愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市 元興寺(がんごうじ)の石仏

2011年06月29日 | 石仏:奈良

元興寺は興福寺や東大寺の有る奈良公園南側に位置する、奈良町の古い町並みの中に有る。

元は飛鳥大寺(法興寺)として明日香の地にあり、平城遷都と共にこの地に移転された官大寺ですが後荒廃、現在極楽坊と呼ばれる堂宇と僧坊を残すのみです。

それでも元興寺は世界文化遺産にも登録され・・・

その屋根瓦には今も飛鳥時代のものが見られるほどです。

そんな境内にはあちこちに古石仏が集められ、えも言われぬ景観をかもしだしています。

NETでは良く紹介される桔梗の中の地蔵菩薩立像・・

大和東山方面では良く見かける切れ長の眼の地蔵さん。

黄色い蛇の目草の咲き乱れる中にも地蔵さん・・・

こんな箱型双体石仏さん

通路脇にはこんな地蔵や・・

こんな地蔵も・・・

ここは南都における浄土教発祥の聖地としていかに地蔵信仰が盛んであったかを偲ばせる。

かたや東門南側には 京終(きょうばて)の南、肘塚町にあった石仏が移転安置されています。

その不動堂の本尊として祀られていた不動明王

こんな大笑面のような不動明王など見たこともない・・・・・庶民的な不動さん、親しみ湧きますよね・・・・・。

両脇に瓶華を配した・・・、これは阿弥陀さん??

どうも童顔過ぎて阿弥陀らしくも無いが・・・・右手もなにやら怪しいけどなあ???

こちらは辻にあったと言われる石仏さん。

これもやっぱり阿弥陀さんのような・・・

何せ脇にあった看板がこんな状態・・・・。

撮影2008.6.15


枚方市 尊延寺(そえんじ)阿弥陀三尊磨崖石仏

2011年06月29日 | 石仏:大阪

最近、石仏を訪ね歩いていて、非常にショックなことが有りました。

40年ほど前の情報を頼りに探していた石仏が20年ばかし前に盗難に逢ってしまい「多分海外にでも売り飛ばされてしまった」・・・と言う事実に出くわしました。

僕達石仏ファンの紹介する石仏がそういう心無い人たちの一助を担っているとしたら本末顛倒・・・・、僕のページでも盗難や迷惑のかかりそうな文化遺産の紹介には十二分に気を使い、場所の特定はしないようにします。

この石仏も民家庭の一部に在って迷惑がかかりそうなので場所が特定できるようなことは伏せておきます。

大阪から京都南部の山城を抜け東近江へと至る大阪京都の府境近くに尊延寺集落が新旧混在して建ち並んでいる。

そんな民家の片隅に廃遍照寺の遺仏だと言われる阿弥陀如来三尊磨崖石仏がある。

斜面から突き出した高さ約2m足らずの岩に約1mの舟形光背を彫り沈め、中尊に厚肉彫りで像高約80cmの来迎印阿弥陀如来立像・・・

脇侍にはそれぞれ約40cmの勢至、観音の両菩薩を刻み出す。

三仏共にふっくらと表情豊かな顔容だが鎌倉期の様な力強さには欠け・・

南北朝期の造立だと考えられています。

保存状態は悪くなく、余り厳重に管理されるのでもなく往時の面影も残り、家人のセンスの良さが偲ばれる。

快く拝観させていただき感謝です。

撮影2011.6.15


上野市鍛冶屋 浅間(せんげん)さんの磨崖石仏<更新>

2011年06月28日 | 石仏:三重

何処で撮影したものか??はっきり憶えていないが取りあえずUPしておきます。

伊賀市の余野の花垣神社から同じく伊賀市市部の垂園森に向かう道中で撮影したものに間違いないのですが???

いつもの癖でアチコチ寄りながらの移動なので最短距離を走るわけでもなく・・・

小川に沿った田舎道、山手から川の流れが有って合流する付近に小さな堰が設けられ向こう岸のコンクリート擁壁を造るのに邪魔になったのか切り離された磨崖石仏が擁壁から突き出したコンクリートの土台に載せられ祀られている。

凡そ2m角ぐらいの岩肌に舟形光背を彫りくぼめ像高1m近い地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻み出している。

連座の上に立ち、丸顔で優しそうな顔つき、スマートな体躯で右手には大きな錫杖、左手には宝珠をもっている。

案内板も無く近くに民家も無いが真新しい花が手向けられていたので近くの集落の信仰の対象で有ることには違いない。

再度確認しようと思っているが、ご存知の方が居られましたらお知らせください。

この辺だとは思いますが、地図のポイントに自信はありません。

撮影2008.4.20

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此処から下部は再度訪れ確認してきた時のものです。

場所はここでした・・・。

地域での呼び名は浅間さん・・・・、富士講の名残で大峯山や富士山に上る前に此処で水垢離して身を清めたと言う。

上流域に開発されたゴルフ場のおかげか水は濁り、とても水垢離場だったことが想像できるような状況では無い。

今回行ってみて向かって右側面にも地蔵の半身ほどの阿弥陀が刻まれているのを再確認してきました。

像容に共通点が見られ同時期に刻まれたもののように見受けます。

つい傍の道を挟ん反対側には簡素な地蔵堂があり・・

腰折れ地蔵と呼ばれる地蔵立像箱石仏が祀られています。

良く見ると顔の形が磨崖のものと良く似ていませんか??

撮影2011.4.17


大津市 長安寺牛塔

2011年06月28日 | 石塔:石造物

車ではこの寺に横付け出来る道は無い・・・・。

そのためか大津市街の中心地近くに在っても訪れる人も殆ど無く、小さな庫裏に人の気配も無かった。

市街地近くとは言え森閑とした中に建つ本堂にはセンサーがついてて、僕を感知すると不審者でも威嚇するような読経だけが虚しく流れる・・・・。

簡素な本堂の前には時代を経たような牛の置物。

京都から大津市街地に向い逢坂山を越へ、家並に出くわした辺りの左手、山の斜面に長安寺はあるが、この付近屋並みが建ち込み進入駐車共に不可能です。

寺は家並を越え「京阪京津線」の線路跨いで参道が続き、線路を越えるとすぐ左手空き地奥に巨大な宝塔が建つ。

窓を開ければ届きそうな位置には一昔前のアパートが建ち・・・、なんとも地元文化財行政のお粗末さを感じないわけには行かない。

往古、付近に有った大寺「関寺」が天延四年(976)の地震で大破、復興に際して使われた一頭の牛に霊牛であるという噂が立ち、その死後、その供養のために造立されたという。

後、関寺は焼失し衰退、江戸時代初めには長安寺へと名前を変え、石塔もこの寺へと引き継がれることになって現在に至る。

宝塔は信楽焼きの無骨で巨大な茶壷のような塔身上に六角笠を載せ、その頂に宝珠を置くと言う素朴さで野趣に富む。

宝塔の塔身は見事で実に堂々としたカーブを持つ花崗岩製、 基礎部は何故か八角形

 

剛健、素朴なこの牛塔は高さ約3.5m、鎌倉初期の造立、重要文化財に指定されている。

石造宝塔としては最大級とされている。

撮影2011.6.19


高島市安曇川町  満願寺跡宝塔(鶴塚塔)

2011年06月27日 | 石塔:石造物

安閑神社と目と鼻の先 、神社のある道筋の先、次の辻を右に廻れば民家の軒先狭い空間に巨大なそれは建っている。 

琵琶湖の周り、特に湖西の安曇川付近には優れた宝塔が集中しているような気もするが??・・・

石塔には門外漢の僕も興味は有って、石仏と共にある石塔などには良くお目にかかるが、これほどの見事なものは珍しい。

この地は満願寺と呼ばれる廃寺跡で、この宝塔もその遺物なのでしょう。

県内きっての規模だと言われる宝塔は総高約4m、台石の1辺約1.5mそれでも頂部の相輪は、後補でやや低く造られ、元々の高さはもう少し高かったようです。

素人目にも軸部と笠部にかけてのバランスが良く、鎌倉中期頃の造立だと考えられているようです。

軸部には並座する阿弥陀のようにも見える??二仏が彫られている。

宝塔にまつわる民話は・・・。

撮影2011.2.20


高島市安曇川(あどがわ) 安閑神社神代文字石他

2011年06月26日 | 石塔:石造物

琵琶湖湖西、安曇川近辺には継体天皇に纏わる史跡も多いが、JR湖西線安曇川駅近くの北出集落にはその子、安閑天皇を主神とする神社があり、境内傍に「神代文字石」と呼ばれる見慣れない象形を線彫した石が置かれて居る。

「神代文字石」とは言え、文字と云うより子供のイタズラ書きのようにも見えるそれはペトログリフとも呼ばれ、当時の事象をシンボライズした形で表しているとも言われて居る・・・。

ここでも、はてさて・・・・、安閑天皇を主神とする此の安閑神社は式内社でもなく村の小さな鎭守に過ぎない。、

この「神代文字石」も近くの小川で橋桁に使われていたそうで、出所は全く不明だとか??・・・

蕨手紋のように見える触手のようなもの、方形渦巻きのような形、波頭のようにも見える下方三角形・・・・

興味深いが其処から先に進めない・・・・・、いずれ人工的に何かの目的が有って刻まれたものには違いない。

安山岩と言う比較的軟らかい石に浅く削られたものにしてはかなり保存が良いようにみかける。

傍らには力石と呼ばれる・・・・・、これはただの、のっぺら坊。

撮影2011.2.20


奈良県橿原市 益田岩船(ますだのいわふね)

2011年06月25日 | 石塔:石造物

 

益田岩船(ますだのいわふね)と呼ばれる古代石造物が明日香の陵墓が並ぶ明日香歴史公園から西方へ2kmほど離れた丘陵頂上付近に有る。

白橿(しらかし)南小学校脇に立つ案内板通りに山道を約10分、鬱蒼とした竹林にぽっかり空いた空間に無造作にある。

 

この巨大な人工の石造物は亀石・酒船石などと並ぶ飛鳥の謎の石造物の一つともされ、古くから注目されて来たようですが・・・・・

やま腹に取り残されたように有る巨石造物は東西約11m、南北約8m、高さ約5m弱・・・ご覧の様にばかでかい花崗岩の石塊。

真近に見上げれば・・・、まるで亀の甲、いや恐竜の背を思わせる格子状の幾何学模様・・・・これは一体何??

その上部には頂部に繋がる深い溝??

頂部は平らに削り取り、縦横1.5mの近い長方形と正方形の孔が約1.5m近く彫り下げられ・・・・、これは全く何をしようとしたものなのか??

造られた時期や目的などが一切不明・・・・・・謎は謎を呼び、奇想天外な説も飛び出す。

いずれにせよ近世の造作では無く・・・・、古代のものであるとするならば、所詮現代人の頭では解き明かせないかも??

因みにその重量は160トンもあるとか??

 

詳しい説明はここから・・・・はてさて、世の中には解らないものが一杯あって・・・・。

撮影2008.11.9


伊那遠山郷 下栗の里

2011年06月24日 | 街道街並集落 景観 

ひと時「日本のチロル」と呼び習わされ、持て囃された南アルプス山塊の山肌にしがみつくように民家が点在する集落です。

ここは信州遠山郷下栗の里,遥か眼下をながれる遠山川は標高570m辺り、此処下栗はその谷底から更に300~500m上に有る、まさに天空の村です。

此処は長野県飯田市上村、中央道飯田ICを降り一路南アルプス向け県道251からR474の矢筈トンネルを越し、R152へ合流、上島トンネル直前で右折、うねうねと山肌をを登る事となる。

ここまで飯田ICより約1時間半のドライブ・・。

集落は山肌を蛇行して登る道沿いに三々五々建ち並び、否、三々五々建つ民家を縫うように蛇行して上へ上へと伸びている。

この高度まで来るとさすがに棚田ではなく段々畑、僕の行った7月にはトウモロコシや豆が元気な緑を見せていた。

段々畑は民家を取り巻く斜面に広がりこんな山間僻地にも係わらず家屋はすべからく新しく廃家など見かけなかった・・・・。

上から覗き込む遠山川の谷底は遥か下界を流れ、やがては天竜川へと合流する。

このとき僕は近くの赤崩沢のトチノキを見に行くついでに立ち寄って見ただけで、それほど時間を掛けなく惜しいことをしてしまった。

充分な時間を掛けてゆっくりこの天界の集落を探索してみたいもの・・・・。

しかしまあ良くもこんな「天空の里」にも生活の場は在るものだと不思議な気さえなる・・・・・

下栗の里は2009年「にほんの里100選」にも選ばれた。

撮影2009.7.18


滋賀県彦根市 武奈(ぶな)

2011年06月23日 | 街道街並集落 景観 

ここは同じく霊仙山中に在っても多賀町には属せず行政的には彦根市武奈町と成って居る。

明治時代にはふもとに有る鳥居本村の一集落と成ったが遥かに遠い山間僻地、今でも車で走って約30分弱。

集落は林道から谷を少し下った平地に在って斜面には棚畑が有った事を窺わせる石組みが残って居る。

ここも昭和末期頃、限界を越えてしまった集落・・・

この集落は明るく拓けた谷間に在って日当たりも良く妙に明るい印象が残る。

当時から電気や車でのアクセスには問題なかったようですが・・・、やっぱり冬季の雪には勝てなかった様です。

当時を偲ばせ原形を留める民家はわづかに2~3軒・・・

此の廃屋には未だ仄かな生活の名残が・・・

農機や運搬機の残骸

山の緑は容赦なく建物を飲み込もうとする・・。

集落最奥,山裾には若宮神社

社の傍らには大破した神木であろうケヤキの巨木・・・・、何とか主は未だこの地に留まり続けている。

痛々しい程に大破、それでも社付近は整備が行き届いていた。

境内脇から厳因寺(ごんいんじ)に続く道にも原形を留めた民家。

その先には厳因寺、縁側にはずらりと並ぶ涎掛けの小石仏。

まだまだ真新しく見えるものも有って・・・・

境内から見える集落は

濃い緑のなかに

走る事を忘れた車の上を夏の風が渡る。

撮影2011.6.5


滋賀県多賀町 霊仙今畑(りょうぜんいまはた)

2011年06月22日 | 街道街並集落 景観 

この集落へは今でも車の入る道はない。

霊仙ふもとの霊仙落合集落まで通じる県道17号線、もうすぐ落合集落だという少し手前に小さな物置小屋が在り、その対面山裾に集落へ登る山道がある。

ここは霊仙山への登山口にもなっていて週末ともなると登山姿のハイカー達にも良く出逢う。

県道分かれの山道をジグザグに登り詰めること約15分ばかし・・・・

しかしこんな山道を毎日毎日学校に通ったり、日々の暮らしに歩いてたのかと思うと、なんとも時代感覚が狂ったかの様な錯覚に陥らざるを得ない。

初老の僕が山肌を程良く登り疲れた頃、集落の辻、村の人達の憩いの場であったであろう??大きな台杉の立つ水場に到着。

目の前は集落を横切るように伸びる道・・・・・苔むした石垣・・・

崩壊を拒む様にして建つ土蔵??

ここ霊仙今畑は標高420m,最大戸数17戸,限界を越えたのは約30年前の昭和54年。

しかし水場には平成15年11月9日衆院総選挙のポスターが残されていた・・・・、つい7~8年前までは誰かが住んでいたのだろうか??

少し登ったところにある宗金寺・・・、まだまだ手入れも行き届き建物も健在、奥には崩壊を逃れた土蔵。

宗金寺屋根越しに見る集落。

土蔵の建物はさすがに丈夫で・・・・・

何とか原形を留めているようですが・・・・・

しかし程なく山野に飲み込まれて行く運命かも??

たった一軒、今にでも声の聞こえてくるような民家が残っている。

傍らの蔵には憩いを偲ばせる様なアンテナ・・

他の建物は大きく大破、生活の場を山の緑が飲み込んで行く・・・

黙して語らず・・・村の歴史は小さな一石五輪と江戸期の小石仏。

集落上手の石積み段々畑には放りっぱなしの梅の木。

廃屋の山野に帰した庭先には群落のエビネが満開。

ここは海抜420m、集落入口の県道からは約100mも山襞の上。

撮影2011.6.4


滋賀県多賀町 五僧(ごそう)

2011年06月21日 | 街道街並集落 景観 

五僧はその昔、山の向こう側、美濃の時山から五人の僧が移り住んだのが始まりだと言われる滋賀県東部の鈴鹿山中、岐阜県、三重県、滋賀県、3県境が交わる辺りに有る峠の集落です。

此の鈴鹿山中奥地の人里離れた寒村も例に洩れず人声が途絶えて久しく・・・、人が居なく成ってから永らく経った去年の春に集落横を岐阜側に抜ける立派な林道が開通したと云うお粗末さ・・・・(しかし訪問したとき、既に峠の向こうは通行止めでしたが・・・)

国道306号線大君ケ畑(おじがはた)より通じる権現林道を一路道なりに北進、ここまで約15分ほど、道は比較的快適。

新しく付けられた権現林道から分かれる林道時山多賀線もすっかりこのざま・・・・

まあ、災難は自己責任って事で・・・・(別に此処は通行止めじゃなかった)

 

<車載カメラから・・・、上は峠方面向き下は逆方向帰り道>

五僧ふもとで道は大きくY字に別れ、登れば五僧峠を越え大垣岐阜方面へと続き、峠口には五僧の集落。

現在二戸の民家が残っており、そのうち一戸は今でも手入れが良く行き届き、そのままでも住めそうな・・

それでも奥には朽ち果てた廃屋の残骸

まだまだ新しく見えるトイレ??

一見しっかり見える母屋もこんな感じで・・

行政の記録では昭和50年頃最後の住民がこの地を去ったというが・・・もうそれから約25年。

傍らにはこんな姿の建物・・・・。

新しく出来た林道脇の民家には・・・

すっかり役目を終えた洗濯機・・

車の入る道が無かった当時はどうして此処まで運んで来たのだろうか??

学校は遥か3km下流の保月にまで通ったとか・・・それも昭和44年4月より休校、現在では建物もない。

当時この集落にはどんな生活があったのだろうか・・・・思うに過酷過ぎる。

山蛭の多いこの地で子供達は3kmもの山道、谷道を通学していたという、ましてや冬の豪雪には・・・・。

帰りざま見かけた墓地には真新しい墓石・・・ふるさとまでは捨てないとでも言うかのように・・・

五僧のいわく因縁はこの説明板で

ここから河内集落に抜ける権現谷に流れる水はとてつもなく澄み切り、したたる緑は見る目には鮮やか過ぎるほど。

撮影2011.6.5


滋賀県東近江市 茨川(いばらがわ)

2011年06月20日 | 街道街並集落 景観 

NET地図で検索するとしっかり出て来るのですが、すっかり姿を変えてしまった集落です。

<国道421号と茨川林道の分岐点>

<茨川林道・・、上の3枚は車載カメラの駒落とし>

八風街道と呼ばれる国道421号線、黄和田より延びる茶屋川沿いのダートな茨川林道を遡ること約15km、凸凹だらけの曲がりくねった道を約30~40分程・・・

集落を直前にして突然道は川岸でストップ、いつ流されたとも解らない橋の残骸が川の真ん中で取り残されていた。

此処まで山奥に来ると緑はやけに濃く、流れは早く、あくまでも清い・・・、集落は橋の向こう岸、山小屋風の建物がこちらからでも見える。

鈴鹿山脈の最奥地・・・・昭和40年、最後の住民がここを離れるまで此の集落に電気が届くことはなかったという。

梅雨の長雨で水糧と流れが増した川は長靴に履き替えた僕の足を簡単に濡せた。

川岸に沿って分校跡地に建つ山小屋風の建物・・・

その奥にはたった一軒残された当時の民家

青いトタン屋根にスッポリ包まれ、今は山岳部の山小屋と成って居るようですが・・・・

最近使われた形跡は見いだせなかった。

脇道を通り廃屋跡から川岸に出ると対岸の河原に埋もれたように建つ素木の鳥居・・・

奥の斜面にに続く石段、正面には鎭守、天照神社の簡素な社殿。

廃村化してから既に久しく約50年弱・・・・、しかしとてもそうは感じられない佇まい、未だに誰かが・・・、いや元住民の方が整備に来られているのだろう??

帰ることの出来ない故郷への郷愁はいかばかりか・・

余所者がこの地に立って滅び行く美だ、ロマンだと云うのはたやすいけれど・・・

この時期集落を歩いてみると・・・・

やっぱりヤマヒルの餌食になってしまった。

詳しく知りたい方は検索してください

撮影2011.6.4


奈良県生駒市 鬼取町(おにとりちょう)の棚田

2011年06月19日 | 棚田景観

生駒山麓東斜面中腹 、あの悪名高い国道308号線から一つ北側の谷一杯に広がる棚田が在って、その上部斜面棚田の中に民家が点在する鬼取集落。

役小角が葛城山で修業中、生駒山中の二人の鬼賊を捕えて戒めた所と言う伝説を持つ鬼取集落、深い斜面いっぱいに棚田が広がっている。

この地はすぐ裾野に市街地を控え山中と云えども決して不便ではなく、車さえあれば何の苦労もなく行き着く事ができる。

それ故ここから市内地への通勤も全く支障が無いためか、棚田はその大部分が転作や耕作放棄、最早棚田の原形すら留めない処も多い。

ここでは老齢化や集落の限界化が問題では無く、棚田での農業と言う辛い仕事に軸足を置かなくても良いと言う事なのだろう・・・。

遥か眼下に町の灯を見渡せる絶景、夏には蛍も飛び交うであろうが・・・

もう殆、原野に帰ろうとしている上段の棚田・・・・、自家消費の野菜畑に変わってしまった棚田も少なくない。

石積みが積年の苦労を偲ばせる。

集落の中央を駆け上がる急坂の右手には圃場整備が済んで直線に仕切られた棚田、此の部分では今もしっかり棚田として機能している。

この地には洒落たレストランや里山風情を求めて訪れる人達のためのお店が在り、週末などには都会の人達の癒しの隠れスポットに成って居るようです。

撮影2010.7.10


和束町 文珠菩薩(もんじゅぼさつ)磨崖石仏

2011年06月18日 | 石仏:京都

和束町は京都山城の東端、甲賀信楽と境を接する鄙びた里山地域で宇治茶の主産地として知られている。

そんな和束の更に最東端の小杉集落には「百丈山大智寺」と云う古刹が有って、その南方山中に有る「百丈岩」付近は巨岩が累々と居並ぶ修行場と伝えられています。

「百丈岩」付近の「文珠石」と呼ばれる巨石に文殊菩薩の磨崖石仏が刻まれている。

和束町の中心を抜け、信楽方面に走る府道5号線を道成りに15分程走ると右手斜面に大智寺の有る小杉集落、集落を掠めて更に進むと右手に水道施設の建物が見え小さな橋のたもとに「百丈岩」への看板がある。

小さな谷川沿いの小道はやがて登り山道となりどんどん奥へ奥へと進んで行く・・・・こんな景色や

こんな景色・・・・此処はまさしく修行の場だと知らされる。

歩き始めて約30分程、そそり立つ巨岩が随所に見られます。

あちこちに道案内の看板が設置され道に迷うことはありません、しかしそれほど楽な道ではなくほど良く疲れます。

これが所謂「百丈岩」・・・岩の上に登れるようですが、身体を支えるものや、足場も無く「年寄りの冷や水」と呼ばれても厭なので登るのは止めときましたが・・・。

 

問題の磨崖石仏はこの「百丈岩」を少し下った谷間の左斜面に突き出した巨岩に彫られています。

遠目に見ると前に立つ二本の杉がまるで鳥居か結界でもあるような・・・。

屹立する大岩はビルの2~3階程度もあろうか??

ちょうど目の高さ付近に、遠目には小さく見えるが近づくと約1mばかしの月輪内に狐顔??醤油顔??の見慣れない石仏が刻まれています。

荒々しくノミ跡を残した月輪内に浮き彫りされた像は腹部辺りが混然としていて解り辛い。

文殊菩薩は知恵をつかさどる菩薩で獅子に騎乗し、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つとあるが・・・

確かに頭上になにやら青蓮華を思わせるような棒状の突起が見える・・・。

そうすると腹部の煩雑な形態は獅子をあらわしているようにも見えてくる。

しかしこの釣りあがった目と申し訳程度の小さな口は・・・・でも凛々しく見えないこともない。

それほど風化磨耗が進んでいるとも思えないのだが??

県道脇には由緒有る榧の木 

撮影2011.5.7


市辺押磐皇子(いちのべおしはのみこ)墓の地蔵石仏

2011年06月17日 | 石仏:滋賀

もう随分以前に撮った石仏さんだが・・・・・・、近くの大蓮寺や薬師堂の石仏を紹介したついでにUPしておきます。

市辺集落の名前のもとと成った古代皇位争いの策謀により暗殺されたという悲劇の皇子、市辺押磐皇子の墓だとされる古墳が集落を突き抜ける県道脇にあって宮内庁の管理下にある。

何故なのかは良く解らないし、何処にもそんな記事はありませんが、陵墓の斜面に下部の一部が埋まった地蔵石仏が横たわっています。

元からこんな場所に地蔵石仏が有るわけも無く、また信仰の対象になっている様でもなく・・・

地蔵は一見、石棺仏にも見えるような平石の中央を長方形に彫くぼめ、右手に錫杖左手に・・・あれっ、持ってるはずの宝珠は無く、腕はそのまま下に向いてるようです。

因みに像高約1mぐらいだったかな??、なかなか良い地蔵さんですが風化磨耗が激しく像容も定かではありません。

元々何処にどうしてあったものやら??

はたまた後世の誰かが、不幸な皇子を悼んで刻んだものかと??推理は巡る・・・・。

置かれた場所といい、石材、像容共々とても気に成る石仏さんです。

撮影5~6年前の冬の頃かな??