの網をかけているのはやっぱりアライグマ防護のためだろうか??
撮影2015.6.27
一見寺院かと見紛った程の豪壮な屋根を持つ葦葺き民家。
姉川河口に広がる水田地帯、湖岸近くに軒を連ねる古い農村集落で見掛けた・・・しかしこの集落は、どこかただの農村ではない雰囲気が漂う
石垣を積んだ屋敷の入口には寺院の山門の様な四脚門が建ち、奥に妻側を門に向けた豪壮な葦葺屋根の主屋が建つ。
なんの資料も持ち合わさずに訪問・・・帰宅後調べてみると国指定の登録文化財中村家住宅と判明。
中村家は八木浜城の跡地に、宝暦14年(1764)ごろ、中村市右衛門が建てた代官屋敷だと言うことで、桁行約18mにも及ぶ長大な湖北型葦葺き民家。
そう聞くと農村集落だと思っていた集落が全く違うものに見えて来る。
そりゃそうだわなあと感心してしまう。
撮影2015.6.27
琵琶湖西岸、大津市小野郷に残されていた草臥れた茅葺き門。
歴史上燦然と輝く小野妹子、小野篁、小野道風、小野小町など小野姓をもつ歴史上人物の出自地の小野郷
そんな古い古い歴史の集落で見掛けた茅葺き門・・・
この門がちゃんと門として機能していた屋敷とはどんなものだったのだろううか??
この門に釣り合う様な大きな茅葺き主屋が建っていたのだろう・・・
上級農家の入母屋葺き下ろしの葦葺き門としては貴重な建物でなんとか保存してほしものだが・・・
随分と傷みも酷く、もう限界を越えた姿になりつつある・・・
今度ここを通る時には残って無いかも??
撮影2015.7.2
日野町中心街を少し南に外れた田園地帯の小さな集落に残されて居た茅葺き民家。
せっかく見つけた数少ない茅葺き民家もすっかりあばら家に成り、晒者になってる民家も多い。
この家もその例に漏れず黒板塀で屋敷を囲い、立派な屋根付き門を持ち土蔵も備えているが・・・・ここに住まう家人が見当たらず、すっかり抜け殻・・・
屋敷には裏山の竹が蔓延り、もう崩落寸前で何とか持ちこたえて居る ・・・・惜しいなあ。
撮影2015.7.2
日野町の古い集落にたった一軒残されて居た茅葺き民家。
日野町の西端、日野川右岸丘陵地の鄙びた集落、覆い懸けの民家が多く、これはと探したら茅葺きの侭残されて居た一軒。
ちょうど前の畑で農作業中の女性を見つけてそれとなく声を掛ける・・・
不思議なことに屋根にアライグマ対策が無いの訊いてみると「このあたりにアライグマはいない」という返事・・・そんな所もあるんだと半信半疑??
大きな屋敷の大きな茅葺き民家・・多分庄屋クラスの民家なんだろう??箱棟中央には避雷針まで建っている。
大きい寄せ棟に棧瓦の箱棟を載せ、同じ近江とは言え湖北の民家とは全く趣を異にする。
どちらかと言うと伊賀風の特徴を持つ・・・・この民家ならまだまだ残りそう
撮影2015.7.2
昨日紹介の浅井歴史民族資料館からすぐ西隣り村、長浜市役所浅井支所に近い「内保」で見掛けた茅葺き民家。
まるで帽子でもかぶってるかの様に大きなトタンの「棟覆い」を被っている。
一般農家風の入母屋造り茅葺き民家・・・四方庇を突き出した下屋の上にちょこんと乗っかって居る。
大屋根正面には湖北独特の庇付き「明かり取り窓」が見えて良い雰囲気だが、肝心の茅葺き屋根が随分と草臥れ果てて居る。
この茅葺き屋根は一体どうなってしまうのやら??
撮影2015.6.27
草野川右岸、浅井歴史民俗資料館内に移築された湖北の民家二棟。
一棟は入場入口から正面に見える七りん館と呼ばれる大型入母屋の葦葺き民家。
1804年、江戸後期に建てられた長浜市鍛冶屋町の当時庄屋であった草野家を移築再現しています。
表側のみ棧瓦の庇が懸けられて居ます・・・現在、江戸から明治にかけての民具を生活そのままに展示している。
右脇にも四方葺き下ろしの民家が移築され、古くから受け継がれてきた機具や資料により、浅井の養蚕と製糸の歴史を紹介する「糸姫の館」と呼ばれています。
一方、歴史民俗資料館から北のほう、高台の集落を見ると茅葺き屋根の様に見えたので近くまで見に行って来た
すっかり夏草に覆い尽くされた抜け殻、大きい湖北型葦葺き民家なのだが、このまま朽ち果てるに任せてしまうのだろうか??
撮影2015.6.27