ねこ庭の独り言

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近代中国は日本人が作った - その 2

2016-08-20 17:45:50 | 徒然の記

  今日は、黄文雄氏の著書から得た、"目から鱗" の知識について具体的に述べてみたい。

 「一般の史書には、なぜかあまり触れられていないが、日清戦争の終結から清朝崩壊まで、」「すなわち1895年から1912年までの、この十数年間は、」「当時世界からも、" 中国の日本化 " と称される時代だった。」「米国学者ダグラス・レイノルズは、1898年から1907年までの10年間を、」「日中関係が調和と提携に満ちた " 黄金の10年 " だと評価している。」

 「西洋の文明を摂取した日本が、近代化を成し遂げ、わずか3、40年で、清国、ロシアを相次いで打ち破った事実に、」「中国の官僚、知識人たちは、目を見張った。」「東海の一小国と見下してきた日本だったが、彼らの日本に対する思いは、尊敬に変わり、」「日本を手本に近代改革に乗り出した。」「それはまさに、二千数百年来の中華帝国君主独裁体制の、抜本的な大変革の動きと言ってよかった。」

 日中の文化交流と言われると、私の頭には遣隋使や遣唐使の時代がすぐに浮かぶ。日本からの留学生や僧侶たちにより 、隋や唐から伝えられた仏教や諸制度や文物のすべてが日本に大きな衝撃を与えた。その計り知れない衝撃の大きさは、明治の文明開化期に接した「西洋文明」の衝撃と同様だったと氏が語る。だから私は、今でも中国に対する恩義が忘れられない。

 氏もまた、そんな私に念押しをする。「日本人の多くは明治以降、西洋の文化や価値観を、あらゆる事柄の基準、尺度にしようとしていながら、」「その一方で中国文化を崇拝する、抜きがたい心理が昔から強いわけである。」

 ところが氏の説明はさらに続き、私の認識を新たにさせる。

 「実はそのような、大きなスケールを伴う日中間の文化交流は、」「日本の明治時代、中国で言えば清朝末期に行われていたのである。」「かっての交流とは逆に、中国が日本の文化的恩恵を、大々的に受ける形をとるものだった。」

 「つまり中国は、日本から近代文化(中国では当時これを、" 新学 " とも呼んだ)を輸入し、」「中国の文明開化をもたらしたのである。」「かって隋、唐から輸入した書籍が日本人の意識改革をもたらしたように、」「中国が日本から取り入れた近代思想の著作もまた、中国の知識人に大きな影響を及ぼした。」

「西洋文化を摂取するため、日本では、明治の最初の20年間で、20万語の新しい言葉が、外国語の対訳として作られた。」「なにしろそれまで、日本や中国に存在しない概念ばかりである。」「そのような近代的な概念と新造漢語が、今度は日本を経て中国へと伝わっていった。」

 「中国人が、例の大中華主義から、中国は " 歴史悠久的文明国家 " であって、日本などに学んだものはないと、」「叫んだとすれば、この場合の、" 歴史 "  " 的 "  " 文明 "  "国家  " という単語は、すべて日本発の外来語だ。 」

 「日本に、最初の清国留学生が派遣されたのは、日清戦争直後の明治29年である。」「日本留学を熱心に主張したのは、清朝の実務官僚の中でもっとも影響力のある、張之洞だった。」「洋行の一年は読書の五年に勝る。海外で一年の勉学は、国内学校の3年に勝る。」「留学するなら、西洋より東洋の日本だ。」と、彼は意見具申した。

 「1896年(明治29年)の、留学生は13名だったが、この年以降毎年100人前後の留学生が日本へ渡った。」「1905年には、8000人を超え、ピーク時の1906年には2、3万人に達したという資料もある。」「留学生の多くは、日本の近代化に触発され、祖国の改革、」「あるいは反清革命を志した。」「近代日本の底流を支える啓蒙思想、哲学、社会思想を懸命に学び、」「それらを本国へ発信し、あるいは持ち帰っていった。」

 陸軍士官学校などの予備教育を行う、成城学校では、昭和10年代に閉鎖されるまで、「1,336名の留学生を卒業させ、その多くは清国、中華民国、国民党陸軍の指導者や幹部になっている。」

 こうして氏は、彼ら留学生を受け入れた日本の大学名と人数を詳細に列挙しているが、煩雑なので省略する。勝手ながら、ここで黄氏の言葉を抜き書きし、自分に都合の良い途中経過の結論とする。「中華民国は、元日本留学生が建設した国と言っても過言ではない。」

 熱病のような「日本ブーム」は、「ジャパニーズ インパクト」とも呼ばれていたが、さて、列強はこれをどのように捉えていたのか。先ずは、当時のロシアとドイツの動きを、氏の本からそのまま引用する。

 「北京のロシア公使館は、清国高官に、" 日本は憲政国家だから、留学生がその気風に触れて " 、「 " 民権思想に感染する恐れがある。 " " わが国は貴国と同じ専制国だから、子弟を沢山留学させても問題はない。" 」「こう説いて回り、日中提携の牽制に懸命だったという。」

「ロシアの盟邦ドイツでは、日中教育交流の増進を、" 黄禍 " だとする指摘も登場した。」

 「中国への影響力を広げたい、欧米諸国からすれば、」「中国の日本化は何としても、阻止したかった。」「そこでこれらの諸国が取ったのは、日中分離策、日本人排斥策である。」「ニューヨーク ディリー トリビューン紙などは、中国人は日本人教員を望んでいないとする論説を掲載した。」

 「日本人は浅薄な学識だけで、自分たちが学者だと信じ込んでいる愚かさだとして、」「これに代わるその他の外国人の任用、」「ミッション系学校の開設を訴えた。」「米国は、特に中国人留学生の受け入れに熱心だった。」「教会からの潤沢な資金をもとに、米国人は相次いで中国各地に、ミッション系大学を設立した。」

 「この時日本政府は、米国のこうした動きに有効な対策を講じることができなかった。」「のちの中国で、親米反日派が台頭したのは、この争奪戦で日本が米国に敗れた結果でもある。」「英国やドイツなども、米国のこのような措置に習って留学生を誘致した。」

 長くなっても氏の言葉を引用したのは、現在の日本が置かれた状況と似ているからだ。氏は、欧米諸国のこうした反日包囲網ともいえる動きに、さほどの重点をおいていない。各ページに散在している記述をまとめたのは、私の恣意と独断である。

 しかし、どうだろう。「韓国の慰安婦問題」「中国の南京問題」あるいは、「日本の歴史への執拗な攻撃や捏造」「日本人の精神の回復を許さない、非情なまでの悪意の中傷」等々、この背後に、敗戦後の今に続く欧米諸国の影を感じるのは、果たして自分だけであろうか。

 今ここで私の中にあるのは、単なる諸外国への一時的な感情の高まりや怒りではない。そうでなく、冷静になり国際社会の非情を学び直そうという、謙虚さへの訴えだ。外国の強大な力を恐れ、警戒し、常に国の守りを忘れなかった幕末・明治の政治家の偉大さに、私たちは頭を垂れなくてなるまい。

 親米派も親中派も親露派も親韓派も必要だし、日本の中にいて結構だが、反日と売国だけは許してならない。世界連邦の時代でも来れば、国も民族も無くなるのだろうが、そうでない限り、世界の国々は国益のため力を尽くす。権謀術数を巡し、殺戮だって厭わないせめぎ合いだ。

 美しい言葉だけで世界を眺めず、現実が見据えられる日本人への蘇生を、願わずにおれない私だ。日本はもっと賢くならなければ、亡国の道から引き返せなくなると、若い人たちに気づいてもらいたい。死んだ後にも、こうして叔父が、残した書物を通じ私に語りかけているように、自分が居なくなった後、三人の息子のうちの一人でも、父の気持ちを知ってくれるようにと、そんな願いがある。

 長くなるため、今回で終わるつもりだったが、黄氏の著作で示された大切な事柄を、あと一回綴ることとしたい。政治家にばかり頼るのでなく、もっと根本にあるのは国民の覚醒だと、氏が教えてくれた。国民が賢ければ、当然国も賢くなる。愚民の多い国は、怜悧な諸外国に翻弄され、見当違いの相手と争いを起こし、自滅の泥沼でもがくしかない。

 そういう意味では、中国も韓国も、北朝鮮も、愚かな国民の国だ。国を思う憂国の士を無数に殺し、自らの首を絞めている。今の日本はこうした国の仲間だが、覚醒の国民がこれから増えていき、早晩自滅の穴から抜け出すのであろう。

 しかし、ここでもまた、明治末期の繰り返しか。

 目覚めない中国と朝鮮に悩まされ、迂闊に手を差し伸べれば、すべてが日本の陰謀だと、浅はかな逆恨みで、アジアの平和と庶民の幸せが遠のく。こんなことを繰り返していたら、漁夫の利を得るのは誰か。本当に喜ぶのは誰なのだと、問うてみたくなるでないか。

 福沢諭吉の「脱亜論」がこうして生まれたのだと、今の私はしっかりと理解した。 

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