ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 130 ( 清盛の味方は、宮廷の女性たちだった )

2023-06-30 14:28:45 | 徒然の記

  〈  第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし )  平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉

 義朝の功を軽んじ平家を優遇したのは信西だったと、平治の乱の原因を信西にしていましたが、自分の推測がここでも修正されます。

 「後宮に人気があったことが、平家と源氏の分かれ目である。特に皇位継承者の決定に大きな影響力を持っていた美福門院が、清盛に好意を持ち、信頼を寄せていたことが重要である。」

 「清盛の妻時子が、美福門院の系列であったことは、後宮の女性たちに親近感を持たせたのではあるまいか。しかも清盛は、こうした宮廷の女性たちの趣味に合うだけの資質を持っていた。」

 私にショックを与える気は無いのでしょうが、根拠となる理由を述べます。

  ・清盛は『大日本史』に、「長じて穎伍 ( えいご・才智が優れている ) 、姿貌 ( しぼう・姿容貌 ) 美 ( うる ) わし」と書かれている。

  ・つまり頭が良くて好男子だったのである。しかも立派な字を書いた。

  ・頼朝は武勇に優れていたが、宮廷の女性の趣味に合うようなところはなかったようである。

 今の私たちは僧衣を着た清盛しか知りませんが、若い頃の彼は中々の美丈夫だったことが分かりました。こうなりますと信西の姿は、どこにも出てきません。

 「それが保元の乱後の恩賞の差に現れ、その怨念から始まった平治の乱も勝利は平家のものになり、いわゆる、〈 平家にあらざれば人にあらず 〉という状況を生み出した。」 

 「女性を敵に回すと、政治家も学者も目的の達成が難しくなる。」と言うのは、現在だけの話でなく、800年以上前の平安時代でも同じだったことが分かります。これだけでも清盛の新しい姿を教えられますが、更に氏が追加します。

 「それどころか、平清盛は白河天皇のご落胤と言う説が、古来伝えられているのだ。不思議なことに、平家の系図には清盛の母が書かれていない。彼が平家の最盛期を作った人物であることを考えれば、いかにも不自然である。」

 「清盛の母が、白川帝の寵姫 ( ちょうぎ ) 祇園女御 ( ぎおんのにょうご ) であったか、宮女・兵衛佐局 ( ひょうえのすけのつぼね ) だったかは別として、宮女であったことは確かだったようである。」

 「 第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん ) 」の中にあった、氏の解説で祇園女御の名前が出てきていました。

 「白河天皇は、中宮賢子 ( かたこ )が 亡くなられてから、気に入った女御がいなかったらしく、低い身分の女性を愛されるようになった。名前は伝わっていないが、祇園女御 ( ぎおんのにょうご ) と呼ばれている女性である。」

 「この女性は、大納言・藤原公実 ( きんざね ) の娘璋子 ( たまこ ) を、手元に置いて養育していた。それで白河帝もこの娘を可愛がり、ふところに抱いていつくしんだ。そして、手がついたのである。」

 「白河帝はこの璋子を、孫の鳥羽天皇の中宮にしたのである。しかもその後になっても、関係はやまなかった。」 

 この璋子が崇徳天皇を生んだ待賢門院で、美福門院とは相容れない立場にありました。第二十一闋の副題に、〈「保元の乱」の複雑な内幕 〉と言う言葉を当てているように、この時代の宮廷は夫婦・親子・兄弟関係が複雑でした。

 白川帝の寵姫 ( ちょうぎ )が 祇園女御 であったか、宮女・兵衛佐局であったかの詮議は別にして、この女性は白川帝の手がついて妊娠しました。

 「その女官を白川帝は、平忠盛に賜った。俗に言う〈 お下がり 〉をもらったのである。その時白川帝は、次のように言われたという。」

 「生まれてくる子が女子だったら、宮廷で引き取るが、男子だったらお前の子にするがよい。」

 こうして生まれてきたのが、清盛だと言う氏の説明です。頼山陽は歴史学者ですから、古文書だけでなく様々な資料に目を通しています。その上で保元・平治の乱の大元が美福門院であると結論づけ、清盛の実像にも迫ります。ここまできますと、「美福門院説」に反対する気持ちがなくなりますが、ただそれは「保元・平治の乱」の原因の一つであり、本当の原因はやはり「道長の後宮政策」だったとする考えに変わりはありません。

 今を国難の時と考える私は、息子たちを退屈させても、何度でも同じ言葉を述べます。

  ・道長の後宮政策は、世代を重ねるうちに、歪んだ、異常な親子関係や夫婦関係をうみ、人心を乱れさせる結果をもたらした

  ・氏の解説を読んでいると、悪法「LGBT法」をゴリ押した岸田政権の間違いを教えられる

  ・この法は運用を誤ると、歪んだ異常な親子関係や夫婦関係を作り、人心を乱れさせる結果をもたらす

  ・人間平等の社会であるから、LGBT法を皇室にも適用すべきだと、そんな意見を言う学者・評論家・活動家がいると聞くがとんでもない話である

 話を横道に逸らせているのは私でなく、氏自身ですが、それだけ第二十三闋の詩の解説が簡単でないと言う印でしょうか。本題の「烏帽子 ( ゑぼし )」の解説は、次回からとなります。

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『日本史の真髄』 - 129 ( 再び「名探偵の謎解き」 )

2023-06-29 22:06:35 | 徒然の記

  〈  第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし )  平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉

  忠ならんと欲すれば孝ならず

  孝ならんと欲すれば忠ならず 

  重盛の進退ここに谷 ( きわ ) まれり

 「と言う言葉を知っているかいないかは、おそらく日本人の年齢を知る一つの目印 ( メルクマール ) になるのではないだろうか。いわゆる、〈 年が分かる 〉ということである。」

 学校で教わった有名な言葉というより、二つの考えに挟まれ、決められずに悩む姿への共感でした。戦後ですから忠孝に悩んだと言う話でなく、先生と友達の意見のどちらを取れば良いのか、親の意見と近所の大人の意見が違う時、どちらに従えば良いかとせいぜいそんなものでしたが、子供心には大きな選択で、重盛の苦衷を理解していたつもりでした。

 私の中にある重盛は、真面目だが気の弱い、どちらかと言えば優柔不断な孝行息子というイメージでした。79年間抱いていたその重盛の像が、氏の解説で今回大きく変わりました。偉大な父親の威厳に圧倒されながら、忠実に見習おうとした徳川の二代将軍秀忠のような生真面目な重盛像でしたが、そうではありませんでした。

 これもまた複雑な要因がありますので、結果を急がず、いつものように氏の背景説明から紹介いたします。

 「重盛のこの言葉を、私も子供の頃から知っていた。しかも〈 きわまれり 〉と言うところを、〈 谷まれり 〉と書くことを子供たちは知っていた。だから子供たちは、将棋をして王が詰められると、〈 谷まった 〉と言うことがあった。こんなことは、相当の本読みである今日の大学生も知らない。教養の伝統の断絶と言うべきか。」

 昭和5年生まれの氏は、19年生まれの私より14才年上です。大東亜戦争の敗北が昭和20年8月15日ですから、私の受けた教育はまさに「戦後教育」です。息子たちのためもう少し説明しますと、亡国の「日本国憲法」が公布されたのが昭和21 ( 1946 ) 年、施行されたのが翌昭和22 ( 1947 ) 年5月3日です。

 母に連れられて私が満州から日本へ戻ったのが3才の時ですから、憲法が施行された日に既に日本へ戻っていたのか、引き揚げ船「萩の船」で博多港に向かっていた時なのか、記憶にありません。そうなりますと重盛の言葉は学校で教わったのでなく、もしかすると中学時代の自分が、図書館で読んだ本の知識だったのかも知れません。79才になっても〈 谷まれり 〉と書くことを知らない私は、正に「教養の伝統の断絶」の見本、「生きている化石」みたいなものでしょうか。感慨深いものがあります。いくら感慨深くても、本論に関係のない雑学でしょうから、氏の解説に戻ります。

 「平清盛は、保元・平治の二つの乱の勝者となり、武家にして太政大臣になるという異数の出世をとげた。右大臣も左大臣も経ないで太政大臣になったというのは、前に藤原信長の例があっただけである。更に藤原氏と違っているところは、直接に武力を握っている人間が宮廷の中で最高位にのぼったのであるから、文武の大権を握ったことになる。後には豊臣秀吉にその例が見られるが、清盛の権力はそれに似た性質のものであったと推測して良いであろう。」

 つまり清盛は、摂関家であった藤原一族の誰も手にしたことのない、大きな権力を手にしたことになります。

 「武家が武功で出世するのは当然であるが、なぜ平家が源氏よりも優遇されたのであろうか。この不満が源義朝をして、平治の乱を起こさしめたのである。」

 「その理由は、前ページの系図を見れば容易に想像がつく。」

 こう言って氏は、複雑な天皇家と平家の系図を並べ、再び「名探偵の謎解き」を披露します。それは同時に私が前にした、清盛が権力を握った原因の推測が間違いだったことの証明でした。以下、氏の解説を項目で紹介します。

  ・平清盛の妻時子は、二條天皇の乳母であった

  ・二條天皇は幼児に母を失い、鳥羽天皇の皇后である藤原得子 ( なりこ・美福門院 ) に養育され、愛された

  ・二条天皇の乳母時子と、美福門院の関係は甚だ良かった

  ・当時の乳母は、時によって若い皇子 ( みこ ) のため性的な手ほどきをもやるということがあった

  ・乳母が非常に重要な政治的役割を演ずるのも、こうした背景があったからである

  ・時子を幼い守仁 ( もりひと ) 親王 ( 後の二條天皇 ) の乳母に選んだのは、美福門院に間違いない

  ・つまり時子は、美福門院の眼鏡にかなったのである

  ・保元の乱が起こった時、美福門院が特に平清盛を味方につけるよう主張したのは、時子の亭主である清盛を気がおけないと思ったからであろう

 「それは結局、保元の乱の元にもなった美福門院に由来する。従って平安朝を終わらせた保元・平治の二乱は、ともに美福門院に由来すると言う、大町桂月のような見方も出てくるわけである。」

 第二十二闋の最後で氏はこのように述べていましたが、時子や清盛との関係がここまで明らかになっているのなら、美福門院説が最有力になります。

 「鳥羽上皇は、自分の死後崇徳上皇らが反乱を起こすという可能性を認め、緊急の場合に召すべき武将の名前を書き残しておかれた。そのリストに、清盛の名前は加わっていなかった。」

 私たちの知らない事実を、氏が次々と紹介します。

 「というのは、清盛の父忠盛は重仁 ( しげひと ) 親王 ( 後の崇徳帝の第一皇子 ) に仕えていたからである。しかし美福門院が〈 清盛のような強い人を召さないということはない 〉と主張したため、清盛は反崇徳側につくこととなった。」

 美福門院と清盛に関する氏の解説はまだ続きますが、スペースがなくなりましたので、次回といたします。美福門院が、保元・平治の乱の大きな要因となったことは確かですが、それでも私の次の結論は変わりません。

  ・宮廷と貴族社会の乱れと歪みを作った大本 ( おおもと ) は、道長の「後宮政策」である

  ・藤原一族の権勢を磐石なものとするため、天皇の外戚としての摂関家を築くという政策である

  ・美しい娘たちを天皇の皇后、皇妃、中宮、女御にする政策は、確かに氏長者 ( うじのちょうじゃ ) である藤原氏の地位を確固たるものにした

  ・しかし世代を重ねるうちに、歪んだ、異常な親子関係や夫婦関係が出来上がり、人心を乱れさせる結果をもたらした

  ・氏の解説を読んでいると、LGBT法をゴリ押した岸田政権の間違いを教えられる

  ・この法律は運用を誤ると、歪んだ異常な親子関係や夫婦関係を作り、人心を乱れさせる結果をもたらす

  ・人間平等の社会であるから、LGBT法を皇室にも適用すべきだと、そんな意見を言う学者・評論家・活動家がいると聞くがとんでもない話である

 私も頑固なのかも知れませんが、どうしても岸田内閣がゴリ押しした悪法 ( LGBT法 ) と結びつけてしまいます。危機感を抱きながら、次回も美福門院と清盛に関する氏の解説を紹介いたします。

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『日本史の真髄』 - 128 ( 建前の反日、実質の我欲 )

2023-06-29 09:12:08 | 徒然の記

  〈  第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし )  平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉

 今回も、「書き下し文」と「大意」を順番に紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 10行詩

   八條の第中 ( ていちゅう ) に旗幟 ( きし ) 飜 ( ひるがえ ) る

     相国 ( そうこく ) は鎧を環 ( まと ) い馬は鞍を装す

   烏帽子 ( えぼし ) 。来たる者は誰ぞ

   何ぞ胄 ( ち ) うせざる。国に寇 ( あだ・害をなす者 ) 無し

   能 ( よ ) く 阿爺 ( あや・老いた父 ) をして  起 ( た  ) ちて緇 ( し・黒い服・僧衣 ) を襲 ( かさね ) しむ 

   襟は鱗甲 ( りんこう・鎧の小さな鉄札  ) を吐 ( は ) きて我が児 ( じ ) に愧 ( は ) ず

   公に従 ( したが ) はむと欲する者は

   吾が頭 ( こうべ ) の堕 ( お ) つるを待て

   烏帽子の上に晴天あり

   帽子猶 ( なお ) 在れば天堕ちず

 

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   八條邸のうちには戦旗が翻っている

   入道相国清盛は鎧を着込み、馬には鞍が置かれている

   烏帽子姿でやって来たのはどなただろう

   「何ゆえ武装めされぬ ?」「国が外敵に侵されたとも聞かぬゆえ。」

   みごと父君に、そそくさと僧衣を重ねさせた

   襟元がついはだけるとちらちら鎧のこざねがのぞくのを、相国清盛は我が子に恥じた

   「父上に従おうと思う者は」

   「私の首が落ちるのを待て」

   そう言い放った貴方の烏帽子の上に広がっていた涼やかに青い天

   今なお、依然として青天をバックに貴方の烏帽子の見える想いがする

 ここ数日、「ねこ庭」を訪問される方が激減しました。LGBT法をゴリ押しした岸田首相とその後の自民党内の動き、ワグネルのプリゴジン氏の動向など、日本も世界も目まぐるしく動いていますから、「900年も前の平安時代の話になど、つき合っておれるか。」と、関心がなくなっているのかも知れません。

 今の私は渡辺氏に、過去の歴史が現在の日本にそのまま繋がっていると教えられました。現在の日本が反日・左翼と愛国保守の対立であるという思い込みを、氏の解説が修正してくれました。息子たちに、もう一度先日の修正した意見を紹介します。

 「これまでは、マルクス主義だけが反日の要素と思って来ましたが、平安時代の天才学者信西を知りますと、もう一つ加えなくてなりません。」

 「人間の業である我欲、つまり名誉欲・権勢欲が、自分に反対する者を敵としてしまう。国を愛する国民に反対し、反日の言辞を世間に撒き散らす学者の姿は、頼山陽の詩に詠われる我欲を通す人間の姿と重なります。彼らはチロチロと炎の舌で、こっそり天いっぱいにみなぎるほどの毒を吐く」

 主義主張は建前の話で、反日・左翼も保守もよく見ると我欲で対立しているという図式になります。従って、対立する者たちの我欲 ( 名誉欲・権勢欲 ) が多数の国民に受け入れられるか否かが鍵になります。名もない庶民である多数の国民も、我欲を持っていますが、高名な権力者たちが持たない ( 持てない ) 普遍の常識を多く持っています。

 ・生まれ育った国への感謝と誇り      ・・・郷土愛、愛国心

 ・自分を育ててくれた親とご先祖への感謝と愛・・・祖霊信仰、愛国心

 ・自分、親兄弟、ご先祖をはぐくんでくれた美しく豊かな国への愛・・郷土愛、愛国心

 ・大切な国を外敵から守ってくれたご先祖への感謝  ・・・祖霊信仰、愛国心

 ・ご先祖さまの敬愛の中心におられた、万世一系の天皇への感謝と敬意の念・・・祖霊信仰、愛国心

 思いつくままに列挙しましたが、庶民はご先祖さまから受け継いできた常識で権力者たちを判断します。民意と呼ばれ世論と呼ばれたりしますが、庶民の常識は国を支える土台です。高名な権力者たちに一時期は騙されても、時間が経過すれば国民は常識を取り戻します。「万世一系の天皇への感謝と敬意の念」の項目を除けば、あとは世界に共通する国民の常識 ( 愛国心 ) です。

 内閣府男女共同参画局の林とも子局長が、先頭に立ってLGBT法を推進しています。氏は信西のような優秀な官僚の一人ですが、国民の常識がやがて氏の意見を飲み込んでしまう日が来ると思います。反日の旧社会党が消滅寸前になり、共産党が国民から顔を背けられつつあるように、反日の人々の場所が日本では無くなりつつあるからです。

 そうなりますと昔の話でも、氏の著書の紹介はやめられません。「ええかっこしいやないか。」と、百田尚樹氏が青山繁晴氏を批判しますが、公言実行している行動力を私は評価しています。愛国心を強調しすぎる部分があるとしても、海千山千の政界で86名の仲間を「護る会」に集めるのは、口舌だけで出来ることではありません。百田氏も政党を作ると言うのですから、我欲を通さず切磋琢磨し、保守勢力の強化に参加して欲しいものです。

 話が横道へ逸れましたが、「愛国心」という土台からは外れていません。次回は頼山陽の詩と渡辺氏の解説の紹介に戻ります。

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『日本史の真髄』 - 127 ( 大本は藤原道長の「後宮政策」 )

2023-06-26 22:01:25 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

 回を改めスペースに余裕が生まれましたので、省略していた渡辺氏の解説を紹介いたします。

   白龍魚腹 ( はくりゅうぎょふく ) して  却って網を脱す

 頼山陽の詩の二行目を、氏は次のように説明していました。

  「白龍とも言うべき高貴な方 ( 二條帝 ) が平凡な魚に見える服を着たため、返って網に例えられる番兵の目を逃れることができた。」

 読者のため丁寧な説明をしていた氏への、詫びの気持ちから、省略部分をそのまま転記します。

 「シナの故事に、淵に住む白龍が魚に化けたら、豫且 ( よしょ ) という者にその目を射られたと言うのがある。貴人が下賤の服装を着ると、思わぬ災危にあうことがある・・こう言って伍子胥 ( ごししょ ) が、呉王が民衆に混じって酒を飲もうとするのを諌めたと言う話が残っている。しかし二條帝はその故事とは反対に、魚服して危急を脱した。」

 お詫びの追記として、徳岡氏の「大意」より、氏の解説の方が正しいのではないかと思える例を紹介します。それは詩の三行目です。

   龍逃るるにその雌 ( し ) を将 ( ひき) い

 頼山陽の詩の大意を、徳岡氏は次のように書いていました。

   女装して逃れる帝は、龍が雌になったも同然

 これを渡辺氏は

   龍 ( 帝 ) は逃げる時に雌の龍 ( 中宮 ) も連れて出たのに、

 と解説しています。徳岡氏の大意は意味が不明ですが、渡辺氏の解説は辻褄が合います。氏へのお詫びだけでなく、私が漫然と本を読んでいるのではないと、息子たちに伝えたい気もあります。気持ちが晴れたところで、氏の最後の解説を紹介します。

 「惟方・経宗の二人は信頼と義朝に逆心の汚名を着せ、功は自分たちで盗んだ。当然のことであるが、後白河上皇は怒った。しかし今や実力行使には、武家を使うより仕方がない。しかも平治の乱で源氏は滅びたも同然であり、残るのは平清盛だけである。」

 「それで上皇は清盛に命じて、惟方・経宗の二人を捕らえさせ、それぞれ長門と阿波に流した。一人輝きを増したのは、清盛の威光である。」

 強力な武家だった源氏が二匹のまむしのため滅び、そのまむしが島流しになってしまうと同時に後白河上皇の威光も薄れます。なぜなら清盛は、最初に自分を頼って来られた二條天皇を、仁和寺に逃れた上皇より親しく感じ、強く支援したからです。その現れが、次の解説になります。

 「しかし惟方・経宗の二人は、一時流されたがまた戻った。特に宗経の如きは左大臣・従一位まで出世し、皇太子傅 ( ふ ) となり、輦車 ( れんしゃ・勅許を得た重臣の乗り物 ) ・牛車 ( ぎっしゃ ) を許される身分にもなった。惟方も許され、その子供たちも順調に出世している。」

 後白河上皇の威光が衰え、二條天皇の力が増しているため、こう言う事態が生じます。氏の解説が、それを裏付けます。

 「頼山陽はこうしたユニークな史観を、その『日本政紀』に詳述しているが、更にこれに加えるならば、二條天皇と後白河上皇の父子関係の悪さということである。」

 「それは結局、保元の乱の元にもなった美福門院に由来する。従って平安朝を終わらせた保元・平治の二乱は、ともに美福門院に由来すると言う、大町桂月のような見方も出てくるわけである。」

 これが最後の文章ですから、氏もまた大町桂月の言う美福門院説を採っていることになります。

 第二十一闋・朱器臺盤で、氏は後白河帝と二條帝の微妙な関係を次のように説明していました。

  ・後白河帝は早く妻を亡くされたため、その長男を美福門院 ( 得子・なりこ ) が養育していた

  ・美福門院 ( 鳥羽上皇の寵愛する女性 ) は、この少年が可愛くてたまらず、この子に皇位が行くことを願うようになった

  ・このためには、その父が皇位につく必要があり、後白河帝が誕生した

  ・軽躁 ( 軽はずみで考えが足りない ) で、人気のなかった親王が即位することとなり、これが後白河帝だった

  ・やがて美福門院の希望通り、彼女の可愛がっていた少年が後白河帝の跡を継ぎ、二條天皇となった

 つまり後白河天皇が皇子である二條天皇に譲位された時、それは後白河天皇のご意志でなく、美福門院の意思だったことになります。後白河天皇の母が美福門院でなく、待賢門院だったことを思い出せば、円満な譲位でなかったことがうかがわれます。

 保元の乱のきっかけ・・・美福門院が産んだ近衛天皇を即位させるため、崇徳天皇を意に反して退位させた

 平治の乱のきっかけ・・・美福門院が可愛がっていた二條天皇を即位させるため、後白河天皇を意に反して退位させた

 この部分だけに注目すると、大町桂月説が有力になります。しかし「学びの庭」としての、「ねこ庭」での結論は違います。再度述べますが、宮廷と貴族社会の乱れと歪みを作った大本 ( おおもと ) は、道長の「後宮政策」です。藤原一族の権勢を磐石なものとするため、天皇の外戚としての摂関家を築くという政策でした。

 美しい娘たちを天皇の皇后、皇妃、中宮、女御にする政策は、確かに氏長者 ( うじのちょうじゃ ) である藤原氏の地位を確固としたものにしました。けれども世代を重ねるうちに、歪んだ、異常な親子関係や夫婦関係が出来上がり、人心を乱れさせる結果をもたらしました。しかも、その異常さをほとんどの人間が問題視せず、流れに任せていました。

 氏の解説を読んでいると、LGBT法をゴリ押した岸田政権の間違いを教えられます。この法律は運用を誤ると、歪んだ異常な親子関係や夫婦関係を作り、人心を乱れさせる結果をもたらします。人間平等の社会であるから、LGBT法を皇室にも適用すべきだと、そんな意見を言う学者・評論家・活動家がいると聞きます。とんでもない話です。

 良いことも悪いことも含め、歴史が古代から繋がっていることを忘れないようにしつつ、次回からは本書の「最終闕」の紹介となります。

 〈  第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし )  平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉

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『日本史の真髄』 - 126 ( 名探偵の謎解き ? )

2023-06-26 11:18:05 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

 いよいよ今回は頼山陽の詩ですが、息子たちには徳岡氏の「大意」と並べて渡辺氏の解説を紹介する方が、分かりやすいかと思います。

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   藻壁門の中に  車のわだちの音が響き

   白龍は魚に身をやつして 故事とは逆にうまく包囲を脱した

   女装して逃れる帝は、龍が雌になったも同然

   そっと老龍の上皇を置いてきぼりにして、危ない目にあわせた

   いったい誰がこんなことを企んだ?  あの二匹のまむしどもだ

   チロチロと炎の舌で、こっそり天いっぱいにみなぎるほどの毒を吐く

   悪魔門監 ( あくまもんのかみ )も彼らに比べれば、むしろ " 悪  " でない

 

 渡辺氏の解説  〉 

   宮城の西門である藻璧門の中に、車の音が響く

   白龍とも言うべき高貴な方 ( 二條帝 ) が平凡な魚に見える服を着たため、返って網に例えられる番兵の目を逃れることができた

   龍 ( 帝 ) は逃げる時に雌の龍 ( 中宮 ) も連れて出たのに、

   こっそりと老龍 ( 後白河上皇 ) の方をば、身体の危険があるようなところに置き去りにしてしまったのである

   誰がいったいこんな謀略を企んだのか、あの二人の蝮 ( まむし ) みたいな奴 ( 惟方と経宗 ) らだ

   ちらちらと燃える炎のような舌は、天にはびこるほどの毒をひそかに吐いたのだ

   平治の乱を起こし、悪衛門監 ( あくえもんのかみ ) と言われるほどの権力を振るった藤原信頼などは、惟方や経宗に比べるとたいした悪ではない

 これで、白龍、老龍、二匹のまむし、悪衛門監がすべて分かりました。これだけでなく氏はさらに、謎解きのような解説を読者に披露します。

 「頼山陽は惟方・経宗の二人が、上皇を宮廷に置き去りにして、帝と中宮だけを平清盛のところへ連れて行ったことを最も重視する。惟方の母は二條帝の乳母、経宗は帝の元舅であり、しかも二條帝は若い。この帝を擁すれば権力が握れると思ったのである。」

 「上皇を宮廷に残しておけば兵火の犠牲になるかもしれないが、それは知ったことではない。つまりこの二人は、上皇と帝との父子離間を図った大悪人であると言うのが、頼山陽の見方である。これは正に、頼山陽史観というべきものである。」

 平治の乱は通常の解釈では、信頼と義朝が信西を殺したため、平清盛が出て二人を倒した事件とされているのだそうです。

 「しかし頼山陽は、そう簡単に考えない。」こう言って氏は、根拠となる事実を次のように列挙します。

 ・藤原信頼は白面 ( 年若く未熟 ) の狂童に過ぎず、近衛大将になりたがっていただけの話だ

 ・兵を上げて、帝や上皇を幽閉する必要など全くない

 ・いくら信頼が馬鹿でも、自分が天皇になることは夢にも考えていない

 ・しかも上皇に気に入られている者だ。上皇に手を出す意味は全くない。

 ・源義朝は保元の乱の際の功を、もう少し認めてもらいたかっただけの話だ。だから事件後、従四位下の播磨守に任ぜられ満足している

 ・宮廷を攻めることなど、思考の中にない

 ・なるほど信西は憎かっただろうが、その気になれば彼は、路上で犬猫を殺すように殺せたはずである。なにも三條殿や宮廷を犯す必要はない

 ・義朝は清盛を憎く思っていたが、武力の点では義朝の方が勝っていた。攻めるならまっすぐ清盛を攻めるべきで、後白河上皇の三條殿へ向かう必要はない。

 「このように考え詰めていくと、平治の乱を起こす動機のあったのは、惟方と経宗だけである。」

 名探偵に事件の背景説明を聞かされているような、意外感に打たれます。

 「後白河上皇と、その乳母子の信西をひっくり返して二條帝に実権を持たせれば、得をするのは自分たちだけである。二人はなにしろ乳母子とその伯父なのだ、だからこそ彼らは、乱の最中に帝と中宮だけを助け出したのである。おそらく上皇が兵火の中でなくなられることを、そひかに望んでいたのかもしれない。」

 「事実、平治の乱の後、政権を専らにしたのはこの二人である。二人は、〈  政治のことは全て二條天皇の御心に従ってやるべきで、後白河法皇に知らせてはならない 〉と言っている。二條帝とこの二人は、きわめて親しい。」

 頼山陽の詩の解説はここで終わり、ことの次第を知った後白河法皇の怒りについて氏が続きを述べています。後少しでも大事なことなので回を改め、そこで第二十二闋を終わりにいたします。

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『日本史の真髄』 - 125 ( 二人の裏切り者 )

2023-06-25 12:32:49 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

 「白光、日を貫く天象」が現れた時、信西はどうしたのか。渡辺氏の解説がここから始まります。

 「信西は天文に通じていたから、夜になったら宮中に大事変が起こると察して、警告するため後白河上皇のおられる三條殿に出かけたが、たまたま上皇は宴遊会の最中であり、信西の息子たちも出席していた。」

 「それで信西は上皇の楽しみを破ることを惧 ( おそ ) れ、直接に上奏せずに、女官たちに伝えてくれるように言って帰宅し、妻には〈 息子たちに伝えるように 〉と言い残して、自分は四人の家来と共に大和に逃げた。」

 宏才博覧 ( こうさいはくらん ) にして、典故暗練 ( てんこあんれん ) の天才学者が、このような行動をしたと言うのですから、言葉を失います。恩義のある上皇を助けず、妻や息子たちも見捨て、自分だけ安全な場所へ逃げるとは、これが孔孟の教えを究め、仏の道を究めた者のすることでしょうか。

 「果たせるかな義朝と信頼はその夜に三條殿を襲い、上皇を皇居に連れ出し、三條殿を焼き多くの男女を死なせた。また信頼と義朝の軍兵は信西の家を囲んだ。信西が女装して逃げるのではないかと、その家を焼き、女中や下女まで一人残らず殺した。」

 保元の乱も酷い戦 ( むごいいくさ ) でしたが、平治の乱も凄惨な戦です。逃げた卑怯者の信西の末路も、哀れなものでした。

 「いち早く逃げた信西は、石堂山 ( いしどうやま ) に来て星座を仰ぎ、〈 太伯 ( たいはく ) 、経天 ( けいてん ) に浸す 〉とか、〈 太伯、天を経 ( ふ )  〉と言う現象を見た。これは金星が西南を過ぎることを指し、凶兆とされている。」

 信西は若い時自分に剣難の相があることを知り、相者 ( 人相を見る者 ) に相談した時、彼に言われたそうです。

 「僧になれば免れるであろうが、七十歳を超えてからのことは分からない。」

 「それで信西は剃髪したのであったが、今は七十歳を超えている。そして太白経天の凶兆を見た。それで家来に穴を掘らせてその中に入り、竹筒を地上に出して呼吸し、念仏を唱えていた。」

 「しかし見つけられて首を切られ、京都に首を晒 ( さら ) された。信頼はその見物に車で出かけている。」

 平治の乱について最も詳しいとされている『平治物語』( 1200年刊 ) に、同じことが書かれているそうですが、『愚管抄』( 1220年刊 ) では、信西が胸を刺して自殺したことになっているそうです。

 「天文についてはにわかに信じ難いが、『愚管抄』の方が正しいであろう。」と、氏が解説していますけれど、根拠は無さそうで事実は不明です。情報通信の発達した現代でもウクライナの戦況は、ロシアとウクライナ側の報道が正反対です。西側の記者たちも入っているのに、どっちが有利な戦いをしているのか、さっぱり分かりません。1000年以上昔の話ならば、違った記録が残っていて不思議はありませんので、事実の解明は歴史学者に任せることとし、書評を進めます。

  「クーデターに成功した信頼は自ら大臣大将となり、朝飼所 ( あさがれいどころ ) にいて、衣服も行動も天子のごとくであった。源義朝は従四位下になり播磨守 ( はりまのかみ ) になった。後白河上皇も二條天皇も、信頼の捕虜になっているようなものである。」

 しかしここで、事態が急変します。

 「だが足元から、裏切り者が出た。藤原惟方と藤原経宗である。この二人は夜陰に乗じて二條天皇と中宮を運び出し、皇居の西方ある藻璧門に来た。門番の兵士たちが怪しんだ。」

 「宮女 ( 女官 ) が外出されるのである。自分がついているのに、お前たちは何を疑うか。」と惟方が言ったが、番兵たちは信じなかったそうです。当時の武士たちは、身分の高い貴族の言葉でも簡単に従わなかったことがこれで分かります。

 「彼らは弓で車の簾 ( すだれ ) を開け、たいまつを掲げて中を照らして見た。二條帝は艶麗な女物の美服を着て、中宮と一緒に乗っておられたので、番兵たちも本当の宮女と思い、門を開いた。それで天皇と中宮は、惟方と経宗に連れられて六波羅の平清盛の屋敷にお入りになった。」

 さらに事態が急変し、どんでん返しとなります。

 「惟方・経宗の二人は、後白河上皇のことは放ったらかしであった。二條帝と中宮が脱出したことに気づいた蔵人右少辨 ( くらうど・うしょうべん ) 藤原成頼 ( なりより )  が、後白河上皇に衣服を替えさせ、馬に乗せて仁和寺に逃げさせたのである。留守になった部屋にはお側に仕える者を入らせ、まだ宮廷にいるふりをさせた。」

 「その直後、源氏と平家の戦乱になるが、天皇・上皇に逃げられた上、臆病な信頼を抱えた源氏は、賊軍にされて敗れ、平治の乱は終結した。」

 ここまで読んで分かったことが、二つあります。

  1.  「二匹のマムシ」とは信頼・信西でなく、惟方・経宗の二人だったこと

  2.  頼山陽の詩の解説が、そろそろ始まるのではないかということ

 次回で第二十二闋が終わりとなるのかどうか自分でも分からなくなり、以前からの疑問も相変わらず解けないままです。

 「なぜこの書が、幕末の志士たちに〈 倒幕の書 〉〈 愛国の書 〉として読まれ、明治維新の原動力となったのか。」

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『日本史の真髄』 - 124 ( 室町時代と、大正・昭和・令和時代 )

2023-06-24 17:03:25 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

 今回は源義朝に対峙する信西についての、渡辺氏の解説を紹介します。

 「一方源義朝は、一族の多くを失い孤立した状態にあった。保元の乱の時の関係もあって、義朝は自分の娘を信西の息子の是憲 ( これのり ) と結婚させたいと願った。しかし信西は、〈 自分の息子は学生 ( がくしょう ) だから武人の婿にはなれません 〉と断った。その時の断り方が傲慢であったので、義朝は不快に思った。」

 鎌倉幕府を開いた源頼朝の父が義朝であったということは知っていましたが、信西との関係は初耳です。氏の解説は、歴史の中の人物を生きた人間として伝えてくれます。

 「しかしそれから間もなく信西は、平清盛の娘と息子の成範 ( なりのり ) を結婚させたのである。義朝は怒った。一族を犠牲にし、父まで殺したにもかかわらず、平家より恩賞が少ないので鬱々としていたのに、さらに信西から恥をかかされたのだから当然である。」

 一族郎党を率いる武家は、朝廷から得た恩賞を彼らに与えることによって主従の関係を維持します。義朝が恩賞にこだわるのは、金銭を欲しがっているというより、朝廷の評価の低さでした。分かり切っていることなので渡辺氏は説明を省いていますが、息子たちのためには省略できません。しかもその評価を天皇に進言しているのが信西ですから、義朝が怒りを燃やすのは当然です。

 「信西に腹を立てている義朝に、信頼 ( のぶより ) は接近した。かくて宮廷人の藤原信頼と、武人の源義朝との連合が出来上がった。二人とも信西に恨みを持つ点で結ばれたのである。」

 そうなりますともう一匹のまむしは、藤原信頼だったのでしょうか。( 読み進みながらブログを書いていますので、私は結末を知りません。)

 「また信西が、平清盛の娘を息子の嫁にしたことに対して、嫉妬した貴族が二人いた。藤原惟方 ( これかた ) と藤原経宗 ( つねむね ) である。」

 分かりやすく紹介すると、次のようになります。

   藤原惟方 ・・ 彼の母は、二條帝の乳母 ( うば ) 

   藤原経宗  ・・ 彼は二條帝の生母懿子 ( よしこ ) の兄、つまり二條帝の第一叔父

 「二人とも宮廷において二條帝の信任が厚かったから、後白河法皇に近い信西に当然ながら競争心を持っていた。」

 不満を持つ貴族の頼信と武家の義朝を中心として、嫉妬に駆られる二人の貴族・惟方と常宗が加わって、クーデーターが起こった。平清盛が熊野に出かけ、都を留守にした時を狙って実行したといいます。

 「この日、〈 白虹 ( はっこう )  日を貫く 〉という天象 ( てんしょう )  があった。これは白色の虹が、日輪の面を突き通すように見える現象であるが、古来白虹は兵を示し、日は君主を示すところから、君主に危害が加わる前兆とされていた。」

 第二十二闋で氏は私の知らないことを沢山語りますが、平安時代のことでなく、大正時代の事件まで教えてくれます。

 「大正7 ( 1918  ) 年の8月25日、寺内内閣弾劾のための新聞記者大会を報じた『大阪朝日新聞』の中に、〈 白虹  日を貫けり 〉という表現があったため、朝憲紊乱罪 ( ちょうけんびんらんざい ) にあたるとして騒ぎが起こり、新聞は発売禁止となり、さらに執筆者などは新聞紙法違反で起訴され、有罪判決が下り、社長村山龍平は黒龍会員に襲われ辞任するという事件があった。」

 「当時の人は漢文や国史の知識があったから、〈 白虹日を貫く 〉という表現で平治の乱を連想し、皇室に危害が及ぶことを願う不吉な言葉として激昂したのである。今なら、こんな表現が出ても何の反応もないであろう。」

 本書の出版が平成2年ですから、氏の言う今とは平成のことになります。〈 白虹日を貫く 〉という言葉ばかりか、皇室にさえ無関心な国民が増え、敬意すら払わない人間が今はいます。ブログを書いている私も、保元・平治の乱の中身さえ知らなかったのですから、新聞記事を読まされても何の反応もない気がします。

 ここで私は、朝日新聞に対するこれまでの思い込みを訂正しなければなりません。同社は戦前は政府にベッタリの提灯記事を書き、国民を扇動していたのに、敗戦と同時に反政府、反権力になったとばかり思っていました。大正7年に発売禁止処分を受け、社長の村山龍平氏が黒龍会員に襲われたというのなら、同社は一貫して反政府・反権力の新聞だったということになります。

 極悪人と言われる人間であるとしても、一本筋が通り、悪人なりの理屈があれば敬意を表したくなります。しかし敬意を表するのはここまでで、息子たちのため大事な説明をしなくてなりません。反政府・反権力と反日は別ものですから、この区別が大事なのです。

  ・記事の執筆者が〈 白虹日を貫く 〉という言葉を使ったのは、寺内内閣の政策が皇室に害を及ぼす点を警告したのであり、皇室を誹謗しているのではありません

  ・むしろ記事は皇室擁護の立場から書かれている。

 氏の説明を読む限りでは、大正時代の『大阪朝日新聞』は反皇室記事を書いていません。

 ・反皇室とは、いわれなく皇室を誹謗・中傷・攻撃することです。日本の歴史と伝統と文化を否定することにつながり、感謝すべきご先祖さまを否定し、ひいては生まれ育った自分の国の否定することになりますから、これを「反日」と言います。

 従って、敗戦後に「東京裁判史観」の宣伝機関となった朝日新聞と、大正時代の朝日新聞は区別して考えなくてなりません。マルクス主義を信じる政党がイコール「祖国否定」でないことは、隣国中国だけでなく、北朝鮮、かってのソ連、現在のベトナムなどを見れば誰にでも分かります。これらの国の指導者たちはマルクス主義者であると同時に、愛国者です。

 何度も述べて来ましたので、息子たちも聞き飽きているのかもしれませんが、せっかく氏が大正時代の話まで持ち出してくれたのですから、日本の「反日・左翼勢力」がいかに世界で特殊な存在であるか、どれほど「奇形な勢力」であるかを今一度確認してもらいたいと思います。

 室町時代の解説が突然大正時代に飛びましたが、もしかすると氏も私と同じく、歴史を現在との結びつきで考えている人なのかもしれません。気を強くしたところで、次回はまた室町時代の話に戻ります。

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『日本史の真髄』 - 123 ( 我欲の学者、藤原通憲 ( 信西 ) )

2023-06-23 20:14:56 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

  本日は、渡辺氏の解説を最初に紹介いたします。

 「保元の乱の後、大いに不満だったのは源義朝であり、得をしたのは平清盛であった。義朝は父を切り弟五人を殺しているのに、恩賞は清盛とその一族に及ばなかった。」

 「義朝の不満をさらに具体的な形で高めることが起こり、そこに登場するのが藤原通憲 ( みちのり ) 、すわわち信西 ( しんぜい ) である。」

 信西は伝説的な天才で、谷崎潤一郎が本にし、主人公に自ら次のように語らせているそうです。

 「わしは若い自分に、唐土 ( もろこし ) の孔子の道を学んだ。そうしてわずか一年ほどの間に、その奥義を究めてしまった。」

 「それからわしは老子の道を学んだ。そうしてまた一年も経つと、その奥義を究めることができた。その次には仏の道を学んだ。そうしてこれも、一年ばかりの間に、残らず学び尽くしてしまった。」

 「天文でも、医術でも、陰陽五行の道でも、わしの学ばないところはなかった。星の運行によって、世間の有為転変を占うことも、人間の相を見て、その人の吉凶禍福を判ずることもできるようになったのじゃ。」

 これを裏付けるように、『大日本史』の中にも信西を評して、「宏才博覧にして、典故 ( てんこ・典礼と故実 ) に暗練 ( あんれん ) し、兼ねて仏教、天文に通ず」、と書かれているそうです。

 宋から来た淡海という僧に、鳥羽法皇がお会いになった時言葉が通じない為、信西が通訳したそうです。流れるような応対に驚いた淡海が聞いたといいます。

 「貴方は宋で勉強したことがあるのか。それとも宋の人なのか。」

 信西は若い頃、外国に行く使者になるかも知れないと思い、独学をしていたと言いますから、語学の天才だったことに間違いなさそうです。

 「この信西が保元の乱では、後白河天皇側の勝利の一因となった。彼が源頼朝から軍略を聞き、これが採用されるよう取りはからったからである。また乱の後に、潜伏している敵方の者を巧みに誘い出して降参させた。」

 「某は某国へ流し、他の某は某国へ流そう」という計画を流布させたため、敵方の者は死刑にならないらしいと思い、皆出て来たと言います。ところが信西は降伏して来た者を皆逮捕し、死刑にしてしまいました。これに関しては、嵯峨天皇以来朝臣が死刑になった例がないという反対論が出ましたが、彼は次のように言って後白河天皇を説得しました。

 「反乱した者を諸国へ放したならば、後々まで災いになるでしょう。」

 信西の妻は、後白河帝の乳母 ( うば ) であったため、彼に対する天皇の信任は特別に厚く、すべての相談に預かっていたと言います。どうやらこの信西が、頼山陽の詩に書かれている、「謀 ( はかりごと ) を造る二匹のまむし」の一匹であるようです。もともと彼の家系は曾祖父の藤原実範 ( さねのり ) 以来、学者の一門であり、祖父季綱 ( すえつな ) は大学頭 ( だいがくのかみ ) でした。

 「信西の意見が保元の乱の勝因ともなり、その終戦処理を徹底的にやったので、彼の宮廷における勢力の高まりは想像に難くない。ところがこの信西が、まさに平治の乱の元になったのである。」

 いつの世においても、学者は多くの人に尊敬されます。立派な意見を述べる立派な学者が沢山いるからですが、中には志が低く、名誉欲と権勢欲の強い人物がいます。全員とは言いませんが、現在の日本でも「日本学術会議」の中によく似た学者がいて、政府を批判攻撃しています。信西は下級貴族の家柄ですから、もとより「武士 ( もののふ ) の心」がなく、愛国心もなく、あるのは人間の業である「我欲」です。

 宏才博覧 ( こうさいはくらん ) にして、典故暗練 ( てんこあんれん ) の天才でも、魂のない学者は世のためになりません。ネットの情報によりますと、彼は如才のない人物だったらしく五人の天皇に重宝がられています。

  主君・・鳥羽天皇 →  崇徳天皇 →  近衛天皇 →  後白河天皇  →  二条天皇

  「ここに、藤原信頼 ( のぶより ) という男がいた。関白藤原道隆 ( みちたか ) の八世の孫であるが、凡庸で軽薄で、取り柄のない人物だった。しかし後白河天皇のお気に入りで、参議・右衛門督 ( うえもんのかみ ) 、検非違使の別当 ( べっとう・長官 ) となった。当然信西とは、権力争いの関係になる。」

 「信頼が上皇の寵 ( ちょう ) を良いことに、近衛大将の地位を望んだ時、信西は断固反対した。後白河上皇ははじめ信西の反対を喜ばれなかったが、彼が唐の安禄山 ( あんろくざん・元の皇帝に謀反を起こし、帝位を奪った軍の大将 ) の例をあげて反対したので、帝は信頼を近衛大将にすることを思いとどまった。信頼はこれを大いに恨んで、参内 ( さんだい ) を怠るようになった。」

 信西は得意の知識を駆使し信頼との権力争いに勝ちましたが、我欲の強い彼はこれに満足せず、源義朝にも対峙します。こういう功名心が強く、我欲を通す学者たちが「日本学術会議」と「東大社会科学研究所」に多く集まっていることを、以前「ねこ庭」で取り上げたことがあります。

 これまでは、マルクス主義だけが反日の要素と思って来ましたが、平安時代の天才学者信西を知りますと、もう一つ加えなくてなりません。

 「人間の業である我欲、つまり名誉欲・権勢欲が、自分に反対する者を敵としてしまう。」

 国を愛する国民に反対し、反日の言辞を世間に撒き散らす学者の姿は、頼山陽の詩に詠われる通りではないでしょうか。

 「チロチロと炎の舌で、こっそり天いっぱいにみなぎるほどの毒を吐く」

 次回は、信西が源義朝に対しどのような仕打ちをしたかにつき、氏の解説を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 122 ( 学徒の道も気楽ではない? )

2023-06-22 19:50:47 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

 今回も、「書き下し文」と「大意」を順番に紹介します。( 該当する漢字がない字は、カタカナ表示にしています。)

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 7行詩

   藻壁門中  車聲 ( しゃせい  ) 響く

     白龍魚腹 ( ぎょふく ) して  却って網を脱す

   龍逃るるにその雌 ( し ) を将 ( ひき) い

   忍んで老龍 ( ろうりゅう ) を 刀俎 ( とうそ ) の危き ( あやうき) に遺 ( のこ ) す

   誰か此の謀 ( はかりごと ) を造る 両虺蛇 ( きだ・へび ) 

   タン舌 ( たんぜつ ) 陰 ( ひそか ) に吐く滔天 ( とうてん・みなぎりあふれる ) の毒

   悪魔門監 ( あくまもんのかみ ) 却って悪ならず

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   藻壁門の中に  車のわだちの音が響き

   白龍は魚に身をやつして 故事とは逆にうまく包囲を脱した

   女装して逃れる帝は、龍が雌になったも同然

   そっと老龍の上皇を置いてきぼりにして、危ない目にあわせた

   いったい誰がこんなことを企んだ?  あの二匹のまむしどもだ

   チロチロと炎の舌で、こっそり天いっぱいにみなぎるほどの毒を吐く

   悪魔門監 ( あくまもんのかみ )も彼らに比べれば、むしろ " 悪  " でない

 たくさんの事実が省かれた頼山陽の詩ですから、具体的に何のことを言っているのか分からなくて当然と思えるようになりました。白龍、老龍、二匹のまむしとは誰のことなのか、いずれ氏の解説が明らかにしてくれます。

 「雅な王朝文化が花開いた平安時代」と心の中にあったイメージが、次第に変化していく・・、今の自分に分かるのはこの事実だけです。失望も幻滅もありません。学徒として学んできたこれまでの書籍を思えば、納得する気持ちがあります。悲しみと苦しみの時代と思っていた昔が、意外なほど楽天的で明るかったように、時代には色々な顔が同時に存在しています。

 頼山陽が詠い、渡辺氏が解説する平安朝末期も例外でないはずです。現在の私たちの前に悲喜こもごもの世界が広がっているように、当時の人々も同じ状況だったのではないでしょうか。今朝のNHKニュースで悲惨なウクライナ戦争が語られている一方で、他局の番組では世界各地のグルメが紹介されたり、楽しい民族踊りが紹介されたりしていました。分かったようなことをと笑われそうですが、これが現実の世界と私たちの日常です。

 「失望したり幻滅したり、そんなことを過度にする必要があるのか。自分が生きている以上は、生きていくしかなく、楽しく生きる工夫をするしかない。」

 自分はとっくにそうしているのに、君は今頃気づいたのかと言われそうですが、気持ちを新たにして氏の解説を紹介します。

 「保元の乱 ( 1158年 ) は、皇位継承に不平であった崇徳上皇と、藤原氏の中の不平分子の頼長が結びつき、源為義・為朝父子ら武士の力を借りて起こしたクーデターによって生じた。政権奪取は失敗し、後白河天皇と忠通が使った源義朝と平清盛の軍勢が勝った。」

 この乱は、歴史の転換をなすものでした。延暦12 ( 794 ) 年に桓武天皇が都を京都に定められてから約360年間、つまり二世紀半以上もの間、京都には戦乱というものがありませんでした。しかも嵯峨天皇の御世からの、300数十年間は、宮廷人に対する死刑も無くなっていました。

 「盗賊や火事はあったが、都の人士は詩歌管弦を楽しみ、絵巻物のような優雅な生活を続けていた。戦争は、遠く関東か東北か、九州の話だったのである。」

 氏の言葉は、私の思いを語る説明文のようです。地球儀も世界地図もなかった当時の都人 ( みやこびと ) にすれば、関東、東北、九州は遥か彼方の地です。今の私たちが、ウクライナ戦争を遠い土地での戦争と感じるのに似ているのではないでしょうか。

 「それが突如保元の乱が起こると、美服長袖 ( ちょうしゅう ) の公家の生首が賀茂の河原に転がり、額を矢で射抜かれ、手を切り落とされた武士の死骸が、都のここかしこに山をなした。」

 もはや戦争は遠い土地の話でなくなり、都の人々の日常そのものとなります。

 「乱の発端を作った頼長は首を矢で射抜かれ、父に面会を拒まれ舌を噛み切って死んだ。遺体は般若野 ( はんにゃの ) に埋められたが、首実験のため掘り返され、後は野ざらしにされたので、野犬や鳥に食い荒らされるままだったと言う。」

 乱の凄まじさを、氏がこれでもかと説明します。

 「元来は一族の団結が強かった源氏も、義朝が実父の為義を切らねばならなかったように、親子兄弟が殺し合う悪夢のようなことが京都で起こった。特に崇徳上皇側についた主だった者たちが、七十人以上もずらりと並べられて首を刎ねられるというようなことで、平安朝の平安は、まことにこれで終わったのである。」

 氏は解説しますが、平安朝の平安はこれで終止符を打つのでなく、次の乱が発生します。つまりこれが「平治の乱」で、 頼山陽の「第二十二闋」の詩・藻璧門 です。「保元の乱」について言葉だけ知っていましたが、「平治の乱」も同じで内容は何も知りませんでした。原因は、おそらく戦後の歴史教育にあるのかも知れませんが、氏の解説で知識を広げてもらい、おかげで息子たちに「ねこ庭」を通じて伝えることができます。

 「平治の乱」の中心人物として新しく登場するのが、藤原通憲 ( みちのり ) です。ウィキペディアで調べますと次のように書かれています。

 「 平安時代後期の貴族、学者、僧侶 」「 信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原通憲 」「 藤原実兼 ( さねかね ) の子、正五位下、小納言 」

 これ以上悲惨な出来事を知りたくない方は、スルーしてください。個人的感情を別に置き、事実を知りたいと思う学徒の方だけに次回のご訪問お勧めいたします。

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『日本史の真髄』 - 121 ( 悲惨な結末と多様な解説 )

2023-06-21 12:04:40 | 徒然の記

 〈  第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん )  「保元の乱」の複雑な内幕  〉

 頼長が為朝の意見を退けた理由を、渡辺氏が紹介しています。

 「そんな夜襲は、私闘でやることだ。一人の帝 ( みかど ) が位を争うのだから、もっと堂々とやらなければならない。翌朝奈良から、僧兵が応援に来ることになっているので、それを待って堂々とやろう。」

 氏長者 ( うじのちょうじゃ ) としての頼長の意見は、それなりに筋が通っています。貴族の頂点に位置する人物として矜持もあったと思いますが、渡辺氏はそのようには見ていないようです。

 「軍議から退いてきた為朝は、兄義朝の方が夜襲をするだろうと予言し、公家の戦略を嘲 (あざわら)った。」

 為朝の言葉を伝え、貴族と武士の戦いの違いを語ります。

 「まさに為朝の恐れたように、後白河側では義朝の夜襲案を採択した。戦いのことは武士の案に従おうと言ったのは、忠道であった。」

 「頼長の軽薄さ、忠道の重厚さが決定的である。逆に夜襲を受けることになった為朝の奮戦は、まさに軍記物語の華である。しかし、少人数で守るところに火をかけられたのでは防ぎきれない。崇徳上皇側は敗走した。」

 崇徳上皇は馬に乗れないため、蔵人 ( くろうど ) 平信真 ( のぶざね ) らが抱えて逃げたそうです。如意山に来ると山が険しくなって、馬が使えなくなり、全員で歩きました。上皇は疲労のあまり、失神されたともいいます。

 「自分は捕まっても殺されることはないだろうから、お前たちは逃げなさい。」

 上皇は心を決められ、武士たちを落ちさせられたました。戦いに敗れられたとはいえ、やはり天皇です。自らを捨て、配下の兵を思いやられました。

 「ただ平家弘 ( いえひろ ) ・光弘 ( みつひろ ) の父子は、代わる代わる上皇を背負って谷を降り、日の暮れるまで潜んでいた。」

 それから阿波局 ( あわのつぼね ) や藤原教長 ( のりなが ) の邸に行きましたが、門を閉じて応えてくれませんでした。ようやく夜中( あるいは早朝に ) 、知恩院の僧房へ入り、お粥 ( かゆ ) を啜ることができたと言います。崇徳上皇はここで頭を丸めて仁和寺へ行き、そこから讃岐へ流されることとなります。

 「一方頼長は、逃げようとした時流れ矢が首に当たり口がきけなくなった。他方頼長の父忠実は、敗戦と頼長の負傷を知って大いに恐れ、子供たちを連れて奈良へ逃げ、宇治橋を落として抵抗を試みようとした。顎に重傷を受けた頼長は父が奈良にいると聞いて、会いに木津川まで行った。」

 「藤原の氏長者が、矢に当たって命を落とすなどがあって良いはずがない。自分はこの薄命の子を見るにしのびないのだ。頼長は行きたいところへ行くが良い。私は二度と頼長には会いたくないし、その話を聞きたくないと、奈良で返事を聞いた頼長は、憤然として自ら舌を噛み切ってって死んでしまった。」

 この報告を聞いた忠実は、「頼長をこそ摂政・関白にしたかったのに、こんなことになるとは思わなかった。」と言って悲しみ、激しく泣いたそうです。

 その頃後白河帝の側では、忠実を流刑にしようと詮議していましたが、息子の忠道がお願いをし、ようやくその刑をまぬがれることがかないました。

 「これを聞いた忠実は、忠通がこんなに自分を思っていてくれたとは知らなかった。長い間、この長男をうとんじていたことが悔やまれる、と言った。ここまでの話を、頼山陽は次の三行にまとめている。」

 ここでやっと、最後の三行を氏が解説します。

 どちらが先に火攻めをやるか。いずれも肉親同士がお互い敵になり、相手の裏をかき、相手の肉を喰らうような争いをすることになった

 流れ矢は流星のごとく飛んできて、頼長の喉に当たった

 それで貴方の愛児の頼長は、君主 ( 崇徳上皇 ) に従って、朝のお粥 ( かゆ ) を ( 知恩院で)すすることもできなかった

 保元の乱は皇室、藤原氏、源氏・平氏の肉親同士が敵味方となって戦った悲惨事でした。頼山陽は『日本正記』の中で、美福門院という女性が乱の背後にあることを鋭く指摘しているそうです。氏と頼山陽の意見は違いますが、これが「第二十一闋」の結びの解説なので、そのまま紹介します。

 「この時期を通じて、忠通の言行の際立って優れているのが印象的である。歌人として和歌の風格も高く、百人一首にも取り上げられ、書道にも自ら一家を成した。しかし頼山陽は『日本正記』において、忠通が美福門院に近づいたことを責めている。しかしそれは酷というもので、やはり父の忠実、弟の頼長が悪かったのである。」

 「この闕のすべてが、食事関係用語を用いてイメージが作られている。頼山陽の才筆陸離 ( りくり・美しくきらめく ) たるものがある。」

 白河帝のなくなられた後、実力者として院政をしかれた鳥羽帝には二人の女性がありました。

  皇后璋子 ( たまこ・待賢門院・たいけんもんいん )・・白河法皇の女御でもあった

  皇妃得子 ( なりこ・美福門院 ・びふくもんいん )   ・・中納言・長実の娘

 鳥羽帝は璋子との間に崇徳天皇、得子との間に後白河天皇をもうけていますから、乱の遠因といえばこちらの方が大きいと思いますので、渡辺氏のように忠通を賞め、忠実・頼長親子を悪かったと片づける気になれません。

 氏の著書は残り後2闕となりましたが、当初からの疑問がまだ解けません。

 「なぜこの書が、幕末の志士たちに〈 倒幕の書 〉〈 愛国の書 〉として読まれ、明治維新の原動力となったのか。」

 次回は、

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉です。

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