愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大津市 坂本の石仏 

2015年02月28日 | 石仏:滋賀

大津市坂本、西教寺近くの道端に祀られて居る阿弥陀石仏??。

あの日吉大社のすぐ近く、西教寺の門前を東に過ぎると小さな谷川橋を渡った右手に小石仏や五輪の残欠などを集めた集積が有る。

地元では、なんと呼ぶのか?ネットを探しまくってもなんの情報もなく、名無しの権兵衛・・・・

その中央に一体だけ明らか群を抜く一回り大きな如来型石仏が有る。

総高1m弱、荒削りな舟形状に加工した自然石に結跏趺坐し、力量の有る体躯の如来石仏が刻み出されて居る。

見たところ弥陀定印を組んで居そうなので、阿弥陀如来だと思いますが・・・

この辺は元比叡山延暦寺の里坊が有り、信長の焼き討ちに遇ったところ・・・

焼け出された石仏たちが今でも地中から出て来る事が有り、それらを集積したものだろうが・・・・。

近く「八講堂の千体地蔵」と呼ばれる中にも大きさは随分違うが、良く似た阿弥陀石仏が有り、鎌倉時代の造立とされて居る。

撮影2012.10.16


葛城市 当麻北墓の石塔

2015年02月27日 | 石塔:石造物

昨日に引き続き、当麻北墓に建つ石塔を二基。

古道在所道脇に建つ地蔵堂の裏、墓地参道脇に最近整備された基壇の上に・・・・・

中将姫の墓と書かれた石碑が建ち、三重層塔と十三重石塔が並び建っている。

 もとより造立年代と中将姫との時代が全く合わないので後の世に墓塔とされたものだろうが???

高さ285cm、四面共に粗面の一石切石基礎に建ち初層軸部に縁取りの中、舟形を彫り沈め中に像高25cmの蓮華座に座す、顕教四仏を半肉彫りで刻み出す。

これは正面、西面の阿弥陀如来坐像・・・

南面の釈迦如来坐像・・・・

 

 屋根石は分厚く重量感があり、両端で反り、鎌倉末期の造立だと考えられて居る。

 一方向かって左側に建つ三層石塔は相輪を欠失し、新しい五輪塔の風・空輪を載せている。

初層軸部に大きく深い金剛界四仏の種子を薬研彫りにする・・・・凝灰岩製の高さ156cm、無骨で野趣豊かな平安時代後期の造立とされて居る。

 古道脇に建つ自地蔵堂には木造の彩色が残るこんな半跏座地蔵菩薩像

撮影2012.10.10


葛城市 当麻北墓の五輪塔 

2015年02月26日 | 石塔:石造物

当麻北墓に誰が見ようが古式の五輪塔が建っている。

当麻北墓は當麻寺の山門を右折、古い在所道を道成に10分も歩くと、旧「造り酒屋」の茅葺き民家が有り・・・・

その裏手に当たる処にこの地域の広大な惣墓があり、一画に見慣れぬ棗型の水輪を持つ五輪塔が、異彩を放って建って居る。

高さ2.4m、四門梵字は位置が移動しているものの雄渾な薬研彫りで刻まれ・・・

地輪は低く安定感が有り、火輪の軒は無骨に厚く、軒ぞりは緩やかで、水輪は大きく棗型。

見慣れた五輪塔とは一線を画し、どちらかと言うと宝塔に近い感が有る。

古式な造形から平安時代後期の造立と考えられ、大和最古の五輪塔だとされて居る。

撮影2012.10.10


太子町 竹之内街道の地蔵石仏

2015年02月25日 | 石仏:大阪

竹之内街道を急ぐ人達を優しく見守る様にと建てられたで有ろう地蔵石仏。

ちょうど古道竹之内街道を太子町方面から登って来ると・・・・・・

「二上山万葉の森脇」を通って新竹之内街道(国道166)に出会う付近に建っている。

石仏は大きく等身大、花崗岩自然石に補足尖った舟形光背を深く彫り沈め、中に蓮華座に立つ定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出して居る。

穏やかで優しい顔ですが・・・どうもイマイチ気迫が足りないのは時代のせいでしょうか??その造立は江戸初期の慶安四年(1651)の名が確認されて居ます。

舟形枠の左右には道しるべが彫り刻まれ、道行く人達に行く手を指し示していた地蔵さんの様です。

撮影2006.10.14


太子町 大道の阿弥陀石仏

2015年02月24日 | 石仏:大阪

竹之内街道、大道集落の斜面に残された阿弥陀石仏。

古代、官道として整備され、聖徳太子も飛鳥への道を急いだろう・・・・竹之内街道。

古道の歴史に想いを募らせ、景観を愛で歩く人は多いが・・・・・・・

頭上高くにあるこんな石仏に目を留める人など皆無・・・・・まぁー知っていなきゃ見えません

石仏は概ね1m足らずの花崗岩自然石に舟形光背を彫り沈め中に弥陀定印の阿弥陀如来坐像を薄肉彫りで刻み出す。

急傾斜地の断崖上に有り、なかなか人も近寄り難く、すっかり苔生し、ちょっと可哀想なな状態に成って居ます。

因みに室町期の造立だと言う事です。

撮影2012.10.10


太子町 泥掛け地蔵/隔夜堂阿弥陀石仏

2015年02月23日 | 石仏:大阪

太子町、叡福寺近くの石仏を二体ほど・・・

叡福寺前の府道を西へ約1km、道成りに進むと大井川橋を越え、次の点滅信号の左手に立派な地蔵堂が建っている。

堂内はコンクリートの打ち放しで開放感のある造り、供台を設け飾り窓越しに拝む様に成っている。

しかし板1枚挟んで奥もオープンスペースに成っており、自由に石仏と真近に対面できる。

高さ1.4m、頭の丸い舟形光背を背負い、蓮華座の上に立つ定形地蔵立像・・

皮膚病祈願の泥掛け地蔵として名高いようだが・・近年は泥を掛けるようなことは無くなったが・・・

顔を撫で摩る様になったのか??顔がピカピカ・・・形式化された連弁、像容から室町末期の造立とされて居る。

一方叡福寺前まで戻ると南大門に道路を挟んで対峙にこちらも立派な隔夜堂と呼ぶ御堂があり、中に立派な阿弥陀石仏が祀られている。

しかし大阪の石仏は得てしてこんなもん、正面は格子扉にしっかり錠前・・・その上丁寧にも隙間程度の御簾をかけおまけに地蔵のお前立ちを置いている。

どうしてもこれ以上の画像は望むべくもない。

隔夜堂 阿弥陀石仏(府指定文化財、鎌倉時代初期)は高さ1.1mの舟形光背を負い、蓮華座に座す像高72cmの定印を持つ阿弥陀如来坐像を、厚肉彫りで刻み出している

撮影2012.10.10


太子町 叡福寺の層塔 

2015年02月22日 | 石塔:石造物

 

聖徳太子ゆかりの叡福寺には、他ではあまり見れない様な古石塔が二塔もある。

 「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子御廟所としてよく知られているが、天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。

その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。

 二つある古式な豊かな多層石塔の内、叡福寺墓地にあるこの塔にはゆるぎ無い存在感がある。

高さ約2.5m、簡素で古式な五重石塔は初層以外の軸部が極端に低く、こんなに歪んでいても何とか安定を保っている。

凝灰岩系の軟質石材で荒削りな造りや全容から平安時代後期の造立とされて居る。

一方太子廟を挟んだ右手には、融通念仏宗「宗祖 良忍大師御廟」が有り・・・

その前方、石柵で囲まれた中にも古風な三重石塔が建っている。

高さ約等身大程、前記の層塔と同じく凝灰岩性での簡素な造り

力強く感じるが最上段に乗る双輪は全くの後補でいただけない。

 これは多分本来ここに有ったのでは無く、境内の他の場所に有ったものを、供養塔として移動し来たのでは無いだろうか??

現在は三重塔だが屋根の形もちょっと不自然・・・・前期と同時代の物だとは思われますが??

撮影2012.10.10

 


太子町 叡福寺結界石/地蔵石仏

2015年02月21日 | 石仏:大阪

 

結界石と呼ばれる太子廟を取り巻く様に立ち尽くす板碑列

 

 太子町「叡福寺」は言わずと知れた聖徳太子ゆかりの地・・・・

聖徳太子一族(生母穴穂部間人皇后、太子夫人膳部大郎女と本人)が眠る三骨一廟の太子廟があることで広く知られて居る。

聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定され・・・

江戸時代までは参拝のために石室内に入れたらしいのですが、明治に入り入場が規制され、明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋められてしまったようです。

しかし墳丘の周りを埋め尽くすように二列の結界石と呼ばれる板碑が並び建っている。

板碑は何れも観音の種子を刻み、頂部山形板碑ですが内部二列目と一列目とでは造立期が明らかに異なるよです。

全体で490本あると言われていますが圧巻です。

一方、叡福寺の墓地に立つ二体の地蔵石仏は

共に等身大で頭上に蓮華紋の刻まれた舟形光背を背負い蓮座の上に立つ。

向かって左側の地蔵石仏も・・・

 向かって左側に地蔵石仏も、共に室町末期の弘地(1555~)年号を持つ。

「永福寺」は中世に於いても衰退することなく、特別な「太子信仰」を持ち続けて居たのだろうか???

撮影2012.10.10


長岡京市 神足墓地石仏群

2015年02月20日 | 石仏:京都

長岡京市、神足墓地の大きな丸彫り石仏群。

JR長岡京市と阪急長岡天神駅に挟まれた神足小学校脇の広大な惣墓、その入口辺りに、ほぼ等身大坐像の石仏が並び立つ姿は、他で目にすることがなく圧巻・・

墓地入口右手には新しく造られた現代風基台の上に六体地蔵としては珍しい坐像石仏が横一列に並んでる。

六体地蔵は時代や地域に拠っていろいろなものが造られ、呼び名もまちまちだそうですが・・・・・ここでは右端に、宝珠を抱くもの・・・

二体目は如意を持つ・・・・

 三体目は幡を持ち

 四体目は錫杖を持つ・・・・それぞれ六道輪廻の役割を与えられた地蔵石仏・・・

蓮華座に坐し像高凡そ等身大と大きく重量感が有る。

中央龕前堂前の植え込みを背にして十王像の内五王が並んでいる・・・・元々五王だけだったのだろうか??ちょっと不思議な気もしないでは無い・・・

中央に大きく閻魔大王・・・

向かって右端の司録(平等王)

 左端は司命(初江王)と言う事らしい・・像高は共に六体地蔵に等しく等身大、ただ中央の閻魔大王だけは1回り大きくなって居る。

六体地蔵並びの奥には釈迦と阿弥陀の二体の一際大きな坐像石仏が並んで居る。

向かって左に弥陀定印の阿弥陀如来、右には釈迦如来・・・・

こちら釈迦如来ですが・・・・総約1.4m高、江戸時代の特色ある蓮座に座して居られます。

背には尊名と多数の結縁者名を刻むが紀年銘は刻まれて居ない。

しかしこれらは誰が見ても江戸後期の造立・・・・これだけの石仏が一同に会してるのは珍しく、庶民信仰が具体的な形として残された石仏群です。

撮影2012.10.7


長岡京市 海印寺寂照院の地蔵石仏

2015年02月19日 | 石仏:京都
 
長岡京市奥海印寺の寂照院と言う寺に残された中型の箱石仏。
 
 
あの長岡天満宮前の信号より車で約5分、奥海印寺通りを西山方向に1.5km、奥海印寺の走田神社を背に負う様に近代的建築物の海印寺寂照院が建って居る。


新興住宅街に囲まれた山門を入ると真新しい寺墓があり、その入口と思しき辺りに簡素な堂を設け、石仏が安置されて居る。
 
 
石仏は所謂面取りをした枠を残して彫り沈め、中に地蔵立像を刻む石龕仏。
 
 
真新しく造られた基台に乗る高さ75cm、しかし笠石も全く違う石質で本来のものでは無さそう??。
 
 
像高55cm、蓮華座に立つ定形地蔵立像ですが、龕内奥壁には三茎蓮を活けた花瓶を良足元に配し珍しい。
 
その様式から南北朝期の造立と考えられて居ますが、大和地域で多く見られるこうした石龕仏も京都地域では珍しい。

撮影2012.10.7


長岡京市 長法寺の石塔

2015年02月18日 | 石塔:石造物

長岡京市、西山麓の天台宗長法寺に建つ二基の石塔。

長法寺は、寺伝によれば、七堂伽藍も整い十二坊もある洛西での大寺だったが、応仁の乱で悉く焼失したといわれている。

境内脇の真新しい洒落た庫裡を背に、切石枠に玉砂利を敷き詰めた基壇の上に古風な三重の石塔と宝筐印塔が並び建って居る。

 宝篋印塔は、南北朝時代前期頃、高さ1,72mの花崗岩製・・・・

古風で一見華奢にも見える三重石塔は、高さ2,05mの花崗岩製。 

丸みを帯びた屋根石や軸石には穏やかで独特な雰囲気が感じられ、初層軸石には舟形光背の中、四方仏が刻まれて居る。

正面を西向きに立つ三重石塔は、長法寺開祖、千観上人の供養塔だと伝えられて居ます。

撮影2012.10.7


大山崎町 山伏塚の大日さん

2015年02月17日 | 石仏:京都

一見、大日如来なのか?阿弥陀如来なのか?判然としない古石仏・・・・・大日にも阿弥陀にも見える。

阪急京都線「西山天王山」駅を線路沿いに約500m程大阪寄りに行くと、田畑の中にこんもりとした緑の杜が有り・・・・・

中に簡素な横長の覆い屋が有り、大小二体の石仏が祀られて居る。

見たところ、大日如来の宝冠なのか?阿弥陀如来の肉髻が大きく盛り上がって居るのか ??それではとちょっと失礼、涎掛けをたくし上げると・・・

蓮座に結跏趺坐・・・・・早速手印を見るが、胎蔵界大日の法界定印を組んでいるのか?弥陀定印を組んでいるのか?やっぱり判然としない。

まあ、「山伏塚の大日さん」と呼ばれて居るようだからそれに従っておきますが・・・・

 因みに高さ約1m、幅広で頭の丸い舟形光背をを負い、鎌倉後期の造立だと言われて居ます。

この石仏に纏わる昔話は・・・ 

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その昔、時代は江戸末期の天保(1830~1844年)のころ。円明寺村(大山崎町円明寺)に農業を営む兵左衛門の家が火事で焼けた。

兵左衛門は、どうして家を直そうかと考えあぐねた末、先祖代々耕してきた山伏(円明寺の小字名)の土地を、同じ村の弥衛門に買ってもらうことにした。 

その次の日からだ。弥衛門の夢まくらに大日如来が立つようになったのは。そして如来は呼び続けた。

 「兵左衛門、早く帰してくれ」 兵左衛門が手離した土地の中に“山伏の塚”という小さな森があり、この中に大日如来地蔵がまつられていたのだ。 

気の毒な弥衛門。この大日如来の毎夜の出現に気味悪くなって兵左衛門と相談、「たたりでもあれば恐ろしい」と、結局、元どおり兵左衛門の所有地として、この大日如来地蔵を守っていくことにした。 

この「兵左衛門早う帰して」の話は、やがて村中に広まった。その後、この森の神木といわれるカキの木を切り取ったため、災難にあったという話や、また、不治の病にかかり医者からも見離された村人が大日如来に日参、おかげで完治した話などが伝えられた。

村人の間では 「粗末にするとたたりが恐ろしいが、大切にまつっていると、願いをかなえて下さる」と、この“山伏の塚”を訪れる人が増え、いつしか“大日さん”の呼び名で、村の地蔵さんとして親しまれるようになった。

因みに小石仏はこれ・・・

撮影2012.10.7


大山崎町 宝積寺の九重石塔/他

2015年02月16日 | 石仏:京都

 

今にも倒れて来そうな程、弓なりに建つ九重の石塔。

天下分け目の天王山、その中腹建つ宝寺(たからでら)と呼ばれている真言宗智山派寺院。

<宝積寺三重塔(重要文化財、桃山時代 慶長九年 1604年建立、本瓦葺、高さ19.5m>

山崎の合戦の折には羽柴秀吉が一時この寺を陣所とし、山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したという「秀吉一夜の塔」は良く知られている。

そんな本堂に向かって左脇、見るからに不安定な石塔が建っている。

宝積寺は、奈良時代 神亀四年(727)に聖武天皇の勅願寺として僧「行基」開創・・・、石塔には聖武天皇御塔の伝承がある。

 九重石塔(町指定文化財)は、元、五重であったといわれ・・・良く見ると上層三笠は確かに違う、そう言えば三層目の屋根石も明らかに違う様な気がする。

初層軸部には四方仏・・・正面には二重光背形を彫りくぼめ、中に薬師如来坐像を半肉彫りする。

四層目軸部には仁治二年 (1214)の銘があり、鎌倉時代中期の造立。

一方こちらは境内脇、「秀吉一夜の塔」近くで見掛けた石造物。

小石仏は殆どが室町後期から・・・・

 江戸初期までの物が多いような気がします。

眼下に木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川と成る景観を見渡せる。

撮影2012.10.7


長岡京市 弥勒谷十三仏

2015年02月15日 | 石仏:京都

柳谷参詣道から、古刹「乗願寺」への岐れ道角に有る石仏。

道路際の岩斜面に弘法大師像を中央に置き、その背後に苔むした石仏を配している。

僕達が見慣れた十三仏は大抵一石に十三仏を纏め、種子か小さな像で3列4段に並べられてる物が多い・・・・・。

しかしここでは十三仏の一尊ごと、単の石仏として表されて居る。

しかしこれがどういう並びに成って居るのか?まとわり付く苔と、石仏には何でも涎掛けと言う庶民信仰のおかげで全く像容も覚束なく、何が何様やら???

中央は不動明王??、まあしかし、石仏として取り上げるには余りにも大量に類似仏の多い江戸期の石仏さん・・・・石仏の有る景観としては楽しめるかも??。

撮影2012.10.7


長岡京市 浄土谷の大日如来

2015年02月14日 | 石仏:京都

京都西山山間部、柳谷観音道途上、山中に有る石仏さん。

長岡京市街から約15分、4.5km、柳谷道から分かれ、古刹「乗願寺」への道をしばらく行くと左手に、それと判る案内板が立っている。

竹藪道を100m程も歩けば、竹藪斜面に自然石と笠石を組み石龕を設け・・・

中に智挙印を組む大日如来を安置している。

大日如来石仏は座高63cm、背部に光背面が有った痕跡がのこって居る。

膝から下は土中に埋まり確認できないが、蓮華座が有るらしい・・・・。

智挙印を組み結跏趺坐する金剛界大日如来石仏など奈良文化圏では見たこともないが・・・・流石にここは京都文化圏。

全体の像容から鎌倉期の造立・・・・・・・、もう全く人跡も途絶えた藪中で人待ち顔の大日如来でした。

撮影2012.10.7