ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『新しい人よ目覚めよ』

2017-10-11 20:51:33 | 徒然の記

 大江健三郎氏著『新しい人よ目覚めよ』( 昭和58年刊 講談社 )を、読了。

 昭和10年に、氏は愛媛県に生まれ、今年82才ですから、私より9才年長です。東大文学部在学中に当時最年少で芥川賞を受賞し、卒業後はそのまま作家として生きています。

 平成6年にノーベル文学賞を受賞するまで、日本の文学界の賞をほとんど手にしています。新潮文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞、読売文学賞、大仏次郎賞、伊藤整文学賞など、輝かしい経歴の持ち主です。

 けれども氏は、私が嫌悪して止まない反日の作家であり、日本から追放したい「害虫」の仲間です。文学的才能や、知的能力の高さなどが、世間の注目を引いたとしましても、私には縁のない「害虫」です。芸術の世界では、往々にして病的な狂気から生み出される作品が評価されますが、氏の著作もその系列に属しています。

 「万延元年のフットボール」以来、氏の著作を読むのは二度目ですが、私のような凡庸な者には、とても馴染めない文体を持つ作家です。

 「三月の末だったが、フランクフルトではまだ日暮れから霧が立った。」

 「一、二週後に迫っている復活祭の、自分としてはヨーロッパ民族の、死と再生のない合わさったグロテスク・リアリズムの源の祭りに重ねて、つまり観念的に知っているその復活祭が、人々に待ち望まれ、盛大に祝われることの切実な意味を、初めて僕は納得するようであった。」

 好意的な人は、氏の文体の難解さを許容しますが、私には不況音を響かせる不快な文章でしかありません。

 第一、少しも面白くない。一体、何が言いたいのか、もってまわった叙述にうんざりさせられます。乱調の俳句でも、もう少し心に訴えるものがあります。氏の文体というより、人間性によるものなのでしょうが、作品全体が陰鬱で重苦しく、爽やかさがありません。

 こういうのを純文学と呼ぶのでしょうが、簡単に言えば身辺雑記の私小説です。

 妻と三人の子供との暮らしが、芥川賞作家らしい真摯さで語られています。知的障害を持つ長男と、難病の次男を抱えた過酷な日々が、作者の独白と想念を交えて描かれます。

 悲惨としか思えないのですが、氏は細君と共に試練の毎日を耐え、弱音は吐きません。有名なノーベル賞作家でも、このような不幸はやりきれないだろうと同情をしました。

 作品の特徴は、氏の過酷な日常だけでなく、全編を通してウイリアム・ブレイクの言葉が背景として語られているところにあります。

 ブレイクは、日本で言えば江戸時代の人です。英国の詩人、画家、銅版画職人で、思索と読書で一生を終えた人物だと言います。氏が、生涯を通してブレイクに傾倒した作家だったということを、この書で知りました。

 「作品全体の複雑な語り口と、ブレイク独自の宇宙観に立つ、神あるいは神に近い人への条件づけから離れて、僕を強くとらえてきた一節を、もう一つ引用するならば、」

 「それは次のようだ・・・人間は労役しなければならず、悲しまなければならず、」

 「そして習わねばならず、忘れねばならず、そして帰って行かねばならぬ。そこからやってきたくらい谷へと、労役をまた新しく始める前に。」

 学生時代に、彼は図書館で隣人が開いていた書の中でこの言葉を読み、強烈な衝撃を受け、ブレイクの虜になったというのですから、もともと私とは違った世界に住む人間です。

 ブレイクとどのようにつながるのか、不思議でなりませんが、氏は自らを「戦後民主主義者」と自称し、国家主義と天皇制を一貫して否定します。「護憲」という立場から憲法九条を高く評価し、自衛隊を嫌悪しています。

 市ヶ谷基地に乱入してバルコニーから演説をし、その後割腹自殺した三島由紀夫氏について、どういう見方をしているか、本から紹介します。文中のMというのが、三島氏のことです。

  ・われわれは、Mの自殺によるデモンストレーションを、支持するものも、それを否定するものも、

 ・天皇制的な宇宙構造を背景にして、血まみれで床に直立する生首を典型に、その肉体の細部を強調してのパフォーマンスを、まともに受け止めはしなかったのである。

 ・われわれは、Mが 「 檄 」 として書き表した、一面的な意味づけの言葉を読むことで、M事件の受け止めに変えた。

 ・あらためて言えば、幸か不幸か、このデモンストレーションを、支持するものも、それを否定するものも、すくなくともマス・コミュ二ケーションの、表層への現れ方においてはそうであった。

 この不可解な文章で、氏は何が言いたいのか。

 私の言葉で言えば、簡単です。檄と生首の映像が同時にマスコミで世間に拡散されたら、続くものが現れると三島氏が計算していたが、マスコミが画像を流さなかったから氏の目論見は失敗したと、それだけの主張です。

 自衛隊も楯の会も嫌悪していた氏は、三島氏にも侮蔑と敵意しか抱いていませんので、あの事件も悪意の言葉でしか語りません。「天皇制的宇宙構造」とか、「肉体の細部を強調してのパフォーマンス」とか、私に言わせれば、非文学的な汚い言葉の羅列です。

 ブレイクに心酔する氏は、キリスト教のいう「最後の審判」を語り、王座に着く輝くキリストについて語ります。全てのもののうちの唯一なる神についての主張を、延々として述べ、私を退屈させます。

 八百万の神の住む日本にいて、神々とともに暮らす素朴な日本人である私には、氏の暗い主張は、清流に流せば消える「たわごと」でしかありません。

 氏は、天皇から授与される文化勲章を拒否したのに、スエーデン王室から送られるノーベル賞は喜んで受けました。氏の中ではノーベル賞は学術賞だが、文化勲章は国家勲章だという区別があるのだと聞きます。

 これも、偏見の氏らしい変な理屈です。ノーベル賞でも平和賞などは、学術賞でなく政局がらみの政治賞でしかありませんし、いずれの賞も国の権威である皇室と王室が授与します。権威を否定するというのなら、ノーベル賞も断固として拒否するのが筋というものでしょうに。

 サルトルはノーベル賞を拒否しまし、同時にフランス政府から送られるレジオンドヌール勲章も辞退しました。権威を否定するというのなら、ここまで徹底するのが本物の知識人でしょう。

 氏がやっていることは「単なる天皇嫌い」であり、「単なる日本嫌い」でしかありません。聞き分けのないただっ子の屁理屈と、そうとしか見えません。

 尖閣諸島も竹島も、過去に日本が侵略したのだと氏は主張し、尖閣諸島に「領土問題は存在しない」とする、日本政府を批判しています。

 平成18年に中国の招きで訪中した時は、南京虐殺記念館を訪れて日本を批判し、小泉首相の靖国参拝には「日本の若い世代の将来を損ねる」と、述べています。小説の世界で世迷いごとを作品にしても、たいした問題でありませんが、政治の世界で「たわごと」を言われると、看過できなくなります。

 ノーベル賞と聞けば、水戸黄門の印籠みたいに、理屈抜きで有り難がる人間が、日本には沢山います。大江氏が言うのなら間違いあるまいと、尖閣、竹島、靖国、憲法、そしてついには天皇まで、日本の全てが悪いと信じる愚か者を増やす結果となります。

 いったい、氏は本当に知識人なのでしょうか。日本の歴史や文化について、何を知っているのでしょう。手のつけようもない日本憎悪と、「ねこ庭」を上回る偏見はいったいどこから生まれたのか。そもそも氏は、日本人なのでしょうか

 だからこの本を、本多勝一の著書と同じ扱いをします。腐った野菜クズ、期限切れの肉、汚れた雑巾や布切れと一緒にゴミ袋に入れ、ゴミステーションに打ち捨てます。

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2 コメント

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こんばんは、 (やっほ)
2017-10-11 21:35:02
大江健三郎については国家勲章を拒否し、ノーベル賞は受けるという、
国家軽視の傲慢さにずっと嫌悪を抱いています。

私には大江氏を批判する今日のonecatさんが水戸黄門のようで
スカッと爽快な気分になりました(^^♪
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大江氏 (onecat01)
2017-10-11 22:22:03
やっほさん。

 なんと、貴方も、私と同じ意見をお持ちでしたか。大江氏の醜さは、「反日」でなく、「恨日」であるところにあります。

 憎しみだけでなく、恨みつらみの反日ですから、目を背けたくなる醜悪さです。氏が議員でしたら、今度の選挙で「追放」したいくらいです。私の独断では、氏の魂は生まれた時から病んでいるというものです。
 魂を病んだ芸術家の多くは、天才などと賞賛されますが、氏も生きる場所を、芸術界だけにしておけばよかったのにと思います。
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