デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



他に衝撃的だったのは、捕らえられた人が入れられていた真っ暗闇の牢獄を再現した建物だ。私なら15分もしないうちに気が狂ってしまうのではないか。写真に残そうにも真っ暗闇で何が写っているんかすら判からない。本当に漆黒だった。
強い風が吹いてきて、外の砂がホルマリン漬けの胎児が展示されている部屋に入ってきた。生暖かい風だと思いつつ、ピューリッツァー賞を受けたベトナム戦争の写真を見ていると、急に雨がダーっと降りだし、まるで弾丸が鉄の盾に当たるような、そんな音がずっと続いた。他のセクションを見るにも傘をささねばならなかったが、見ておくべきものはまだまだあった。


雨にアオザイ。とても映えるのです。



足早に。

戦争証跡博物館にはもっといたかったが、17:00で閉館なので追い立てられるように外に出た。

近くには学校があって、バイクでお迎えの親たちが歩道を席巻していた。





大渋滞の始まり。




ホテルへの帰路、まだあのイベントがやっていた。舞台に上げられた恰幅のいい少年が皿回しの手伝いをさせられて、拍手をもらっていた。



緑の制服の人(たぶん交通整理員か違法駐車取締官?)は町中で本当によく見かける。道路の横断のときによく助けてもらったが、こういったイベントではこれといってバイクを見張っているわけでもなく、お喋りに興じていた。



町中では幾度かアオザイ姿のまま颯爽とバイクに乗っている人を撮る事ができなかったが、ベトナム最終日にかろうじて?自転車に乗るアオザイ姿の女性を見つけることができた。声をかけようとすると信号が変り、さっさと走り去っていった。



空港に行くまでに時間があったのでホーチミンよりブログを更新した。そのときに出発前の記事に対してうれしいコメントがたくさんあって、とても旅に対する勇気が出たのを覚えている。本当にみなさん、ありがとう!
空港行きのバスに間に合うよう、夕食は路上の屋台で、とっし~が頼んだ(チャレンジした?)貝を炒めたものをお裾分けにあずかった。路上で普通に食べることができるようになったと思ったら、もうベトナムを離れねばならないと思うと少し残念だったが、あの夕暮の貝の味は忘れられない。
飛行場に早めに着くようにしたつもりだったのだが、ロビーの兄ちゃんは、「こんな時間にバスは無いよ」と言う。私は正直ギャフンとなってしまったが、ホテルの兄ちゃんが5ドルで行ってくれるタクシーを呼んでくれた。私たちは感謝したものの、そのあとの「fiveなんとかかんとか」の英語が聞き取れず、そのままタクシーに乗った。空港までは恐ろしい渋滞だったが、それでも立ち往生というほどではなかった。
空港までやってきた。そしてホテルの兄ちゃんの「fiveなんとかかんとか」の英語の意味が痛いほど分かることが起こった。タクシーを空港内に乗り入れるための5000VNDは払ってくれということだったのだ。私はドンを使い果たしていたので、とっし~の1ドル札を融通してもらうことになった。出発前に水を買わねばよかったと後悔してしまった。

パリ行きは23:05だった。チェックインのときに日本語の流暢なアオザイ姿の美人空港職員が私たちに行き先の確認をしてきた。なんでも時々、チェックインのブースを間違える日本人がいるらしく、私らも成田行きではないか?と思ったらしい。このことを本当に流暢な日本語で説明されたので、驚きと共に敬服した。
昼間かいた汗を洗面所でどうにかごまかし、パリは寒いだろうということで長ズボンに着替えた。出国税の12ドルは痛く感じた(これからベトナムを旅行し、ベトナムから出国するかたは、出国時に必ず20ドルが財布に入ってる状態にしていってください)。

機内で座った途端、無精ひげのフランス人がいきなり「席を換わってくれ」と言ってきた。その後のやり取りはお互い大人気ないものになったので略すが、とりあえず私は自分のチケットに刻印のある通路側のこの席を譲る気は無いと言った。客室乗務員は、うまくそのフランス人の希望にかなうような配慮をしてくれたので助かった。
長いフライト、パリに着くのは翌朝の7時だ。

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