司馬遷(野口定男 他 訳)『史記(中国古典文学大系10・11・12)』(平凡社)、読了。
本当にすごいもの圧倒的なものを目にしたり、読んだり、鑑賞したり、滅茶苦茶美味しいものを口にしたときには、ただただ言葉を失うというかポカンとしてしまうとよくいわれるが、読了まで数年を要した『史記』も紛れもなくそういったすごいものの一つだと思う。こんなことを書くだけでも読了から1ヶ月以上かかるほどだ。
ただ、『史記』のどの個所も無条件に面白かったわけではない。貪るように読めた個所はどこかで聞いたことのあったり、『史記』の有名エピソードをおもしろく紹介した本で知った内容が出てくるエピソードだったり、以前読んだ『孫子』や、『論語』の孔子やその弟子たちが出てくる個所だったりと、私の場合は限られたものになった。全編の内、読んでいて眠くなり、また退屈になってしまい本を閉じて次の日は読めなくなったり、読んでいるうちについついスマホに手をやって動画サイトばかり見てしまうことも多々あった。実際、そういう個所は文字だけ追っていただけと言われても否定しようがない。
それでもこの紀伝体で書かれた、あまりに人間及び人間社会を洞察した内容は読む者の心を揺さぶることには間違いない。天道是か非かという問題は永遠に解決されないだろうし、生き馬の目を抜く動乱期であった時代を扱っているがゆえに、その中に忠義や礼を貫き通した人物たちが綺羅星の如く輝いていたりする。司馬遷が受けた処罰のことを思うと『史記』の内容を著者の生涯とだぶらせて読んでしまいたくなり、時に救いなど無いように思わされど、まったく救いのない話ばかりかといえば決してそうではない。
有名な作家が学者だったか、哲学の主要な命題のほとんどは古代ギリシャに出ているというがごとく、「中国の近代はむしろ古代に存在している」と言い放った人がいたように思うが、読み終えてみるとまぁなんとなくその人の言わんとしていることは分かった気になった。近代の人文科学で取り扱う内容が、中国においては古代中国の古典に凝縮されている、ということなのだろうが、私は、近現代であたかも発見された真理が前漢の時代にとっくに触れられて、とどのつまりは人間社会は大して変わっていない、古代も現代も同じようなことって多いと改めて感じた。
こんな私がいうのもなんだが、漫画でも小説でも舞台劇でも映画でも『史記』本編でも、一生に一度は『史記』のなかの親しみを感じるエピソードについて、大いに楽しみ考える時期があってもいいと思った。